モンロー主義の眞相2022年07月01日 10:04

傑作を出した人々
『モンロー主義の眞相』小山精一郎 著

 小  序                  2022.07.01

 米國のモンロー主義に關しては、我國の學者政治家に値り屡々論究せられ、強ち、新たらしき問題と謂ふに非らざるも其の眞相を穿てるもの尠し。其の發表せられたる多くは、極めて概要に過ぎざる爲め、或は誇大に之を理解し、或は餘りに之を輕視する傾きがある。從つて余は該主義の出現するに至りし事情を成る可く精細に叙し、其の情勢を暴露するに努めたのである。今日我帝國に取り、米國との關係が重大、且、緊要なる秋、本書に依り米國政策の一端を知り、且、誤らざる判斷を下すの一助たるを得ば幸甚である。
 米國がモンロー主義を宣明したる以來、之を採用せる事蹟、竝に該主義の擴展せる現狀に就きては、遺憾乍ら其の叙述を後日に譲ることゝした。讀者幸に諒恕せられんことをを請ふ。
 大正十一年六月一日    紐育市モーニングサイド高地にて
                       小山精一朗識
 (2-3頁)
 一 緒論                  2022.07.01

 現代の國際關係を整齊せる華盛頓會議、竝にゼノア會議後の世界に於て獨り權勢を擅にし、列國間のハンディキャップ(優先權)を握らんとするものは正に米國である。其の莫大の富力、廣大の領域、國民の誇大妄想的氣分、竝に利己主義とは凝結して全世界の一大脅威ならんとして居る。米國の巧妙なる外交政策と奸黠なる侵略主義(余は敢て領土の獲得のみを侵略と謂はず)とは、歐洲戰爭以來列國民の夙に看破したる所であるが、大勢は亦之を如何ともする能はず、總ての國際問題に就き米國を疎外することは出來無い。此の情勢に當り米國が其の進退取捨を巧妙に處することは驚嘆に値するしのありて、是れ畢竟傅統的政策の發現に外ならない。斯る政策とは何ぞや、米國が建國以來の大本意を具體的に表現せるモンロー主義である。此の主義は法理上竝に國際的正義の見地より何等の眞理を包含するものに非ざるも、最初は其の地勢及び國家強弱の關係より歐洲諸國のこれを默認せるに濫觴し、現代に於ては米國の世界的富強の國際的地位より最早該主義の跳梁に委せねばならない。寔に此の主義は米國に取りては唯一の手品であると共に、隠れ蓑、隠れ笠の政策である。モンロー主義に就きては、從來我國に於ても屢々論ぜられ、人口に膾炙せる所であるが、其の眞相を吹封し、現下の墜化せる駄勢を佃ろは、未滴と特に篁大のI係を刊する丑議民に取り検檢討し、現下の變化せる狀勢を知るは、米國と特に重大の關係を有する我國民に取り緊要のことであると信ずる。

引用・参照・底本

『モンロー主義の眞相』在紐育 小山精一郎 著 大正十一年八月十四日發行 世界思潮研究會

(国立国会図書館デジタルコレクション)

