【桃源閑話】「ブダペストの爆発」2025年02月09日 20:11

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【桃源閑話】「ブダペストの爆発」

 参照:
【桃源閑話】ロシア:排除ではなく包摂
 https://koshimizu-tougen.asablo.jp/blog/2025/02/09/9753485

【桃源閑話】NATO拡大: エリツィンが聞いたこと
 https://koshimizu-tougen.asablo.jp/blog/2025/02/09/9753435

【桃源閑話】NATO拡大とロシアの反応
 https://koshimizu-tougen.asablo.jp/blog/2025/02/09/9753409

【桃源閑話】NATOの拡大:ゴルバチョフが聞いたこと
 https://koshimizu-tougen.asablo.jp/blog/2025/02/08/9753187

【概要】

 1994年7月10日、アメリカのビル・クリントン大統領とロシアのボリス・エリツィン大統領は、イタリアのナポリで会談を行った。この会談は、冷戦後のアメリカとロシアの関係において重要な一歩を示すものであったが、同時にNATOの拡張に関する問題も浮上した。

 クリントン大統領の政策は、NATOの拡張とロシアとの関与という二つの軌道を追求するものであった。NATO拡張は、西ヨーロッパ諸国と中央・東欧諸国を統合し、ロシアを含まない新たな安全保障の枠組みを構築することを目指していた。一方で、ロシアとの関与は、冷戦後の新しい秩序を築くためにロシアを西側と協力させようというものであった。

 この時点では、エリツィン政権はNATOの拡張に強く反対していた。ロシアにとってNATOの拡張は、かつてのソビエト連邦圏内の国々が西側に取り込まれ、自国の安全保障を脅かすものとして捉えられていた。しかし、クリントン大統領は、NATO拡張の重要性を強調し、西ヨーロッパの安定と平和を守るために不可欠であると主張していた。

 ナポリでの会談において、エリツィンはクリントンに対し、NATO拡張に対する懸念を示すとともに、ロシアの安定を保つためには西側との協力が必要であると訴えた。この会談は、両国の意見が完全に一致することはなかったものの、冷戦後の新しい国際秩序において、両国が協力していく方向性を模索する重要な時期であった。

 その後、1994年12月にブダペストで開催された会議で、NATOの拡張に関する決定が正式に採択され、これが後のNATOの東方拡張の始まりとなる。この一連の流れが「ブダペストの爆発」とも呼ばれ、その後のロシアの反発や、NATOとロシアの関係における緊張を生むことになった。 

【詳細】
 
 1994年7月10日に行われたナポリでのクリントン大統領とエリツィン大統領の会談は、冷戦後のアメリカとロシアの関係における重要な転機となるものだった。この会談において、クリントンはNATO拡張とロシアとの関与という二つの政策を同時に進める方向を示していたが、両者の目指す方向性には根本的な違いがあった。

 クリントン大統領の政策

 クリントン大統領は、冷戦後の世界においてNATOを再構築し、特に中東欧や東欧諸国を積極的に取り込む方針を示していた。彼の考えは、NATOの拡張によって、かつてソビエト連邦に支配されていた国々が西側諸国との結びつきを強化し、民主主義や市場経済を促進することにあった。また、NATO拡張によって、ヨーロッパ全体の安全保障を強化し、再び戦争が起こることを防ぐという目的があった。

 しかし、NATO拡張はロシアにとっては深刻な懸念材料となる。特に、旧ソビエト圏の国々がNATOに加盟することは、ロシアの戦略的立場を脅かすものとして受け取られた。クリントンの進める「NATOの開放的な扉政策」は、これらの国々が自由にNATOに加入できるというものであったが、ロシア側にとっては、過去のソビエト連邦の崩壊をさらに進めるようなものと映った。

 エリツィン大統領の立場

 一方、エリツィン大統領はNATOの拡張に対して強く反対していた。ロシアにとって、NATO拡張は単なる安全保障上の問題にとどまらず、国際的な権威を失う可能性がある重大な問題と考えられていた。ロシアは、冷戦終了後に新たな国際秩序の中で自身の立場を模索していたが、NATOが東方に拡張することは、ロシアの影響圏を削ることになり、経済的・軍事的な孤立を深める懸念を抱いていた。

