激動の中を行く2022年11月01日 10:10

  『激動の中を行く』與謝野晶子 著
 
 (一-二二頁)
 激動の中を行く               2022.11.01

 人生は静態のものでなくて動態のものであり、それの固定を病的狀態とし、それの流動を正統狀態として、常に動揺變化の中にあるものであるということは説明の必要もないことですが、戰後の世界は戰前においてさまで優勢でなかつた思想が勃興うし初めた爲に、經濟的、政治的、社會的のいずれの方面においても、これまでになかつた急激な動揺變化を生じて、それが爲に人間の思想と實際生活とは紛糾に紛糾を重ねようとしています。即ち今日の新しい合言葉となつている人道主義とか、民主主義とか、國際平和主義とかいうものは、戰前において學者、詩人、社會改良論者、宗教家等の空想として、大多數の人類から軽視されていたものですが、今は普魯西プロシヤのカイゼル父子とそれを繞つて居た軍閥者流とが代表として固執して居た𦾔式な浪曼主義に根ざす軍國主義や専制主義が此度の戰爭の末期において頓挫した爲めに、英佛米諸國の一流の學者、政治家、藝術家に由つて支持される新しい浪曼主義に根ざした人道主義や民主主義の思想が天下の權威であるが如き外觀を呈するに到りました。そうして、今や世界は、この新しい權威である思想に向つて俄かに自己の生活を適應させる爲に照準の大轉換を行はうとして焦燥る者と、この思想に反抗して時代遅れの専制的、階級的、官僚的、資本家的の𦾔思想を維持するために、あらゆる非合理と陰険と暴力とを手段として固執する者と、この急劇な世界の變化に對し、かう云ふ場合に處すべき修養と訓練とをそれまでから缺いていた爲に、どうすれば好いか、全く策の出いずる所を知らないで徒らに狼狽して右往左往する者と、大體においてこの三種に分つべき人々に由つて未曾有の混亂狀態を引起して居ます。
 私はこれを以て人類が已むを得ず一度經驗しなければならない過程であると思ひます。母が一人の子を生むにも精神と肉體との尠からぬ苦痛を拂います。人類が遠く釋迦や基督の時代から憧れて來た、愛、正義、自由、平等を精神とする最高價値の新生に向つて、大股に一つの飛躍を取ろうとするには、八百萬人の死傷者と三千億圓の戰費とを犠牲としてまだ足らず、更に思想的、經濟的、政治的、社會的の猛烈な戰爭と混亂との中に、劇甚な苦痛の試錬を受けねばならないのは理由のあることだと思ひます。
 新しい浪曼主義の代表者であるウイルソン大統領の戰時中から今日に到るまでの度々の提議は、一語として新時代を指導する聖經風の金言で無いものはありません。古から大國の元首にしてウイルソンのように正大と高華とを極めた提議を、ウイルソンだけの徳望と權威を持ちつつ世界に對して指導的に爲し得た者があるでせうか。私はウイルソンの人格の偉大であることを驚嘆して居ます。併しさう云ふ特別に飛び離れて偉大な人格が今日も猶世界に存在する如くに見え、大多數の人類がそういう偉大なと見える人格に由つて音頭を取つて貰はねばならないという事實が、私の考察では、まだ世界の文化が非常に偏頗な狀態にある證據であり、從つて大多數の人類がウイルソンの提議に現れたやうな正大な思想を、何の凝滯も曲解も反抗もなしに、空氣を吸い水を飲むやうに、安々と肯定し、受容し、味解することの出來る程度に達していないものであることを思はせます。
 民主主義ということは、大多數の人類が平等の機會と、平等の教育と、平等の經濟的保障とに由つて、すべて平等に最高の人格を完成することを、それの極致としているものであると私は解しているのですが、この解釋にして誤つて居ないならば、大多數の人類がまだ完全に民主主義の意義さえ知らず、人格の差異の甚だしい今日において一躍して容易にウイルソンの提議通りの世界改造が實現されようとは考へられません。ウイルソンのような思想はまだ特別に優秀な人格を持つている少數者の間の思想です。その思想は人類の平等化を目的とする民主主義であつても、その思想の主張者が高い飛び離れた位地にいて、まだ階級的に指導者または支配者という態度を以て大多數の人類に臨まざるを得ない有樣である限り、それが果して勝利を得て、大多數の人類の間に家常茶飯として普及することを疑はないにしても、それまでには多少の期間を要することは免れ難く、その期間には幾多の逆流があり、幾多の故障の起ることを豫想せねばなりません。現にウイルソンの思想を講和条件に具體して決行しようとすれば各國の軍備の絶對的撤廃を主張しなければならないはずであるのに、ウイルソンの代表する米國では、反對に自國の海軍の大拡張を聲明して世界の人にその一大矛盾を掩ふことの出來ないような見苦しい現象のあるのは、民主主義の本塲である米國においてさえ、國内における複雑な政爭關係から、ウイルソンをして敢てこの一大矛盾を忍ばしめるに到つたことが想像されます。
 私はウイルソンだけが唯だ一人傑出した大人格であると考えて居ません。ウイルソンぐらいの愛と識見と勇氣とを持つた人格は我國の少壮學者たちの中にも幾人かを數えることが出來ると思うのですが、世人がウイルソンとかロイド・ジョオジとかだけを特に崇拝して殆ほとんど神樣扱いにするばかりに推尊するというのは、それだけ世人がまだ他人に對する公平な批判力を持たず、自己の力量をウイルソンの力量と比較して同等に信頼し得るだけの修養も自覺も持つていないことの反映に過ぎないのです。民主主義の徹底する時代には偶像崇拝の思想の幻滅すべきは勿論のこと、法外な英雄崇拝の思想もまた自我の退嬰萎縮として峻拒されねばならないことだと思ひます。
 かう云ふ風に、人類の教養と訓練とに優劣の差が甚だしくあつて、思想的には急進派と保守派と無定見派、經濟的には富豪と中産階級と第四階級、政治的には官僚と、商工業者と労働者、こういう風に分離して、それが互に反撥し合つてる限り、人道主義や民主主義を標準として真實に全人類の生活を浄化するということは、まだまだこれを未來の時日に待たねばなりません。
 殊に近代文明の中心から遠ざかつていた日本人においては、これまで久しく其等の理想とは反對の思想の中に養われて來た者です。現にそれらの反對の思想が日本のあらゆる方面に浸潤して容易に抜き難い勢力を持つているのです。日本人は個人の魂から深海の魚のように自覺の眼をなくすることのみを強制されて來ました。個性の尊貴とか人格の自由獨立とかいう普通教育として最も大切な部分は、日本のどの學校においても教へられずに來たのです。教へられる所は、何事も要するに唯だ少數の權力者と、少數の資本家と、一人の家長とへの奴隷的奉仕に役立つという以外のことはないのです。教育ばかりでなく、宗教も道徳も専ら奴隷的奉仕の器械たるべく他律的に日本人を壓抑する手段たるに過ぎません。そのうえに私たち婦人にあつては一切の男子の下風に立つてそれに奉仕する絶對の屈從を天命とし、無上權威の道徳として課せられているのです。それがためには、特に婦人を愚にして魂の覺醒を禁壓する必要から、男子と對等の教育を私たちに施すことを拒み、名は高等女學校卒業といいながら、男子の中學の二年生程度にも匹敵しない低級な教育を、文明國の體面を保存する言譯だけに授けて置くに過ぎないのです。男子とても教育の自由を實際には許されていないのですから、高等教育を受ける男子は少數の經濟上の僥倖者に限られ、その少數の男子も卒業の後は官僚となり、財閥の成員乃至奉仕者となる人達が大部分を占めているのですから、大多數の日本人を無學無産の第二次的國民として蔑視する階級思想と、日本の政治、學問、財力の何れをも少數者の福利の爲に獨占しようとする専制思想とは、次ぎ次ぎにその立派な後繼者を得て繁昌しつつあります。
