夏目漱石 ― 2022-05-01 17:43
『伊豫の湯』虚子著 桃甫畫
(37-52)
夏目漱石 2022.05.01
彼は閑を見出せば此道後温泉に來た。別に石鹸を塗り立てたり、手拭でごしごしと洗つたりするでも無く、唯心の赴くまゝに湯の中に浸つたり又出たりしてぼんやりと時間を過ごした。石段に腰を掛けて脚の下部を湯に浸したまゝで、手を膝の邊に置いたり、時に手拭で背中に湯をかけたりして體の冷えるるのも忘れてゐた。漸く體の冷えるのに氣がつくと又湯の中に浸つた。
彼は又こゝの鮒屋といふ宿にはじめて西洋料理の出來ることを知つて、よく其を食ひに立ち寄つた。其は東京あたりで食ふ西洋料理よりはまづくつて硬かつたが其でも我慢して食つた。彼は折角此田舎の宿屋が西洋料理を作り始めたのに其れを食ふものが少なくつては忽ち又止めはしないだらうかといふことを心配してゐた。それで屢々其を食ひに立寄つたのは獎勵の心持もあるのであつた。
彼は松山の中學校で英語を教へてゐた。彼の大學の卒業論文は十八世紀の英文學といふのであつたが、此田舎の中學校で教える教科書は程度の低いものであつた。それでも間々其教科書の中に立派な小説や詩の一片があつた。
紫陽花や青にきまりし秋の雨 子規
彼は鮒屋の硬い西洋料理を噛むよりはもつと熱心に忠實に咀嚼して其を生徒に講義して遣つた。けれども彼の懇篤な講義を本當に受取る生徒は餘り綯いうに彼には思はれた。其許りか其生徒の多くは彼が學殖を尊敬するよりも寧ろ彼の世俗に遠いのを輕侮する傾きがあるやうに彼には思へた。彼は其を樂しまなかった。粗末な不愉快な校舎の中で其等の生徒に程度の低い英語を教へて、それで粗野な其の田舎者の生徒から輕侮されるのは決して樂しい日課では無かつた。彼は早く此地を去り度いと思ふことも一再では無かつたが、彼を此の地から引き離し兼ねるものに唯一つの道後温泉があつた。彼は學校をすませて歸ると手拭を手にして早速此の温泉に出掛けた。日曜日などは石手川から石手寺あたりを散歩して其足で此温泉に浸つた。彼が此の温泉に浸る時の心持は極めて純な清い静かなものであつた。其頃の道後温泉には今程の浴客はなかつた。彼は時に御影石の新らしい石段に腰をかけて其足の甲を温泉の中に遊ばせながら此温泉を唯一人で占領してゐるやうな心持でゐることもあつた。彼は又石槽から落ちて來る温泉に自分の膚を打たせつゝ自分の體を大理石像の如く、其に落ちかゝる湯を銀の柱の如く考へることもあつた。自分の手の先から白い布ざらしの如く温泉の中に棚引いてゐる手拭を彼は天人の肩から流れてゐる五彩の切かと眺めることもあつた。彼は斯くの如くして過ごす此温泉の中の時といふものを普通の世間の時といふものと同じには考へ度くなかつた。強ひて類を求むれば其は彼が靜かかなる灯火の下に會心の書に讀み耽る其の間にすぎ行く時と似たものであつた。
「自分は此温泉あればこそ此地に留るのだ。」
彼は温泉の中に浸り乍らさう考へた。自然が此偏僻の田舎に斯の如くして下した天惠を彼は不思議に眺めた。清透なる其質、好適なる其温度,盡くること無き其量、恰も彼が書物を透して得來る哲人の智や情や徳と似通うたものがあつた。彼の目に粗野と映じ輕薄と映じ偏狭と映ずる此の田舎の人情風俗は彼の忍び難い所のものであるが、唯此の温泉あることによつて彼はこゝに哲人の座下に在るが如く唯一の慰藉を見出すのであつた。
彼が此温泉に通ふ路で最も多く出逢ふものは四國遍路であつた。其れは年とつたもの、若いもの、男、女、病人、子供、あらゆる人間を包含してゐた。いずれも背に着てゐるおひずる寺々の判をもらつて四國八十八箇所の巡拝を證明してゐた。彼が石手寺に行つた時其處には殊に澤山の
水たまりに落ちて雨降る椿かな 虚子
遍路を見出した。佛殿の前に立つて一時間二時間もの長い間去ることを惜しむものゝ如く祈願をこめてゐるものもあり、此上歩みを運ぶことの出來ない疲れ果てた人のやうに、ぐたりと石の上に腰を下ろして杖を兩手に體を支へてゐるものもあり、又盲ひてゐる子の手をひいて親子一緒に聲を揃へて佛を念じてゐるものもあり、又顔や手の見るも恐ろしく壞れてゐるものもあり、其等の人が彼處にも此處にも、唯御佛の力で救はれようとして一生懸命になつてゐるのが彼の心を痛ましむる許りであつた。
「これ等は久しく見るに堪えない醜い世界だ。」
彼はさう考へて、いつも歩みを返した。彼は元来此石手寺の堂塔の古い建物として特に美術的であることに興味を覺えてよくこゝに足を運ぶのであつたが、唯だ此の四國遍路のいたましい一群に逢着することによつて長く其處に佇まることをようしなかつたのである。
唯同じ四國遍路も其が道後の町の温泉煙りの間に見出される時は全く違つた感じを彼に與へた。或時彼は石手寺から今少し石手川の上流に散歩を試み、日暮近くなつて道後の町に這入つた時に其處に一群の遍路を見出した。其遍路は先に石手寺で出逢つたところのものであつて、其等
五月雨や魚捕る人の流るべう 虚子
は病人でも片輪でも無いたゞの健康な人であつたが、其でゐて一分でも一寸でも無い佛の利益の多からんことを希ふやうに一生懸命に祈願を籠めてゐた。其がこゝでは全く種類の違つた人のやうに暢氣な顔をしてゆつくりと此の温泉町歩いてゐるのを見た。其から時に立どまつては評議をして居るのは是等を泊めることを營業としてゐる遍路宿のどれを選まうかを詮議してゐるのであつた。彼は石手寺を背景とした遍路よりも此の温泉町を背景とした遍路の方に好感を持つことが出來た。其等の遍路が今宵此の温泉の町に泊つて草臥を温泉に醫する事を思ふと彼の心は彼の石手寺で得た痛みから容易く救はれることが出來るのであつた。
彼は獨り遍路許りで無く、此國の遠い田舎からは固より、瀬戸内海の島々、廣島縣其他土地の人から言はせると向へ地と言はれてゐる中國邊の細民の病を醫する爲めに此温泉に集つて來る人々の多いのを明にした。さうして其等は大方木賃と稱へる安宿に起居してゐることを知つた。彼は其事を知つて後ち俟ちを歩く度びに其らしいものに澤山出逢つた。其等は皆貧しい服装をしてゐたが大方温泉に浸つてうだつたやうな顔をしてゐた。彼は其等の人人を見る度に軽い快さとをかしさを覺えた。
彼が熊本の高等學校の教諭に榮轉して松山を去らねばならぬと極つた時、彼は此の地の人情風俗に別るゝことを惜まなかつたが、唯此の道後温泉と離れねばならぬことを悲んだ。彼は出發の前日長い時間を此の温泉に費した。
彼は熊本の高等學校に轉じ大學の講師をも兼ねて其處で英文學を講じた。又其傍らに試みた彼の創作は忽ち洛陽の紙價を高からしめた。彼は遂に大學の教師を一擲して新聞社の聘に應じ創作家として立つた。彼は須臾にして文壇の第一人者となつた。彼は其間に病を得た。其後ち天は長く彼に齡を假さなかつた。
此の後半期に於ける彼の活動、彼の盛名、彼の得意、それは果たして彼自身でも豫期して居つたところのものであつたらうか。まことに彼の後半生は花やかな目ざましいものであつた。而かも彼が道後温泉を浴びながら其處に味つた純な靜な清い時を其後彼は再び彼の「時」のうちに見出し得たかどうか。其は疑問とすべきである。