建國當時の政策2022年07月02日 09:13

カミキリムシ
 『モンロー主義の眞相』小山精一郎 著

 (3-6頁)
 二 建國當時の政策           2022.07.02

 米國は獨立戰爭中、十三州より成る聯邦國組織(Confederation)の下に、英本國より分離する大方針に向つて進み、當時に於ける英佛兩國間の反目を利用して、千七百七十六年早くも佛國と通商獨立承認竝に軍事的及政治的同盟の性貿を包含する條約を締結結し、(本條約は英國に憚り千七百七十八年二月六日甫めて調印せらる)次で千七百七十九年には和蘭と通商条約を締結し、英國も遂に我を折り千七百八十二年十一月三十日を以て獨立承認の條約を締結し、爰に全く米國の濁立を完成したのである。其後聯邦組織の弊害に鑑み、合衆國組織(Feuderal state)に變更し、千七百八十七年憲法會議を開き、新憲法の制定に關する討議を行ひたる當時より、將來米國が歐洲列國より孤立するの政策を執るの可なることを提唱する政治家多く、特に大統領ワシントンは卒先して孤立政策を唱導し、千七百八十八年歐洲諸國の擾亂に對する政策に就きエドワード・ニユーエンハムに書翰を送りて日く「米國は歐羅巴の政策及び戰爭の混亂に投ずること勿らんことを希望す。吾人は善良なる政治組熾を採用して、遠からず世界各國より尊敬せらるゝに至らんことを熱望す。從つて米大陸又は西印度諸島に領土を有する海國と無關係の地位に在らねばならない。米國は歐洲列國の爭亂の渦中より避けて、其の目的を遂行するの政策を執らねばならない。と、更にワシントン大統領は千七百八十八年一月一日ジエフアーソンに書翰を送り「吾人が各州の政治的見解竝利益に關聯し、最も必要なる問題は、歐洲諸國の政治的紛爭の渦中に投ぜざらんが爲め孤立政策を執ることである。歐洲列國の粉亂に參加するは、吾人の地位として不必要なるのみならず、極端の不謹愼を行ふものである。吾人が賢明、且、正當に利益を増進せんとせば、歐洲列國間に紛議を生じたる如何なる場合に於ても、無關係の地位を持續するは吾人に取り自然の策である」旨を言明した。
 斯くて此の孤立政策は千七百九十三年に於ける英佛戰爭に當り、中立宣官となりて現はれたのである。是れより先き、前述せる如く米國は佛國より獨立承認を得る對償として、佛國の地位を保障する爲め、千七百七十八年の米佛兩國間の軍事上竝に政治上の同盟條約を締結して居る。從つて英佛兩國間の戰爭の塲合に於ては、條約上の義務として當然佛國を援助せねばならない。然るに米國が該條約を無視して嚴正中立の宣言を發し.所謂孤立政策を執りたるに就きては、幾多の議論を生じた。蓋し當時佛國は革命勃發し、王室覆滅後、佛國の執政内閣は千七百七十八年英國に對して宣戰し.米國は通商上甚大なる打撃を蒙つた。佛國は千七百七十八年の同盟條約に基き、米國の援助を要求したるが.英國は亦た米國に向ひ、佛國に加擔するは英國に對し宣戰すると均しかるべき旨を嚴明した。米國民は其の獨立を援助し呉れたる佛國の恩義を忘るゝ能はず、翕然として佛國に同情を傾け、將に加擔せんとするの意意嚮を示したるが、佛國の革命黨か残忍の行動を擅にし、米國の獨立に同情を寄せ、多大の盡力を竭したるルイ十六世を死刑に處し、且、米國の通商貿易を阻害すること甚だしきに及び、米國民の同情は自から佛國に對する憎悪と變じ.同盟義務の不履行を唱ふるものあゐに至り、米國政府部内に於ても援助派と非援助派との二頻に岐れた。結局佛國の戰爭は横暴、且、侵略的のものなるを以て援助するの必要無しとする意見多數を制し、佛國執政内閣より派遣せられたる全權委員ゼネーの努力も其の效を奏せずして.大統領ワシントンは決然として中立の宣言を發したのである。此の宣言は翌年六月五日の米國中立條例として一定不變の原則となり、現行國際法の中立に關する根抵を爲すに至つたものである。本條例に依れば米國領域内に於て、米國と平和關係に在る國家に對抗する目的の下に、(一)兵を募集すること。(二)艦船を艤装すること。(三)遠征軍を組織することを嚴禁するに在りて、米國民の交戰國に對する軍需品の輸送供給は、適法なる通商貿易なりとの見解の下に之を容認し、唯だ交戰國より戰時禁制品の輸送として沒収せらるゝ危險に曝さるゝのみであると謂ふに在つた。