 エリツィンは、アメリカとの協力によってロシアの経済改革を進め、国際社会での地位を回復しようと考えていたが、NATO拡張については強い警戒感を示していた。彼は、NATOがロシアを無視して拡張することで、再び冷戦時代の対立構造が再現されることを懸念していた。

 クリントンの二重政策

 クリントンの政策は、二つの相反する目標を同時に追求するものだった。一つは、NATOを拡張して西ヨーロッパと東ヨーロッパを統合し、地域の安定を確保することであった。もう一つは、ロシアとの関与を続け、冷戦後の新たな秩序を形成するためにロシアを西側と協力させようというものであった。

 クリントンは、冷戦後の新しい世界秩序において、アメリカとロシアが協力することで、平和的な共存を実現できると考えていた。しかし、現実的には、NATO拡張が進む中でロシアとの関係は次第に険悪になり、特に1994年のナポリ会談以降、ロシアはNATO拡張に強硬に反対するようになった。

 ナポリ会談とその影響

 ナポリでの会談において、エリツィンはNATO拡張に対するロシアの強い反発をクリントンに伝えたが、クリントンはNATO拡張の方針を維持すると明言した。この会談自体は、両国の協力を深めるためのステップであり、冷戦後の国際政治における新たなバランスを模索するものであったが、NATO拡張問題に関しては両国の立場に大きな隔たりがあった。

 この会談は、後の1994年12月のブダペスト会議に繋がり、そこでNATO拡張に関する具体的な決定がなされることとなった。この決定は、1999年にポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアがNATOに加盟する契機となり、ロシアとの関係はさらに冷え込むこととなる。

 ブダペストの爆発

 ブダペストでの会議後、NATO拡張が現実のものとなる中で、ロシアは強く反発した。この反発は、後のロシアの外交政策に大きな影響を与え、NATOとロシアの関係は悪化の一途をたどった。特に、ロシアはNATOの東方拡張が自国の安全保障を脅かすと感じ、これが「ブダペストの爆発」とも呼ばれる局面を生むこととなった。

 その後、ロシアとNATOの関係は緊張し、特に2000年代に入ると、アメリカのイラク戦争や、NATOのさらなる拡張がロシアを孤立させる結果となり、冷戦後の「冷戦平和」から対立へと転じることとなった。

【要点】

 1.ナポリ会談(1994年7月10日)

 ・クリントン大統領とエリツィン大統領はナポリで会談。
 ・会談は冷戦後のアメリカとロシアの関係における重要な転機。

 2.クリントン大統領の政策

 ・NATO拡張:西ヨーロッパ、東欧諸国の統合と地域の安全保障強化。
 ・ロシアとの関与:冷戦後の新秩序を構築するため、ロシアと協力し、国際社会における立場を回復させる。

 3.エリツィン大統領の立場

 ・NATO拡張への反対:NATOの拡張はロシアの安全保障を脅かし、ソビエト連邦崩壊後の影響圏縮小を意味する。
 ・ロシアは西側との協力を望みつつ、NATO拡張に強い懸念を抱く。

 4.クリントンの二重政策

 ・NATO拡張とロシアとの協力の二つを同時に進める方針。
 ・クリントンは、アメリカとロシアの協力による平和的共存を目指すが、実際には両国の立場には大きな隔たりがあった。

 5.ナポリ会談の結果

 ・エリツィンはNATO拡張に反対する意向を伝えるも、クリントンは方針を維持。
 ・両国の意見が一致することはなかったが、冷戦後の新たな国際秩序を模索する重要な会談となる。

 6.ブダペスト会議(1994年12月)

 ・NATO拡張に関する具体的な決定が行われ、1999年にポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアがNATOに加盟。
 ・ロシアの強い反発を招くこととなり、関係が冷え込む。

 7.ブダペストの爆発

 ・NATO拡張がロシアの安全保障を脅かすとして、ロシアは反発。
 ・これが「ブダペストの爆発」と呼ばれる局面を生む。

 8.その後の影響

 ・ロシアとNATOの関係はさらに悪化し、特に2000年代に入ってから、アメリカのイラク戦争やさらなるNATO拡張がロシアを孤立させる結果となる。

【引用・参照・底本】

NATO Expansion – The Budapest Blow Up 1994 NATIONAL SECURITY ARCHIVE
https://nsarchive.gwu.edu/briefing-book/nato-75-russia-programs/2021-11-24/nato-expansion-budapest-blow-1994

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