不戰條約とロンドン海軍々縮會議 他2023年05月11日 12:32

月百姿 調布里の月 (つきの百姿) https://dl.ndl.go.jp/pid/1306410
 『アメリカの對日謀略史』宮慶治著

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 六 不戰條約とロンドン海軍々縮會議

 このやうな觀念的な架空の原則の上に立つ米國は、一九二八年(昭和三年)、時の國務長官ケロツグの名でいはゆる不戰條約を各國に提唱し、各國の受諾を得たのである。この不戰條約は、その後の國際間のあらゆる動きに、米國の容喙權を與へたやうな結果に陷つたものであつて、米國が國際的のイニシアチイヴを獲得したものともいへるのである。それは「國際紛爭解決のなめ、戰爭に訴ふることを非とし、且つその相互關係に於て國家の政策の手段としての戰爭を放棄すること」といふのが骨子になつてゐる。満洲事變にも、米國が必ず持出した大きな手形なのである。
 また一九三〇年(昭和五年)に行はれたロンドン會議も、米國の對日策動といふことが出來る。この會議の成果は、八インチ巡洋艦の對米比率六割、潜水艦は日米對等の五萬二千五百トンと引下げられ、その及ぼすところは、日本の海軍力に非常に劣弱點を與へたことは否み難い事實であつて、米國外交の策略に乘ぜられたものといつても差支へないのである。といふのは當時の米國海軍の將領達が、どれほどこの會議の成功を讃えたかによつてみるも明かであつて、會議に専門委員として出席したプラット大將は「米國は百年以内に支那の戰爭を助けて戰ふことがあるかも知れなから、この比率は今後も絶對に譲歩してはならない」といつてゐる。これは米國が既に日支紛爭に武力を用ひることを豫定してゐた事を示唆するものでなくて何であらうか。またスチムソン全權は、上院の同條約審査委員會で「日本は巡洋鑑において著しく米國より優勢である。大巡において殊に然り、米の既成艦二隻に對し、日本は既成艦八隻、建造進行中のもの四隻を有してゐる。然るにこの條約に依れば、米國は自分の十八隻が出來上るまで日本は一隻も新造せず、卽ち日本の十萬八千トンに對し、米國が十八萬トンの優勢になるまで日本には足踏みをして待つて居れと註文したのであつて、日本當局が自らの手を縛るこの協定に應じた勇氣に對して自分はたヾ脱帽して敬意を表するのみである」と説明してゐることからも、如何に米國が最初から日本の武力低下を目標として會議をリードしてゐたかを知ることが出來やう。だから日本がこのやうな屈辱的な海軍協定から脱退したのは當然であつて、この事實から日本が好戰的とか、侵略的とするのは、米國が自らの内に抱いてゐるものを、思はずさらけ出したのだといふことが出來るのである。

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 七 對支謀略の中心としての文化政策

 こうした雰囲氣のうちにあつて米國は支那を懐柔する政策を棄てることはなかつた。ー九三〇年の對|支文化事業の財政的數字を求めてみると、米國は四千三百七 萬ー千百八十九ドルで、英佛と比べて五七・八 %にのぼつてゐる。しかこの文化事業の特性は、米國の勢力を實質的に支那に植付けんとするものであつて、物に對して直接投資するよりも、人に投資し、この人を使つて物を獲得するといふ根本的な手段となつてゐるところにある。この第一線は正義、人道を神の御名によつて振りかざし、以って人心探く喰ひこむ宣教帥群であつて、ー九三〇年(昭和五年)の支那在留外国宣教師六千三百四十六人中、三千五十二人は米國人なのであつた。またもつとも直接に米國文化を支那人の裡に移植する學校機關は、各地に壯麗な建物と潤澤な資金とを投じて建設され、その中には廣東の嶺南大學、南京の金陵大學、上海の聖約翰大學、同じく滬江大學、北京の燕京大學等わが國にも名の聞えた著名なものがある。これらの大學は蔣政權の奥地逃避と共に、重慶、崑明等に移轉したことはよく知られてゐるとほりである。
 だが教育事業はこれら大學にとヾまらない。さらに基本的に初等教育、幼稚園にまで及んでゐる。卽ち全支那の新教の教會で經營してゐる二千七百九十五の小學校のうち、米國系教會の經營してゐるもの千六百十三校、二百五十五の中等程度のミツシヨン・スクールの中、米國系は十五校、幼稚園は百十三ヶ所中、米國系百ヶ所と壓倒的の數字を示してゐる。これら教育機關で、抗日的の教育を幼小の頃から受けて來たのが、現代支那のインテリ層である。彼らが、徒らに米國の魔手に踊らされ、日本の眞意を理解しやうとはせずに、抗日陣營中に大半投じてゐることは、これまた米國の謀略が、遠大な目的を持つて行はれてゐたことを物語つてゐるではないか。
 更に民衆に一層溶けこむ機關として、米國は幾多の支那新聞に投資を行つてゐる。歐字新聞として天津の華北明星報、上海の大美晩報、大陸報、華字新聞では中美日報、大美報、華報、新聞報、新聞報夜報、華美晦報、大美晚報、申報等がある。これら諸新聞が、どれほど支那民衆を誤らさせてゐるか、その報道が常に日支事 *¢の各段階に亙って、套帽と必混に終始してゐるかは、既にわが國民で知らぬ者もあるまい。このやうに米國の對支文化事業は、平和の假面の下に、神の御名と共に、東亞のの秩序をかき亂し、支那人に米國魂を移し植える機關となつてゐたのである。眞のアジア民族としての自覺のない頭腦的に混血民族と化し去らせやうとしてゐたのだ。しかもこの目的がほヾ達してゐた證據は、蔣政權の中核が、常に對米依存であり、滿洲事變、支那事變を通じて、米國の傀儡となり了つてゐる一事からも直ちに看取出來るところであつて、謀略の怖るべき効果をまた物語るものでもある。

