裏日本2023年02月01日 10:02

雲州安來停車塲に於ける大隈伯の演説
 『裏日本』 文學博士 久米邦武 著

 (一 - 一四頁)
 裏日本序             2023.02.01

 是書はなづけて裏日本といふ、裏とは僻隅の謂にあらず、日本の裏は世界に對する表なり、我民族の偉大なる歴史は山陰の出雲よりして大和に發展したり、夫れ國民が外に向ひ發展する時代には裏面ことごとく振ひしに、中古に國勢蹉跌して外交政策の退嬰主義に陥ゐりてより、裏日本の稱は僻隅の謂となりたり、是衰世の思想なるのみ、試みに活眼を開き我日本が東瀛の中に屹立して四方に發展したる過去二千餘歳の天地に思想を用うるならば、山陰の山河は忽ち著色に異彩を發し、前に湛えたる日本海の碧浪を跳へて左右に展開せられたる陸地は、此に在ては日域たり、彼に在ては韓境たり、斯羅といひ、倭奴といひ、熊襲といひ、越狄、蝦夷、沃沮、肅愼の屬までを我神國祭政下に聯結せしめ、之を控制し、之を循撫し、之を皇化にいれんと努め、是時に當つて日本海に交通の頻繁なる、互に比鄰の如くに往來し、大小船舶の海岸に輻湊したる光景を想中に映出すなるべし。
 日本の原人については、或は南よりすといひ、或は北よりすといひ、或は交々南北よりすしいひ、諸説紛々として定まらざれど、余は斷言す、南北のいずれにもせよ、海上を健歩して到來したるものなるは動かすべからず。されば我民族は操舟に長し、信風を候ひ、潮流を測り、帆を操り拕を轉し、、狂瀾怒涛を犯し、大洋を渉る猶ほ担途を歩するが如くなりき、是等が各地に聚合して海國健兒の團體をなしてたるは疑ひをいれざるなり。されば其眼中には薩摩沖縄の群島は連矼のみ、臺灣呂宋は飛渡のみ、而して隠岐對馬を日韓の驛路となし、時代の長き經過には地變も起り、日韓對岸の海中にまま沈没したる島嶼の存するを見れば、上古に兩地の海驛は更に接近したるを偲ぶにぞ。縱し然らずとするも日本海峡の最狭處は渡るに何かあらん、直に一盆池の跳躍に値するの距離なるのみ。故に吾人はよろしく近世桎梏されたる鎖國の小天地にありたる思想より脱却して、上古に海上を闊歩したる強悍雄豪なりし祖先の民族性を想ひ起さゞるべからず、其刋にはまづ此の裏日本を讀より始めよ。
 山陰は決して僻隅にあらず、然り、出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後等の日本海に向へる
諸港は、今の太平洋南洋に向きたる横濵神戸の其よりも猶ほ大陸に接近し、古來文明東漸の通路となり、細大文物の輸入は之を經由し、幷せて民族も亦移遷歸化し、此より内地に流布彌蔓して素尊日槍の遺せる偉積は今に朽ずして存在す、吾人は自ら知らずして遠き往古の餘澤を受け、其利を受ゐるを疑はざるべし。譬へば建築造船の用たる杉檜樟柀の材、衣服の料たる絲綿麻殻の類、刀刃鍬鋤資たる鐵鋼の如き、抑も何の代に何の地より採用されたる歟、杵築の大社何によつて造營されたる、熊野の檜壇は何によつて尊とき、美保の關は何のために設けたる、抑も出石の神 社は何のために祠れる、大神山の峻峰が郡巒の波を湧かし、智頭川の幹流が十渓の水を容れ、其左右の高原平野に生たる。草木ことごとく日韓一國の時代を語るに非ざるはなし。此を推て之を思ひなば昔の裏日本は決して今の裏日本に非ず、否、山陰道一帶は國初より外に向ひ國務發展の中心地點として、東に北に稼働したる要地なりき、さらば其歴史の觀察は一部地方の地理に止まらず、大日本の文明を吐呑したる裏日本を尋究すべき料ならざるはなし。
 吾友文學博士久米邦武氏は、去る明治四十五年六月、余と共に同車して山陰に旅行し、鐵道に沿ふたる各驛を横過し、名區大區には率ね足跡をつけ、而して汽車六七の間に瞥見したる川流山脈にして地理の大勢を演繹し、氏が胸中萬卷の蘊蓄上に築かれたる超邁卓抜なる識見は、其中に雲蒸電發し、到る處の目に觸れ源々として窮まらず、車中逆旅の談話、會場宴席の講演これを一時的の幻影に附するを欲せずして、歸る後に錄し一部の書を成し余に示さる、披いて之を見れば、曾遊を想起し卷の改まるを覺えず、當時車窓を送迎したる山川は昔ながらの地理なるも、此に民族が占住して與へたる名を聞けば即ち史觀は始まる、見る所の景象、聞く所の事態、みな古今の盛衰興廢を語るに非ざる話。是書は演繹の緒を此に挑げ、而して建築、拓殖、土産、生業、風俗、其他あらゆる事物の沿革を旁引博證し、之を比較し、之を輳合し、一緒纔に畢れば一端又抽んつ、さながら串玉の如し。抑も歴史は斷燗の故紙なり、其斷緒を繋ぎ燗片綴れり襤褸は化して煥爛たる錦繍をなす、亦愉快ならずや。
 是書は名づけて裏日本とふも規模廣汎なり、時代は神代より近古まで二千歳を上下し、地境は九州朝鮮より中國南海北越を包ね、國初に日韓聯合の祭政狀態より、出雲と中州と統治の交渉、海神山祇の外交關係を説き、國家創業の偉大なる宏謨を實地に徴したる等、殊に刮目に値すべし。爾来國造國司守護等の隆替を説いて佐々木山名の興亡に及び、或は地形の變遷、田野の荒廢、租税の増損、乃至は農園、漁牧、殖産、工業に於る遺傳的系統の素あるを知り、港灣の開塞、船舶の出入、關剗遺跡等に經濟の消息を窺ひ見るを得べく、故墟舊跡、神殿佛閣も朽を化して新となり、而して俚俗に浮傳する宗教の附會、詩人の布衍になれる傳説の妄謬を撲滅して迷霧を霽せるは、老吏の斷獄の如きものあり。蓋し其文才の歴史研究によりて鬱屈したるもの、忽ち山水の間に奔走して風景の觸目につれ、自發して藻華となり、よく文辭を乾枯の患より救ひ、讀者をして羊腸の路を辿りながら山花を攪賞して疲るゝを覺えざらしむる概ありて、實益と趣致と華實兼得たるものといふべし。
 是書は氏の一少著にすぎざるべしと雖も、博覧にして卓識を具す力量の溢るゝに非ざれば、此く應接不遑底好著を成し易からざるを信ず。故に看官これを捉えて一の著實なる山陰旅行案内記となし車牀逆旅の覧に充るも必ず益受くる淺少ならざるべし。更に好學の士にして大に利せんと欲せば、是に由りて晦渋なる神代の實相を啓發するを得、其端緒を追て國郡の覇發達したる跡を識り、古史の觀察に資する効力は甚だ顯著なるべし。若し世の業務に忙はしくして閑を偸み歴史知識を得んと欲する人は、是册を披看しなば、他の數十編にまさり、自ら興趣を覺えつゝ、特殊の益を得るを疑はざるけり。取分け山陰道の諸士に對しては、該地に此の良著を得られたるを賀す、必ずこれを熟誦して祖先の偉業遺澤を認識し、各自に深慨を發して自覺の活眼を開き、前途の將来に飛躍を試むるの絶好なる刺戟劑となるといふに躊躇せざるなり。
 曩に余は裏日本の山陰が久しく鎖國の底に沈淪し古昔の偉大なる餘風は既に地を拂ひたらんと思ひきや今度鐵道の開通せるにより遊跡を著るの幸を得て實地を見しに交通機關の纔に成りて血液の貫通するや到る處の人氣忽ち亢奮し陸に海に農に工に都會も港灣も富庶繁榮を競爭的に圖る進取の勢ひ著しきを目睹し祖先の遺傳が民族の性稟に染泌したるの深きに感悦したり。新日本の版圖は日本海を環擁したり山陰山陽は一股の島嘴のみ世界に向つて活動飛躍す可き今の時運に當り、何ぞ區々たる表裏を言はんや。但是書の裏日本と名づけたるは、古への裏日本にして中世の退嬰によりて僻隅に陥ゐりたることを此書の豊富なる内容に觀てむ、自ら警醒せられんを庶幾し、茲に之を辨して以て序となす。
  大正元年三月
        伯爵 大隈重信     