引用・参照・底本

『モンロー主義の眞相』在紐育 小山精一郎 著 大正十一年八月十四日發行 世界思潮研究會

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對米國策論集2022年07月03日 12:10

米國の太平洋管制網系一般圖
『對米國策論集』國民對米會編 編者 葛生能久

 (一 - 七頁)
 序 2022.07.03

 私は幹事の立場から茲に國民對米會の成立ち及其の主張の概要を述べ併せて本を編んだ趣旨を述べて序に代へたいと思ふ。吾が國民對米會は、去る六月五日兩國國技館に於て開會致しました對米國民大會に於ける宣言決議の趣旨に依り、排日問題の解決する迄繼續して其運動に當る爲に組織したものであります。爾來對米問題に就ては.常に日本に於ける中堅的運動に從事して居ることは、既に御承知の事と存じますから、管々しい事は申しませぬ。
 是より先、私共同志の者は常に對米問題に心懸て居りまして、或は支那問題に就てて攻究し運動する傍らに於ても、米國が常に東洋に對する多年の宿望野心を包裹して日本の對支政策及び其の行動に妨害を加へて居ると云ふ事が.ありありと見えるのであります。又米國の本土内に於ては排日問題を始終執拗に起して居りまして、日本の移民に迫害侮辱を加へて居ると云ふ事も、我々の常に憂いとして居る所でありました。其の結果吾々の腹の底にはどうしても之に備ふる所が無ければならぬと云ふ觀念を懐かねばならぬ事になつて居つたのであります。從つて此の問題に就ては常に注意を怠らず.彼の歐洲大戰爭の終局に於て講和會議が開かるゝに當りましては、私共同志は貴衆兩院議員其他各團體各階級の有志を糾合して、人種的差別撤廢期成會を組織し、其中堅となつて運動し來つたのでありますが、是も亦其の歸する所は米國の人種的差別態度に對する運動であります。當時我委員の態度は殊に腑甲斐なきものでありまして、一旦人種的差別撤廢案を提出して置きながら、間も無く腰抜け狀態の下に之を引込ませたのでありました。
 是に於て私共は將來重ね重ね此の覆轍を踏まんことを憂ひ、一層其の成行に注意して居つたのでありますが、間もなく華盛頓會議なるものが米國の提唱に依つて開かれ日本も之に參加し、世界の列國と軍備の制限に於て協議することになつたのでありますが、當時私共は此軍備制限案なるものを見て、是は要するに米國が日本の軍備を制限し對支政策を妨碍するのが唯一目的である、將來彼が東洋に對する野心を遂行する
前提として先づ日本の手足を捥いで置くのが其目的であると觀察せざるを得なかつたのであります。元來米國なるものは、支那に對して終始渝らぬ所の野心を有つて居りまして、此野心を遂行するに就ては日本と云ふ強力なる妨害者がある。之を何とかしなければならぬと云ふ所から、歐洲大戰に左袒して最後の捷利を制し、得意滿々たる彼れ、又世界の覇者たらんとする彼は、其の野心遂行の妨害者たる日本を制するには今が逸す可からざる最も好き機會であるとして彼の軍備制限を提唱するに至つた事は明瞭であります。我々は之に就ても大正十年十一月矢張り貴衆兩院其他各政黨團體の有志を集めまして、築地精養軒に華盛頓會議有志大會を開き、差別的軍備制限反對とも云ふ事に就て極力運動したのであります。然るに、我が委員の腑甲斐なき事、我が嗣野の騎甲斐なき事、仲に蚕員に疵つで行つi居り化賀業家其他の麗甲鳶なき事、何れも唯々として彼の國の強要に甘んじ或は餘儀なくせられて、非常なる屈辱の下に我が軍備を制限する事に同意したのであります。