 (26-30頁)
 八 満洲事變と米國

 では滿洲事變の際には米國はどういふ態度を採つたであらうか。九・一八事件の起つた三日後の廿一日に、ステイムソン國務長官の許には「事態解決の處置をとられ度し」との支那からの訴願が達した。「支那から合衆國に對して援助を申し込んで來た時に、それが顧みられなかつたことは殆どない」といはれてゐるやうに、スチムソンは直ちにわが國に不擴大を勸告した覺書送つたのであつた。けれども彼は直ちに九ケ國條約や、不戰條約を利用して、事件の渦中にとびこまふとはしなかつた。彼はこの事變の發生は日本國内の二つの勢力が衝突した結果であると判新し「正しい側にある幣原外相を助けるやうな方法で工作し、國家主義者の煽動に利用されないやうにすることだ」と日記にも書いてゐるやうに、自由主義的政治家を應援して、國家主義者を抑へつけさせさせれば事變は簡單におさまるものとの觀測を下したのであつた。この認識不足は今さら云ふまでもないことではあるがこれはたヾに日本の現實への無知ばかりでなく、支那の現實にも用意を缺いた行爲であつた。支那は彼らの空中樓閣的の理想を築き上げる土臺とするには、餘りに不統一極まるのではなかつたか。しかるにスチムソンはこの秩序の亂れた支那を對象にわが航空隊の錦州爆擊が行はれた後には、九ケ條約と不戦條約の理想をあてはめ、靜觀主義を一擲して、干涉主義へと變化したのであつた。しかもその方法として用ひられたのが
(一) 日本に對する集團的經濟制裁 
(二) 世界の輿論に基く外交的の壓迫を日本に加え、支那を公正に待遇すること
(三) 同じく輿論を背景に、日本への斷罪を下すこと
 等で、經濟と輿論とを用ひて日本を苛めてやらうといふのであつた。このスチムソンの傳統は、今日もワシントン政府の踏襲するところである事は、日本國民の肝に銘じてゐるとほりである。そして彼は、米國が國際聯盟に加つてもゐないのに、日本を 壓迫するといふ役割を果そうがためにのみ滿洲事變討議の聯盟理事會にオブザーヴアとして參加したことはこれまたわが國民の忘れ去ることの出來ないことではないか。その上彼は、有名なスチムソン・ドクトリンを創作して、米國の政策の根本となつた不承認主義を樹立したのであつた。不承認主義は三つの原則から成り立つてゐる。これはおそらく將來も日支間に問題が起る度毎に持ち出されるものと思はれるから、その全文を掲げることとする。
 
 (一) 米國政府は支那共和國の主權、獨立又は領土的若くは行政的保全及び、一般に門戸開放の名にて知らるゝ支那に關する國際的政策に關するものを含む米國又はその人民の支那に於ける條約上の權利を侵害するが如き一切の事實上の狀態の合法性を容認し得ざること
 (二) 日支両國政せる府若くはその代理者の締結する一切の條約又は協定にして、前記權利を侵害するものは之を承認する意思なきこと
 (三) 日支両國及び米國が當事國たる一九二八年八月廿七日のパリー條約の約束及び義務に違反せる手段により成立せしめらるることあるべき一切の狀態、條約又は協定を承認するの意思なきこと

 この主義は單に米國自身の權利、利益を追求することに主眼が置かれ、支那の獨立はこの目的達成のための道具にしかすぎない。日本の行動はまた彼らの目的達成の障害物以外には見て居らないのである。だからどれだけ日本の行動が道義の上に立脚するものであると説いたところで、彼らがこれを理解する筈もなく、たとへ理解したとしても、これをそのまゝ受け入れるなどといふことは、到底望めないことなのだ。米國が、眞の正義、人道的な世界平和主義の確立を希求するものであるならば、先づこうした利己的な觀念を揚棄することを實行しない限り、その要望は決して日本にも、また支那にも容れられないのは當然である。この不承認主義こそ東亞の平和と秩序とを破壊する大きな癌であり謀略であることは何人にも明白なことであらう。
 この不承認主義を提げた米國が國際聯盟を、しかも單にオブザーヴアーとして出席した總會を日本の滿洲に於ける行動を侵略的の行爲と宣言し、九ケ國條約及び不戰條約違反であるとし、從つて滿洲國を承認すべからずとひきずり廻した結果は日本の主張が四十二對一で敗れ去るといふことになつたのである。けれども日本としては、これまで種々の制限を受け、自主行動を阻まれ來た聯盟規約や國際條約等にのびのびと背を向けることが出來たのであるから、實はこうして眞向から叩きつけられ、これを脱退して(正式には昭和八年三月廿七日)初めて氣安さを感じたのであつた。

引用・参照・底本

『アメリカの對日謀略史』宮慶治著 昭和十七年一月二十八日發行 大東亞社

(国立国会図書館デジタルコレクション)