引用・参照・底本

『裏日本』文学博士 久米邦武 著 大正四年十二月七日發行 公民同盟出版部

(国立国会図書館デジタルコレクション)

孤立主義の發展2023年02月02日 20:54

雅邦集
 『米國外交上の諸主義』 法學博士 立作太郎 著

 (六-八頁)
 第二節 孤立主義の發展 2023.02.02

 千八百二十三年に於いて大統領モンローが所謂モンロー主義の宣言を行ふに及び、歐羅巴の政治的勢力を出來るだけ亞米利加大陸に入らしめざらんとすることを趣意とする非干渉の原則及非植民の原則の外に於て、米國が歐羅巴の事件に關係せざることを趣意とする孤立主義即ち離隔主義の原則を認めた。モンロー主義の精髄は、後文に於て述ぶるが如く、非干渉の原則及非植民の原則に在ると言ふべきであるが、孤立主義即ち離隔主義の原則がモンロー主義中に織り込まれて、モンロー主義の精髄たる前記二原則に對する代償を組成して居るである(後文第三章参照)。モンローは米國の權利を防護する爲に必要なる場合に非れば、歐羅巴國の内事に關與すべきでなく、米國に關係なき以上は、歐羅巴國間の紛爭に關與すべきでないと爲したのである。是の如き離隔主義的、孤立主義的の思想は歐洲諸國に對する關係に於て米國に依り久しく執られ來つた所であつて、世界大戰の開始された後に於て、ウィルソン大統領が暫時間、中立の態度を執つたのも、米國の傳統的孤立思想に依る所が少くなかつた。主として獨逸無制限的潜水艦戰の關係よりして米國が世界大戰に參戰するに至つた後猶同盟を忌むの傳統的孤立主義の思想影響に依り、參戰して聯合軍側に立てるに拘はらず、同盟國の名を避けて、聯合國と稱した(註二)。米國はウィルソンが首唱してヴェルサイユ條約及其他の(世界大戰の際の)平和條約の一部となるに至つた國際聯盟規約に加はるを欲せずして、是等平和條約を批准せざりしことも、他國、特に歐羅巴國間の紛爭に關與するを欲せざる孤立主義的思想に關係があると言ひ得るのである。
 註二 世界大戰の際のヴェルサイユ條約、サン・ジェルマン條約及其他の平和條約中に於て同盟及聯合國(Allied and Asociated powers)の語を散見するに至つたのは、米國が自から同盟國と稱することを欲せざりし爲であつた。
 孤立主義の思想は、當初は米國と歐羅巴との關係に於て問題となつたのであるが、米國が布哇を併合し、フィリッピン及グァムを獲て、支那に於て門戸開放主義を唱へ、太平洋に其勢力を擴ぐるに至り、此の方面に於て終に帝國主義的傾向を示したが、東亞方面に於て米國は東亞の諸國の孤立主義的態度を改めしむることを計るの地位に立ち、比較的に早く歐羅巴諸國と此方面に於て協同的に動作するに至つた。シューワードが國務長官たりし頃、支那及日本に關して歐洲諸國との協調政策が行はれたが、其後獨往的態度執られた時代を經て、千八百九十九年のヘーの門戸開放主義に關する宣言の頃より此方面に於ける歐洲諸國との協調政策を取り、東亞問題に關する會議に参加した。亞米利加大陸に於ても當初は孤立主義に依りラテン・アメリカ諸国との協同的行動を避けたが、漸次亞米利加諸國の會議に加はり、今日に於ては米大陸の或る國際會議に於て首動的立場に立つに至つた。

引用・参照・底本

『米國外交上の諸主義』立作太郎 著 昭和十七年七月五日第一冊發行 日本評論社

(国立国会図書館デジタルコレクション)