彼とは夏目漱石の事である。
引用・参照・底本
『伊豫の湯』虚子著 桃甫畫 大正八年四月十五日發行
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(37-52)
夏目漱石 2022.05.01
彼は閑を見出せば此道後温泉に來た。別に石鹸を塗り立てたり、手拭でごしごしと洗つたりするでも無く、唯心の赴くまゝに湯の中に浸つたり又出たりしてぼんやりと時間を過ごした。石段に腰を掛けて脚の下部を湯に浸したまゝで、手を膝の邊に置いたり、時に手拭で背中に湯をかけたりして體の冷えるるのも忘れてゐた。漸く體の冷えるのに氣がつくと又湯の中に浸つた。
彼は又こゝの鮒屋といふ宿にはじめて西洋料理の出來ることを知つて、よく其を食ひに立ち寄つた。其は東京あたりで食ふ西洋料理よりはまづくつて硬かつたが其でも我慢して食つた。彼は折角此田舎の宿屋が西洋料理を作り始めたのに其れを食ふものが少なくつては忽ち又止めはしないだらうかといふことを心配してゐた。それで屢々其を食ひに立寄つたのは獎勵の心持もあるのであつた。
彼は松山の中學校で英語を教へてゐた。彼の大學の卒業論文は十八世紀の英文學といふのであつたが、此田舎の中學校で教える教科書は程度の低いものであつた。それでも間々其教科書の中に立派な小説や詩の一片があつた。
紫陽花や青にきまりし秋の雨 子規
彼は鮒屋の硬い西洋料理を噛むよりはもつと熱心に忠實に咀嚼して其を生徒に講義して遣つた。けれども彼の懇篤な講義を本當に受取る生徒は餘り綯いうに彼には思はれた。其許りか其生徒の多くは彼が學殖を尊敬するよりも寧ろ彼の世俗に遠いのを輕侮する傾きがあるやうに彼には思へた。彼は其を樂しまなかった。粗末な不愉快な校舎の中で其等の生徒に程度の低い英語を教へて、それで粗野な其の田舎者の生徒から輕侮されるのは決して樂しい日課では無かつた。彼は早く此地を去り度いと思ふことも一再では無かつたが、彼を此の地から引き離し兼ねるものに唯一つの道後温泉があつた。彼は學校をすませて歸ると手拭を手にして早速此の温泉に出掛けた。日曜日などは石手川から石手寺あたりを散歩して其足で此温泉に浸つた。彼が此の温泉に浸る時の心持は極めて純な清い静かなものであつた。其頃の道後温泉には今程の浴客はなかつた。彼は時に御影石の新らしい石段に腰をかけて其足の甲を温泉の中に遊ばせながら此温泉を唯一人で占領してゐるやうな心持でゐることもあつた。彼は又石槽から落ちて來る温泉に自分の膚を打たせつゝ自分の體を大理石像の如く、其に落ちかゝる湯を銀の柱の如く考へることもあつた。自分の手の先から白い布ざらしの如く温泉の中に棚引いてゐる手拭を彼は天人の肩から流れてゐる五彩の切かと眺めることもあつた。彼は斯くの如くして過ごす此温泉の中の時といふものを普通の世間の時といふものと同じには考へ度くなかつた。強ひて類を求むれば其は彼が靜かかなる灯火の下に會心の書に讀み耽る其の間にすぎ行く時と似たものであつた。
「自分は此温泉あればこそ此地に留るのだ。」
彼は温泉の中に浸り乍らさう考へた。自然が此偏僻の田舎に斯の如くして下した天惠を彼は不思議に眺めた。清透なる其質、好適なる其温度,盡くること無き其量、恰も彼が書物を透して得來る哲人の智や情や徳と似通うたものがあつた。彼の目に粗野と映じ輕薄と映じ偏狭と映ずる此の田舎の人情風俗は彼の忍び難い所のものであるが、唯此の温泉あることによつて彼はこゝに哲人の座下に在るが如く唯一の慰藉を見出すのであつた。
彼が此温泉に通ふ路で最も多く出逢ふものは四國遍路であつた。其れは年とつたもの、若いもの、男、女、病人、子供、あらゆる人間を包含してゐた。いずれも背に着てゐるおひずる寺々の判をもらつて四國八十八箇所の巡拝を證明してゐた。彼が石手寺に行つた時其處には殊に澤山の
水たまりに落ちて雨降る椿かな 虚子
遍路を見出した。佛殿の前に立つて一時間二時間もの長い間去ることを惜しむものゝ如く祈願をこめてゐるものもあり、此上歩みを運ぶことの出來ない疲れ果てた人のやうに、ぐたりと石の上に腰を下ろして杖を兩手に體を支へてゐるものもあり、又盲ひてゐる子の手をひいて親子一緒に聲を揃へて佛を念じてゐるものもあり、又顔や手の見るも恐ろしく壞れてゐるものもあり、其等の人が彼處にも此處にも、唯御佛の力で救はれようとして一生懸命になつてゐるのが彼の心を痛ましむる許りであつた。
「これ等は久しく見るに堪えない醜い世界だ。」
彼はさう考へて、いつも歩みを返した。彼は元来此石手寺の堂塔の古い建物として特に美術的であることに興味を覺えてよくこゝに足を運ぶのであつたが、唯だ此の四國遍路のいたましい一群に逢着することによつて長く其處に佇まることをようしなかつたのである。
唯同じ四國遍路も其が道後の町の温泉煙りの間に見出される時は全く違つた感じを彼に與へた。或時彼は石手寺から今少し石手川の上流に散歩を試み、日暮近くなつて道後の町に這入つた時に其處に一群の遍路を見出した。其遍路は先に石手寺で出逢つたところのものであつて、其等
五月雨や魚捕る人の流るべう 虚子
は病人でも片輪でも無いたゞの健康な人であつたが、其でゐて一分でも一寸でも無い佛の利益の多からんことを希ふやうに一生懸命に祈願を籠めてゐた。其がこゝでは全く種類の違つた人のやうに暢氣な顔をしてゆつくりと此の温泉町歩いてゐるのを見た。其から時に立どまつては評議をして居るのは是等を泊めることを營業としてゐる遍路宿のどれを選まうかを詮議してゐるのであつた。彼は石手寺を背景とした遍路よりも此の温泉町を背景とした遍路の方に好感を持つことが出來た。其等の遍路が今宵此の温泉の町に泊つて草臥を温泉に醫する事を思ふと彼の心は彼の石手寺で得た痛みから容易く救はれることが出來るのであつた。
彼は獨り遍路許りで無く、此國の遠い田舎からは固より、瀬戸内海の島々、廣島縣其他土地の人から言はせると向へ地と言はれてゐる中國邊の細民の病を醫する爲めに此温泉に集つて來る人々の多いのを明にした。さうして其等は大方木賃と稱へる安宿に起居してゐることを知つた。彼は其事を知つて後ち俟ちを歩く度びに其らしいものに澤山出逢つた。其等は皆貧しい服装をしてゐたが大方温泉に浸つてうだつたやうな顔をしてゐた。彼は其等の人人を見る度に軽い快さとをかしさを覺えた。
彼が熊本の高等學校の教諭に榮轉して松山を去らねばならぬと極つた時、彼は此の地の人情風俗に別るゝことを惜まなかつたが、唯此の道後温泉と離れねばならぬことを悲んだ。彼は出發の前日長い時間を此の温泉に費した。
彼は熊本の高等學校に轉じ大學の講師をも兼ねて其處で英文學を講じた。又其傍らに試みた彼の創作は忽ち洛陽の紙價を高からしめた。彼は遂に大學の教師を一擲して新聞社の聘に應じ創作家として立つた。彼は須臾にして文壇の第一人者となつた。彼は其間に病を得た。其後ち天は長く彼に齡を假さなかつた。
