【桃源閑話】NATO拡大: エリツィンが聞いたこと ― 2025年02月09日 16:46
【桃源閑話】NATO拡大: エリツィンが聞いたこと
【概要】
この機密解除された記録は、1990年代初頭、特に1993年から1996年にかけてのアメリカとロシアの間で行われたNATO拡張に関する複雑な交渉を詳細に描いている。この文書は、ロシア、特にエリツィン大統領との間で交わされた議論に焦点を当て、NATOの役割と欧州安全保障に関する計画が、アメリカ政府内部で進行中であったものと、ロシア側に伝えられたメッセージとの間に大きな乖離があったことを明らかにしている。
1993年、アメリカのウォーレン・クリストファー国務長官をはじめとするアメリカ政府関係者は、PFP(平和のためのパートナーシップ)イニシアティブがロシアを含むすべての欧州諸国に開かれたものであり、NATO拡張に代わるものとして位置付けられているとエリツィンに保証した。しかし、アメリカ政府内部の文書は、1996年のエリツィン再選後にNATO拡張を進める計画が既に立てられていたことを示している。この二重のメッセージは、ロシア側に誤解を与える結果となり、エリツィンやその他のロシアの高官は、NATO拡張が当面の懸念ではないと誤って信じ込むこととなった。一方、アメリカは実際には中東欧諸国のNATO加盟を進める準備をしていた。
アメリカの戦略は、PFPを通じてロシアとの微妙な関係を調整することに依存していたが、エリツィンに対するメッセージは曖昧で一貫性を欠いていた。クリストファーは後に、エリツィンがこの状況を誤解していたのは彼の精神状態によるものだと示唆したが、文書はアメリカ政府関係者がNATO拡張を過小評価する言葉を意図的に使用していたことを示している。このため、ロシアでは不満が高まり、高官や公人はNATOの東欧への進出に反対の声を上げるようになった。
機密解除された記録はまた、1994年にはアメリカがNATO拡張を加速させようとし、ロシアが依然として深く懐疑的であったことを示している。ロシアは、ロシアを排除しない包括的な欧州の安全保障枠組みの必要性を強調し、エリツィンは特にクリントン大統領との会談の中で、NATO拡張の進行方向に対する不満を表明し、拡張がロシアの利益を裏切るものと見なすだろうと繰り返し述べた。
文書が進むにつれて、アメリカとロシアは外交的な綱引きの中にあったことが明らかとなる。アメリカの関係者はロシアを安心させようとしたが、同時にNATO拡張を進めており、この拡張は最終的にソ連の衛星国や共和国がNATOに加盟する形となり、その後数十年にわたってアメリカとロシアの関係悪化を招くこととなった。
この機密解除された記録は、冷戦後の重要な時期における外交的な駆け引きについて貴重な洞察を提供しており、アメリカのロシアおよびNATOに対する外交政策の複雑さと矛盾を浮き彫りにしている。
【詳細】
1993年のアメリカとロシアの外交記録に関するこの解禁された文書は、アメリカ合衆国が当時のロシア大統領ボリス・エリツィンに対して、北大西洋条約機構(NATO)の拡張に関する計画をどのように説明したか、そしてそれがロシア側にどのように誤解されたかを示している。特に、アメリカはNATO拡張を避けるように見せかけつつ、実際には拡張を進める計画を進めていたことが明らかになっている。
「平和のためのパートナーシップ」(PFP)とその誤解
1993年10月22日の会話で、当時のアメリカ合衆国国務長官ウォーレン・クリストファーはモスクワでエリツィンに対し、「平和のためのパートナーシップ(PFP)」はロシアを含むすべてのヨーロッパ諸国を対象にしたものだと説明した。しかし、この説明はエリツィンに誤解された可能性がある。エリツィンは「これは天才的だ!」と応じたが、その後、アメリカ側は「PFPがNATO拡張への準備段階に過ぎない」という実際の意図を伝えようとした。しかし、エリツィンはその本質的な意味を理解しなかったとされ、クリストファーはその後、エリツィンが酔っていたため誤解した可能性があると述べている。
アメリカ内部の議論
アメリカ内部では、NATO拡張に対する議論が続いており、国務省と国防総省との間で意見の相違があった。国務省はNATO拡張の予定を立てていたが、国防総省はそれに反対し、代わりに「平和のためのパートナーシップ」を強調した。その結果、1993年秋に、NATO拡張を明確に示すのではなく、まずはPFPを前面に押し出す形でのアプローチが取られた。
ロシアの反応