賭博の概念2023年02月04日 17:46

唐詩選五言絶句(題袁氏別)
 『鄥其山漫文 生ける支那の姿』

 魯迅 序 内山 完造著

 (八四-八九頁)
 賭博の概念             2023.02.04

 昔の人はなかなか偉いことを云ふ。誰れでもが如つて居る樣に、處かわれば品かわると云ふ言葉など、日本内地丈けでも成程と首肯出來る事もあるが、それが上海迄出で來ると、一層はつきり瑶解出來て、今更ながら適切な言葉だなと感心させられる。旱い話が日本人の言ふ東洋及び東洋人とは、日本人、朝鮮人、支那人、印度人其の他多く亞細亞の東部に位するところの國、及び人々を指して、言ふのであるが、支那人が言ふ東洋及び東洋人と云ふのは。それこそ大變な違ひである。東洋とは日本一國を指し、東洋人とは從って日本人と云ふことである。
 序でだから一寸書いて見るが、日本と云ふ文字は、日出國と云ふ文字と共に支那の浙江省東再岸の人及び福建省布東海岸の人々が、始めて使ったものではあるまいか。
 浙江福建一滯の東海岸の人々は、毎日太陽が東の海の彼方から出て來るのを見て居る。そして太陽の出て來る士地を想像して、日本及び日出國を以て呼ばれる樣になったのではあるまいか。
 現に、今尚ほ此等地方人の日本の發音は、につぽん(ぽんの發音が少しはつきりしないが)若くは、やぽんと發音するのみならず、我國の人が、日本と云ひ、日出國と呼ぶならば、更らに日本よりも東に位する土地を指すべきだと思ふ。それは日本から見れば、太陽は更に東の方から出て來る樣に見えるからである。
 閑話休題。
 日本人の賭博と云ふ概念はお金を賭けて勝負を爭ふ事を指して居るのである。此の概念は無論國法律が教へたのであらうか、兎に角、密柑やお菓子を啼けては、賭博とは云はぬ。それは慰みであると云ふ。
 支那旅行記や、叉那談によく出るのは、支那と云ふ國は、無茶な國だ。國の法律には、賭博を禁じ、賭博犯の刑罰はちゃんと出來てゐるのに、督軍公署の中でも、兵營の中でもいや、警察の中でも、平氣で賭博をやつて居ると云ふことである。(最近はそんなことは無いとのことであるが)あれを見た人はそう思ふのも無理はないが、其處だ、處かわれば品かわるのだ。
 支那と云ふ處が、かわつて居ることを忘れて、全く日本的に考へるから、支那は無茶の樣に思はれるのであるが、處がかわつたのだから品かわる筈だと一寸考へて、さてどんなに晶かかわ品がかわるのかを、今一足踏み込んで考へて見ればよいのである。
 支那では、法律によつて明らかに賭博を禁じて居る。しかしながら其賭博と云ふ概念が日本とは違つて居るのである。支部の人は、蜜柑とお菓子とお金とを違つた物とは考へないのだ。全く同一の物として考へで居るのだ。慰みと、賭博との相違は、勝負する人によつて決定されるのだ。
 たとへお金を賭けて勝負を爭つて居つても、それが家族の人ばかりであつたり、友人や親類縁者の者ばかりであつたり、又お客樣であつたりした場合は、全く慰みと解釋する。
 然かし、其の一座の中に、お金を賭けて、勝負を爭ふことを、仕事にして居る、所謂黑人の賭博師が一人でも混じつて居ると、それは法律が禁じて居る所の、立派な賭博と云ふものである。尤も中華民國に革命されてからは、一度日本の通りにお金を賭けて、勝負を爭ふ行爲を賭博犯として處刑することしたが、それでは大變である處から、法律は改正されて、只公けの場所でお金を賭けて、勝負を爭ふ行爲を賭博と認めることになつたが、是れ又甚だ不便であると云ふで、三度改正されて、今日は又日本と同樣お金を賭けて勝負を爭ふ行爲を賭博犯として處罰することになつたのだと鄥其山は聞いてゐる。尚この時實を説明して呉れた高等法院の某法官は、法律はそうなって居るが、實際にはその通りに裁判はいたしません、と付け加へた。
 例へ法律はどんなに改正されても、一般人は依然として從來の賭博概念を持つて居る。
 そして、此の考へ方が、人を中心として居るだけに、合理的な樣な氣がするが如何。

引用・参照・底本

『鄥其山漫文 生ける支那の姿』内山完造著 昭和十一年六月五日第三版 學藝書院

(国立国会図書館デジタルコレクション)

齋藤實男の居殘り振り2023年02月05日 18:43

齋藤實男
 『名流漫画』森田太三郎 著・画

 (28頁)
 齋藤實男の居殘り振り         2023.02.05

 男の性行は其顔の示すが如く實に圓滿で人と面會してもズー辯では有るが頗る親切叮嚀で有ると共に酒に對しても新設叮嚀で宴會などでも最後の最後魔奮戰して今一本今一本と泰山の如く動かないので觀艦式のマストの如くに徳利が林立する爲何時も同僚をして又齋藤の觀艦式が初まつたなと嘆ぜしめる。

引用・参照・底本

『名流漫画』森田太三郎 著・画 明治四十五年七月二日發行 博文館

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大東亞戰爭の原因2023年02月06日 22:22

大東亜戦争記録画報 前編
 『史考大東亞戰爭』 陸軍中將 中井良太郎 著

 (13-14頁)
 第一章 緒 説 2023.02.06

 皇紀二千六百一年、昭和十六年十二月八日、是れ程、偉大なる史實を後世に貽す暦日は、世界有史以来四千年を通じて又とあるまい。
 筆者も生を皇國に享けて五十五年、身を軍籍に置いて約四十年、此の間、個人としては、感激と歡喜に滿ちた日も尠なしとしなかつたが、此の日程、國民的な感激と歡喜とを覺えた日は未だ曾て無かつた。十二月八日正午ラジオの前に直立して、宣戰の詔書を謹聽したときの心持ちは到底拙筆の能く盡す所ではない。
 宣戰の詔書を拝誦し、政府の聲明、外交經過及び對米覺書を見、又首相及び外相の、議會其の他の機會に於ける演説を聽けば、大東亞戰爭に付、吾等の駄辯や拙文を弄する餘地も無いのであるが、宣戰の詔書を拝して、今後吾等國民は此の聖戰完遂の爲、如何に御奉公申すべきやを考へると、其處には全國民に共通する事項と、各々職域、身分地位に應じ奉公せねばならぬ特別の事項とがあるやうに思ふ。吾々公共團體等の依嘱を受け、微力乍ら、今日迄、銃後國民指導の一端に携はつて來た者としては、此の際更に、大東亞戰爭の原因、眞義、目的、理想、政治經濟上の眞價、作戰統帥等に付充分に考察し、皇國の必勝疑ひ無き所以と、此の戰爭の崇高偉大、古今に絶する理由とを明確に意識し引續き微力を銃後國民指導に捧ぐるを必要とする。そして此等諸事項を考察するの道は種々あらうと思ふが、筆者は史觀に立つて考察したいと思ふのが、此れを執筆する主眼である。本書に特に「史考」と銘誌したのは、之が爲である。茲に史考と稱するは、過去の戰爭史を見て、之を大東亞戰爭の現實と比較し、現實と過去の史實を見て此の戰爭將來を判斷しようと云ふ意である。
 筆者は斯樣に考へ、職分奉公の一端として本册子を執筆したである。元より東西古今の戰爭史を取りて詳述することは、諸種事情が之を許さないで、米英の罪惡挑戰史を抉摘し、皇國及皇戰の崇高且偉大性及び其の正義が東西古今に絶し、皇國の必勝疑ひ無き所以を重點とし、史考に立ち、極めて常識且つ通俗平易に説述致して見たいと思ふのである。 
 