此の後半期に於ける彼の活動、彼の盛名、彼の得意、それは果たして彼自身でも豫期して居つたところのものであつたらうか。まことに彼の後半生は花やかな目ざましいものであつた。而かも彼が道後温泉を浴びながら其處に味つた純な靜な清い時を其後彼は再び彼の「時」のうちに見出し得たかどうか。其は疑問とすべきである。
彼とは夏目漱石の事である。
引用・参照・底本
『伊豫の湯』虚子著 桃甫畫 大正八年四月十五日發行
(国立国会図書館デジタルコレクション)
一つの習慣 ― 2022-05-02 08:33
『鄥其山漫文 生ける支那の姿』
魯迅 序 内山 完造著
(二二 - 二六頁)
一つの習慣 2022.05.02
私は常に新聞飢上に見たり、又人の噂で聞く所の日本人と、中國人との間に發生する事件やごたごたを考へて見るのに、其の大部分が相互の習慣の相違、言語の不通を原因としてゐる樣に考へられる。
今茲に日本船の乘組員が上海に上陸して、黄包車に乘つて見物に出たとする。此の船員君は夜明け方になつて蒼い顔をして本船に歸つて來た。そして早速日本領事館に惡車夫の爲所持金、所持品を卷き上げられて、遂に人事不省になるまで打たれたと届出で、また之と同樣の新聞記事が現れたとする。此の人の訴への言葉を僞りとか嘘とか、(それは故意でなく)言ふものは一つもないとして考へて見る、成程車夫の中には仲々の者が多い。又絶對に惡車夫が居ないと言ふことは勿論できない。しかし多くの場合、こうした事件の原因は言語の不通――例へ少し位の英語や支那語が通じて居つても――及び彼等車夫の習慣に暗い處から思違ひ等をして、思ひ掛けないことになるのではあるまいか。
こうした事件はけだし次の樣な間違から起るものではあるまいか。先づ日本の上海不案内の人の腦裡に必然的に一つの先入主がある。それは屢々上海通の人々の中でも見受けられることであるが、上海と言ふ處は怖しい都會であり、上海の車夫中には惡漢が澤山居て、不案内の人を自分の巣窟や、淋しいところへ引き込んで。所持品殘らず掠奪して了ふといふことである。此の先入主か問題の種子である。
どうも今日まで私の接した人の、非常に多くの腦裡には殘念ながら斯うした先入主があることを認める。此の事件の船員も矢張り御多分に漏れず、斯うした頭の持主であつたらうと思ふ。
そして一語か二語、たとへばデイコ、プヨウ程度の上海語を知つて居る人と思はれる。南京路、四馬路を見物したり、虹口、呉淞路邉を散歩したりして、北四川路邉の知人の宅で夕飯でも御馳走になつて十時頃まで話して、さあ歸るとなつて、バスはなし、電車は乘替が面倒だし、そこで結局車を求めたのであるが、此の車夫との間に問題が發生したのである。
此の事件で考へなければならないことは中國車夫の習慣である。彼等は土地の案内を知つた者程近道をすると言ふことである。其の近道の仕方は日本人には想像つかない樣な道を通るのである。
此の近道をする場合、晝でもあれば四邉が見へるから未だ良いとして、それでも狭い路で頭上には種々な着物などぶら下つてゐる樣な中を引張つて行かれたならば、馴れた者でも時には驚くこともあるから、不案内の人はびつくりするに定つてゐる。そこに來て又怖しいと言ふ先入主が働くから、之はてつきり惡漢の巣窟に引込まれたに異ひないと早合點するのは、輕卒ではあるが、無理のないことなのである。夜の場合は、そんな狭い露路でなくとも、明るい街から急に暗い横町へ折れて、少し薄暗い場所へ這入れば、それだけで恐怖病に懸つてゐる人には、はつとするのは當然である。
此の事件の御本尊も、きつと北川四路から、車夫の近道で暗い横町へ折れた時にしまつた、此奴てつきり惡漢だと早合點したものであらう。期うなると人はぢつとしてはゐられないものである。何とかして逃れなければならんと思ふのは腕力の無い人々で、少し腕に覺えのある人なれば、一寸機先を制して此の野郎位で一つぽかんとなぐつたであらう。車夫は驚いて、「アイヤ、アイヤ」と叫ぶ、野次馬がいつぱいよつて來る。腕力先生、多數に無勢で、言語は不通、亂射、亂撃、雨霰と言つた樣なことに出遭つてしまふであらうと想像される。若し機先を制せず逃れ樣とすれば、車夫の方では乘り逃げをされると考へて、大聲を擧げて叫ぶ、それから先きは、言語の不通と恐怖心とで極度におびへてゐる。隙を見て一目散に逃げ樣とする、さあ斯うなつたら最後、矢張り亂射、亂撃である。或は斯うしたことであつたかも知れぬ。
兎に角、この事件では日本人の先入主である恐怖心と言語の不通と、車夫の近道が原因である様に思はれる。車夫問題も酒と言ふ物を除いては大體こんなものである。そうすると重要なことは、習慣を知らないことゝ、言語の不通なことである。
要するに日支何れの人々も、お互ひ習慣を知ると言ふことは、之を小にして個人問題の了解、及び事件の発生と豫防に、之を大にして國際間の紛爭も。容易に解決出來るものであると考へられる。
引用・参照・底本
『鄥其山漫文 生ける支那の姿』内山完造著 昭和十一年六月五日第三版 學藝書院
(国立国会図書館デジタルコレクション)
魯迅 序 内山 完造著
(二二 - 二六頁)
一つの習慣 2022.05.02
私は常に新聞飢上に見たり、又人の噂で聞く所の日本人と、中國人との間に發生する事件やごたごたを考へて見るのに、其の大部分が相互の習慣の相違、言語の不通を原因としてゐる樣に考へられる。
今茲に日本船の乘組員が上海に上陸して、黄包車に乘つて見物に出たとする。此の船員君は夜明け方になつて蒼い顔をして本船に歸つて來た。そして早速日本領事館に惡車夫の爲所持金、所持品を卷き上げられて、遂に人事不省になるまで打たれたと届出で、また之と同樣の新聞記事が現れたとする。此の人の訴への言葉を僞りとか嘘とか、(それは故意でなく)言ふものは一つもないとして考へて見る、成程車夫の中には仲々の者が多い。又絶對に惡車夫が居ないと言ふことは勿論できない。しかし多くの場合、こうした事件の原因は言語の不通――例へ少し位の英語や支那語が通じて居つても――及び彼等車夫の習慣に暗い處から思違ひ等をして、思ひ掛けないことになるのではあるまいか。
こうした事件はけだし次の樣な間違から起るものではあるまいか。先づ日本の上海不案内の人の腦裡に必然的に一つの先入主がある。それは屢々上海通の人々の中でも見受けられることであるが、上海と言ふ處は怖しい都會であり、上海の車夫中には惡漢が澤山居て、不案内の人を自分の巣窟や、淋しいところへ引き込んで。所持品殘らず掠奪して了ふといふことである。此の先入主か問題の種子である。
どうも今日まで私の接した人の、非常に多くの腦裡には殘念ながら斯うした先入主があることを認める。此の事件の船員も矢張り御多分に漏れず、斯うした頭の持主であつたらうと思ふ。
そして一語か二語、たとへばデイコ、プヨウ程度の上海語を知つて居る人と思はれる。南京路、四馬路を見物したり、虹口、呉淞路邉を散歩したりして、北四川路邉の知人の宅で夕飯でも御馳走になつて十時頃まで話して、さあ歸るとなつて、バスはなし、電車は乘替が面倒だし、そこで結局車を求めたのであるが、此の車夫との間に問題が發生したのである。