私共は之を以て大坂城の濠埋と一般と云ふ考への下に、國民の大覺悟を促がしたのでありますが、其當時の國民の気分は甚だ悲しむべき程眠つて居りまして、何等之に反響するの狀態が見えなかつたので、私共は泣く泣く其時期を過したした譯でありました。然るに米國は此機會に於て日本の軍備を制限して、其力を殺ぐ事に成功しにのであります。且つ之に伴ふて從來彼れ等が最も恐るべしとして居た日本國民の愛國的精神が既に消磨し切つた爲めに此の屈辱的軍備制限に対して何等反抗する勇氣も力も無くなつたと云ふ様に見えたので、彼等は幾分心を安んじたと云ふ事でありますが、さもあるべき事と思はれるのであります。
 それに續いて起つたのが、即ち昨年の大震災でありまして、之に依つて我國は經濟上及び國防上非常なる打撃を蒙りましたし、加ふるに人心が未だ眼を覺ますと云ふ狀態に見えい所から、米國は益々我を輕んずる樣になり、最早日本は爲すある事なし以て與みし易しと云ふので、多年心掛けて居つた所の東洋に對する野心を遂行する小手調べとも見るべき第一歩として、今囘の移民問題に因つて日本に手を出す事に試みて來たと云ふ事は、私共の信じ疑はざる所であります。而して是は米國のほんの小手先の試みであつて、其次に來るものは即ち東洋に於ける彼等の大野心を遂行する爲の日本に對する大壓迫であると云ふ事を我々は今より大に覺悟しなければならぬのであります。
 是に於て私共は此國民對米會を開きまして、極力國民の覺醒運動に從事して居るのであります。初め此運動を起しました時には、形式ながらも米國の反省と云ふ事を以て標榜と致して居りましたけれども、是が愈々排日移民法を實行せられた今日となりましては、最早彼の反省などは到底望まれない、歸着する所まで歸着してそれからの解決でなければ、對米問題の根本的解決は決しで得られない。而して其歸着する所とは何であるか、卸ち最後の衝突を見ねば此間題は解決せられないと云ふ事は、我々の覺悟せねばならぬ所と思ふのであります。是が七月一日即ち移民法實施の日に於て私共同志が本會の主催の下に彼の増上寺に於て對米記念國民大會を開きました時の決議であります。此時に我々は臥薪嘗胆進んで此問題の解決に當らなければならぬと云ふ事を誓つたのであります。而して此大に備ふるに臥薪嘗胆云ふ事でありますが、然らば如何にして臥薪嘗胆すべきか、又臥薪嘗胆すべき所は何處にあるか、之を詳しく調べ、其由る事を尋ね、更に今後向ふべき方針を辿つて、其筋道に因つて臥薪嘗胆を實行するのでなければ、眞の臥薪嘗胆は出來るものではございませぬ唯だ口に臥薪嘗胆を唱へて居つてもそれは徒らに空言に過ぎないのであります。是に於てか平生對米問題に對し研究を遂げられて居ります諸大家に御頼みして去る八月七日より五日間上野自治會館に於て講演會を開きました處が非常な好評を博し連日滿員の盛況を呈し、其後も各方面から其の講演集の出版を熱望して來るものが多いので茲に本論集を上梓して普く同好の士に須つことにした譯であります。
 世間の視聽は對支問題に移り對米問題は忘れられたかの観がありますが、對支問題も窮極對米問題か解決せられなければ根本的解決を見得ない事情にありまするし對米問題は既に解快せられたのでなくて問題は愈々之から紛糾し樣としてゐるのであるから本書の如きなるべく多数の讀者を得て國民擧つて充分なる覺悟を以で今後の對米問題に當られんことを切望に堪へないのであります。