 かう云ふ保守思想がまだ優勢を示している日本において、人道主義や民主主義の思想が容れられず、反對に危険思想であるが如き冤名を之に着せようとする頑冥な反抗を見るのは已むを得ない事だと思ひます。獨逸という外敵に勝つた各國の人道主義者は、之より更に、その各の國内における非人道思想や、専制思想と戰わねばなりませんが、日本人の國内におけるこの意味の戰ひは、最も多くの苦闘を覺悟する必要があると私は考へます。
 新しい人間生活の方針である唯だ一つの理想を、自我實現と愛と正義との方面から見て人道主義と名づけ、人類平等の方面から見て民主主義と名づけたのであると概括して考えて居る私は、之を一言に簡約して新理想主義と呼びませう。さうしてこの新理想主義を拒む保守主義者の言動が既に日本の各方面に起つて居ることは、敏感な自由思想家の見逃さない所であらうと思ひます。その一つを云へば、官僚的教育者の集団である臨時教育會議が、最近に女子教育を以て家族制度の精神に集中せしめたいと云ふ事、及び國民の思想を統一しようと云ふ事を政府に向つて建議した事實などが其れでせう。
 曾ては家族制度を必要とした未開時代もありました。併しながら家長一人の力で全家族の衣食と教育とに要する經濟的条件を負担することが出來ない上に、個人の欲望が大きくなり多樣になつて、家族の各があながち父祖以來の家業を守ることを好まず、何人も適材を抱いて適所に奔らうとし、また父祖以來の家業を守らうとしても、その家業が現代に適しないものであつたり、或は辛かろうじて家長一人に屬する家族の最小限度の經濟生活を支えるに足つて、到底その他の大家族を養うことが出來なかつたりする現代の家庭の經濟狀態に於て、どうして家族制度を維持することが出來ませう。家族制度の今一つの要素となるものは親子兄弟という血縁關係ですが、今日の實際生活に於ては、第一に前に挙げた經濟狀態の壓迫がその血縁關係の結合をも解き放ち、その上、各人の事業欲や名譽欲も手伝つて、戸主以外の青年男女をその故郷の家に固着させて置きません。家族制度を最も遅くまで守持するであろうと思はれる農家が、却て第一にその子女の大多數を他郷の人たらしめねばならない時代となつて居ます。都會における戰後の失職者に歸農を勸誘するやうな事は、この理由から、或程度以上は實行し難い、無理な註文であるのです。家族制度を維持せよと強制することは、一般國民の經濟狀態を考えない官僚教育者の僻説であつて、人と制度との主客關係を顛倒し、制度の爲に個人の自我發展を阻止し、個人の活力を圧殺して顧みないものだと思ひます。
 高田保馬氏の新著『社會學的研究』の中には、また特殊の見地から家族制度に對する弱點が暗示されて居ます。即ち人間が家族的乃至ないし民族的と云ふやうな關係に由つて小さく結合する事は、それが内に向つて鞏固であるほど、それだけ排他的精神が強く働き、從つて社會的人類的の大きな結合が困難になるという議論です。私はこの議論に敬服します。家族制度の精神は一種の小さな黨派根性です。他と自分とを水と油の關係に置いて分離し、新理想主義の極致たる、世界人類を以て連帶責任の共存生活體と見る精神と相容れないものです。家族制度の排他思想を最も露骨に示すものは、貴族や富豪の家屋が塀を高くし門を堅くして、他に向つて小さな城塞にひとしい威壓を示さなければ滿足しないのでも見ることが出來ます。彼らはその家屋と庭園とを公開して民衆と共に樂まうとするやうな新理想主義的な雅懐を持つて居ないのです。また家族制度の下に家系に繋がる特殊の栄譽を世襲する彼等は、祖先の美名と現在の爵位とを誇示して、他の一般民衆と分離し、幾段か高い名門貴種の人であることを是認せしめようとします。みすぼらしい家屋に住んで、平凡無能な祖先しか持たず、その上に何らの社會的地位もない私たち大多數の無産者に取つて、最も頑固な家族制度の中に𦾔式な生活を維持している大華族や大富豪ほど四民平等的の親みを持ち難い者はありません。今は成金と稱する新富豪さへも彼等に擬して、その邸宅と日常生活を民衆と區別し、その稱呼をも御前樣お姫樣を以て自ら僭しつゝあります。家族制度の結合が固まるほど社會と極端に分離する性質のものであることは高田氏のお説の通りだと思ひます。
 私はまた家族制度に由つて縛られた生活ほど、唯今の時代に於ては、道徳的に不良な狀態にあるものは無いと云ふ事を附け加えずに居られません。この制度の下にあつては、家長の命令が至上權を持つて居ます。父母の保護監督を必要とする少年期には兎も角、それ以上の年齢に達して自由意志を持つ青年男女が、自己の權利と責任觀念とに由つて自主的に自己の欲求する行動を取り難いと云ふことは、云ふまでもなく非常の苦痛です。彼らはカントの謂ゆる自己目的の爲に存在する獨立の人格者でなくて、家長の意志に由つて左右される第二次的人間として存在せねばならないのです。之が爲に家長と家族との間に忌はしい反目があり衝突があります。親と子と、兄と弟とが同じ屋根の下に住んで見苦しいかつ悲しい爭闘を續けている家庭と云ふものは、我國の現在に於て随所に発見することが出來ます。女子が良人の選擇權を持たず、家長の意志のままに恋愛のない結婚に盲從してしまうのもこの制度の爲です。舅姑の勢力が嫁に對して良人より勝つて居るのもこの制度の爲です。男子の遊蕩を寛假して妻妾の併存を認容するのも、男女道徳以上に血統を重視する家族制度の特權であるのです。この制度の中に因習的に住む者が思想感情の乖離と、物質的福利の爭奪と嫉妬とに由つて、常に複雜にして醜悪な小人的の私闘を絶たない事は、家族の延長である我國の親族關係において特に顕著であつて、この事は大抵の人に思い當る所があると信じます。
 保守主義者は家族制度を以て孝悌忠信の保育所であるやうに考へて居るのですが、實際は大抵の場合これと反對な結果を示して居るのです。現に地方から都會に出て獨立の生活を営んで居る者は、大學の教授、政府の大官、財界の有力者より工場の女子勞働者に至るまで、多くは非常な勇斷の下に家族制度の精神に背いて、曾て一度その郷里の家庭から離れ去つた人達であるのです。現代に於ては、このやうに家族制度を超越して、父母の膝下を辭し、兄弟相別れて、各自の欲する所に赴いて活動するのが、却て順當に孝悌忠信の實を擧げる結果になつて居ます。これは決して男女の性別に由つて相違のある事では無く、現代における經濟条件の必要と個性に根ざす獨立生活の欲望とは、男をも女をも屋外と他郷との勞働に就かしめ、特に男子よりも其數において多い我國の婦人勞働者は、工場に於けるその痩腕の稼ぎから生み出した賃銀に由つて自己の衣食を支え、それを以て家長の厄介を尠くして居るだけでも、家にあつて反目と爭闘の中に暮して居る上流階級の家族制度的婦人に比べて、どれだけ現代道徳の實行者であるか知れません。私が昨年の九州旅行で聞いた事ですが、布哇や北米やその他へ出稼ぎしている彼地方の男女は、毎年尠からぬ額の金を郷里へ送つて父母の慰安とし、弟妹の教育費に當てる者が多く、中には家倉を新築させ、田畑を買はしめる者さえあると云ひます。若しそれらの男女が家族的制度の下に小さく固まつて郷里に留つて居たら、果してそれだけの愛情を父母兄弟に寄せることが出來たでせうか。