 (15-16頁)
 第二章 大東亞戰爭の原因

 謹で宣戰の詔書を拜讀し、戰爭原因を要約申上ぐれば、
 東亞の安定を確保し以て世界の平和に寄與し給はんとすの明治大正兩大御世以來の宏遠且つ神聖なる皇謨に基き給ひ、列國との交誼を篤くし萬邦共榮の樂を 偕にし給はんとする皇國國交の要義に對し、米英が太平洋制覇卽世界制覇の非望野心を遂げんとし、經済上軍事上凡ゆる非道極悪の手段や策謀を以て皇國を 脅威し屈從せしめんことを企圖し、爲に皇國の宏遠神聖の皇謨も水泡に歸し、皇國の在立も正に危殆に瀕するに至つたので、皇國は自存自衛の爲蹶然起つて一切の障礙を破碎するの外策なきに至つた。
と云ふことに相成らうかと拜察する。
 故に、米英の太平洋制覇卽世界制覇の非望野心こそ眞に今次戰爭を誘起 挑發した原因であり、皇國は其の權威と、皇國を初め大東亞諸民族の生存を確保し自衛を完うせんが爲、已むに已まれず武力に訴へたのである。之を個人に譬へたならば、強盜殺人犯行に對する正當防衛と同樣で、米英は正に強盗殺人鬼であり、皇國は之を取押へて警察署へ突き出さうとする劍聖的義人である。
 米英の世界制覇の野心は既に遠き以前から傳統一貫して居る。依て筆者は章を改めて、此の非望を史的に解剖抉摘しよう。

 (17-41頁)
 第三章 大東亞戰爭を挑發した米國の野心と横暴非道

 通 説

 「太平洋を制する國は世界を制する」。之は地政學者の定論だが、地政學者ならずとも常識でも分ることである。況んや飽くなき慾望と野心とに充ちた米國の政治家や軍人や 猶太財閥をやである。此の米國の太平洋制覇卽世界制覇の野望非道こそ、大束亞戰爭を挑發した原動力なのだ。大東亞戰爭を叙述するには先づ米國の此の野望覇心と横暴非道とを解剖抉摘してかゝらねばならぬ。
 
 (一)  米國の太平洋上の架橋的工作と其の惡辣手段

 米國は是迄日本以外の太平洋面に對し、どんな手を打つたか、之れは周知 のことではあるが、順序として其の主たるものを列記すると、
 太平洋東岸に於ては
 (1) 米本國沿岸の海陸空軍の基地の建設
 (2) アラスカ の領有と其の防備
 (3) パナマ運河開鑿と其の獨占
 太平洋中に於ては
 (1) 布哇の併合及び眞珠灣海軍基地の建設防備及び其の西南方諸島の領有と軍事施段
 (2) 比島占領とマニラ灣の海軍基地の建設防備
 (3) グアム島の占領と其の防備
 (4) 太平洋中の有線無線の通信施設、及び南北太平洋上の航空路の開拓と其の防備 
 (5) アリユーシアン群島の領有と其の海軍及空軍基地の設定
 西太平洋沿岸に對しては
 (1) 支那大陸に於ける各種經濟權益の割込獲得
 (2) 蘭印方面に於ける必須國防資源の獲得等である。
 以上の諸工作を大觀すると、全く「太平洋東岸から其の西岸迄の大橋梁架設と其の橋梁防備施設の設定」と云つた形である。
 彼れは何故に斯樣なことをしたか、夫れは云はずもがな、「太平洋の制海、制空兩權を確保して支那大陸に進出し、自國製品の大市場を獲得し、一方自給自足し得ざる國防必須の資源(例へばゴム錫等)を入手して世界制覇を爲さむとするに在る」。之は彼れの太平洋政策の主眼である。
 彼れ米國が、右諸工作の爲、どんな内訌を取っつたか、夫れは横車押しと惡辣と云ふ一語に盡きる。布哇王國の内訌に乘じて其の内政に干涉して之を併合し、西班牙の衰運に乘じて、故意にメエーン號事件を企み、米西戰爭を挑發誘起して比島を占領した如きは其の顯著なる例である。其の他、太平洋諸島の領有も一つとして横車押したらざるはない。

 (二) 米國の對支政策

 米國が 今日迄、強調し績けた支那に於ける機會均等、門戸解放、支那領土の保全等は、國際道徳からでもなければ國際正義からでもない。全く東洋進出に立ち遅れた割込み策であり、日本の大陸進出封鎖策であり、支那の歡心を買つて支那大陸に利權を漁らんとする目的であることは見え透いて居る。彼れの支那に對し打つた手は、全く後述する日露戰爭以前、日本に對し打つた手の燒直し的の手に外たらない。賣恩、懐柔、支那米化策等に依る利權漁りである。

 (三) 米國の對日政策 (第一期)