此の事件で考へなければならないことは中國車夫の習慣である。彼等は土地の案内を知つた者程近道をすると言ふことである。其の近道の仕方は日本人には想像つかない樣な道を通るのである。
此の近道をする場合、晝でもあれば四邉が見へるから未だ良いとして、それでも狭い路で頭上には種々な着物などぶら下つてゐる樣な中を引張つて行かれたならば、馴れた者でも時には驚くこともあるから、不案内の人はびつくりするに定つてゐる。そこに來て又怖しいと言ふ先入主が働くから、之はてつきり惡漢の巣窟に引込まれたに異ひないと早合點するのは、輕卒ではあるが、無理のないことなのである。夜の場合は、そんな狭い露路でなくとも、明るい街から急に暗い横町へ折れて、少し薄暗い場所へ這入れば、それだけで恐怖病に懸つてゐる人には、はつとするのは當然である。
此の事件の御本尊も、きつと北川四路から、車夫の近道で暗い横町へ折れた時にしまつた、此奴てつきり惡漢だと早合點したものであらう。期うなると人はぢつとしてはゐられないものである。何とかして逃れなければならんと思ふのは腕力の無い人々で、少し腕に覺えのある人なれば、一寸機先を制して此の野郎位で一つぽかんとなぐつたであらう。車夫は驚いて、「アイヤ、アイヤ」と叫ぶ、野次馬がいつぱいよつて來る。腕力先生、多數に無勢で、言語は不通、亂射、亂撃、雨霰と言つた樣なことに出遭つてしまふであらうと想像される。若し機先を制せず逃れ樣とすれば、車夫の方では乘り逃げをされると考へて、大聲を擧げて叫ぶ、それから先きは、言語の不通と恐怖心とで極度におびへてゐる。隙を見て一目散に逃げ樣とする、さあ斯うなつたら最後、矢張り亂射、亂撃である。或は斯うしたことであつたかも知れぬ。
兎に角、この事件では日本人の先入主である恐怖心と言語の不通と、車夫の近道が原因である様に思はれる。車夫問題も酒と言ふ物を除いては大體こんなものである。そうすると重要なことは、習慣を知らないことゝ、言語の不通なことである。
要するに日支何れの人々も、お互ひ習慣を知ると言ふことは、之を小にして個人問題の了解、及び事件の発生と豫防に、之を大にして國際間の紛爭も。容易に解決出來るものであると考へられる。
引用・参照・底本
『鄥其山漫文 生ける支那の姿』内山完造著 昭和十一年六月五日第三版 學藝書院
(国立国会図書館デジタルコレクション)
倫敦の下宿 ― 2022-05-03 08:35
『夏目漱石 文學讀本 春夏の卷』夏目漱石著
(206-211頁)
倫敦の下宿 2022.05.03
僕が是れから生活を共にすべく餘儀なくされた姉妹に就いては前囘既に述べた通りである。然し僕は此外にまだペンといふ最も敬服し且最も辟易する女の友達を一人有つてゐるから、今度は其友達の事を少し紹介しよう。
實をいふと、ペンは僕のゐる宅の下女の名なのである。さうしてベッヂパードンといふ變な渾名をもつてゐるのである。尤も此渾名は僕が命けたのだから、他へは全く通じないと思はなくては不可ない。彼女の舌は長過ぎると云つても好し、或は短か過ぎると評しても差支はないのだらう、口を利くと少し呂律の廻らない所が出來てきて、l beg your pardon といふ代りに、何時でも bedge pardon と発音する。それが如何にも異樣に響くので、僕は遂にペンの廣さへ見ればすぐ其ベツチ・パードン思ひ出さずにはゐられなくなつた結果、自然彼女にそんな渾名を命けて仕舞つたのである。
ペンはベッヂパードンの癖に非常な能辯家である。舌の先から唾液を容赦なく僕の廣に飛沫のやうに吐き懸けて、惜しい時間を遠慮なく潰させて少しも氣の毒と思はない。だからペンはたゞの能辯家ではない。能辨家の上に善人である。
此女は倫敦に生まれて丸で倫敦の事を知つて居ない。又知りたさうにもしない。朝から晩迄家の中で働くだけである。夜は四階の天井裏へ登つて寢る。翌日になると、又四階から下りて來て昨日の通り働き始める。彼女は喘息持ちである。氣息をせつせとはずまして傍から見ると如何にも氣の毒さうであるが、不思議な事に、彼女は自分自身に對して毫も氣の毒の感じを抱いてゐない。Aの字かBの字か見當が付かなくても少しの不自由もないやうに見える。僕は朝晩この聖か愚か區別の付きかねる女の廣を見て喜んでゐる。然し一度此のペンに捉まつて話しかけられたが最後、果してそれが幸福であるか、又飛んだ災難であるか、他人に判斷して貰ふより外に仕方がなくなつてしまふ。
日本にゐる人は英語なら誰の使ふ英語でも大概似たものだ位に思つてゐるかも知れないが、決してそんな單簡なものぢやない。矢張り我々の生まれた國と同じ事で、國々の方言があつたり、身分の高下があつたりして、夫れはそれは多趣多樣である。ことに此倫敦のコツクネーといふ言語になると丁度江戸つ子のベランメンと同じやうなもので、僕などには到底解らない。字引にない變な發音をする上に、前の言葉と後の言葉の句切りが分らない位早く饒舌るので好い加減な日本の英學者はすぐ參つてしまふ。僕などは無論其一人であるが、ことにペンのコツクネーと來ては何うしたつて遣り切れる譯のものではない。
僕は此家に下宿したてに屢々此ペンの襲撃を蒙つて、始めは驚き、中程は呆れ、後には大いに恐縮した。仕舞に已むを得ず其譯を上さんに話すと、ペンは大變叱られた。それ以後慎んで僕には口を利かなくなつた。然し默つてゐるのは上さんが宅にゐる間だけで、一寸でも外へ出ようものなら、平生の埋め合はせをするのは此時だと云はぬばかりの勢で僕に立ち向かつて來るから、僕は彼女が叱られない前よりも猶難儀た思ひをしなければならなくなつた。其時のペンの喋舌り方は丁度一週間斷食をしたものが、八日目になつて御櫃へ首を突込むのと同じ事で、猛烈を極めると云つても江河を決すると云つても決して誇張ではない。
僕が例の如くデンマーク・ヒルを散歩して歸ると、僕の爲めに戸を開けて呉れた此餓ゑ盡くしたペンはすぐ口を利き始めた。果して家内には誰もゐなかつた。みんな新宅へ荷物を片付けに行つて、伽藍堂の中に殘つてゐるのはペンと僕ぎりであつた。
彼女は立板に水を流すやうに十五分程何かベラベラ喋舌つたが何を言つてゐるのか僕には殆ど解らなかつた。困るのは彼女が僕に質問の餘裕を與へない事であつた。諦めをつけた僕は仕方なしにたゞペンの廣丈見てゐようと決心した。
僕は温厚なる彼女の二重瞼を見た。先の少し反り返つた彼女の鼻を見た。あくまで紅な彼女の廣色を見た。最後に自由自在に運動を貪る其舌と、舌の兩側に流れて來る白い唾液とを暫く無心に眺めてゐた僕は、やがて氣の毒のやうな、可哀相のやうな、又可笑しいやうな、變に錯雜した感じに打たれた。僕は唇を曲げて少しく微笑を洩らした。無邪氣なペンは自分の噺に身が入つて僕が微笑したものと早合點したものと見えて、赤い顏に靨湧かした。さうしてゲタゲタ笑ひ出した。僕は何うする事も出來ない。ペンは益ます乘り氣になつた。
