【桃源閑話】北方領土問題の歴史的淵源と日露米三国の関わり ― 2026-01-02 23:18
【桃源閑話】北方領土問題の歴史的淵源と日露米三国の関わり
北方領土問題の歴史的淵源と日露米三国の関わり
序論
北方領土問題は、現代日本における未解決の重要な外交課題である。この問題の淵源を辿ると、江戸幕府末期のロシアの東進政策に行き着く。以下、歴史を辿りながら、ソ連(現在のロシア)、日本、そして米国の関わり合いを詳細に論じる。
江戸幕府期における日露国境画定交渉
十九世紀半ば、ロシアは東進政策を堅持し、その手は樺太、千島へと伸びていた。1853年(嘉永六年)、ロシア提督プチャーチンは四隻の軍艦を従え長崎に来航し、日露の境界画定を求めた。幕府は川路左衛門尉(川路聖謨)等を長崎に遣わし折衝に当たらせた。ゴンチャロフは川路について、「非常に聡明であった」と評し、その知力と練達を高く評価した。
ロシア側は「千島、樺太の所属が明確でなく、特に樺太においてはロシア人の移住が盛んで、このまま放置すれば日本領と認むべき部分にもロシア人が多数居住することになる」と主張した。具体的には、「択捉島は全部露領であること、樺太は南側の亜庭湾(アニワ湾)附近のみが日本領であり、その他は総て露領であること」と主張した。
これに対し川路聖謨は、「択捉島はもちろん日本領であること、樺太に関しては北緯五十度をもって日露の境界をなすこと」と主張した。結果として、択捉島は日本領であることを認め、樺太問題は後日実地に確かめることとなった。
安政元年12月21日(西暦1855年2月7日)調印の日本国魯西亜国通好条約第二条で、「今より後、日本国と魯西亜国との境は、エトロフ島とウルップ島との間に在るべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島及び夫より北方クリル諸島は魯西亜に属す。カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国との間に於て、界を分たず、是まて仕来の通たるべし」と定められた。
条約交換までの間に、幕府は樺太の実地検分をし、樺太には露人は居住していないとの判断を下した。これ以前にも五回に及ぶ樺太視察を為し、露人のいなかったことが知られている。この樺太視察には堀織部正の従僕として若年の榎本釜次郎(榎本武揚)も従った。
その後、幕府は懸案の樺太境界問題に決着をつけるべく、文久元年(1861年)に安藤対馬守(安藤信正)はロシアに全権を派遣した。松平石見守(松平康英)は、「五十度以南を日本領とすること。翌文久三年、日露両国から境界委員を現地に派遣し、実地立ち合いの上取りまとめること」を、イグナチーフに認めさせた。しかし、当時の国内事情で安藤老中は攘夷論者に疎まれ文久二年(1862年1月)坂下門外で襲撃され負傷、老中を追われる身となり、約束を果たせず、これまで通り両国の共有ということになった。
界を分たず、とし未分界と定められた後、江戸幕府は樺太の南部を北海道・南千島と共に再び直轄地とした。樺太は鰊・鮭・鱒など魚類の宝庫であり、日本人の進出は漁業の拡大によってのみ可能とされ、新漁場の開発に着手した。
明治政府による樺太千島交換条約
江戸幕府が一貫して取った主張が明治新政府になり、七年に樺太を放棄し、千島と交換するという方策を立てた。「樺太の地たる、絶域の孤島、窮陰冱寒にして、固より磽确斥鹵(こうかくせきろ/こうかくせきろう)」、以って栽すべき所に非ず云々」という開拓次官黒田清隆の意見を外務卿寺島宗則が採ったためでもあった。
黒田清隆は、戊辰戦争で箱館五稜郭に立てこもり新政府軍に抗した榎本軍を攻略した政府軍参謀であった。彼は敵将である榎本の人物識見に深く好意をよせていた。黒田は樺太放棄論の急先鋒であり、彼の人事で榎本武揚を海軍中将に任じ、特命全権大使としてロシアに派遣することにした。このことは既に樺太全島をロシアに譲り、代わりに千島全島を日本領にするという樺太・千島交換の方針が決定していたことを意味した。
条約改正を目的とした大使の岩倉具視、副使の木戸孝允・大久保利通・伊藤博文等の岩倉遣米欧使節団が条約改正の不成功に終わり、明治六年(1873年9月)に帰国する。この外遊派と西郷・板垣退助・江藤新平らの西郷隆盛朝鮮遣使への賛否をめぐり征韓論政変が起こる。この10月の政変で征韓派は下野する。
この時の使節派遣の反対口実となったのが、樺太問題であった。「樺太の日本人を保護し日本の権利を擁護することをしないで、朝鮮の無礼をむりにこじつける」と、岩倉・大久保・木戸・黒田はみな其の不当を詰った。岩倉そして大久保らは、その手前上、問題の解決を急いだ。
明治政府はその成立時から一貫して征韓を目指していた。征韓論は、樺太開拓つまり対露抵抗論とは財政面からだけでも両立せず、樺太放棄論であった。新政府軍に抗した旧幕府の国際知識豊富な榎本武揚を樺太領土交渉に用いた。
政府が榎本武揚に与えた極秘の箇条書の中に、「彼我雑居ヲ廃シ境界を定る事」、「今全島ヲ魯国ノ有ト為スニ於テハ、露西亜右ニ釣合フヘキ地ヲ我ニ譲ベシ」とある。
明治八年(1875年5月7日)、ペテルブルグで日本全権榎本武揚とロシア宰相兼外相ゴルチャコーフ公爵による「樺太千島交換条約」の調印となる。元来、江戸幕府は「日本国と魯西亜国との境は、エトロフ島とウルップ島との間に在るべし」としていたのだから、北千島と樺太全島(イグナチーフに認めさせた五十度以南を日本領とすることも放棄して)を交換したことになる。言い換えれば、ロシア領の五十度以北の樺太と千島列島のうち得撫島以北の島々を日本領とすべく交換したことになる。また、経済的には比較にならない貧弱な北千島と南樺太とを交換したともいえる。
日露戦争とポーツマス条約
明治三十八年(1905年)樺太を軍事占領。しかし、結果はポーツマス条約(明治三十八年9月5日)での「第9条 露西亜帝国政府ハ、薩哈嗹(サハリン)島南部及其ノ附近ニ於ケル一切ノ島嶼並該地方ニ於ケル一切ノ公共営造物及財産ヲ完全ナル主権ト共ニ永遠日本帝国政府ニ譲与ス。其ノ譲与地域ノ北方境界ハ北緯五十度ト定ム」に終わった。北緯五十度以南、つまり江戸幕府の主張した旧領土を回復したに過ぎなかった。
日清戦争での兵士の動員総数は約24万人であったのに対し、日露戦争では約109万人に達し、10人に1人以上の割合で戦死者・重度の戦傷者が出た。加えて約20万頭の馬も動員され、戦地で約3万8000頭が犠牲となった。講和でその犠牲に見合う賠償金・領土割譲を期待した。しかし、賠償金が得られないと知り、9月5日の東京日比谷公園での国民大会、その後に続く焼き討ち(日比谷焼き討ち事件)へと発展した。
シベリア出兵に際しては、戦費10億円、戦死者3500人以上の損害を出して終わった。一時軍事占領した北緯五十度以北の北樺太からは大正十四年(1925年5月)に撤退した。
第二次世界大戦とヤルタ協定