 以上は今日迄に於ける日本以外に對する、米國の太平洋政策史の概觀であるが、彼れは日本に對しては如何なる手を打つたか、此の事も敢て説明する迄もないことであるが、顧みれば恨み骨髄に徹することが大部分であり、之が卽ち大東亞戰爭の根本原因であるから、先づ其の概要を叙述せねばならぬ。
 怨敵米國が初めて我が神州を脅迫したのは、嘉永六年のペルリ來航であることは云ふ迄もない。曾て我が國内に親米熱が昂まつた頃、ヘルリは、我が開國の恩人だなどと云ふ者があつたが、見當違ひも亦甚だしいと云はねばならぬ。ペルリの來航は、日本を占領して東洋雄飛 の立脚点とせんとするにあつたことは、既に公開せられたぺルリの復命書に依り明らかである。恩人どころか、強盜 の類である。
  所でぺルリが來て見たも々、當時の 三隻の小鑑と其の兵員とでは、到底日本を占領し得べくもない。そこで、彼れは開國貿易を迫り、其の間に徐々に日本を物にしようとした のだ。然らば、ペルリ西航と云ふ米國民族意識は、どうして起つたのであらうか。元々米民族の主部は英國から來たことは周知の
であるが、彼等移民は、英本國の誅求に堪へずして遂に叛旗翻へして獨立し、次いで段々大を成し北米大陸を西漸して茲に大國を建設し、遂に太平洋沿岸に出たものだ。そこで彼等の慾望は更に太平洋を超えて亞細亞に進出しようと 云ふ野心を誘起した。之がペルリの渡洋である。
 當時亞細亞に於ては、英佛蘭等 の諸國は、既に多く の植民地を獲得し、其 の魔手は漸く日本にも及ばんとしつゝある。米國が切角、東洋に進出したものゝ日本は之を占領し得べくもない。他に求むべき土地もない。そこで考へた政策は、東洋に對する割込策、亞細亞進出の立遅の埋合せ策である。
 ペルリが日本に來て脅かして見たも のゝ到底占領し得べくもなく、開國を強要したが 則座に成功はせぬ。更めて來航日本開國に成功したが、さて、次は日本をどうするかと云ふ事は當然米國 の政治家には考へる所であつたことは云ふ迄もない。そして爾來日本對して打つた手は、賣恩、懐柔、日本米化卽ち日本精神文化の破壊、日本去勢策等であつた。そして其の政策を胸中に秘して渡來した のは、ハリスであり、彼は當時歐洲諸國、就中、英國が常に日本に對し高壓的に臨んで居るのに對し、如何にも日本に好意を容せるかのやうに見せかけた。當時 の日本要路はハリス卽ち米國を有り難く思つたのは是非はない。
 斯様な政策は爾後日露戰爭終了迄續いた、當代の日本人の中には喜んだ人も多かつたであらう、否其の後永く日本に親米熱かあつたのも無理もないことではあるが 事實は上述したやうな魂膽に基く僞裝親善に外ならぬ。 
 試みに、彼れ米國が日本へ輸出し、日本が撮取した宗教、思想、教學、政治、經濟、其の他物心双面の文化の迹をみれば、何れも日本精神文化の破壊用具たらざるものはあるまい。米國渡來の文化に依り、我が日本の精神文化は如何に蝕ばまれたか、徐かに考へて見れば何人も肯定し得やう。
 日本は列強の壓迫覇心に拘らず、着々と國内體制を整頓強化し、固有の金甌無缺の國體の上に愈々近代國家の體制を樹立し、遂に、 日清戰爭に依り清國を屈した。
 日清戰爭は、支那の老衰を曝露し、日本の前途有爲を如實に示した。此の結果は歐洲列強の支那蠶食熱を昂めると共に、日本に對しては、二樣の策を採つた。其の一は日本を抑へ付けようとする露國一派の策でおり、其の二は、日本を利用せんとする英米の策である。英國が先づ條約改正に應じたのも夫れであり、其の後日英同盟を結んだのも之が 爲めであるが、米國亦依然 僞装親日策を變へなかつた。
 露國の太平洋進出、滿韓侵略の野心は遂に、日本の存立を甚だしく脅威した。吾等の先人は敢然として蹶起した。そして遂に國運を賭して露國と戰つた。
 日露戰爭は吾等の勝利に歸した。日露戰爭に於ては米國は、どんな態度を取つたのだつたか、當時米國に使ひせられた現金子樞府顧問の御話に依ると、當初は米國の人氣は、あまり日本びいきではなかつたが、鴨綠江の戰闘に於ける日本軍 の快勝の報が、米國に傳はると、米國人氣がー變して日本に好意を寄せるやうになつたと云ふことだ。 爾來、時の大統鎮ルーズヴェル卜が日露兩國媾和の斡旋迄は、日本に支援を與へた。併し夫れは主として戰費貸與であつた。勿論米國の人氣が日本びいきになつたことは、日本にとつては、確に強味ではあつた。かうなつたのも、偏へに、大御稜威であることは申す迄もないが、陸海軍の連戰連勝と金子伯初め當路 の方々の努力でもあつた。 ―—米國は鴨綠江戰までは日和見である。 ―—乍併、媾和談判頃から戰爭終了直後、 竝に其の後の米國の對日態度や對日政策と思ひ比べるならば、米國は誠意誠心日本を支援した のではないことが 讀める。矢張り彼れ一流の利害關係、傳統の太平洋政策や其の他の狀況を見比べての「情は人の爲ならず」的な打算からの支援に過ぎなかつたことは、はつきりと看取することが出來るのである。

 (四)  米國對日政策(第二期)