彼女のいふ事を彼所で一句、此所で一句、僕に解つた所丈綜合して見ると、何うも斯ういふ意味らしい。
昨日差配人が來た。然し内の女連は會ふと跋が惡るいので留守を使つて追ひ返して仕舞つた。自分は神樣に濟まないから、嘘を吐くのは嫌ひだが、主婦の命令であつて見れば已むを得ない、
玄関先で誰もゐないからと斷わつて歸つて貰つた。
僕は朧氣ながらペンの意味を斯う解釋して自分の室へ入つた。昨日迄室の中にあつた僕のトランクと書籍は今朝三時頃主人が新宅の方に運んでしまつたので、殘るものは身體丈である。椅子に腰をを掛けてゐても何となく心細い。寂寞の感とは斯んたものだらうと思つた。
夜の八時頃にコツコツ戸を叩くものがあるから開けて遺るとペンが入つて來た。
「今日は差配が四遍來ました」
是れ丈は僕にも解つたが、あとは例の通りペラペラいふ音が聞こえるばかりで少しも呑み込めない。面倒だから好い加減にして追ひ下げてしまつた。
十時頃に又ペンが來た。今度は此次差配が來たら何うしょうといふ相談である。心配するには及ばないといつて又下へ追ひ返した。
やがて十時半になつた。然し宅のものはまだ歸らない。もし此所の亭主が詐僞師であつて、僕の荷物丈取つて行つて、所有主の僕を置き去りにしたものと假定すれば、随分な間抜けとして僕は嘸かし他から嘲笑されるだらうと考へて見たりした。其時門の戸が開いた。彼等は漸く歸つたらしい。僕はやつと安心して寢た。
病子規の爲に「ホトトギス」に載せた「倫敦消息」<明治三十四年。大正四年自ら朱筆を加ふ>一節。漱石は當時二箇年間の英京留學中。子規は彼の歸朝を待たで歿したが、英京から干規慰問の爲めよせたこの「倫敦消息」及び「自轉車日記」の二文は、後の漱石を約束するものであらう。倫教日記と併續されるといい。
引用・参照・底本
『夏目漱石 文學讀本 春夏の卷』夏目漱石著 昭和十一年四月十五日發行 第一書房
(国立国会図書館デジタルコレクション)
註:見返しに走り書が見られる。「明治文壇の巨匠夏目漱石の面目躍如たり 有難う御ざいました謹んで御礼申し上げます」と。
(206-211頁)
倫敦の下宿 2022.05.03
僕が是れから生活を共にすべく餘儀なくされた姉妹に就いては前囘既に述べた通りである。然し僕は此外にまだペンといふ最も敬服し且最も辟易する女の友達を一人有つてゐるから、今度は其友達の事を少し紹介しよう。
實をいふと、ペンは僕のゐる宅の下女の名なのである。さうしてベッヂパードンといふ變な渾名をもつてゐるのである。尤も此渾名は僕が命けたのだから、他へは全く通じないと思はなくては不可ない。彼女の舌は長過ぎると云つても好し、或は短か過ぎると評しても差支はないのだらう、口を利くと少し呂律の廻らない所が出來てきて、l beg your pardon といふ代りに、何時でも bedge pardon と発音する。それが如何にも異樣に響くので、僕は遂にペンの廣さへ見ればすぐ其ベツチ・パードン思ひ出さずにはゐられなくなつた結果、自然彼女にそんな渾名を命けて仕舞つたのである。
ペンはベッヂパードンの癖に非常な能辯家である。舌の先から唾液を容赦なく僕の廣に飛沫のやうに吐き懸けて、惜しい時間を遠慮なく潰させて少しも氣の毒と思はない。だからペンはたゞの能辯家ではない。能辨家の上に善人である。
此女は倫敦に生まれて丸で倫敦の事を知つて居ない。又知りたさうにもしない。朝から晩迄家の中で働くだけである。夜は四階の天井裏へ登つて寢る。翌日になると、又四階から下りて來て昨日の通り働き始める。彼女は喘息持ちである。氣息をせつせとはずまして傍から見ると如何にも氣の毒さうであるが、不思議な事に、彼女は自分自身に對して毫も氣の毒の感じを抱いてゐない。Aの字かBの字か見當が付かなくても少しの不自由もないやうに見える。僕は朝晩この聖か愚か區別の付きかねる女の廣を見て喜んでゐる。然し一度此のペンに捉まつて話しかけられたが最後、果してそれが幸福であるか、又飛んだ災難であるか、他人に判斷して貰ふより外に仕方がなくなつてしまふ。
日本にゐる人は英語なら誰の使ふ英語でも大概似たものだ位に思つてゐるかも知れないが、決してそんな單簡なものぢやない。矢張り我々の生まれた國と同じ事で、國々の方言があつたり、身分の高下があつたりして、夫れはそれは多趣多樣である。ことに此倫敦のコツクネーといふ言語になると丁度江戸つ子のベランメンと同じやうなもので、僕などには到底解らない。字引にない變な發音をする上に、前の言葉と後の言葉の句切りが分らない位早く饒舌るので好い加減な日本の英學者はすぐ參つてしまふ。僕などは無論其一人であるが、ことにペンのコツクネーと來ては何うしたつて遣り切れる譯のものではない。
僕は此家に下宿したてに屢々此ペンの襲撃を蒙つて、始めは驚き、中程は呆れ、後には大いに恐縮した。仕舞に已むを得ず其譯を上さんに話すと、ペンは大變叱られた。それ以後慎んで僕には口を利かなくなつた。然し默つてゐるのは上さんが宅にゐる間だけで、一寸でも外へ出ようものなら、平生の埋め合はせをするのは此時だと云はぬばかりの勢で僕に立ち向かつて來るから、僕は彼女が叱られない前よりも猶難儀た思ひをしなければならなくなつた。其時のペンの喋舌り方は丁度一週間斷食をしたものが、八日目になつて御櫃へ首を突込むのと同じ事で、猛烈を極めると云つても江河を決すると云つても決して誇張ではない。
僕が例の如くデンマーク・ヒルを散歩して歸ると、僕の爲めに戸を開けて呉れた此餓ゑ盡くしたペンはすぐ口を利き始めた。果して家内には誰もゐなかつた。みんな新宅へ荷物を片付けに行つて、伽藍堂の中に殘つてゐるのはペンと僕ぎりであつた。
彼女は立板に水を流すやうに十五分程何かベラベラ喋舌つたが何を言つてゐるのか僕には殆ど解らなかつた。困るのは彼女が僕に質問の餘裕を與へない事であつた。諦めをつけた僕は仕方なしにたゞペンの廣丈見てゐようと決心した。
僕は温厚なる彼女の二重瞼を見た。先の少し反り返つた彼女の鼻を見た。あくまで紅な彼女の廣色を見た。最後に自由自在に運動を貪る其舌と、舌の兩側に流れて來る白い唾液とを暫く無心に眺めてゐた僕は、やがて氣の毒のやうな、可哀相のやうな、又可笑しいやうな、變に錯雜した感じに打たれた。僕は唇を曲げて少しく微笑を洩らした。無邪氣なペンは自分の噺に身が入つて僕が微笑したものと早合點したものと見えて、赤い顏に靨湧かした。さうしてゲタゲタ笑ひ出した。僕は何うする事も出來ない。ペンは益ます乘り氣になつた。
彼女のいふ事を彼所で一句、此所で一句、僕に解つた所丈綜合して見ると、何うも斯ういふ意味らしい。
昨日差配人が來た。然し内の女連は會ふと跋が惡るいので留守を使つて追ひ返して仕舞つた。自分は神樣に濟まないから、嘘を吐くのは嫌ひだが、主婦の命令であつて見れば已むを得ない、
玄関先で誰もゐないからと斷わつて歸つて貰つた。