昭和二十年(1945年8月14日)ポツダム宣言の受諾し、15日の玉音放送を経て9月2日無条件降伏文書に調印。太平洋戦争が終結した。ポツダム宣言で、「八 カイロ宣言ノ条項は履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」と定められた。日本は南樺太と千島から駆逐された。
ここで米国の関与が決定的な意味を持つ。1945年2月、米・英・ソ3カ国首脳による対日戦に関する秘密協定となるヤルタ協定(「クリミヤ会議の議事に関する議定書中の対日関係に関する協定」)において、「二(イ)樺太の南部及びこれに隣接するすべての島を、ソヴィエト連邦に返還する」、「三 千島列島は、ソヴィエト連邦に引き渡す」と明記された。
この協定は、日本を一切交渉の主体としないまま、米国・英国・ソ連という戦勝三国の間で取り決められたものである。特に米国は、対独戦終結後におけるソ連の対日参戦を確実なものとするため、南樺太および千島列島という日本の旧領に関する領土的譲歩を、戦略的判断としてソ連に与えたのである。この時点で、北方領土問題は、日本の戦後処理としてではなく、米ソ両大国の戦略的取引の結果として枠組みが決定された。すなわち、日本はこの問題において当事者でありながら、決定権を持たない存在として、米ソ両大国の思惑の中に制度的に組み込まれる構図が形成されたのである。
原爆投下による死者総数は約30万人。日本の戦没者数約310万人、そして日中戦争での中国の犠牲者は軍民死亡2100万(1985年発表)、軍民死傷約3500万人(1995年発表)となっている。都市に対する無差別絨毯爆撃、米艦載機による那覇空襲(1944年10月10日)、東京大空襲(B29約300機)の直後に日本政府は、都市爆撃は国際法に違反であると米政府に抗議をしている。しかし、日本も日中戦争で重慶爆撃などの大規模戦略爆撃を繰り返し実施していた。説得性は別にしても抗議自体の正当性はある。当然、広島への原爆投下直後にも非軍事目標に対する攻撃であり「国際法及び人道の根本原則」に違反すると、厳重に抗議をしている。
戦後の日ソ交渉と米国の影響
戦後、日ソ関係の抜本的改善に横たわる「最も重要な課題の一つは、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題を解決して平和条約を締結し、もって両国関係の戦後期における完全な正常化を達成するという、二国間関係における過去の遺産の克服である」とされた。
日ソ共同宣言(1956年10月19日)は、「両国間の戦争状態を終結させ、外交・領事関係を回復させた。日ソ共同宣言においては、日ソ両国が正常な外交関係の回復後、平和条約締結交渉を継続すること、また、ソ連邦が平和条約締結後、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意することが規定されている」。
しかし、1960年には、「ソ連邦は歯舞群島及び色丹島の返還の前提として、日本領土からの全外国軍隊の撤退という条件を新たに課した」。ここに至って、米国の存在は日ソ交渉における外的要因ではなく、交渉そのものを制約する決定的要因として明確に作用し始める。ソ連は、日本国内に恒常的に駐留する在日米軍基地の存在を、安全保障上の直接的脅威として位置づけ、その撤退を領土返還の前提条件として提示したのである。
これは単なる外交的駆け引きではなく、日米安保体制の下にある限り、日本は領土返還交渉において主権的裁量を発揮し得ないという現実を、ソ連側が明確に突きつけたことを意味する。すなわち、在日米軍の存在は、日ソ間の領土交渉を事実上不可能化する構造的要因として機能し始め、この時点以降、北方領土問題は日ソ二国間交渉の枠を超え、米国を不可避の前提条件とする問題へと転化したのである。
その後「ソ連邦の側からは、日本とソ連邦との関係における領土問題は第二次世界大戦の結果解決済みであり、領土問題はそもそも存在しないとの立場が述べられるようになった」。更に、「1991年4月に東京で行われた日ソ首脳会談の結果発表された、4月18日付けの日ソ共同声明においては、双方は「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定の問題を含む日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約の作成と締結に関する諸問題の全体について」話し合いを行った旨述べられている。また、同声明では、平和条約締結作業の加速化の重要性が強調されている」。
国際法と大国の論理
領土不拡大という戦後処理の原則、つまり大西洋憲章(1941年8月)及びカイロ宣言(1943年11月)における領土不拡大の意図、同盟国は自国のためには利益も求めず、また領土拡張の念も有しない、である。しかし、米国などは率先して自国の為の利益を求め、今でも続けて日本にいるのではないのか。
そして、冷厳な事実、同じく第二次世界大戦に敗れたドイツの其の後はどうか。敗戦国ドイツをどのように割譲したのかである。領土不拡大を声高にするのも正当かも知れない。しかし、国際社会が受け入れるかどうかは定かでない。
現代における日露米三国の関係と安倍政権の試み
北方領土問題(二島・四島返還)絡みで安倍首相、プーチン氏との会談は22回(第1次安倍政権時代を含む)に及ぶ。北方領土問題の具体的進展という観点から見れば、27回に及ぶ首脳会談は実質的成果を伴わず、結果として安倍首相自身が批判した「対話のための対話」に近い様相を呈したと言わざるを得ない。しかし、北朝鮮と相違し、ロシアに対する制裁などの方策は日本政府に無い。
東方経済フォーラムの総会「極東:可能性の限界を拡大して」の席上、プーチンは、「70年間、我々は交渉を行ってきています。シンゾウ(安倍首相)は『アプローチを変えましょう』と言った。そこで私も次のようなアイデアを思いつきました。平和条約を結ぼうではありませんか。今すぐではなく、年末までに。一切の前提条件を設けずに」と提案した。
席上での安倍首相の対する発言は聞こえてこない。代わって、「政府としては北方四島の帰属の問題を解決して、平和条約を締結するという基本方針のもと、引き続き粘り強く交渉していきたい。その姿勢にかわりない」と、菅官房長官。つまり、これまで通りなのである。
しかし、安倍首相は「北方領土はロシアにとって安全保障上、重要な地域となっている。アメリカとロシアの関係も交渉に影響してくる」と述べた。この発言は極めて重要である。なぜなら、北方領土問題が日露二国間の交渉課題にとどまらず、日米安保体制および米露対立というより大きな国際構造の中に位置づけられていることを、自ら認めた発言だからである。