 思想の統一に至つては、茲にも官僚教育者たちの畫一主義が専制的な威壓を示しつつあることを私は怖れます。ウイルソンは巴里のソルボンヌ大學の演説で「大學の精神は自由にあり」という事を述べましたが、大學をすら官僚の牙營に供して、その獨立自由を確保しない我國の教育者は、人間の思想をも官營として一手専賣を強ひようとするのです。併し思想の何物であるかを知る人々にあつては、官僚は勿論、如何なる偉大な人格が強制的に統一しようとしても不可能である事を識別するであらうと思ひます。何が世の中で自由であると云つても、人間の心の内に起伏し流動する思想ほど自由なものはありません。顔さえも個別的の特色を備えて真實の意味にて瓜二と云ふものは無いのに、況して、刻々に移動する思想は、個人の自発的なものほど個性の色彩が著しく、たとひ他人の思想を受け容れたものでも第二の個性に由つて着色され變形されないものは無いのですから、萬人萬樣の思想が存在するのは當然の事で、それらの思想が拮抗し、比較し、補正し、助長し合つて存在してこそ、人類の思想は自浄作用の中に深化と進歩とを遂げるのであると思ひます。昔から宗教、學問、藝術の何れでも官營の一種に決つて仕舞へば、何れも其本質の腐敗を招かないものはありません。堂上の和歌、聖堂の朱子學、ロダンが罵つた佛蘭西院體派の藝術、その實例はいくらでもあります。殊に官營の宜しくない事はその官權を以て反對の思想を暴力的に壓伏することです。思想の自由を奪うに至つては思想の統一でも尊重でもなく、反對に思想其者の發展を願わない者のする殘忍不法な行爲です。
 思想は統一されるもので無い。兵隊の數に應じて同じ帽を被らせ得るやうに、人類をして均一に同じ思想を持たせ得るもので無い。同じ思想に停滯したり囚へられたりしないで、勝手に優れたものであると自認する新しい思想を提供してこそ、世界人類の創造的進化に参加して各人が實力相應の貢献を爲し得るのであると思ひます。思想が一種に固定して仕舞つたら世界は化石狀態となつて、人類は自我發展の余地が無くなり、何の生き甲斐もない退屈な中に退化し自滅し去らねばならないでせう。
 それよりも、今日において、何人も互に自ら注意すべきことは、思想の統一と云ふやうな閑問題で無く、この戰後に發生する雜多な思想の混亂激動の中を安全に乘り切らうとするのに、その雜多な思想のいずれをも觀察し、批判する事を怠らず、それが設ひ外觀上如何に險峻なものに見えやうとも、また温健なるものに見えやうとも、必ずその内容の純正か否かを透察し、それを自分の思想の養料として採用することだと思ひます。生活の理想は他人の指導に盲從してはならない。必ず自分の批判を經て全く自分の思想となつたものを信頼せねばなりません。ウイルソンの唱へる新理想主義にしても、私はそれの雷同者の俄に多いことを頼もしげなく思ひます。戰爭で獨逸の負けたのを見て俄に獨逸語の排斥を唱へたり、獨逸の學問藝術までを罵つたりする軽佻な識者の多い日本に、昨日今日威勢の好い民主自由の思想に何の省慮も取らず共鳴する人の殖えて行くのは一概に嬉しいとは云はれません。
 私もウイルソンを尊敬する一人です。しかしウイルソンの唱へたが故に私は人道主義や民主主義に賛成する者では無いのです。貧弱乍ら私の理想は私自身の建てたものです。それがウイルソンの偉大な理想と偶ま似て居る所があると云ふに過ぎません。さうして、私は今日の私に停滯していようとする者で無く、勿論ウイルソンの理想に低徊して居るような閑人でもありません。明日はウイルソンが彼れの大きな道を選んで前進するように、私は私で自分の小さな道を選んで前進するでせう。固より次第に激増する雜多な思想の混亂激動に出會ふのは覺悟の前です。
 私は一つの譬喩を茲に挿みます。巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、若くはエトワアルの廣場の午後の雜沓へ初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に對して、足の入れ場の無いのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢き殺されることの危險を思つて、身も心もすくむのを感じるでせう。併し之に慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雜沓の中を縫つて衝突する所もなく、自分の志す方角に向つて歩いて行くのです。雜沓に統一があるのかと見ると、さうでなく、雜沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覺と沈着な意志とがあつて、その雜沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に轉換して進んで行くのです。その雜沓を個人の力で巧に制御しているのです。私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思ひました。さうして、私も其中へ足を入れて、一二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険で無いと自分で見極めた方角へ思ひ切つて大膽に足を運ぶと、却て雜沓の方が自分を避けるやうにして、自分の道の開けて行くものであると云ふ事を確めました。此事は戰後の思想界と實際生活との混亂激動に處する私たちの覺悟に適切な暗示を與へて呉れる氣がします。
 保守主義者の反抗思想の中には随分莫迦々々しいものがあります。或婦人雜
誌に法學博士三潴信三氏が婦人職業問題に反對して「歐米において婦人が何々の職業を与へられているからと云ふが如き單なる理由の下に、婦人の職業を徒らに奬励するが如きは、家族主義の我國としては破壊的の考へと云はねばなりません。……婦人が進んで家庭から離れようとする如き考えは決して健全なものと思われません」と云はれた如きは、博士こそ餘りに「單なる理由」の下に輕率なる斷案を下されたもので、博士は我國の女工八十萬の家庭事情が經濟的と倫理的の兩方面から、彼らを職業婦人たらしめねば置かないと云ふ重要な理由を看過して居られるのです。彼等にして若し工場勞働者とならなかつたら、餓死するか醜業婦となつて堕落するかの外に道はないでせう。
 三潴博士のお説で更に笑ふべきは「外國の事柄を借らずともよい」という單なる理由から、西洋音樂を排斥し、サンタクロスの代りに大黑樣の名を挙げ、家庭に於てパパとかママとか呼ばせて居ることを攻撃し、正月の遊びにも西洋趣味の物で無くて東海道々中雙六を用ひて欲しいと望んで居られる事です。日本音樂が西洋音樂に比べて非常に劣等な位地に停滯して居るものである事は、新進の音楽學者兼常清佐氏の日本音樂論を読まれても解ることです。兼常氏は日本音樂を西洋音樂に勝るとするのは蝙蝠を見て飛行機より偉大であるとするに等しいと云はれました。博士は外國の輸入物を嫌はれることがまるでペスト菌にでも觸れられるやうですが、日本の法律が範を獨逸に採つて居るのは勿論、古くは雲上の御稱號の文字を始め、今日の三潴博士の姓氏の文字までが外國からの移植であつて見れば、パパと云ひ、ママと云ふのも決して忌むべき理由はありません。博士はチチ(父)ハハ(母)と云ふ言葉を純粋の國産だと思つておられるのでせうが、進歩した言語學では其れが支那の古代語であることを證明して居ます。外國産の輸入を嫌つて居ると、古代人の尊重した鏡までが、日本で發明した「鈴鏡」と云ふ鏡を除く以外は、すべて支那へ返さねばならない事になるでせう。三潴博士のお説は一笑に附し去つても好いやうですが、之を突き詰めて行くと、博士のお考とは反對に、古來の日本文明を破壊すると共に、新しい日本文明の建設を阻害する結果となるのを遺憾に思ひます。之と同樣の保守的俗論が猶続々と日本人の間に頭を擧げるでせう。私たちは獨自の見識を以て今後のあらゆる反動思想を批判し取捨せねばなりません。(一九一九年一月)