 大正十三年十二月一日
                國民對米會
                 葛生能久識

引用・参照・底本

『對米國策論集』國民對米會編 編者 葛生能久 大正十三年十二月二十五日發行
發行所 讀賣新聞社

(国立国会図書館デジタルコレクション)

海外放送2022年07月04日 08:41

昭和十六年ラヂオ年鑑
 『昭和十六年ラヂオ年鑑』

 海外放送 

 (172-174頁)
 一、概 勢                   2022.07.04

 昭和十四年は世界の短波放送に於て特記すべき年であつた。即ち短波に依る世界宣傅戰は既に九月一日の宜戰を侍たずして始まつてゐた。
 それは所謂民主々義國家群からの反撃といふ形をとつて開始された。ドイツ・イタリア・フランス・アメリカ等の對抗放送が猛烈を極めた。放送施設に於ては云ふに及ばず、放送時間に於て使用國語に於て、放送内容に於て、今年の世界各國の海外放送戰は洵に未曾有の激戰を展開した。
 第一次世界大戰には存在しなかつた放送といふ恐るべき有力なる新しい武器を各國が躍起となつて活用しつゝある有樣は蓋し後世史家の眼を瞠らしめるに充分であらう。殊に放送科學の發達と共に益々その威力を發揮しつゝある遠距離用の短波が、今や世界の思想戰の眞只中にあつて、宣傳に、謀略に火華を散らし戰つてゐる有樣は、日本の一般聽取者が想像だに出來ぬ處である。
 扨て斯る宣傅戰に於て日本の海外放送は如何に對處したか。思へば昭和十年六月を以て五周年を迎へた今日此の放送の持つ重大使命に鑑み、放送時間に於て、將又放送内容に於て幾多の擴充を斷行したのであるが、支那事變は二周年を迎へ聖戰の成果彌が上にも擧ると共に、世界には新情勢が誕生し、それに即應するの必要上から業務の充實を圖り、十四年七月國際課を國際部に昇格して、第一課及び第二課を置き其の目的達成に遺憾なき樣陣容を整へた。更に放送の方向は從來通り歐洲向南米向、北米東部向、北米西部向、支那南洋向の五方向であるが、南米向放送以外は何れも放送時間を延長し總計毎日八時間と爲し、放送番組も全面的に再編成して新たな種目を加へ、使用國語も日本語・獨逸語・英語・佛蘭西語・西班牙語・葡萄牙語・和蘭語・支那語の八ケ國語の他に、伊太利語並に泰語が通信や講演の形で適宜使用されることゝなつた。歐羅巴向放送は、開始時間を繰上げ午前四時より二時間に亘つて、行はれることゝなつたが前半の一時間をドイツ・イタリア向とし、日本語・獨逸語・(土曜日は他に伊太利語)が使はれ、後半の一時間は英佛兩國語が使はれイギリス・フランス等に向けて、ニュース、講演、通信、演藝、實況(錄音)等が放送された。南米向放送は西班牙語・葡萄牙語・日本語が使用されてゐる。次に北米東部向放送は、午前と午後の二回行はれてゐたのを合し、午前十時から十一時迄専ら英語に依り放送された。
 北米西部向は午後二時より三時三十分迄、前半を米國人向に、午後二時五十分から終了時間迄北米西部、カナダ・ハワイ在住の我が同胞向番組として、日本語ニュースと共に送出された。最後の『支那・南洋向放送』は從來の編成と甚しく異なり全面的に擴大強化され中國人向の番組に依り支那新中央政府の健全たる發展と相俟つて、光輝ある紀元二千六百年の意義ある歳を迎へた我が海外放送は「極東の聲」たる重大使命に鑑み層一層の發展が望まれた。
 一方歐洲の戰雲は益々擴大し電波の宣傳戰愈々熾烈を極むる時、我が海外放送は益々擴充され六月以降從來の放送の他に、西南アジア向放送と布哇向放送とが新設されることゝなつた。使用言語も從來の日本語・獨逸語・伊太利語・英語・佛蘭西語・西班牙語・葡萄牙語・和蘭語・支那標準語の他に、新たに泰語・緬甸語・ヒンヅー語が追加されて十二ケ國語となり更に本年八月頃には廣東語・亞刺比亞語が加はり使用言語は十四種類となる豫定で、放送時間も毎日十二時間となり、更に本年から明年に掛けて、一大躍進を遂げる運びとなつた。この擴充案が實施された暁には、日本の海外放送は堂々世界放送界の王座を占むることにならう。今や事變は長期戰に入ると共に建設の足音は愈々高く、極東の新秩序は確乎不抜の基礎を築きつゝある儼然たる事實と共に、放送を通じて全世界に向つて斷乎日本の眞の姿を昂揚せねばならぬ。
 海外放送の番組は各方面とも在外同胞向と外國人向との二つに大別される。北米西部向の放送について云へば前半の約五十分は外國人向の番組で、英語によるニュース、講演、實況錄音音樂並に演劇であり、後半の約四十分間は北米西部、ハワイ、カナダ方面に在住するわが同胞の番組で、日本語によりニュース、講演、實況錄音、音樂並に演藝が送出される。同種目の放送に於ても外人向と同胞向はその取材に、編輯に、演出に異つた苦心が拂はれた。尚昭和十四年七月依り之等番組の中、日曜日の北米西部同胞向番組の一部演藝プロは國内にも中繼されることゝなつた。
 支那、南洋向放送の開始時間は午後九時より午後十一時三十分まで二時間三十分に亘つて行はれるが、この放送編成は最初の約一時間を日本語、英語、和蘭語の順で進み、午後十時より十一時十五分まで一時間十五分に亘つて専ら支那向に支那語が使用され、支那語ニュース、講演、演藝、音樂並に實況の他に支那音樂が送出され、又「支那語通信」が開始された。この「支那語通信」はニュースでもなく、講演でもなく、又單なる時事解説でもない。之等總ての要素を含み乍らその他に主張と、説得と、指導の要素を含んでゐる。或時は電波に依る重慶爆撃の對敵宣傳であり、或時は新政府治下良民に對する宣撫宣傳及び與論の指導である。而してその扱ふテーマによつて、
 敵狀論述(蔣政權の崩壊)
 興亜通信(東亞新秩序の建設)
 日本情報(日本の決意と行動)
 國際情勢(極東をめぐる國際情勢の展開)
 戰況(皇軍の輝く戰果)
の五大項目によつて編輯され事變記念日たる七月七日を以つて第一報放送その後一年中無休で放送されてゐる。
 海外放送は時差の關係上深夜から明方にかけて行はれることが多く、八十人を越へる外國人をも交へた國際部員は、晝も夜も、文字通り不眠不休で立働いてゐる。眞夜中、皎々たる電燈の下、數十臺のタイプライターの砲列を布いて各國向のニュースを編輯する者、スタヂオに飛び込んでアナウンスをする者、講演や音樂の番組を編輯したり或はスタヂオの進行を掌る者、眞夜中の放送會館は國際部の一人舞臺である