すなわち、仮に領土返還を伴わない形での日露平和条約締結という選択肢が理論上存在するとしても、日本が日米安保体制の下にある以上、それは米国の戦略的利益と無関係には成立し得ない。米国にとって、日本がロシアと和解し、東アジアにおける緊張緩和や日本の外交的自律性を高めることは、対露戦略上の抑止構造を弱める可能性を孕む。そのため、領土問題を棚上げした平和条約締結であっても、米国がこれを積極的に承認する可能性は低いと考えざるを得ない。
安倍首相が言うように「アメリカとロシアの関係も交渉に影響」するのであれば、日露が「一切の前提条件を設けず」に合意したとしても、その合意が現実に機能するかどうかは、米国の黙認を前提とせざるを得ない。四島返還要求は、戦後の冷戦構造の中で、米国が日本を自陣営に強く留め置くための外交カードとして利用された側面を持つ。したがって、その出発点には米国の戦略的思惑が色濃く反映されていたと見るべきであり、それは結果として「常に現状維持=日ロのいざこざ」を固定化する役割を果たしてきたのである。
安倍政権が模索した共同経済活動でさえ、対露制裁を主導する米国の政策と常に緊張関係にあり、日本の対露外交が構造的制約下にあることを改めて浮き彫りにした。米国の怒りを買ってまで、そして四島返還を求める国民に失望落胆をさせてまで、安倍首相の最後の政治任期を賭けて、平和条約を締結するのか、しないのか、決断を迫られている。
2014年、ロシアはウクライナのクリミア半島を併合した。これに対し日本は、G7諸国が実施した対露制裁について、査証(ビザ)協議停止など「ロシアに実害が及ばない制裁」にとどめた。2016年に安倍首相はプーチン氏を地元・山口県に招いての首脳会談で北方四島での共同経済活動に合意した。2018年の首脳会談では、返還交渉の切り札として「4島返還要求」を封印し、事実上、歯舞、色丹の「2島返還」にハードルを下げて交渉することを提案した。
しかしロシアは歩み寄るどころか、4島の主権が合法的にロシアに移ったと認めることなど、日本には受け入れられない条件を突きつけ、2020年には「領土の割譲禁止」をうたう憲法改正も行った。背景には、クリミア併合以降、欧米との関係が行き詰まったプーチン氏が、対外的な強硬路線で国内での求心力を高めようとしている事情があるとみられている。
いずれにしろ四島返還(二島返還でも)などは夢のまた夢であって、改めて日本の"何か"との交換が可能でもなければ、無理筋である。終戦でなく敗戦という事実に伴う現実を受け入れなければ、無い物ねだりである。悲願達成を叫び続けるのなら、"新たな戦争"を呼び起こすことにもなるかも知れない。そして其の結果は日本の分割統治ということにもなる。
解決済みと北朝鮮が主張する拉致問題解決を叫ぶように、領土問題は第二次世界大戦の結果解決済みという主張に、北方四島問題の解決を叫ぶのか。
安倍政権が進めた共同経済活動でさえ、下手すると米国の制裁の対象となり兼ねないのであった。そう、"制裁魔"のトランプ氏が狙いをつけてくるかも知れないという懸念があった。米国の怒りを買ってまで、そして四島返還を求める国民に失望落胆をさせてまで、安倍首相の最後の政治任期を賭けて、平和条約を締結するのか、しないのか、決断を迫られていた。
しかし、この問いに対する答えが出る前に、事態は全く異なる方向へと進んでいった。
ウクライナ侵攻と日露関係の断絶から現在へ
2020年、ロシアは「領土の割譲禁止」をうたう憲法改正を行った。これは安倍政権の対露外交に対する明確な拒絶であった。そして2022年2月24日、ロシアはウクライナに対する全面的な軍事侵攻を開始した。プーチン大統領は「特別軍事作戦」と称して首都キーウも含むウクライナ全土への武力侵攻を決行し、国際社会は直ちにこれを国際法違反の侵略行為と断じた。西側諸国は前例のない規模の経済制裁を科し、ロシア軍の侵略に対し善戦するウクライナに対しては武器供与などの軍事支援を続けた。
日本政府もG7の一員として対露制裁に参加した。これに対し2022年3月、ロシア外務省は日本との平和条約締結交渉を中断するとの声明を一方的に発表、北方領土との「ビザなし交流」などの合意破棄や、四島での共同経済活動からの離脱も表明した。岸田文雄首相は「今回の事態は全てロシアによるウクライナ侵略に起因している。ロシアの対応は極めて不当で、断じて受け入れられない。強く抗議する」と語った。
ロシアによるウクライナ侵攻の前から、領土問題の進展は見通せない状況にあったが、先行きはますます不透明となった。ウクライナ戦争が長期化の様相を呈し、日露関係も厳しい状況が続くことが予想される中、北方領土の「ロシア化」が一層進んでいる。北方領土には計1万8000人のロシア人が住み、軍も駐留し、近年ロシアは北方領土所在部隊の施設整備を進めているほか、沿岸ミサイルや戦機などの新たな装備も配備し、大規模な演習も実施するなど、不法占拠のもと軍の活動をより活発化させている。
安倍政権が進めてきた共同経済活動は完全に頓挫した。安倍首相とプーチン大統領の個人的な関係構築に賭けた外交政策は、ロシアの憲法改正による領土割譲禁止条項の追加、そしてウクライナ侵攻という形で完全に破綻した。27回に及ぶ首脳会談、経済協力の提案、そして四島返還から二島先行返還への譲歩――これらすべてが実を結ばなかったどころか、ロシアの対日姿勢をより硬化させる結果となった。
2021年10月に発足した岸田文雄政権は、ウクライナ侵攻後の厳しい日露関係の中で北方領土問題に直面した。岸田首相は2024年2月7日の「北方領土の日」に、「北方領土問題は国民全体の問題であり、国民一人一人が、この問題への関心と理解を深め、政府と国民が一丸となって取り組むことが不可欠です」と述べ、「ロシアによるウクライナ侵略によって日露関係は厳しい状況にありますが、政府として、領土問題を解決し、平和条約を締結するという方針を堅持してまいります」と表明した。
しかし、これは形式的な声明に過ぎなかった。岸田政権の対露政策は、G7との協調を重視し、ウクライナ支援を継続する一方で、北方領土問題については事実上凍結状態となった。2024年9月、石破茂氏が自民党総裁に選出され、第103代内閣総理大臣に就任したが、石破政権は短命に終わり、政権運営の混乱の中で北方領土問題に関する新たな方針を打ち出すことはできなかった。
そして2025年10月21日、高市早苗氏が第104代内閣総理大臣に指名され、日本初の女性首相が誕生した。高市政権は自民党と日本維新の会の連立政権として発足したが、衆参両院とも少数与党という不安定な政権基盤の中でのスタートとなった。高市首相は安倍晋三元首相の親密な盟友であり、「女版安倍晋三」とも称される保守派の政治家である。過去には第一次安倍内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)を務めた経験もある。しかし、高市政権発足時の記者会見でも、北方領土問題に関する具体的な言及はなく、経済対策と防災庁設置が最優先課題とされた。