ロシア側では、NATOの拡張に強い反対があった。エリツィン自身も1993年8月にワルシャワで行った演説で、NATO拡張に対する「ゴーサイン」を出したように見えたが、その後、ロシア政府はその立場を再評価し、NATO拡張に反対する立場を強めていった。1993年9月15日、エリツィンはアメリカのビル・クリントン大統領に宛てて手紙を送り、NATO拡張への懸念を表明した。また、彼は「新たなヨーロッパの安全保障システム」として、NATOではなく、より包括的な安全保障体制を支持する意向を示した。
NATO拡張の過程
1994年には、クリントン大統領がモスクワを訪問し、PFPが「本物の提案」であり、将来的にはNATO加盟への道が開かれることをエリツィンに説明した。その後、ポーランド、チェコ、ハンガリー、スロバキアといった中東欧諸国がNATOに加盟することが現実となり、その過程でロシアはNATOの拡張に対してますます強硬な反対を示した。
ロシアとアメリカの対立
ロシアはNATOの拡張がその安全保障に対する脅威であると感じ、また、ヨーロッパにおける「包括的な安全保障」のビジョンが損なわれることを恐れた。エリツィンやロシア政府は、NATO拡張がロシアを排除する形で進むことに対し強い懸念を抱き、その後の議論でも「NATOは政治機関として進化すべきだ」という立場を取った。
結論
この文書は、アメリカがロシアに対してNATO拡張に関する意図を誤解させるような表現を用いたこと、そしてロシア側がその誤解に基づいて反応したことを示している。また、アメリカ国内でのNATO拡張に関する意見の対立や、ロシアとの関係がどのように変化していったのかも明らかになっている。最終的に、NATOの拡張は現実のものとなり、ロシアとの関係に深刻な影響を与えた。
【要点】
・1993年のアメリカとロシアの外交記録解禁:アメリカがロシアに対してNATO拡張の計画を説明し、誤解を招いた経緯が明らかになった。
・「平和のためのパートナーシップ(PFP)」の誤解:アメリカはPFPをロシアを含む全欧州に提供すると説明。しかし、ロシアのエリツィンはこれを誤解し、実際にはNATO拡張への準備段階であることを理解しなかった。
・アメリカ内部での意見の対立:国務省はNATO拡張を推進、国防総省はPFPを強調し、最初はPFPが前面に出された。
・ロシアの反応:ロシアはNATO拡張に強く反対し、エリツィンは1993年8月にワルシャワでNATO拡張に反対する姿勢を示した。
・1993年9月15日:エリツィンはクリントン大統領に手紙を送り、NATO拡張への懸念を表明。
・1994年のクリントン大統領訪問:PFPが「本物の提案」であり、将来的にNATO加盟への道が開かれることを説明。
・NATO拡張の現実化:1990年代後半、ポーランド、チェコ、ハンガリー、スロバキアがNATOに加盟。ロシアは反対し続けた。
・ロシアとアメリカの対立:ロシアはNATO拡張が自国の安全保障に脅威を与えると感じ、包括的なヨーロッパの安全保障を提案。
・結果:NATO拡張は進行し、ロシアとの関係に深刻な影響を及ぼすこととなった。
【参考】
☞ 平和のためのパートナーシップ(PFP, Partnership for Peace)は、1994年にNATOが発足させた軍事協力プログラムであり、NATO加盟国と非加盟国の間で安全保障分野の協力を促進することを目的としている。
概要
・設立:1994年1月10日(NATO首脳会議にて採択)
・目的:NATOと非加盟国の間で軍事協力を強化し、ヨーロッパの安全保障環境を安定させること
・対象国:旧ソ連諸国、東欧諸国、中立国(スウェーデン、フィンランド、スイスなど)を含む多くの国々
主な内容
1.軍事協力の強化
・NATO基準に基づく軍事訓練や演習の実施
・平和維持活動の協力(ボスニア・コソボなどで実施)
2.安全保障対話の促進
・各国の軍事戦略や防衛計画の調整
・危機管理や災害対策の協力
3.将来的なNATO加盟の準備
・旧東欧諸国やバルト三国はPFPを通じてNATOの基準に適応し、最終的に加盟を果たした(例:ポーランド、チェコ、ハンガリーは1999年に加盟)
ロシアとの関係
・当初、ロシアはPFPをNATO拡張の代替案と認識し、1994年に加盟したが、後にNATOの拡張方針に反発
・ロシアはPFPを通じた協力を制限し、2008年のグルジア戦争後は実質的に活動を停止
PFPは、NATOの拡大戦略の一環として機能し、東欧・旧ソ連諸国の西側との軍事的統合を促進したが、ロシアとの対立を深める要因ともなった。
【参考はブログ作成者が付記】
【引用・参照・底本】
NATO Expansion: What Yeltsin Heard NATIONAL SECURITY ARCHIVE
https://nsarchive.gwu.edu/briefing-book/russia-programs/2018-03-16/nato-expansion-what-yeltsin-heard