 元々米國の太平洋政策は、上述 の通りであるから、當時の世界的強國と見られた露國が滿韓を占領し、日本を打倒して、太平洋に出ることは米國に取りては一大脅威であり、太平洋政策遂行上の恐るべき障碍である。故に日本を支援利用して、露國を西伯利に逐ひ込むことは米國としては當然考へた所であらねばならぬ。所で日本は大勝利を博した。かうなると彼れ米国は更に考へねばならぬ破目となつたに相違ない。 
 夫れかあらぬか、ポーツマス媾和談判に處するルーズヴェルトの態度を見ると、怪げなる點がある。 即ち、戰勝 の榮冠は之れを日本に與へるが、戰勝に依る偉大なる物的利得は日本に與へまい。露國は戰敗者だが、世界的強國の體面を傷けず、爾後に於ける米國 の國交にも支障なからしめやうとした心意は ありありと讀める。要するに、露國は之を西伯利へ追返へせば宜しい、さりとて日本をして將來著しく大を成さしめてはならぬと云ふのが、ルーズヴェルト の考へであつたと判断せざる得ざるものがある。露國ウヰッテが、恰も戰勝國の 使節の如く振舞ひ、棒太の半分の割壌と滿鐵南半分の譲渡と沿海洲の漁業權を認むることを以て談判の梟りを付け、皇帝より其 の功を賞せられて伯爵を授けられた裏面には、ルーズヴェルトの指金があつたと當時傳へられたものである。假りに百步譲つて、夫は餘り穿ち過ぎた考察だとするも、戰爭直後から、手の裏を反す如く一變した米國 の對日態度と對日政策とを見れば、彼れ米國が、日露戰爭間、我が日本を支援した のは斷じて誠意から出たものでは ないことは一點の疑ひない所である。
 日露戰爭に於て、彼れ米國が我が日本を支援した理由は、尚此のほかにも あることが考へられる。其の一つは、露国における 猶太民族の解放で、他の一つは、米國自身が満洲方面に進出の野心のあつたことである。 
 露國の帝政時代、在露猶太人が著しく迫害せられたことは史上著明な事實であるが、米國に於ける富豪と云はれる者 の大部分は猶太人で、所謂猶太財閥である。猶太財閥が底力となりフリーメーソンなる秘密結社を作り世界陰謀 の中心勢力となつて居ることは、はつきり認識し得る所であるが、此 の結社の企圖する所は、世界を猶太人の支配下に置かうとするに在る。日露戰爭に於て、日本對し財的援助を與へたのは主として在米猶太財閥で、彼等の眞意は日本を勝す のではなく、日本を勝たすことに依り、在猶太民族を解放せんとするに在つた。そして日本に對する戰費貸與は、 謂はゞ高利貸的な 氣特で、戰後日本の疲弊に乘じて、日本の戰果を横取りしやうと云ふ底意もあつたことは、戦爭末期に於ける露國の國内動亂に於ける猶太人の動き、戰後、露國内 の猶太人の解放や、戰爭直後ハリマンの滿鐵共同經營提議でもよく分ることである。
 ハリマンの滿鐵共同經營提議とはどんな事であつたかと云ふに、丁度ポーッマス條約締結の直後、まだ、全權大使小村候が、病氣靜養 の爲渡米して居る頃であつた。時の米國鐵道王と云はれたハリマンと云ふ男が、日本の政府に 對し滿鐵をば日米兩國の出資で經營したいと申込んだ。日本は戰後財政が疲弊して居る のであるから、政府當局も元老諸公も、此のハリマンの提議に同意を興へ、之を米國で靜養中 の小村侯に打電した。小村侯は驚いた、こんな契約を結んだならば、 滿鐵は軈て米國の爲めに乘取られてしまふ。斯くては、日露戰爭に從軍した將兵や其の戰死者英靈に對して済まぬ のみならず、戰果を臺なしにしてしまう、之れは斷然契約を破棄せねばならぬと決心せられ、政府當局に意見具申せられた結果、ハリマンとの契約は破棄せられた、誠に危い所であつたが、小村侯の炯眼はよく危險から戰果を救ひ将た のであつた。
 日露戰爭終了後は、米國の封日態度や封日政策は全く全くー變した。試みに年代を逐ふて之を概説しよう。
 明治三十九年頃から米國加州方面の排日熱が著しく高まつた、そして日本學童の排斥と云ふ教學上 の差別待遇を始めた。元々排日の原因には色々あつたと傳へられて居るが、日本人恐るべしと云ふ疑心暗鬼もあつたであらうし、日本人を抑へ付けねばならぬと云ふ政策觀もあつたであらう、日露戰爭後日本が、米國の頤使に甘んぜないと云ふ腹癒せもあつたであらう。兎に角、彼れ米人 の本性を現はして來た。
 明治四十二年になると、米國政府は突如として在滿日露鐵道の中立提議を出した。併し日本も露國も斯かる傍若無人の非禮提議を一蹴した。そして、之に依り却て日露の間が接近すると云ふ皮肉な結果を來たし、米國は頗ぶる男を下げた、けれども、彼れ米國としては、爾後の呍ひ懸りを作り又、 對内外的 に排日熱を作らんとする底意もあつたと思ふ。殊に支那に對し歡心を得ようとすることをも心にあつたとも考へられる。
 明治時代の末期には、彼れ米國鐵道敷設や銀行業に關し滿洲に割込みを策すると共に、引續き本國に於ける排日熱を昂めつゝ一方依然として、日本内部に對する日本精神文化破壊策の手を益々強めて來た。
 大正三年から歐洲戰爭が始まつた。日本は日英同盟の誼に依り、聯合國側に參戰し、獨逸の租借地青島を攻略し、西太平洋、印度洋は勿諭、地中海に迄も我が海軍が出動して、英國 の制海權確保に絶大なる援助を與へた。一方歐洲戰亂の爲、日本の貿易は飛躍的な好況を示し、産業も發達し、財政も豐かになつた。此の事は米國に取りては脅威を感じたであらう。日露戰爭に於て露國を撃破して一躍ー等國の列には入つたが、物的國力としては、まだまだ貧弱であつた日本が、歐洲戰爭に依り、物的國力も飛躍的に增進した のであるから、米國としては、之れは油斷はならぬ、日露戰争に於て強霧は之を西伯利へ再び逐込んだも のゝ、之に代つて日本が東洋に雄飛し出せば、彼れ米國の太平洋政策遂行に一大障害となるものと獨り合點し、又々日本へ對し一つの手を打つた。夫れは大正六年夏の西伯利出兵 の勧誘である。
 日本は西伯利出兵に同意して、西伯利に於ける聯合軍の中堅となつたが、さて、出兵して見ると、米國は事每に日本に制肘を加へる、そして日本をして思ふやうに西伯利で活躍させない、其の内に彼れ米國は西伯利から撤兵して凉しい顔をして居る。當時既に帝政露國は亡びて過激派の天下となり、日本軍は西伯利の寒地に戰つて居る。一方、大正七年十一月、歐洲に於ては獨逸は遂に屈して休戰となり、次で、大正八年の巴里に於ける媾和會議となつた。此の頃より、世界に反戰軍縮熱が昂まつた、更にヂモクラシー思想は世界を風摩しめ始た、其の策源地は云ふ迄もなく米國であり、其の音頭取りは米大統領ウィルソンと其の一派であつた。悲しくも、日本は此 の惡風の風靡する所となり、加ふるに、當時、所謂、成金共の跋恩跋扈となり、思想混亂、國風は頽れ、精神的に見れぱ誠に危險なる狀況であつた。日本の思想界や精神界を、斯く混亂に導いた原動力は米國であり、心なき日本の指導者や同胞は、此の米國の魔手に踊つたものであることは否定出來ない事實であると今日多くの識者は考へて居ると思ふ。斯くして日本は約四年の西伯利出兵も、獲る所、空しく、西伯利から撤兵したのであつた。西伯利出兵は筆者等の青年士官頃の事で あるが、當時の米國の態度や、我が國内の情勢を囘顧すれば今尚悲憤新たなるものがある。
 思へば米國の西伯利出兵の勧誘は、全く、彼れが我が日本の世界大戰間増加した國力を消耗、蕩盡せしむると共に、日露の國交を悪化し、將來日露抗爭を績けしめんとする策であつたとしか思はれない。
 大正八年巴里媾和會議に於ける米國の對日態度は、どうであつたか、夫れは全く日本に多くを與へず、支那全權を支援して其の恩を賣り歡心を求め、日本を壓迫して日本が世界大戰間支那に於て得たる權益を悉く吐き出させやうとするに在つた、そして夫れに成功し、剰さへ、支那を增長せしめ、爾後に於ける排日、侮日、抗日の素地を作つてしまつた。唯、彼れが日本の委任統治となした南洋群島、これこそ天が正義日本に與へた寶劍で、今日、彼れ米國は此の 寶劍で、悩まされて居るのも天誅でおると云ひ得やう。――南洋群島の太平洋に於ける戰略價値は金儲本位の米國には分らなかつたのだらう。――
 巴里の媾和會議に於て、あれだけ日本を壓迫し乍ら、 尚慊らず、引き績き日本内部に 對しては誤れる平和熱を流布し、デモクラシー思想を喧傳し、軍縮熱を煽り、日本の精神文化破壊に主力を傾注した。日本 の朝野の識者は唯彼 れに追随するのみで、大衆は恰も噴火山上に踊るが如き光景を呈した。考ふれば誠に淺間しい極みであつた。事茲にに至つたのも、一に米國の魔手で あつたと斷言して憚らぬ。
 日本に於ける軍縮熟、デモクラシー熱、誤れる平和熱の高まるを看て取つた米國は、頃宜しと大正十一年を以て華府會議を提唱し、列強之に同意した。