引用・参照・底本

『激動の中を行く』與謝野晶子 著 大正八年八月十二日發行 アルス

(國立國會図書館デジタルコレクション)

劍と金の使ひ分け2022年11月02日 10:28

喜多川歌麿前編 小伊勢屋おちゑ
 『アメリカの實力』棟尾松治 著 朝日新聞記者  

 第七章 アメリカ帝國主義、領土擴張

  (181-182頁)
 二 劍と金の使ひ分け

 アメリカが今日の尨大なる合衆國を建設したのは、劍と大砲の威力と、金、ドルを好餌としての買収懐柔の結果である。言ひ換ふれば、劍と金とで、國家を建設擴張して來たのである。
 即ち英國の植民地たりし米國が獨立したのは、劍を以て立つたのであり、その後ルイジアナをフランスより買取り、フロリダを西班牙より買收し、進んで墨國傾土に侵人を企て、テキサス、オレゴン、カリホルニア西部地方を收め、アラスカ及び、アリユーシヤン群島を露國から買取つた。進んで太平洋に出で、布哇を併合し、米西戰爭によつて、比律賓、グアム島、ポルト・リコを割取したのである。或は太平洋緒島を收め、巴奈馬運河地帶を課略によつて獲得し、更に、中南米諸國をその勢力下に抱擁しつつある。
 合衆國の獨立は、劍を以て起ち、血によつて戰ひ取つたものであるが、その後の膨張發展は、金を以て購つたもがが多い。ドルの魅力――金の魔力を縱横に使ひ別け、その目的を達し、金ばかりで、どうにも行かぬ時に、大砲をぶつ放すといふ行方である。米國の帝國主義、その發展擴張史は、好くアメリカ人 の性格を顯はしてゐる。以下簡潔に成べて見よう。