【概要】
この機密解除された記録は、1990年代初頭、特に1993年から1996年にかけてのアメリカとロシアの間で行われたNATO拡張に関する複雑な交渉を詳細に描いている。この文書は、ロシア、特にエリツィン大統領との間で交わされた議論に焦点を当て、NATOの役割と欧州安全保障に関する計画が、アメリカ政府内部で進行中であったものと、ロシア側に伝えられたメッセージとの間に大きな乖離があったことを明らかにしている。
1993年、アメリカのウォーレン・クリストファー国務長官をはじめとするアメリカ政府関係者は、PFP(平和のためのパートナーシップ)イニシアティブがロシアを含むすべての欧州諸国に開かれたものであり、NATO拡張に代わるものとして位置付けられているとエリツィンに保証した。しかし、アメリカ政府内部の文書は、1996年のエリツィン再選後にNATO拡張を進める計画が既に立てられていたことを示している。この二重のメッセージは、ロシア側に誤解を与える結果となり、エリツィンやその他のロシアの高官は、NATO拡張が当面の懸念ではないと誤って信じ込むこととなった。一方、アメリカは実際には中東欧諸国のNATO加盟を進める準備をしていた。
アメリカの戦略は、PFPを通じてロシアとの微妙な関係を調整することに依存していたが、エリツィンに対するメッセージは曖昧で一貫性を欠いていた。クリストファーは後に、エリツィンがこの状況を誤解していたのは彼の精神状態によるものだと示唆したが、文書はアメリカ政府関係者がNATO拡張を過小評価する言葉を意図的に使用していたことを示している。このため、ロシアでは不満が高まり、高官や公人はNATOの東欧への進出に反対の声を上げるようになった。
機密解除された記録はまた、1994年にはアメリカがNATO拡張を加速させようとし、ロシアが依然として深く懐疑的であったことを示している。ロシアは、ロシアを排除しない包括的な欧州の安全保障枠組みの必要性を強調し、エリツィンは特にクリントン大統領との会談の中で、NATO拡張の進行方向に対する不満を表明し、拡張がロシアの利益を裏切るものと見なすだろうと繰り返し述べた。
文書が進むにつれて、アメリカとロシアは外交的な綱引きの中にあったことが明らかとなる。アメリカの関係者はロシアを安心させようとしたが、同時にNATO拡張を進めており、この拡張は最終的にソ連の衛星国や共和国がNATOに加盟する形となり、その後数十年にわたってアメリカとロシアの関係悪化を招くこととなった。
この機密解除された記録は、冷戦後の重要な時期における外交的な駆け引きについて貴重な洞察を提供しており、アメリカのロシアおよびNATOに対する外交政策の複雑さと矛盾を浮き彫りにしている。
【詳細】
1993年のアメリカとロシアの外交記録に関するこの解禁された文書は、アメリカ合衆国が当時のロシア大統領ボリス・エリツィンに対して、北大西洋条約機構(NATO)の拡張に関する計画をどのように説明したか、そしてそれがロシア側にどのように誤解されたかを示している。特に、アメリカはNATO拡張を避けるように見せかけつつ、実際には拡張を進める計画を進めていたことが明らかになっている。
「平和のためのパートナーシップ」(PFP)とその誤解
1993年10月22日の会話で、当時のアメリカ合衆国国務長官ウォーレン・クリストファーはモスクワでエリツィンに対し、「平和のためのパートナーシップ(PFP)」はロシアを含むすべてのヨーロッパ諸国を対象にしたものだと説明した。しかし、この説明はエリツィンに誤解された可能性がある。エリツィンは「これは天才的だ!」と応じたが、その後、アメリカ側は「PFPがNATO拡張への準備段階に過ぎない」という実際の意図を伝えようとした。しかし、エリツィンはその本質的な意味を理解しなかったとされ、クリストファーはその後、エリツィンが酔っていたため誤解した可能性があると述べている。
アメリカ内部の議論
アメリカ内部では、NATO拡張に対する議論が続いており、国務省と国防総省との間で意見の相違があった。国務省はNATO拡張の予定を立てていたが、国防総省はそれに反対し、代わりに「平和のためのパートナーシップ」を強調した。その結果、1993年秋に、NATO拡張を明確に示すのではなく、まずはPFPを前面に押し出す形でのアプローチが取られた。
ロシアの反応
ロシア側では、NATOの拡張に強い反対があった。エリツィン自身も1993年8月にワルシャワで行った演説で、NATO拡張に対する「ゴーサイン」を出したように見えたが、その後、ロシア政府はその立場を再評価し、NATO拡張に反対する立場を強めていった。1993年9月15日、エリツィンはアメリカのビル・クリントン大統領に宛てて手紙を送り、NATO拡張への懸念を表明した。また、彼は「新たなヨーロッパの安全保障システム」として、NATOではなく、より包括的な安全保障体制を支持する意向を示した。