2025年12月現在、高市政権は発足から約2ヶ月が経過したが、不安定な政権基盤の中で北方領土問題に取り組む余裕はない。ロシアのウクライナ侵攻は依然として続いており、G7の一員として日本は対露制裁を継続せざるを得ない。トランプ米大統領の2期目の政権がウクライナ和平交渉を模索しているが、その行方は不透明であり、仮に停戦が実現したとしても、それが日露の領土交渉再開に直結するわけではない。
元島民の平均年齢は88歳を超えており(2024年6月末現在)、時間的猶予はもはやほとんど残されていない。ビザなし交流は停止され、自由訪問も途絶えている。せめて墓参だけは続けられるようにという願いさえ、現在(2025年12月)の日露関係では実現が困難な状況である。
まとめ ―150年を経てなお解決されない問題
江戸幕府が一貫して主張し相手に首肯させた北方領土に、実態としては今に続く薩長政権の明治政府、多大なる犠牲者と莫大な財力の消耗により国家存亡の危機を招き、150年以上の時を経ても、北方領土を無に帰した上ただ問題を残したままである。
露西亜は樺太・北方領土で軍事演習を進め、北方領土を自国の領土とする姿勢を鮮明にする。安倍政権から岸田政権、石破政権、そして高市政権に至るまで、すべては大言壮語、空言、虚言だけで能力が伴わず、成果が得られず、挙句の果て先延ばしを計る癖が問題解決を更に遠ざける。
未来志向をもって現実の処理(事実)から逃れるなど愚かな政治手法である。適切に処理されなかった現実は常に素早く追いついて来る。北方領土問題は、日本、ロシア(ソ連)、米国という三国の複雑な利害関係の中で形成され、現在に至るまで未解決のまま残されている。
江戸幕府が確立した北緯五十度以南という原則は、明治政府の樺太放棄により無に帰し、日露戦争での多大な犠牲によって一時回復したものの、第二次世界大戦の敗北とヤルタ協定により完全に失われた。
この問題の本質は、敗戦国としての現実を直視せず、米国の世界戦略とソ連(ロシア)の安全保障上の要求という二つの大国の思惑の狭間で、日本が主体性を持った解決策を見出せないでいることにある。
安倍政権は27回の首脳会談と経済協力という「新しいアプローチ」を試みたが、結果としてロシアの憲法改正による領土割譲禁止条項の追加を招き、さらにウクライナ侵攻によって日露関係は完全に断絶した。岸田政権、石破政権、高市政権と政権交代を重ねても、G7の一員としてウクライナを支援する立場とロシアとの領土交渉という矛盾した要求を両立させることはできない。
領土返還という悲願は理解できるが、150年以上に亘る煩悩は、冷厳な国際政治の現実の前に、除夜の鐘をもってしても除去することは困難である。もともと四島返還は、日本自身の主体的外交判断から自然発生的に形成された要求というよりも、戦後の冷戦構造の中で、米国の戦略的思惑によって方向付けられた政治的要求であった。そして、それは結果として"常に現状維持=日ロのいざこざ"を意味する構造を生み出した。
米国は、日露間の関係が領土問題の包括的解決を通じて接近することを望まず、むしろ未解決の懸案を残すことで、日本を確実に自陣営に留め置くことを合理的選択としてきた。他方でロシアもまた、米国との対立構造の中にある以上、日本に対して領土的譲歩を示すことができない。この相互抑制の構造が維持される限り、北方領土問題の解決が実現する可能性は極めて低いと言わざるを得ない。
米国は日本とロシアが接近することを望まず、他方でロシアは米国との対立の中で日本への譲歩を示すことができない。この構造が変わらない限り、北方領土問題の解決は望めない。
ウクライナ侵攻という新たな現実は、この問題をさらに困難なものとした。ロシアは国際社会(西側)から孤立し、日本はG7の一員として対露制裁を継続せざるを得ない。元島民の高齢化が進み、時間的猶予はもはやほとんど残されていない中で、日本政府は「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という基本方針を繰り返すだけで、具体的な道筋を示すことができない。
安倍首相が云ったように"アメリカとロシアの関係も交渉に影響"してくるとすれば、日ロ相互に"一切の前提条件を設けず"でも、平和条約締結は不可能である。そして、領土不拡大を声高にするのも正当かも知れないが、国際社会が受け入れるかどうかは定かでない。第二次世界大戦に敗れたドイツの其の後を見れば、敗戦国の領土問題がいかに厳しいものであるかは明らかである。
2025年12月現在、北方領土問題は事実上凍結状態にある。ウクライナ戦争が終結し、国際情勢が大きく変化しない限り、この状況は続くであろう。安倍政権が賭けた「個人的関係構築による突破口」は、プーチン大統領の憲法改正とウクライナ侵攻という形で完全に裏切られた。岸田政権は現状維持に徹し、石破政権は短命に終わり、高市政権は発足したばかりで方針を示す段階にすらない。しかし、その時が来たとしても、果たして日本に交渉の余地は残されているのか。
150年以上にわたり積み重ねられてきたこの問題の先に待つものは、楽観的な解決ではなく、冷厳な国際政治の現実である。歴史は、安易な楽観論を許さない冷厳な現実を我々に突きつけている。江戸幕府が川路聖謨を通じて確立した外交原則、明治政府が榎本武揚を通じて失った樺太、日露戦争で多大な犠牲を払って回復した南樺太、そしてヤルタ協定で失われた全て――この歴史の積み重ねが示すのは、大国間の力学の前に小国が如何に無力であるかという厳然たる事実である。そして今、ウクライナという新たな悲劇が、この問題の解決をさらに遠ざけている。
【閑話 完】
【引用・参照・底本】
桃源閑話Ⅱ “対話のための対話は意味がない”の典型、北方領土問題 - 2018年09月25日 12:14
越水桃源:https://www.asahi-net.or.jp/~np9i-adc/
安倍首相 北方領土問題解決には安保上の課題克服が必要
NHK NEWS WEB 2018年9月17日 23時46分北方領土
プーチン大統領「平和条約締結を年内に」提案に 日本政府「四島帰属の解決が先」 ロシアは交渉「即刻行える」
SPUTNIK 2018年09月12日 20:47(アップデート 2018年09月12日 22:02)
露日の平和条約を前提条件を一切設けず、年末までに締結しましょう=プーチン大統領 SPUTNIK 2018年09月12日 15:35(アップデート 2018年09月12日 21:18)
サハリン・北方領土で対日戦勝記念式典 ロシアの領土強調
NHK NEWS WEB 2018年9月2日 17時04分北方領土
外務省「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集 1992年版」
外務省「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集 2001年版」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/ryodo.html