 (182-185頁)
 三 米國獨立戰爭

 コロンブスの新大陸發見(一四九二年)より新大陸への渡航者は増加したが、就中、北米合衆國の基礎を作つたものは英國人である。一六二〇年彼のメリーフラワー號に乘じて新天地を求めて渡航して來た英國人清教徒百二十人の一群が、アメリカ開拓の先驅者である。
 彼等は上陸に先立ち、船中に於て『コムパクト』と稱する一盟約を結び『將來制定されるべき法律に服從する義務を負ふ』ことを誓つた。彼等は、如何なる困難に遭遇するも歸國を圖らず、不撓不屈の精神を以て開拓に努めた。彼等の開拓精神は、今尚アメリカ人の血として脈打つてゐるのである。
 これよりイギリス人の移住波航者が殖へ、英國の有望な植民地と化した。
 當時の英國政府は、アメリカ植民地を搾取するに急であつた。殊に一七六五年の印紙條例はその代表的なものであつた。同印紙條例は、英國議會に於て制定されたもので、英領植民地に於ては一切の契的證書は印紙を貼用せざれば無効とし、甚しきは新聞紙、書籍、遊戯カード類、商店の廣告用印刷物に至るまで印紙を貼用する法例を實施した。
 アメリカ植民地の住民が一齊に猛烈に反對し、ベンジャミン・フランクリンをイギリスに派遣して不合理を説かしめたので、英國政府は、印紙條例をその翌年撤廢したが、今虔は諸種の税法を設けて、酒類、油類、鉛、紙、茶等の輸入品に高率な税金を課し、且つ一般市民の營業にも繁雜な手續法を定め、植民地人の自由を拘束し、之を搾取することを怠らなかつた。かくて植民地人の英國に反對する者多く、獨立せんとする氣風が起つたのである。
 一七七三年ボストンの市民が、英國船の積荷たる茶を海中に投棄した頃より、植民地人は、一致して英本國に對抗、戰備を整へてゐたが、遂に獨立運動の導火線たるレキシントン事件が起つた。
 一七七五年四月十八日、英軍の 首將兼マサチユセツツ州知亨トーマス・ゲージ將軍は、獨立派の巨頭サミエル・アダムス、ジヨン・ハンコックの兩人が、ボストンの北西約十五哩、レキシントン村に潜伏してゐることを探知し、同夜スミス大佐に八百の正規兵を附し逮捕に向はしめた。
 翌朝、レキシントンの獨立派民兵一部とスミス大佐の一隊と衝突、始めは英の正規兵軍が強かつたが、随所に民兵蜂起し應戰したので、正規軍は退却敗走したのである。これが獨立戰爭最初の戰闘であり、米軍の勝利となり、その精神的影響は、獨立戰爭の全期間を通じて支配し、その負けじ魂の精神は今日に傳はつてゐる。米國海軍の大航空母艦に、レキシントンの名ある所以である。
 このレキシントンの戰闘の後に、今日まで芳名を傳へられてゐるサラトガの戰闘がある。これは英將バーゴエンが、サラトガの一戰に敗れて、米將ゲーツの軍門に六千の英兵と共に降つたのである。これによつて英國軍は止めを刺さされた形となつた。これ米國獨立の基礎をなしたものである。サラトガの芳名は、レキシントンと同樣、大航空母艦の名に冠せられてゐる。
 要するに、米國の獨立戰爭は、英國の搾取虐政に堪へ兼ねた植民地人が、母國の支配から脱せんものと東部十三州の人民が結束して、一齊に起ち、一七七六年七月四日獨立を宣言、前後七ケ年苦心惨澹たる戰闘を續けて、一七八三年、漸くその獨立建國を完成したのである。この間、ベンジャミン・フランクリンの如きは一七七六年、佛國に使ひして、米國獨立の衆認を求め、その援助を要請するなど、戰爭、外交、經濟上のあらゆる困難と闘つて、その目的を達成したのである。
 東部十三州の民は、建國の殊勲者であるが、この負けじ魂―― 不羈獨立の精神は、今尚、アメリカ人の血に通つてゐることを忘れてはならない。

用・参照・底本

『アメリカの實力』棟尾松治 著 朝日新聞記者 昭和十六年二月五日發行 青年書房

(国立国会図書館デジタルコレクション

ルイジアナの買收2022年11月03日 10:50

雅邦集
  『アメリカの實力』棟尾松治 著 朝日新聞記者  

 第七章 アメリカ帝國主義、領土擴張

 (186-187頁)
 四 ルイジアナの買收          2022.11.03

 ルイジアナといふのは、ミシシッピー河以西の廣大な領土で面積八十二萬八千平方哩に及んでゐる。元フランスの領土であつた。それが一七六三年西班牙に譲渡されたが、ナポレオンの覇業なるに及んで一八〇〇年再び佛國に返還された。その頃ナポレオンは對英戰に熱中してゐる頃で、軍資金も要るし、一方アメリカとしても、ナポレオンの如き強力者がミシシッピー流域を支配してゐることに危險を感じ、米佛交涉の結果、千五百萬ドルで米國が買取ることに決めた。
 當時のアメリカ大統領卜ーマス・ジエフアーソンは、ルイジアナ買收に始めは氣乘せず識會で否決されんことを望んでゐたが、ナポレオンも佛國内で反對があり、この契約を破棄せんとしたので、ジエフアーソン大統領は慌てて、議會を通過せしめ、僅か千五百萬ドルを以て、我全領土の五倍に相當する大地城を買收したのである。それは一八〇三年十二月今をさること百三十八年前のことである。かくて米國の領土は、獨立十三州の領土三十三十二萬の二倍餘の地域を占むるに至つた。