NATO拡張の過程
1994年には、クリントン大統領がモスクワを訪問し、PFPが「本物の提案」であり、将来的にはNATO加盟への道が開かれることをエリツィンに説明した。その後、ポーランド、チェコ、ハンガリー、スロバキアといった中東欧諸国がNATOに加盟することが現実となり、その過程でロシアはNATOの拡張に対してますます強硬な反対を示した。
ロシアとアメリカの対立
ロシアはNATOの拡張がその安全保障に対する脅威であると感じ、また、ヨーロッパにおける「包括的な安全保障」のビジョンが損なわれることを恐れた。エリツィンやロシア政府は、NATO拡張がロシアを排除する形で進むことに対し強い懸念を抱き、その後の議論でも「NATOは政治機関として進化すべきだ」という立場を取った。
結論
この文書は、アメリカがロシアに対してNATO拡張に関する意図を誤解させるような表現を用いたこと、そしてロシア側がその誤解に基づいて反応したことを示している。また、アメリカ国内でのNATO拡張に関する意見の対立や、ロシアとの関係がどのように変化していったのかも明らかになっている。最終的に、NATOの拡張は現実のものとなり、ロシアとの関係に深刻な影響を与えた。
【要点】
・1993年のアメリカとロシアの外交記録解禁:アメリカがロシアに対してNATO拡張の計画を説明し、誤解を招いた経緯が明らかになった。
・「平和のためのパートナーシップ(PFP)」の誤解:アメリカはPFPをロシアを含む全欧州に提供すると説明。しかし、ロシアのエリツィンはこれを誤解し、実際にはNATO拡張への準備段階であることを理解しなかった。
・アメリカ内部での意見の対立:国務省はNATO拡張を推進、国防総省はPFPを強調し、最初はPFPが前面に出された。
・ロシアの反応:ロシアはNATO拡張に強く反対し、エリツィンは1993年8月にワルシャワでNATO拡張に反対する姿勢を示した。
・1993年9月15日:エリツィンはクリントン大統領に手紙を送り、NATO拡張への懸念を表明。
・1994年のクリントン大統領訪問:PFPが「本物の提案」であり、将来的にNATO加盟への道が開かれることを説明。
・NATO拡張の現実化:1990年代後半、ポーランド、チェコ、ハンガリー、スロバキアがNATOに加盟。ロシアは反対し続けた。
・ロシアとアメリカの対立:ロシアはNATO拡張が自国の安全保障に脅威を与えると感じ、包括的なヨーロッパの安全保障を提案。
・結果:NATO拡張は進行し、ロシアとの関係に深刻な影響を及ぼすこととなった。
【参考】
☞ 平和のためのパートナーシップ(PFP, Partnership for Peace)は、1994年にNATOが発足させた軍事協力プログラムであり、NATO加盟国と非加盟国の間で安全保障分野の協力を促進することを目的としている。
概要
・設立:1994年1月10日(NATO首脳会議にて採択)
・目的:NATOと非加盟国の間で軍事協力を強化し、ヨーロッパの安全保障環境を安定させること
・対象国:旧ソ連諸国、東欧諸国、中立国(スウェーデン、フィンランド、スイスなど)を含む多くの国々
主な内容
1.軍事協力の強化
・NATO基準に基づく軍事訓練や演習の実施
・平和維持活動の協力(ボスニア・コソボなどで実施)
2.安全保障対話の促進
・各国の軍事戦略や防衛計画の調整
・危機管理や災害対策の協力
3.将来的なNATO加盟の準備
・旧東欧諸国やバルト三国はPFPを通じてNATOの基準に適応し、最終的に加盟を果たした(例:ポーランド、チェコ、ハンガリーは1999年に加盟)
ロシアとの関係
・当初、ロシアはPFPをNATO拡張の代替案と認識し、1994年に加盟したが、後にNATOの拡張方針に反発
・ロシアはPFPを通じた協力を制限し、2008年のグルジア戦争後は実質的に活動を停止
PFPは、NATOの拡大戦略の一環として機能し、東欧・旧ソ連諸国の西側との軍事的統合を促進したが、ロシアとの対立を深める要因ともなった。
【参考はブログ作成者が付記】
【引用・参照・底本】
NATO Expansion: What Yeltsin Heard NATIONAL SECURITY ARCHIVE
https://nsarchive.gwu.edu/briefing-book/russia-programs/2018-03-16/nato-expansion-what-yeltsin-heard