http://www8.cao.go.jp/hoppo/shiryou/gaikou.html
北方領土問題の歴史的淵源と日露米三国の関わり
序論
北方領土問題は、現代日本における未解決の重要な外交課題である。この問題の淵源を辿ると、江戸幕府末期のロシアの東進政策に行き着く。以下、歴史を辿りながら、ソ連(現在のロシア)、日本、そして米国の関わり合いを詳細に論じる。
江戸幕府期における日露国境画定交渉
十九世紀半ば、ロシアは東進政策を堅持し、その手は樺太、千島へと伸びていた。1853年(嘉永六年)、ロシア提督プチャーチンは四隻の軍艦を従え長崎に来航し、日露の境界画定を求めた。幕府は川路左衛門尉(川路聖謨)等を長崎に遣わし折衝に当たらせた。ゴンチャロフは川路について、「非常に聡明であった」と評し、その知力と練達を高く評価した。
ロシア側は「千島、樺太の所属が明確でなく、特に樺太においてはロシア人の移住が盛んで、このまま放置すれば日本領と認むべき部分にもロシア人が多数居住することになる」と主張した。具体的には、「択捉島は全部露領であること、樺太は南側の亜庭湾(アニワ湾)附近のみが日本領であり、その他は総て露領であること」と主張した。
これに対し川路聖謨は、「択捉島はもちろん日本領であること、樺太に関しては北緯五十度をもって日露の境界をなすこと」と主張した。結果として、択捉島は日本領であることを認め、樺太問題は後日実地に確かめることとなった。
安政元年12月21日(西暦1855年2月7日)調印の日本国魯西亜国通好条約第二条で、「今より後、日本国と魯西亜国との境は、エトロフ島とウルップ島との間に在るべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島及び夫より北方クリル諸島は魯西亜に属す。カラフト島に至りては、日本国と魯西亜国との間に於て、界を分たず、是まて仕来の通たるべし」と定められた。
条約交換までの間に、幕府は樺太の実地検分をし、樺太には露人は居住していないとの判断を下した。これ以前にも五回に及ぶ樺太視察を為し、露人のいなかったことが知られている。この樺太視察には堀織部正の従僕として若年の榎本釜次郎(榎本武揚)も従った。
その後、幕府は懸案の樺太境界問題に決着をつけるべく、文久元年(1861年)に安藤対馬守(安藤信正)はロシアに全権を派遣した。松平石見守(松平康英)は、「五十度以南を日本領とすること。翌文久三年、日露両国から境界委員を現地に派遣し、実地立ち合いの上取りまとめること」を、イグナチーフに認めさせた。しかし、当時の国内事情で安藤老中は攘夷論者に疎まれ文久二年(1862年1月)坂下門外で襲撃され負傷、老中を追われる身となり、約束を果たせず、これまで通り両国の共有ということになった。
界を分たず、とし未分界と定められた後、江戸幕府は樺太の南部を北海道・南千島と共に再び直轄地とした。樺太は鰊・鮭・鱒など魚類の宝庫であり、日本人の進出は漁業の拡大によってのみ可能とされ、新漁場の開発に着手した。
明治政府による樺太千島交換条約
江戸幕府が一貫して取った主張が明治新政府になり、七年に樺太を放棄し、千島と交換するという方策を立てた。「樺太の地たる、絶域の孤島、窮陰冱寒にして、固より磽确斥鹵(こうかくせきろ/こうかくせきろう)」、以って栽すべき所に非ず云々」という開拓次官黒田清隆の意見を外務卿寺島宗則が採ったためでもあった。
黒田清隆は、戊辰戦争で箱館五稜郭に立てこもり新政府軍に抗した榎本軍を攻略した政府軍参謀であった。彼は敵将である榎本の人物識見に深く好意をよせていた。黒田は樺太放棄論の急先鋒であり、彼の人事で榎本武揚を海軍中将に任じ、特命全権大使としてロシアに派遣することにした。このことは既に樺太全島をロシアに譲り、代わりに千島全島を日本領にするという樺太・千島交換の方針が決定していたことを意味した。
条約改正を目的とした大使の岩倉具視、副使の木戸孝允・大久保利通・伊藤博文等の岩倉遣米欧使節団が条約改正の不成功に終わり、明治六年(1873年9月)に帰国する。この外遊派と西郷・板垣退助・江藤新平らの西郷隆盛朝鮮遣使への賛否をめぐり征韓論政変が起こる。この10月の政変で征韓派は下野する。
この時の使節派遣の反対口実となったのが、樺太問題であった。「樺太の日本人を保護し日本の権利を擁護することをしないで、朝鮮の無礼をむりにこじつける」と、岩倉・大久保・木戸・黒田はみな其の不当を詰った。岩倉そして大久保らは、その手前上、問題の解決を急いだ。
明治政府はその成立時から一貫して征韓を目指していた。征韓論は、樺太開拓つまり対露抵抗論とは財政面からだけでも両立せず、樺太放棄論であった。新政府軍に抗した旧幕府の国際知識豊富な榎本武揚を樺太領土交渉に用いた。
政府が榎本武揚に与えた極秘の箇条書の中に、「彼我雑居ヲ廃シ境界を定る事」、「今全島ヲ魯国ノ有ト為スニ於テハ、露西亜右ニ釣合フヘキ地ヲ我ニ譲ベシ」とある。
明治八年(1875年5月7日)、ペテルブルグで日本全権榎本武揚とロシア宰相兼外相ゴルチャコーフ公爵による「樺太千島交換条約」の調印となる。元来、江戸幕府は「日本国と魯西亜国との境は、エトロフ島とウルップ島との間に在るべし」としていたのだから、北千島と樺太全島(イグナチーフに認めさせた五十度以南を日本領とすることも放棄して)を交換したことになる。言い換えれば、ロシア領の五十度以北の樺太と千島列島のうち得撫島以北の島々を日本領とすべく交換したことになる。また、経済的には比較にならない貧弱な北千島と南樺太とを交換したともいえる。
日露戦争とポーツマス条約
明治三十八年(1905年)樺太を軍事占領。しかし、結果はポーツマス条約(明治三十八年9月5日)での「第9条 露西亜帝国政府ハ、薩哈嗹(サハリン)島南部及其ノ附近ニ於ケル一切ノ島嶼並該地方ニ於ケル一切ノ公共営造物及財産ヲ完全ナル主権ト共ニ永遠日本帝国政府ニ譲与ス。其ノ譲与地域ノ北方境界ハ北緯五十度ト定ム」に終わった。北緯五十度以南、つまり江戸幕府の主張した旧領土を回復したに過ぎなかった。
日清戦争での兵士の動員総数は約24万人であったのに対し、日露戦争では約109万人に達し、10人に1人以上の割合で戦死者・重度の戦傷者が出た。加えて約20万頭の馬も動員され、戦地で約3万8000頭が犠牲となった。講和でその犠牲に見合う賠償金・領土割譲を期待した。しかし、賠償金が得られないと知り、9月5日の東京日比谷公園での国民大会、その後に続く焼き討ち(日比谷焼き討ち事件)へと発展した。
シベリア出兵に際しては、戦費10億円、戦死者3500人以上の損害を出して終わった。一時軍事占領した北緯五十度以北の北樺太からは大正十四年(1925年5月)に撤退した。
第二次世界大戦とヤルタ協定