僕は朧氣ながらペンの意味を斯う解釋して自分の室へ入つた。昨日迄室の中にあつた僕のトランクと書籍は今朝三時頃主人が新宅の方に運んでしまつたので、殘るものは身體丈である。椅子に腰をを掛けてゐても何となく心細い。寂寞の感とは斯んたものだらうと思つた。
夜の八時頃にコツコツ戸を叩くものがあるから開けて遺るとペンが入つて來た。
「今日は差配が四遍來ました」
是れ丈は僕にも解つたが、あとは例の通りペラペラいふ音が聞こえるばかりで少しも呑み込めない。面倒だから好い加減にして追ひ下げてしまつた。
十時頃に又ペンが來た。今度は此次差配が來たら何うしょうといふ相談である。心配するには及ばないといつて又下へ追ひ返した。
やがて十時半になつた。然し宅のものはまだ歸らない。もし此所の亭主が詐僞師であつて、僕の荷物丈取つて行つて、所有主の僕を置き去りにしたものと假定すれば、随分な間抜けとして僕は嘸かし他から嘲笑されるだらうと考へて見たりした。其時門の戸が開いた。彼等は漸く歸つたらしい。僕はやつと安心して寢た。
病子規の爲に「ホトトギス」に載せた「倫敦消息」<明治三十四年。大正四年自ら朱筆を加ふ>一節。漱石は當時二箇年間の英京留學中。子規は彼の歸朝を待たで歿したが、英京から干規慰問の爲めよせたこの「倫敦消息」及び「自轉車日記」の二文は、後の漱石を約束するものであらう。倫教日記と併續されるといい。
引用・参照・底本
『夏目漱石 文學讀本 春夏の卷』夏目漱石著 昭和十一年四月十五日發行 第一書房
(国立国会図書館デジタルコレクション)
註:見返しに走り書が見られる。「明治文壇の巨匠夏目漱石の面目躍如たり 有難う御ざいました謹んで御礼申し上げます」と。
サミット ― 2022-05-04 09:16
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/rambouillet75/j01_a.html
1 ランブイエ サミット 宣 言(仮 訳)1975年11月17日
フランス、ドイツ連邦共和国、イタリア、日本国、グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の元首及び首相は、1975年11月15日から17日までランブイエ城に集い、次の通り宣言することに合意した。
我々は、この3日間に世界の経済情勢、我々の国々に共通する経済の諸問題、これらの人間的、社会的及び政治的意味あい、ならびにこれらの問題を解決するための諸構想について、十分かつ実り多き意見の交換を行った。
我々がここに集うこととなったのは、共通の信念と責任とを分ち合っているからである。我々は、各々個人の自由と社会の進歩に奉仕する開放的かつ民主的な社会の政府に責任を有する。そして、我々がこれに成功することは、あらゆる地域の民主主義社会を強化し、かつ、これらの社会にとり真に緊要である。我々は、それぞれ、主要工業経済の繁栄を確保する責任を有する。我々の経済の成長と安定は、工業世界全体及び開発途上国の繁栄を助長することとなる。
ますます相互依存が深まりつつある世界において、この宣言に述べられている諸目的の達成を確保するために、我々は、我々の十分な役割を果すとともに、経済の発展段階、資源賦存度及び政治的、社会的制度の差異を越え、すべての国々の間の一層緊密な国際協力と建設的対話のための我々の努力を強化する意図を有する。
先進工業民主主義諸国は、失業の増大、インフレの継続及び重大なエネルギー問題を克服する決意を有する。今回の会合の目的は、我々の進捗状況を検討し、将来克服すべき諸問題をより明確に確認し、かつ、我々が今後辿るべき進路を設定することであった。
最も緊要な課題は、我々の経済の回復を確保し、失業がもたらす人的資源の浪費を減少せしめることである。経済の回復を確固たるものとするにあたり、その成功を脅かすこととなる追加的インフレ圧力の発生を回避することが肝要である。目的とすべきは、着実かつ持続的な成長である。かくして、消費者及び企業家の自信が回復されることとなる。
我々は、我々の現在の政策が両立し、かつ、相補うものであり、回復が進行しつつあることを確信する。しかしながら、我々は、政策の遂行にあたり、警戒を怠ることなく、また、時宜に応じ対処する必要性を認める。我々は、回復の挫折を許容しない。我々は、インフレの再燃を容認しない。
我々の関心は、また、世界貿易、通貨問題及びエネルギーを含む原材料の分野における新たな努力の必要性に集中した。
国内的回復及び経済の拡大の進行に伴い、我々は、世界貿易の量的増大の回復に努力しなければならない。その増大と価格安定は、開放された貿易体制の維持により促進されることとなる。保護主義再燃の圧力が強まりつつある現在、主要貿易国は、OECDプレッジの諸原則に対するコミットメントを確認することが緊要であり、また、他国の犠牲において自国の問題の解決をはかり得るような措置に訴えることは、それが経済、社会及び政治の分野において有害な結果をもたらすものであり、回避することが緊要である。すべての諸国、なかんずく国際収支において強い立場にある諸国及び経常収支上の赤字国は、互恵的世界貿易の拡大のための政策を推進する責任を有する。
我々は、多角的貿易交渉が促進されるべきであると信じる。この交渉は、東京宣言にもられている諸原則に従って、一部の分野における関税撤廃をも含む大幅な関税引下げ、農産品貿易の相当な拡大及び非関税措置の軽減を目的とすべきである。この交渉は、最大限の貿易自由化を達成することを目的とすべきである。我々は、1977年中にこの交渉を完了するとの目標を提案する。
我々は、緊張緩和の進展及び世界経済の成長の重要な一要素として、我々と社会主義諸国との経済関係の秩序ある実り多き増進を期待する。
我々は、また、現在進められている輸出信用に関する交渉を早期に完結するための努力を強化する。
通貨問題に関し、我々は、より一層の安定のために作業を進める意図を確認する。この作業は、世界経済の基調を成す経済・金融上の諸条件のより一層の安定を回復する努力をも含んでいる。同時に、我々の通貨当局は、為替相場の無秩序な市場状態またはその乱高下に対処すべく行動するであろう。我々は、国際通貨制度の改革を通じて安定をもたらす必要に関し、他の多くの国の要請により、合衆国とフランスの見解に歩み寄りがみられたことを歓迎する。この歩み寄りは、IMFを通じ、同暫定委員会のジャマイカでの次期会合における国際通貨改革の諸懸案に関する合意を助長することとなろう。
開発途上国と先進工業世界との間の協調的関係及び相互理解の改善は、それぞれの繁栄の基盤をなす。我々の経済の持続的成長は、開発途上国の成長のために必要であり、また、開発途上国の成長は、我々の経済の健全性に大きく貢献するものである。