 (187-187頁)
 五 フロリダの買収            2022.11.03

 フロリダ地方は元西班牙の領地であつた。西部フロリダ、ニュー・オルレアンスは、ミシシッピー河の河口を扼し、米國農産物の集荷地である關係上、米國政府はこれを手に入れんとしてゐた。然るに西班牙官憲が、米國商人の貨物保留權を否認したので、米國人は怒つてユユー・オルレアンスを武力占領し、西班牙は、英國に頼つて取返さんとし、戰爭を生じた。結局米西間に買賣讓渡の協定が纏まり一八一九年、僅か五百五十萬ドルの端た金で、フロリダ五菖八千六百方哩の地域を買取つたのである。

引用・参照・底本

『アメリカの實力』棟尾松治 著 朝日新聞記者 昭和十六年二月五日發行 青年書房

(国立国会図書館デジタルコレクション)

聯盟諸國の態度一變す2022年11月04日 22:30

三體石佛
 『小説 日米戰爭未來記』樋口麗陽著

  (二十-二五頁)
 四、聯盟諸國の態度一變す 2022.11.04

 斯くて米國の陰謀は着々效を奏し、米濠支に於ける排日運動は益々猛烈となり氣勢は愈々騰り、朝鮮の獨立叛亂亦愈々重大となり、今や日本は朝鮮の獨立を承認し、支那に於ける利權の一切を抛棄し、海外發展を斷念して、蟄居して遂に滅亡するか、蹶然米國に宣戰し、獨力を以て米國を撃つて而して前途の安全を期すか、其一を選ぶの外方途なき最大危機に切迫した。随つて國民は憤慨措く能はずで、朝野の有力なる政治家は勿論一般言論までが、
 『日本は今や獨力を以て此最大危險を排除しなければならない孤立に立たせられた。國際聯盟だの仲裁々判などは當になるものでない。そんなものを當にして居たら日本は滅亡して仕舞ふ。斯うなつたら豫告も何もあつたものでない、背に腹は換へられるものでない。直ちに聯盟を脱退して自由行動を取れ、直ちに米國に宣戰しろ、富力世界に冠たりと雖も高がヤンキーだ、一擧にして屠つて仕舞へ』
 と主張するに至つた。一般國民も之れに和して聯盟脱退、自由行動、對米宣戰を叫び、熱狂憤慨の絶頂に達し、内外の危機は刻一刻切迫し、最早日本は聯盟脱退、自由行動を斷行する外なしといふ結論を作り且つ之れを決行する外なき事情となつた。  時に駐英駐佛大使より飛電あり、
 曰く『英佛の態度一變せり』と、
 果たして眞か? 僞か? 誤電か? 錯誤か? 國民の視聽は此電文に集注したが、果たして僞でなく誤伝でなく、眞であり、事實であつた。
 英佛は最初米國を信じ、日本の野心を疑つたが、其後の米國の態度行動は明かに国際聯盟の趣旨目的に叛旗を飜へしたものであることが種々の事實により確認せられ、聯盟委員最高會議の結果、仲裁裁判所の名を以て米國に對し、其行動を抑止することになつたのであるが、其間露獨の盡力が非常に與つて力あつた。といふのは、露獨は元來米國に對して餘り好意を有つて居なかつた。獨逸が第一次の世界戰に壊敗したのは、米國が参戰して援助したからである。あの時米國さへ局外中立を維持して居たら、獨逸が敗北するやうなことは斷じてなかつたのである。そして獨逸を窘窮せしめて手を毮ぎ、足を千切つ無力國にして仕舞つたのは英佛でなくて米國であるといふ氣があり、露國は革命以來米國は露國を援助すると云ひながら少しも援助しないのみならず、嬉しがらせを云つて置いて西比利亞の富源開發權を握らんとして暗中飛躍を試みるなど怪しからん、米國は正義人道を名とし、デモクラシーを看板として、資本的侵略主義を遂行せんとする敵本主義であると反感を抱いて居たので、露獨兩國が日本を援助して米國に一泡吹かせようといふことに協力し、日本大使に旨を含めると同時に、英佛に對支て米國の非違を鳴らし、日本の要求を容れて直ちに米國を抑制するの措置に出でずんば、露獨兩國は日本と行動を共にし聯盟を脱退すべし公式通牒を發した。
 露獨の此の強硬なる態度には得てい英佛政府も、大いに顧みる所があつた。露國は第一次革命以來過激派の跳梁に依つて久しく紛亂狀態を續けたが、レーニン、トロツキー等の死後は急轉直下過激派の凋落となり、今では穏健派によつて統一せられ共和国として順境に進み、國力も舊帝政時代の比ではない。又獨逸も五十餘年間聯合國への賠償金支拂等の爲に苦しんだが、國民の必死的大努力は其大傷痍を着々癒し、今やホーヘンツオルレルン家の支配時代と實際に於て殆んど同等に国力を回復し、其實力は英佛に劣ること數等ではない。随つて今此の二國が日本に與みして聯盟を脱退すれば、最早國際聯盟は有名無實で實際に於ては瓦解である。而も其結果は日獨露三國の同盟となり、伊太利の如きも之れに参加すべきことは今日迄の伊太利の英佛に對する不滿の態度及日本に對する好意等より必然的と見て蓋し誤りはない。然うなると世界は再び勢力の對抗となり英佛米を中心とする勢力と日獨露伊等を中心とする二大同盟の對立となり、世界の平和は破壊されて仕舞ふ、つのり英佛としては十九世紀の末から二十世紀の初めにかけての形勢即ち英佛露三國同盟對獨墺伊中歐同盟對抗時代よりもモット危險な狀態に陥ることになる。其時代には日英同盟があつて日本が英國に與し、常に露國を東方より牽制して居たので大いに助かつて居たか、日本が露獨と提携することになれば、英國としては片腕を毮ぎ取られたも同然、佛蘭西との協力丈けでは到底及ばない。米國の如き富力はあつてもイザと云ふ場合日本程の役には立たないことは分りきつて居る。英佛政府も此點に想到すれば飽くまで米國を支持するのは結局國際聯盟を瓦解せしむることより外に結果は得られないといふので、急に態度を一變し、米國の非違を認め、国際仲裁々判所の命令を以て米國を抑へる事に決定したのである。