 (五)  米國の對日政策(第三期)

 日露戰爭後からの手を代へ品を代へて日本に壓迫を加へた米國が、其の味を占めて更に日本壓迫の手を強化した。
 華府會議に於ては、彼れは米國第一主義に自惚れ、此 の會議をリードした。英佛伊も、戰勝國とは云ひ乍ら、戰爭の創痍は深大であり、日本亦上述のやうであるから、彼れ米國が一切我儘を爲し、世界を我物顔に振舞つたことは云ふ迄もない。彼れは日本を如何に壓迫したか、今日迄吾等の恨み骨髄に徹する所で周知のことではあるが、茲に簡單に述べて置かう。
 華府會議に於て日本に與へた壓迫と侮辱は、 (1)五・五・三の海軍主力艦比率の無理押付け、(2)理不盡極まる太平洋防備制限、(3)日本の在支權益の無理やり吐出し、(4)日英同盟の強制的破棄、(5)九ケ國條約の締結、 (6)四國條約の締結等で ある。
 海軍主力艦比率と太平洋防備の制限は全く無理不當、理不盡極まるもので殊に其の折衝間、我が第一の精鋭陸奥を未成鑑なりと、まるで駄々ツ子の云ふが如き暴論を吐き、其の既成艦たるを認識せざる得なくなると、自分の方では、新たに之に對抗する二艦を造つて五の比率としたと云ふが如き摸暴を敢てした、此の横暴に依り造つた鬼子的な一艦は、比の開戰當初、布哇で轟沈せられたウェスト、バージニヤで ある。何と云ふ皮肉であらう。天誅とは正に此の事だ、夫れは兎に角として、主力艦比率を日本に優越せしめ、理不盡極まる太平洋防備制限を押し付けたのは、 言はずもがな、彼れ米國が太平洋の制海權を獲得せんとする爲である。
 日本の在支權益を無理やりに吐き出させ、九ケ國條約を結んだのは、要するに日本の大 陸進出封じ策であり、彼れの支那割込み策の完成の積りであつた。 
 日英同盟の強制破棄は、東洋に於ける日本孤立策であることは云ふ迄もない。勿論、吾等は老獪なる英國、利己主義の本尊のやうな英國と何時迄も手を握ることを欲した者ではない。英國などと同盟することは、孤の化けた美人と結婚同棲するやうなものであるから、日英同盟破棄其のものには痛痒も感ぜず、些の愛著もないが、米國が日本を孤立に陷れやうとする奸策には慊なかつた。
 四國條約は當時日英同盟に代はる太平洋の平和雜持策と云はれた。併し之は逆に開戰前の對日包囲陣に轉換して居る。然も當時此の條約は、日本に對する太平洋義務の加重を目的とするものだと論ぜられた人もある、尤もな次第であると云へよう。
 大正十二年日本は大震災に襲はれ帝都は、全く燒野原と化した。華府會議に於て壓迫せられた日本は、其の翌年更に此の大天災に見舞はれたのであるから、手も足も出なからうと見て取つた米國は、遂に、日本人を完全に米國及其屬領から排斥してしまつた。夫れは大正十三年で、日本人移民は絶對に入國を禁止せられ、土地の所有も禁止されてしまつた。侮日も亦甚だしいと謂ふべしだが、日本は遂に泣寢入となつてしまつたのであつた。
 明治の末期頃から萠した米國の排日は茲に完成したのみならず、之れと前後して、英國も其の殖民地を閉鎖して日本人を入れしめず、他の列強皆之に倣ふやうになつた。彼れ米國はかうして、益々日本を島國内に監禁する策を執つたのである。
 昭和二年になると彼れ米國は、不戰條約を提議した。實は平和の美名に匿れた我儘者米國が、被壓迫國の奮起に對し、戰爭誘發の責任を負はしめんとする魂膽であつた。思ふに、巴里媾和會議以來十餘年、日本を壓迫し抜いたが、尚飽き足らず、今後も更に日本を壓迫しよう。併し、若しかすると日本が奮起するかも知れない。此の場合には不戰條約に名を藉りて日本を戰爭挑發者にしてしまうと云ふ見え透いた魂膽なのだ。併し日本は條件を附しての批准であつたから其の災厄からは免れた。
 華府會議以來、我が海軍は五・五・三の比率を補ふべく必死の努力を續けた。其の第一は補助艦艇の充實と航空部隊の整備擴充、第二は將兵の猛訓練即ち精神的及技術的訓練の優越、第三には、一艦の力の増強で、之は其の比率を補ふ重點であつたと聞いて居る。之れが實を結んで今日の偉大なる戰力及戰果となつた云ふ見方をする人が多い。禍福は、あざなへる繩の如しとは云ひ乍ら、二十餘年の我が海軍の苦心と努力に對しては今更乍ら衷心から敬意と謝意とを拂うはずには居られない。
 華府會議に於て主力艦比率や太平洋防備制限を行つたものゝな、我が海軍は他の戰カを、ぐんぐん伸ばして行く、大震災後の復興も案外早く日本國力も立直りを見せた。日本壓迫に寧歳なき怨敵米國としては又しも、日本壓迫の新手を考へた。
 夫れは昭和五年のロンドン會議である。此の會議は結局補助艦比率制限で、吾等は遂に總決算的に海軍力を拘束せられ、悲憤禁ぜなかつた。五・一五事件も實に此の悲憤の爆發であつたことは記憶尚新たである。
 巴里媾和會議から、ロンドン會議迄打續く外交的日本壓迫と併行して、彼れ米國は我が日本内部の破壊、攪亂の手を更に強めた。此の魔手の爲、日本内部は如何ばかり、禍を受けたかは、第一次世界大戰後から昭和の初頃迄の國内情勢を囘顧すれば明らかであらう。
 一方支那に對しては、賣恩、懐柔、支那米化を目指して著々と工作を進め、支那に於ける利權を漁り抜くと共に英国と呼應して、排日の推進力となつた。そして次第に日本の勢力を支那大陸から 驅逐せんと唯是れ努めると云ふ有樣であつた。