開発途上諸国の現在の大幅な経常収支赤字は、これらの諸国のみならず世界全体にとって重大な問題である。この問題は、幾多の相互補完的な方途によって対処されなければならない。いくつかの国際的会議における最近の諸提案は、既に先進国と開発途上国との間の話合いの雰囲気を改善した。しかし、開発途上国を助けるために、速やかな実際的行動が必要とされている。従って、我々は、開発途上国の輸出所得の安定化のための国際的諸取極め及びこれら諸国の赤字補填を支援する措置を緊急に改善するにあたり、IMFその他適当な国際的場において我々の役割を果すものである。この関連において、最貧開発途上国に重点が置かれるべきである。
世界経済の成長は、エネルギー源の増大する供給可能性に明らかに結びついている。我々は、我々の経済の成長のために必要なエネルギー源を確保する決意である。我々の共通の利益は、節約と代替エネルギー源の開発を通じ、我々の輸入エネルギーに対する依存度を軽減するために、引続き協力することを必要としている。これらの諸施策及び産油国と消費国との間の双方の長期的利益に応えるための国際協力を通じて、我々は、世界エネルギー市場におけるより均衡のとれた条件と調和のとれた着実な発展を確保するために努力を惜しまない。
我々は、12月16日に予定されている国際経済協力会議の開催を歓迎する。我々は、すべての関係国の利益が擁護され、かつ増進されることを確保するとの積極的考え方に立ってこの対話をとり進める。我々は、先進工業国も開発途上国も、世界経済の将来の成功と、その基礎となる協力的政治関係に共に重大な利害を有していると確信する。
我々は、既存の制度の枠組み及びすべての関係国際機関において、これらのすべての問題についての協力を強化する意図を有する。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/puerto_rico76/j02_a.html
2 プエルト・リコ サミット プエルト・リコ国際会議共同宣言(仮訳)1976年6月28日
カナダ、フランス、ドイツ連邦共和国、イタリア、日本国、グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国並びにアメリカ合衆国の元首及び首相は、1976年6月27日及び28日にプエルト・リコのドラード・ビーチに集い、下記の宣言に合意した。
われわれの運命の相互依存関係は、われわれが共通の目的意識をもって共通の経済問題に対処すること及び一層の協力を通じて相互に調和した経済戦略に向けて作業することを必要としている。
われわれは、他の国の利益に考慮を払うことが緊要であると考える。そしてこれは世界の開発途上国との関係において特に妥当である。
われわれは、これらの目的のために、広い範囲の問題について広汎かつ実り多い意見交換を行った。この会合は、われわれの相互理解を増進し、いくつかの分野における協力を強化するための好機であった。われわれのうち欧州共同体の加盟国である国は、その枠組みの中において努力を行う意図を有する。
ランブイエにおいて、経済の回復が第一義的な目標として設定され、また、われわれの求める安定は、そのそれぞれの国の経済金融上の基礎的な状況に依存していることについて意見の一致をみた。
ランブイエ以来著しい前進がなされた。景気後退の際、今後経済が長期的に活力を保持していけるかどうかについて広く懸念がもたれたが、今やこのような懸念は根拠のないものであることが証明されるにいたった。経済及び金融面の先行きに対する懸念は、将来に対する自信の回復によってとって代られた。経済の回復は順調に進行しており、われわれの多くの国においてインフレ克服及び失業の低減について実質的な進捗がみられた。このことによって依然として経済の回復が比較的弱い諸国の状況が改善されてきた。
経済に対する過度の刺激並びに貿易及び資本移動に対する新たな阻害要因を回避しようとする最近のわれわれの決意は、この回復を健全かつ広範なものとすることに貢献した。この結果、均衡のとれた成長への復帰は今や目前にある。われわれは、この機会を逃さない決意である。
今やわれわれの目的は、持続的拡大への移行を効果的に管理することであり、これによって多くの国において存続している失業の高水準が低減され、かつインフレの再来を回避するというわれわれの共通目標が脅かされないこととなろう。このためには、生産的投資の増大と、われわれの社会の各層間の協調を必要とする。このためわれわれの個別の必要性及び事情に沿って、財政の一層の均衡回復並びに財政・金融政策の分野での節度ある措置及び場合によっては、所得政策を含む補完的な政策をとることもあり得よう。増大しつつある相互依存関係のもとに、以上の政策を策定するに当っては、他国における経済活動の方向に対する配慮を必要とする。諸政策を正しく組合せることにより、われわれは、秩序ある持続的な経済の拡大、並びにより低い失業及びインフレ問題を除去しようとするわれわれの共通目標への新たな前進という諸目的を達成し得ると確信する。持続的な経済拡大及びこれに伴う個人の福祉の増大は、高いインフレ率の下では達成し得ない。
昨年11月の会合において、われわれは、国際通貨制度の構造的改革に関する意見の相違を解決し、安定的為替相場制度をすみやかに決定すべきことに合意した。これは、経済金融情勢の基礎的な安定をつくりだすために不可欠な前提となるものである。
これらの諸目的を念頭において、われわれは、具体的な了解に達し、これはジャマイカにおける国際通貨基金の会議に大きく貢献した。われわれは、関係国すべてによるこれらの合意に対する立法府による早期の承認が望ましいと考える。われわれは無秩序な市場状態に対処するわれわれの能力を増進し、かつ、経済上の諸問題及びその解決に必要な是正策に関する理解を深めるべく一層協力することに合意した。われわれは、この協議の枠組の上にわれわれの努力をさらに積み重ねて行くであろう。
11月以降、米ドルと殆どの主要通貨との間の関係は著しく安定している。しかし、いくつかの通貨には大きな変動がみられた。
経済金融上の基礎的な状況に必要な安定性は、明らかに末だ回復していない。慎重な秩序ある持続的な経済拡大及びそのために不可欠なインフレの制圧という諸目標を達成しようとするわれわれの決意は、より一層の安定の基盤を提供するものである。
通貨安定というわれわれの目的は、国際収支の不均衡をファイナンスするための金融的圧力によって損われてはならない。従ってわれわれは、各国が慢性的又は構造的な国際収支不均衡を是正し又は回避すべく、それぞれの経済と国際通貨を管理することの重要性を認識する。よってわれわれ各自は、適当な国内及び対外政策の適用を通じ、一層安定的かつ永続性のある国際収支構造に向けて努力を傾ける意図を確認する。