昭和二十年(1945年8月14日)ポツダム宣言の受諾し、15日の玉音放送を経て9月2日無条件降伏文書に調印。太平洋戦争が終結した。ポツダム宣言で、「八 カイロ宣言ノ条項は履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」と定められた。日本は南樺太と千島から駆逐された。
ここで米国の関与が決定的な意味を持つ。1945年2月、米・英・ソ3カ国首脳による対日戦に関する秘密協定となるヤルタ協定(「クリミヤ会議の議事に関する議定書中の対日関係に関する協定」)において、「二(イ)樺太の南部及びこれに隣接するすべての島を、ソヴィエト連邦に返還する」、「三 千島列島は、ソヴィエト連邦に引き渡す」と明記された。
この協定は、日本を一切交渉の主体としないまま、米国・英国・ソ連という戦勝三国の間で取り決められたものである。特に米国は、対独戦終結後におけるソ連の対日参戦を確実なものとするため、南樺太および千島列島という日本の旧領に関する領土的譲歩を、戦略的判断としてソ連に与えたのである。この時点で、北方領土問題は、日本の戦後処理としてではなく、米ソ両大国の戦略的取引の結果として枠組みが決定された。すなわち、日本はこの問題において当事者でありながら、決定権を持たない存在として、米ソ両大国の思惑の中に制度的に組み込まれる構図が形成されたのである。
原爆投下による死者総数は約30万人。日本の戦没者数約310万人、そして日中戦争での中国の犠牲者は軍民死亡2100万(1985年発表)、軍民死傷約3500万人(1995年発表)となっている。都市に対する無差別絨毯爆撃、米艦載機による那覇空襲(1944年10月10日)、東京大空襲(B29約300機)の直後に日本政府は、都市爆撃は国際法に違反であると米政府に抗議をしている。しかし、日本も日中戦争で重慶爆撃などの大規模戦略爆撃を繰り返し実施していた。説得性は別にしても抗議自体の正当性はある。当然、広島への原爆投下直後にも非軍事目標に対する攻撃であり「国際法及び人道の根本原則」に違反すると、厳重に抗議をしている。
戦後の日ソ交渉と米国の影響
戦後、日ソ関係の抜本的改善に横たわる「最も重要な課題の一つは、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題を解決して平和条約を締結し、もって両国関係の戦後期における完全な正常化を達成するという、二国間関係における過去の遺産の克服である」とされた。
日ソ共同宣言(1956年10月19日)は、「両国間の戦争状態を終結させ、外交・領事関係を回復させた。日ソ共同宣言においては、日ソ両国が正常な外交関係の回復後、平和条約締結交渉を継続すること、また、ソ連邦が平和条約締結後、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意することが規定されている」。
しかし、1960年には、「ソ連邦は歯舞群島及び色丹島の返還の前提として、日本領土からの全外国軍隊の撤退という条件を新たに課した」。ここに至って、米国の存在は日ソ交渉における外的要因ではなく、交渉そのものを制約する決定的要因として明確に作用し始める。ソ連は、日本国内に恒常的に駐留する在日米軍基地の存在を、安全保障上の直接的脅威として位置づけ、その撤退を領土返還の前提条件として提示したのである。
これは単なる外交的駆け引きではなく、日米安保体制の下にある限り、日本は領土返還交渉において主権的裁量を発揮し得ないという現実を、ソ連側が明確に突きつけたことを意味する。すなわち、在日米軍の存在は、日ソ間の領土交渉を事実上不可能化する構造的要因として機能し始め、この時点以降、北方領土問題は日ソ二国間交渉の枠を超え、米国を不可避の前提条件とする問題へと転化したのである。
その後「ソ連邦の側からは、日本とソ連邦との関係における領土問題は第二次世界大戦の結果解決済みであり、領土問題はそもそも存在しないとの立場が述べられるようになった」。更に、「1991年4月に東京で行われた日ソ首脳会談の結果発表された、4月18日付けの日ソ共同声明においては、双方は「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定の問題を含む日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約の作成と締結に関する諸問題の全体について」話し合いを行った旨述べられている。また、同声明では、平和条約締結作業の加速化の重要性が強調されている」。
国際法と大国の論理
領土不拡大という戦後処理の原則、つまり大西洋憲章(1941年8月)及びカイロ宣言(1943年11月)における領土不拡大の意図、同盟国は自国のためには利益も求めず、また領土拡張の念も有しない、である。しかし、米国などは率先して自国の為の利益を求め、今でも続けて日本にいるのではないのか。
そして、冷厳な事実、同じく第二次世界大戦に敗れたドイツの其の後はどうか。敗戦国ドイツをどのように割譲したのかである。領土不拡大を声高にするのも正当かも知れない。しかし、国際社会が受け入れるかどうかは定かでない。
現代における日露米三国の関係と安倍政権の試み
北方領土問題(二島・四島返還)絡みで安倍首相、プーチン氏との会談は22回(第1次安倍政権時代を含む)に及ぶ。北方領土問題の具体的進展という観点から見れば、27回に及ぶ首脳会談は実質的成果を伴わず、結果として安倍首相自身が批判した「対話のための対話」に近い様相を呈したと言わざるを得ない。しかし、北朝鮮と相違し、ロシアに対する制裁などの方策は日本政府に無い。
東方経済フォーラムの総会「極東:可能性の限界を拡大して」の席上、プーチンは、「70年間、我々は交渉を行ってきています。シンゾウ(安倍首相)は『アプローチを変えましょう』と言った。そこで私も次のようなアイデアを思いつきました。平和条約を結ぼうではありませんか。今すぐではなく、年末までに。一切の前提条件を設けずに」と提案した。
席上での安倍首相の対する発言は聞こえてこない。代わって、「政府としては北方四島の帰属の問題を解決して、平和条約を締結するという基本方針のもと、引き続き粘り強く交渉していきたい。その姿勢にかわりない」と、菅官房長官。つまり、これまで通りなのである。
しかし、安倍首相は「北方領土はロシアにとって安全保障上、重要な地域となっている。アメリカとロシアの関係も交渉に影響してくる」と述べた。この発言は極めて重要である。なぜなら、北方領土問題が日露二国間の交渉課題にとどまらず、日米安保体制および米露対立というより大きな国際構造の中に位置づけられていることを、自ら認めた発言だからである。
すなわち、仮に領土返還を伴わない形での日露平和条約締結という選択肢が理論上存在するとしても、日本が日米安保体制の下にある以上、それは米国の戦略的利益と無関係には成立し得ない。米国にとって、日本がロシアと和解し、東アジアにおける緊張緩和や日本の外交的自律性を高めることは、対露戦略上の抑止構造を弱める可能性を孕む。そのため、領土問題を棚上げした平和条約締結であっても、米国がこれを積極的に承認する可能性は低いと考えざるを得ない。