 (二五-二七頁)
 五、米國國際聯盟を無視す

 ところが米國は國際聯盟最高委員會議の決定に服せず、仲裁裁判所の命令は日本の野心非違を援助せんとする不法命令であると稱して、こんな事をする樣な聯盟に加入して居る事は眞平だと敦圉き、該命令を峻拒し頑として應じなかつた。
 濠洲政府も亦米國に加擔し、國際聯盟會議の決議は不法である、仲裁々判所の命令は日本の侵略主義併合主義政策を援けて米國の正義人道主義を殺さんとする言語道斷の命令であると非難し、米國の峻拒を以て正當にして、復た當然の事であると云ひ、濠洲の國民亦之れに和し、米濠相呼應して極力反對し、國際聯盟脱退通告を以て威嚇した。
 茲に於て、世界は此の日米問題の爲めに紛糾を來し、米濠側と日本側との二派に分れ、紛亂に紛亂を重ね、到底妥協緩和の方途なきまでになつた。墨西哥の如きは平生米國の假面主義を憎んで居たので、秘かに日本に開戰を慫慂し、若し日本が米國に對して開戰したら墨西哥は全力を擧げて日本を援助するとまで言ひ出した、巴奈馬共和國も亦同樣の意嚮を洩し、南米諸國殊に伯西爾國民は日本の爲めに凡らゆる援助的行爲を惜まざるべしと揚言し、露獨伊亦米國の暴慢を憎み、ヤンキーの頭上に一撃を加ふるの最も必要にして適切の事たるを論じた。支那は米濠に加擔し、朝鮮の叛徒も亦米濠に追從して日本及日本に同情する諸國の態度を非難するといふ風で、到底平和的手段方法では解決することは出來なくなつた。
 茲に於て聯盟最高委員會議は多數決を以て多少變則ではあるが先づ日本をして米國に對して自由行動を取らしめ、聯盟各國は協力して日本に對し外交的に將た經濟的に援助することを決定し、日本に對し其旨通告した。これが日米開戰に至るまでの過程であつた。

引用・参照・底本

『小説 日米戰爭未來記』 樋口麗陽著 大正九年五月廿一日發行 大明堂書店

(国立国会図書館デジタルコレクション)

長州軍の暴狀2022年11月05日 17:22

兵馬俑と古代中国 秦漢文明の遺産
『幕末名士微髯公談 維新英雄言行錄』吉田 笠雨/著

 序                  2022.11.05

 近時偉人傑士の言行錄を出版する事汗牛充棟も啻ならず、・本書の如きもー兒甚だ浮薄なる時流を追ふの觀なきにあらざるべしと雖も實は實に然らず、今や政界多事の秋、憲政の網紀紊れて朝に人物なく野に侃諤の士なし、而して政治家の腐敗と堕落は未だ今日の如く甚だしきはなし、嗚呼眞に國を憂ふる者、誰か人物拂底の要求を痛切に感ぜざるものあらんや、此時に方り、維新回天の大業を起し、身をもつて國家の爲に盡したる英雄豪傑の言行を錄す、一は以て人物追想の料に資し、一は以て現代政治家の防腐劑たらしめむとするに他ならず、見よ現に國家の元老と稱し、或は第一流の政治家をもつて任ずる者、何人かよく編中四五人物の後輩として頤使せられざる者あらんや然り彼等はその當時に於ける陣笠のペイペイ也、西郷、大久保、木戸三傑の足下の靴をだに解くに足らざる人物なり、この徒によつて料理せらる憲政の振はざる寧ろ怪むに足らざる也、今若し彼等にして一片の良心あらば、誰かよく本書に對して慚死せざる者あらんや、編者の意蓋し國家を思ふに急にして、焉ぞよく時流を追ふの謗を避くるに遑あらんや、辞を修め文を飾らざるは唯之れ而已。
                   著 者 識