 記述は前後したが、千九百二十四年であつたと思ふ、米國は露骨にも國防方針を發表した。共の要旨は東洋に對しては支那の門戸解放、機會均等、領土保全の政策を基本とし、此の基本政策遂行の爲必要なる軍備を整へる、そして、東洋に對しては、必要あらば、進攻作戰を行ふのだと云ふのである。——今日彼の面は見ものである。——
 日本を抑へ付けるだけ押へ、揚句の果ては東洋に進攻すると云ふのである。何と云ふ傲慢無禮の方針であるか、之が今日の體爲となつたのだが、正に之れ驕者不久の天警である 。
 飜つて大正の末期頃からの支那を見れば、蔣一派の排日は年一年と昂じ、排日より侮日抗日へと推移し、遂に昭和六年九月十八日の柳條溝事件を惹起し、日本も景早、勘忍袋の緖も切れ、決然として正義の武力に訴へざるを得なくなつた。爾來滿洲事變となり、皇軍は 張學良の兵政兩權を打倒して滿洲建國を援け、滿洲の建國を見るに至つたが、滿洲事變間は、彼れ米國は國際聯盟の後據と爲り、国際聯盟を操つて、終始吾等を恫喝した。吾等は昭和八年を以て國際聯盟に三行半を叩きつけて離脱してしまつた。
 滿洲事變を顧みれば、蔣介石は、英米の傀儡であり、張學良は蔣介石の手先きでもあれば又英米直接の傀儡でもあつた。學良の父、作霖頃でも、米國滿洲に於ける利權漁りに其の餘念がなかつたこともあつた。
 乍併、邪は勝つべくもない。彼れ米國の如何なる恫喝も術策も、吾等はビクともする者ではない。滿洲事變を契機として、湃然として日本精神は蘇つた。昭和の四五年迄の、米國の魔手も漸次我が國内から拂拭せられ、デモクラシーも、日一日と其の影を消して行つた。筆者も滿洲事變勃發後既に對米英決戰の必要を諸所の講演に於て説いたが、十年前を囘顧して實に感慨無量である。――昭和十六年十一月初、筆者は講演の爲、水戸に赴き、丁度土浦在住の恩師たる某先輩に會つた。談偶々筆者が昭和六年暮、土浦に於ける講演の囘顧に及び、當時筆者が 對米英決戰論を主張したことを話會ひ時を移した次第であつた。――
 日本は米國の壓迫に對し毅然として所信に向ひ邁進した。其の結果滿洲建國は
成り、滿洲國は年一年と立派な近代國家に育成せられて行つたが、蔣介石政權の排日侮日抗日は、年と共に募る計りである。一方北方蘇聯の軍備は益々な擴充せられ、其の思想宣傳は愈々巧妙化し、殊に支那大陸に於ける共産主義の浸潤は漸次深くなつて來た。我が日本は平和裡に日支共榮共存の原則に依り相提携し、共に防共に力を致さうとしたが、蔣の背後には英米ありて蔣を操つて居る。蔣亦英米を背後の力として之に依存して容易に我れに應じようともせぬ。
 昭和の十一年には不幸にも、我が國内に、二・二六事件と云ふ一大不祥事が勃 發した。我が軍備は四圍の情勢より、擴充必須の狀況に在り、國内體制は此の不祥事刺激せられて革新せねばならぬと云ふ情況となつた。そして愈々、昭和十二年より軍備も擴充し、國内體制も潮次革新を企圖せられた。
 是れより先、昭和七年上海事件起るや、皇軍の一撃に敗れた蔣は停戰を申出たが、爾來英米は主體となりて蔣をして益々軍備を充實せしむ べく極力支援を與へたことは匿れなき事實であつたが、昭和十二年頃になると蔣の軍備が大に増強せられた。
 所で日本は昭和十二年度からの軍備充實である。だから英米としては、蔣をして日本と事を構えしむるは此の秋と思つたに相挺ない、蔣の態度は益々抗日的となつたのも其背後には英米の使嗾と尻押しがあつた爲めに外ならぬ。是れが昂じて遂に昭和十二年七月七日の盧溝橋事件の勃発となり、支那事變の發端となつた。
 思へば、支那事變も蔣の無理解と私慾とからであるが、其の源を質せば、英米の後押しから起つたものであることは明確な事實である。支那事變を解決せんが爲めには、 所詮蔣の背後の英米を除かねばならぬことは、心ある者の常識で、恰も神功暴皇后が熊襲の叛は背後に新羅があるからである。宜しく新羅を撃てとの神誥で御征韓を御斷行遊ばされたと同樣の狀況であることは、識者の等しく考へた所であつたと思ふ。だが、我が日本では日支間の事は日支のみの間で解決することは、戰爭の禍を局限し、東洋平和否世界平和の爲めであると考へ、滿四年の間は、傀儡蔣を擊ち、背後の傀儡師米英を撃たうとしなかったのであつた。
 一方、支那事變勃発以來の米英の態度は如何、今更歴史として叙述する迄もないが、一言にして盡せば、日本恫喝、日本軍作戰の妨害、莫大なる武器と財力とを以てする援蔣、拉に精神的援蔣であり、其事例は枚擧するに遑はない。併し我が方は忍べるだけは、忍んだ。
 越えて昭和十四年頃になると、歐洲の天地の風雲は漸く急を告げ、其の年遂に 歐洲戰爭となつた。英國は佛國と共に起ち、他の 弱少國亦英佛に從つたが、ソ聯は未だ起たざるのみならず、既に獨逸と不可侵條約を結び、英佛は他の弱少國と共に、精強獨逸に當らねばならなくなり、援将の事や、束洋のことは米國に依存するを要する破目となつた。米國は時到れりと、愈々露骨に援蔣を策し、日本彈壓の手を更に強めるやうになつた。併し吾等は、米國の恫喝など恐るるものではない。又別に好んで平和を害しようとするものでもない。非禮極まる彼の恫喝脅迫外交に對しても事理を盡して其の反省を求めたが、彼れは附上る計りであつた。

引用・参照・底本

『史考大東亞戰爭』 陸軍中將 中井良太郎 著 昭和十七年一月二十九日發行 二見書房

(国立国会図書館デジタルコレクション)