安倍首相が言うように「アメリカとロシアの関係も交渉に影響」するのであれば、日露が「一切の前提条件を設けず」に合意したとしても、その合意が現実に機能するかどうかは、米国の黙認を前提とせざるを得ない。四島返還要求は、戦後の冷戦構造の中で、米国が日本を自陣営に強く留め置くための外交カードとして利用された側面を持つ。したがって、その出発点には米国の戦略的思惑が色濃く反映されていたと見るべきであり、それは結果として「常に現状維持=日ロのいざこざ」を固定化する役割を果たしてきたのである。
安倍政権が模索した共同経済活動でさえ、対露制裁を主導する米国の政策と常に緊張関係にあり、日本の対露外交が構造的制約下にあることを改めて浮き彫りにした。米国の怒りを買ってまで、そして四島返還を求める国民に失望落胆をさせてまで、安倍首相の最後の政治任期を賭けて、平和条約を締結するのか、しないのか、決断を迫られている。
2014年、ロシアはウクライナのクリミア半島を併合した。これに対し日本は、G7諸国が実施した対露制裁について、査証(ビザ)協議停止など「ロシアに実害が及ばない制裁」にとどめた。2016年に安倍首相はプーチン氏を地元・山口県に招いての首脳会談で北方四島での共同経済活動に合意した。2018年の首脳会談では、返還交渉の切り札として「4島返還要求」を封印し、事実上、歯舞、色丹の「2島返還」にハードルを下げて交渉することを提案した。
しかしロシアは歩み寄るどころか、4島の主権が合法的にロシアに移ったと認めることなど、日本には受け入れられない条件を突きつけ、2020年には「領土の割譲禁止」をうたう憲法改正も行った。背景には、クリミア併合以降、欧米との関係が行き詰まったプーチン氏が、対外的な強硬路線で国内での求心力を高めようとしている事情があるとみられている。
いずれにしろ四島返還(二島返還でも)などは夢のまた夢であって、改めて日本の"何か"との交換が可能でもなければ、無理筋である。終戦でなく敗戦という事実に伴う現実を受け入れなければ、無い物ねだりである。悲願達成を叫び続けるのなら、"新たな戦争"を呼び起こすことにもなるかも知れない。そして其の結果は日本の分割統治ということにもなる。
解決済みと北朝鮮が主張する拉致問題解決を叫ぶように、領土問題は第二次世界大戦の結果解決済みという主張に、北方四島問題の解決を叫ぶのか。
安倍政権が進めた共同経済活動でさえ、下手すると米国の制裁の対象となり兼ねないのであった。そう、"制裁魔"のトランプ氏が狙いをつけてくるかも知れないという懸念があった。米国の怒りを買ってまで、そして四島返還を求める国民に失望落胆をさせてまで、安倍首相の最後の政治任期を賭けて、平和条約を締結するのか、しないのか、決断を迫られていた。
しかし、この問いに対する答えが出る前に、事態は全く異なる方向へと進んでいった。
ウクライナ侵攻と日露関係の断絶から現在へ
2020年、ロシアは「領土の割譲禁止」をうたう憲法改正を行った。これは安倍政権の対露外交に対する明確な拒絶であった。そして2022年2月24日、ロシアはウクライナに対する全面的な軍事侵攻を開始した。プーチン大統領は「特別軍事作戦」と称して首都キーウも含むウクライナ全土への武力侵攻を決行し、国際社会は直ちにこれを国際法違反の侵略行為と断じた。西側諸国は前例のない規模の経済制裁を科し、ロシア軍の侵略に対し善戦するウクライナに対しては武器供与などの軍事支援を続けた。
日本政府もG7の一員として対露制裁に参加した。これに対し2022年3月、ロシア外務省は日本との平和条約締結交渉を中断するとの声明を一方的に発表、北方領土との「ビザなし交流」などの合意破棄や、四島での共同経済活動からの離脱も表明した。岸田文雄首相は「今回の事態は全てロシアによるウクライナ侵略に起因している。ロシアの対応は極めて不当で、断じて受け入れられない。強く抗議する」と語った。
ロシアによるウクライナ侵攻の前から、領土問題の進展は見通せない状況にあったが、先行きはますます不透明となった。ウクライナ戦争が長期化の様相を呈し、日露関係も厳しい状況が続くことが予想される中、北方領土の「ロシア化」が一層進んでいる。北方領土には計1万8000人のロシア人が住み、軍も駐留し、近年ロシアは北方領土所在部隊の施設整備を進めているほか、沿岸ミサイルや戦機などの新たな装備も配備し、大規模な演習も実施するなど、不法占拠のもと軍の活動をより活発化させている。
安倍政権が進めてきた共同経済活動は完全に頓挫した。安倍首相とプーチン大統領の個人的な関係構築に賭けた外交政策は、ロシアの憲法改正による領土割譲禁止条項の追加、そしてウクライナ侵攻という形で完全に破綻した。27回に及ぶ首脳会談、経済協力の提案、そして四島返還から二島先行返還への譲歩――これらすべてが実を結ばなかったどころか、ロシアの対日姿勢をより硬化させる結果となった。
2021年10月に発足した岸田文雄政権は、ウクライナ侵攻後の厳しい日露関係の中で北方領土問題に直面した。岸田首相は2024年2月7日の「北方領土の日」に、「北方領土問題は国民全体の問題であり、国民一人一人が、この問題への関心と理解を深め、政府と国民が一丸となって取り組むことが不可欠です」と述べ、「ロシアによるウクライナ侵略によって日露関係は厳しい状況にありますが、政府として、領土問題を解決し、平和条約を締結するという方針を堅持してまいります」と表明した。
しかし、これは形式的な声明に過ぎなかった。岸田政権の対露政策は、G7との協調を重視し、ウクライナ支援を継続する一方で、北方領土問題については事実上凍結状態となった。2024年9月、石破茂氏が自民党総裁に選出され、第103代内閣総理大臣に就任したが、石破政権は短命に終わり、政権運営の混乱の中で北方領土問題に関する新たな方針を打ち出すことはできなかった。
そして2025年10月21日、高市早苗氏が第104代内閣総理大臣に指名され、日本初の女性首相が誕生した。高市政権は自民党と日本維新の会の連立政権として発足したが、衆参両院とも少数与党という不安定な政権基盤の中でのスタートとなった。高市首相は安倍晋三元首相の親密な盟友であり、「女版安倍晋三」とも称される保守派の政治家である。過去には第一次安倍内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)を務めた経験もある。しかし、高市政権発足時の記者会見でも、北方領土問題に関する具体的な言及はなく、経済対策と防災庁設置が最優先課題とされた。
2025年12月現在、高市政権は発足から約2ヶ月が経過したが、不安定な政権基盤の中で北方領土問題に取り組む余裕はない。ロシアのウクライナ侵攻は依然として続いており、G7の一員として日本は対露制裁を継続せざるを得ない。トランプ米大統領の2期目の政権がウクライナ和平交渉を模索しているが、その行方は不透明であり、仮に停戦が実現したとしても、それが日露の領土交渉再開に直結するわけではない。