 (104-110頁)
 二三 長州軍の暴狀          2022.11.05         

 水戸藩の暴動が漸く鎭定したと思ふと今度は長藩の連中が何事か嘆願するちうては京都へ押掛けて來るとの風評がある。そして在京の浪人どもはそれと氣脈を通じて、いざといふ塲合は内外相應じて事を擧げやうちうので、事態仲々穏かならん、現に長藩士は、種々と姿を變じて、商賣となり、奴僕となり、浪士と扮しては、京都へ入込むものは段々多くなつて來るのぢや、おまけに長藩の家老國司信濃、福原越後、益田右衛門介等も兵を卒れて上つて來るちう風説が頻りに傳はつたのぢや。
 そこで新撰組の近藤勇は容易ならんことぢやと、一生懸命になつて京都の市中を捜索にかゝると、四條小橋に住んでる桝屋喜右衛門ちう奴がどうも怪しいと目星をつけ、早速家内へ踏ン込んで先づ喜右衛門を引ッ縛つて、家宅を捜索すると、果して澤山の兵器彈藥と、一味徒黨の往復書類を發見して、それを沒収して嚴重に喜右衛門を訊問した所が、全く古市俊太郎ちう同志の一人であると自白してナ、そして去年八月十八日の事變は全く中川宮と松平肥後守の所爲ぢやから風の烈しい晩に、火を御所に放つて、宮と肥後守の参内するのを途に待伏せて、暗殺する手筈ぢやつたに、露見したのは殘念ぢやと白狀しをつた。
 そこでこの事を早速會津の陣營に通知して、會津、桑名の兵に新撰組の兵を合して祇園から木屋町、三條通等を嚴重に探偵した結果、浪士の首謀者が三條小橋の旅館池田總兵衛方に密會しをることを知つ、直ぐ總兵衛方へ召捕りに向ふた、抵抗する奴は斬殺したが、辛うじて二十人餘を召捕つて、その他は皆京都を落延びて長藩の兵に逃走しをつたテ、この池田屋の事件が長州へ聞へると、長藩では非常に憤慨してノ、早速久坂義助(玄瑞)寺島忠三郎等は兵を引連れて京都へ乘込む、續いて福原越後、國司信濃も三千人の兵を動かして京都へ押寄せて朝廷へは一片の請願書を差出したのぢや。
 その時の長州勢の陣立はちうとナ、先づ益田右衛門介は山崎天王寺に陣を構へ、國司信濃は嵯峨の天龍寺に屯して居る、福原越後は伏見にあり、久坂玄瑞、寺島忠三郎等は山崎の手に加はり、その他は寶寺、離宮、八幡、光明寺と別れて、京都を取圍んで了ふた、いざちうと直に四報八方から、攻め寄せる手筈になつちよるのぢや、その上に又松平長門守定廣(嫡子元徳)も近日上洛するちう勢いでノ、西は嵯峨から釋迦堂に續き、南は山崎から伏見にかけて、炬火は天を焦すばかり、その遣り方は決して冤罪を雪ぐために、請願書を差出す者とは誰の目から見ても受取れんぢやないか。
 請願書の趣旨ちうのは、國家大事の今日藩主慶親父子の意見を御採用なく、却つて姑息手段を弄する松平肥後守を信頼せらるゝ結果、毛利父子を粗外されるは非常なる間違いである、で速かに肥後守の職を免じて以前の通り我藩主たる毛利父子の意見を御採用あるやうちうのと、それから曩に脱走した七卿の罪を御赦免になるやうちう意味じゃ。
 それからモ一通は筑前、因洲、阿洲、對洲の諸藩に出して、どうか我々の素志を貫徹するやう助力して呉れと頼み、更に又一通を津和野(龜井)小田原(大久保)宮津(松平伯洲)濱田(松平右近將監)膳所(本多)水口(加藤)の留守居役に出して、松平肥後守はその職に適當の人物ぢやないから、これを誅除して近日長門守が上京するから、その上で叡慮を伺ひ奉るちう一種の開戰の通知狀のやうなもんじやつた。
 これより先大阪の町奉行から、長藩の兵が京都へ押掛けるちう通知があつたもんぢやから、京都では會津、新撰組、彦根、大垣の兵を嚴重に配つて、京都の附近を固めて待ち構へて居つた、そうするといよいよ二十七日になつて、長兵は三百餘人で天龍寺へ集つて、京都を襲ふちう注進があつたから、松平肥後守はこりや容易ならぬといふので、病中を押して参内し、直ぐ宮中を護衛することになつた、そうすると一橋卿が朝廷の命を蒙つて、福原越後等に歡願の筋は追つて詮議の上で御沙汰をするから、それまでは先づ兵を引拂つたら可かろう、恐れ多くも、輦轂近くに兵器をもつて迫るとは、誠に穏かでないからと諭したが、長兵等はそれは却つて、幕府の矯旨であると罵つて、どうしても一橋の云ふ事を聞かん、そこで朝廷では大目付永井玄蕃頭、目付戸川鉾三郎の兩人を伏見へ出張させ、福原に種々と諭さしたが、何れ衆議の上で御請申上ると云つたなり、これも依然として兵を引拂はんのぢや、そこで會津、桑名の二藩は愈々業を煮やして、あれ程事理を分けて説諭しても頑として應ぜん以上はモウ仕樣がない、長州は公然天子に向つて、弓を引く心底に極つたから、此際これを征伐せずに置けば、何をもつて朝憲を、維持する事が出來るかと、額に青筋を立てゝ議論したけれども、一橋卿は飽までも、平和に聖旨を貫徹したいちう考えから、怒り猛る會津と桑名を静めて置いて、更に又藝州藩、因州藩の有力者を使者として、此際眞に天子の御爲を思ふなら、不遜の擧動があつてはならん就ては決して惡くは取計らはぬから十一日までに各所の兵を解いて一時退却するやうと命令を下したが、長州兵はこれすらも到頭聞入れなんだそれのみならず、却つて毛利の嗣子定廣までが大兵を率れて上京するちう風説が傳はり、殊に浪士等は會津藩等が鳳輦を彦根城に移し奉る計畫であるなどと無根の流言を放つては、朝野の人心を攪亂さしたもんぢやから、遉の一橋もモウ匙を投げにやならんやうになる會津、桑名の征伐論も愈々火の手が激しくなるといふ次第で、止むを得ず朝廷では征討の部署を定めることになつた。
 七月十八日一橋卿は征討總督に任ぜられ伏見方面には先陣戸田采女正、二陣井伊掃部守、會津と桑名の兵がこれを助けて桃山に據るとナ、有馬遠江守、小笠原大膳太夫は遊軍となつて山崎の奇兵を防ぐといふ寸法、豐後橋は市橋下總守、小出信濃守の兵で堅め、八幡には松平伯耆守、松平甲斐守の兵が先陣に立つて、藤堂和泉守の兵は後詰に控へる、又樫木原には酒井若狭守の兵でもつて嵯峨の天龍寺と山崎の間を斷つて長州軍の糧道を絶つちう計略ぢや。
 又一方では松平修理太夫(薩藩)本多主膳正、松平越前守の兵が右軍で、大久保加賀守、松平隠岐守の兵が左軍となつて天龍寺の長軍を攻撃しやちう、その他青山因幡守は三條、松平豐前守は老坂、松平相模守は上加茂、仙石讃岐守は下加茂、松平備前守は鷹ケ峰、松平美濃守は河原町の長州の邸と對州の邸、何對州はその時分長州と同心であるちう嫌疑があつたからぢや、そして諸方面の指揮官は、松平肥後守でナ、一橋卿の本營は東寺と定めて、旗本と會津の兵で守護することになつたのぢや。
 官軍の方の部署は先づ定まつたもんの、長州軍にても空しく官軍の押寄せて來るのを待つて居ろう筈がない、十八日の夜九ツ時、福原越後を大將と仰いで、山崎八幡の兵はその數凡そ五百人餘、先づ伏見へ向つて進軍を初めた。