引用・参照・底本

『昭和十六年ラヂオ年鑑』編輯者 社旦團法人 日本放送協會 松田儀一郎 昭和十五年十二月三十日發行

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産婆さんと虎(支那童話)2022年07月05日 07:30

産婆さんと虎
 『少年地理 支那だより 中支の巻』武田雪夫著 高井貞二画
 
 (88-89頁)
 産婆さんと虎(支那童話)            2022.07.05

 あるお百姓さんのお婆さんから、こんなお話を聞きました。
 昔、あるところに、大へん上手な産婆さんがゐました。ある夜中に、お産をすまして、家へ歸らうと、山の下の暗い道を、たつた一人で歩いて來ました。
 さうすると、ガサガサと音がして、山の中から、一ぴきの虎が出て來ました。産婆さんは、びつくりして、そこへ坐つてしまひました。そして、ぶるぶるふるへ出しました。
 虎は、産婆さんのそばへ來ると、いきなり着物をくはへ上げました。産婆さんは、あッといつたきり、気を失つてしまひました。
 それから大分たつてから、産婆さんは、やつと氣がつきました。目をあけで見ると、そこは、山の奥のほら穴の中のやうでした。
 こはごは産婆さんが見ますと、そこに大きな虎が、二匹ゐました。一ぴきの虎は、どうしたのか、ウンウンと苦しさうに、うなつてゐました。
 どうやら、そのうなり聲は、子供が生れさうになつて、苦しんでゐる聲のやうに思へました。さうとわかると、産婆さんは、もうこはいことも忘れてしまひました。うなつてゐる虎のそばへ行つて、お腹を、もみはじめました。
 もう、さうなると、何でもありません。いつも人間のお産でなれてゐる上手な産婆さんは、虎にもやつぱり上手でした。しばらくして、虎の赤ちやんは、つぎつぎに三びきも生れました。
 虎はよろこんで、産婆さんを前のやうにくはへて、もとのところまで、つれて來てくれました。産婆さんはほつとして、やつと家にかへりました。それから、しばらくの間、ときどき、産婆さんの家の裏口に、おいしい肉のきれがおいてありました。それは、お産に苦んでゐるところを助けてもらつた、虎のお禮だつたのでせう。
 どうです、面白いお話でせう。

引用・参照・底本

『少年地理 支那だより 中支の巻』武田雪夫著 高井貞二画 昭和十五年五月二十五日發行 朝日新聞社

(国立国会図書館デジタルコレクション)