元島民の平均年齢は88歳を超えており(2024年6月末現在)、時間的猶予はもはやほとんど残されていない。ビザなし交流は停止され、自由訪問も途絶えている。せめて墓参だけは続けられるようにという願いさえ、現在(2025年12月)の日露関係では実現が困難な状況である。
まとめ ―150年を経てなお解決されない問題
江戸幕府が一貫して主張し相手に首肯させた北方領土に、実態としては今に続く薩長政権の明治政府、多大なる犠牲者と莫大な財力の消耗により国家存亡の危機を招き、150年以上の時を経ても、北方領土を無に帰した上ただ問題を残したままである。
露西亜は樺太・北方領土で軍事演習を進め、北方領土を自国の領土とする姿勢を鮮明にする。安倍政権から岸田政権、石破政権、そして高市政権に至るまで、すべては大言壮語、空言、虚言だけで能力が伴わず、成果が得られず、挙句の果て先延ばしを計る癖が問題解決を更に遠ざける。
未来志向をもって現実の処理(事実)から逃れるなど愚かな政治手法である。適切に処理されなかった現実は常に素早く追いついて来る。北方領土問題は、日本、ロシア(ソ連)、米国という三国の複雑な利害関係の中で形成され、現在に至るまで未解決のまま残されている。
江戸幕府が確立した北緯五十度以南という原則は、明治政府の樺太放棄により無に帰し、日露戦争での多大な犠牲によって一時回復したものの、第二次世界大戦の敗北とヤルタ協定により完全に失われた。
この問題の本質は、敗戦国としての現実を直視せず、米国の世界戦略とソ連(ロシア)の安全保障上の要求という二つの大国の思惑の狭間で、日本が主体性を持った解決策を見出せないでいることにある。
安倍政権は27回の首脳会談と経済協力という「新しいアプローチ」を試みたが、結果としてロシアの憲法改正による領土割譲禁止条項の追加を招き、さらにウクライナ侵攻によって日露関係は完全に断絶した。岸田政権、石破政権、高市政権と政権交代を重ねても、G7の一員としてウクライナを支援する立場とロシアとの領土交渉という矛盾した要求を両立させることはできない。
領土返還という悲願は理解できるが、150年以上に亘る煩悩は、冷厳な国際政治の現実の前に、除夜の鐘をもってしても除去することは困難である。もともと四島返還は、日本自身の主体的外交判断から自然発生的に形成された要求というよりも、戦後の冷戦構造の中で、米国の戦略的思惑によって方向付けられた政治的要求であった。そして、それは結果として"常に現状維持=日ロのいざこざ"を意味する構造を生み出した。
米国は、日露間の関係が領土問題の包括的解決を通じて接近することを望まず、むしろ未解決の懸案を残すことで、日本を確実に自陣営に留め置くことを合理的選択としてきた。他方でロシアもまた、米国との対立構造の中にある以上、日本に対して領土的譲歩を示すことができない。この相互抑制の構造が維持される限り、北方領土問題の解決が実現する可能性は極めて低いと言わざるを得ない。
米国は日本とロシアが接近することを望まず、他方でロシアは米国との対立の中で日本への譲歩を示すことができない。この構造が変わらない限り、北方領土問題の解決は望めない。
ウクライナ侵攻という新たな現実は、この問題をさらに困難なものとした。ロシアは国際社会(西側)から孤立し、日本はG7の一員として対露制裁を継続せざるを得ない。元島民の高齢化が進み、時間的猶予はもはやほとんど残されていない中で、日本政府は「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という基本方針を繰り返すだけで、具体的な道筋を示すことができない。
安倍首相が云ったように"アメリカとロシアの関係も交渉に影響"してくるとすれば、日ロ相互に"一切の前提条件を設けず"でも、平和条約締結は不可能である。そして、領土不拡大を声高にするのも正当かも知れないが、国際社会が受け入れるかどうかは定かでない。第二次世界大戦に敗れたドイツの其の後を見れば、敗戦国の領土問題がいかに厳しいものであるかは明らかである。
2025年12月現在、北方領土問題は事実上凍結状態にある。ウクライナ戦争が終結し、国際情勢が大きく変化しない限り、この状況は続くであろう。安倍政権が賭けた「個人的関係構築による突破口」は、プーチン大統領の憲法改正とウクライナ侵攻という形で完全に裏切られた。岸田政権は現状維持に徹し、石破政権は短命に終わり、高市政権は発足したばかりで方針を示す段階にすらない。しかし、その時が来たとしても、果たして日本に交渉の余地は残されているのか。
150年以上にわたり積み重ねられてきたこの問題の先に待つものは、楽観的な解決ではなく、冷厳な国際政治の現実である。歴史は、安易な楽観論を許さない冷厳な現実を我々に突きつけている。江戸幕府が川路聖謨を通じて確立した外交原則、明治政府が榎本武揚を通じて失った樺太、日露戦争で多大な犠牲を払って回復した南樺太、そしてヤルタ協定で失われた全て――この歴史の積み重ねが示すのは、大国間の力学の前に小国が如何に無力であるかという厳然たる事実である。そして今、ウクライナという新たな悲劇が、この問題の解決をさらに遠ざけている。
【閑話 完】
【引用・参照・底本】
桃源閑話Ⅱ “対話のための対話は意味がない”の典型、北方領土問題 - 2018年09月25日 12:14
越水桃源:https://www.asahi-net.or.jp/~np9i-adc/
安倍首相 北方領土問題解決には安保上の課題克服が必要
NHK NEWS WEB 2018年9月17日 23時46分北方領土
プーチン大統領「平和条約締結を年内に」提案に 日本政府「四島帰属の解決が先」 ロシアは交渉「即刻行える」
SPUTNIK 2018年09月12日 20:47(アップデート 2018年09月12日 22:02)
露日の平和条約を前提条件を一切設けず、年末までに締結しましょう=プーチン大統領 SPUTNIK 2018年09月12日 15:35(アップデート 2018年09月12日 21:18)
サハリン・北方領土で対日戦勝記念式典 ロシアの領土強調
NHK NEWS WEB 2018年9月2日 17時04分北方領土
外務省「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集 1992年版」
外務省「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集 2001年版」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/ryodo.html
http://www8.cao.go.jp/hoppo/shiryou/gaikou.html