世界の国際収支不均衡は、今後とも続くものとみられる。われわれは、国内の経済的安定を回復するにいたらず、かつ、大幅な国際収支赤字に直面しており特殊の問題を抱えるいくつかの先進国にとって問題が生じ得ることを認識する。われわれは、これらの諸問題の解決という観点から、これらの問題についての一層の分析を行うため、適切な機関において引続き他国と協力する事に同意する。もし経済成長における一般的な撹乱を回避するために一時的な国際収支赤字をファイナンスする援助が必要となれば、かかる援助は基礎的な均衡を回復するための確固たる計画を前提としたかつ多角的な手段を通じて提供される事が最も適当であろう。
貿易の分野においては、最近の景気後退にもかかわらず、われわれは開放された貿易体制を維持する事に概ね成功してきた。OECDにおいてわれわれは新たな貿易障害の導入を回避するとの誓いを再確認した。
通商上の保護主義への誘惑に屈する国々は、ゆくゆくその競争上の地位が低下するという事態に直面することとなろう。即ちそれらの国々の経済の活力は悪影響を受け、同時に連鎖反応が生じ、世界の貿易量は縮小し、すべての国々に被害を及ぼすこととなろう。最近更新されたOECD貿易プレッジが定める政策からの逸脱が見られる場合には、その制限を除去することが不可欠かつ緊要となる。また、貿易に重大な歪曲をもたらし、保護主義の復活を招来するような意図的な為替相場政策を回避することが重要である。
われわれは、多角的貿易交渉を1977年末までに完結するとの目的を設定している。われわれは、ここに、この目的を再確認し、東京宣言に従い適当な機関を通じこれを達成するためあらゆる努力を傾けることを約束する。
貿易交渉完結の上は、われわれは貿易の最大限の拡大という長期的目標に向かって、主要貿易地域間の関係を緊密化しかつ強化することが望ましいことを認める。
われわれは、東西経済関係について討議した。われわれは、この関連において東西貿易の着実な発展を歓迎し、東西間の経済関係が健全な金融上及び互恵的通商上の基礎の上にたって、その潜在的可能性が十分進展するよう希望を表明した。かかる経済的結びつきが全般的な東西関係を強化することを確保するために、われわれは注意深く配慮を払うとともにわれわれの努力を行うことがこの関係からみて適当であることに意見の一致をみた。
われわれは、参加諸国による輸出信用に関する調整のとれたガイドラインの採用を歓迎する。われわれは、これらのガイドラインが可及的速やかにかつできるだけ多数の国により採用することを希望する。
持続的拡大というわれわれの目標を追求するにあたって、資本の流れは、資源の効率的配分を促進し、かつこれによりわれわれの経済的福祉を増進させる。従ってわれわれは、国際投資の流れに対する自由な環境が重要であることに合意する。これに関連しわれわれは、先週OECD閣僚理事会が開催された際発表された宣言を建設的な発展と考える。
エネルギーの分野においては、われわれは、各種のエネルギー資源を開発し、節約し、かつ合理的に利用するため及び開発途上国のエネルギーに関する開発目的を支援するため、努力する意向である。
我々は、国民の生活を改善せんとする開発途上国の願望を支持する。先進工業民主主義国は、開発途上国の努力について決定的な役割をになっている。両者間の協力は、相互の尊重に基づくものでなければならず、また全ての関係者の利益も考慮に入れ、非産的な対決をしりぞけ開発の問題の建設的解決を出すための持続的かつ協調的な努力に基づくものでなければならない。
先進工業民主主義国は国際経済の効率的な運用を高める開発途上国の問題の健全な解決に同意しかつその実施に協力することにより、開発途上国がその願望をみたすことを最も有効に助けうる。密接な協力とよりよき協調が先進工業民主主義国間において必要である。我々の努力は、相互に支援的たるべきであって、競争的なものであってはならない。国際経済協力のための我々の努力は、開発途上国自身の持続的経済成長と生活水準の向上を志向する政策を補完するものと考えられるべきである。
ランブイエにおいて先進国と開発途上国との間の協力関係の重要性が確認された。第7回国連特別総会において到達された合意についての作業の継続、なかんずくいくつかの開発途上国の国際収支問題を取り上げることについて特別の関心が払われた。その後実質的な進展が見られている。我々は、国際経済協力会議の枠組みの中で進められている作業に広くみられる建設的な精神並びにナイロビの第4回国連貿易開発会議におけるいくつかの分野で達成された成果を歓迎する。国際通貨基金においてとられた新たな措置は、開発途上国の輸出所得の安定及びそれら諸国の赤字の是正に大きく貢献した。
我々は、先進国と開発途上国との対話が相互に利益のある分野において具体的な成果をもたらすことを期待しつつこれを最も重視するものである。また、我々は、成功を確保する政治的意思のもとに適当な場合には交渉を行うことをも含め、適切な機関におけるこの過程に参加するとの我々の決意を再確認する。我々の共通の目標は全ての国民の間の衡平かつ生産的な関係に寄与する実際的な解決を見出すことにある。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/tokyo79/j05_a.html
5 東京 サミット 宣 言(仮 訳)1979年6月29日
カナダ、ドイツ連邦共和国、フランス、イタリア、日本国、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国並びにアメリカ合衆国の元首及び首相は、1979年6月28日及び29日に東京で会合した。欧州共同体の権限に属する事項の討議については、欧州理事会議長及び同共同体委員会委員長が同共同体を代表して参加した。
1. ボン・サミットにおいて達成された諸合意は、世界経済の改善に貢献した。より高い経済成長がいくつかの国ではあり、また、国際収支の不均衡の縮小及び通貨の一層の安定があった。
2. しかし、新たな挑戦が生じた。多くの国において鎮静化しつつあったインフレーションは、現在再び勢いを得つつある。より高い石油価格及び石油不足は、われわれ全ての国において経済政策の運用の余地を狭めた。それらは、工業国及び開発途上国双方において、インフレーションを悪化させ、成長を低下させるであろう。非産油開発途上国は、最大の被害を受ける諸国に含まれる。
われわれは、これらの問題に取組むための共通の戦略につき合意した。最も緊急な課題は、石油消費を減少させ、他のエネルギー源の開発を促進することである。
われわれ7ヵ国は、すでに石油消費の減少のために重要な措置をとってきた。われわれはかかる努力を強化する。
欧州共同体は、1979年の石油消費を5億トン1日当り1,000万バーレルに制限すること及び1980年より1985年までの共同体の年間石油輸入量を1978年より高くない水準に維持することを決定している。共同体は、この約束を監視している。また、フランス、ドイツ、イタリア及び英国は、これらの年間の水準に対する各加盟国の寄与分を特定するよう共同体の他の加盟国に対し勧告する旨合意した。カナダ、日本及び米国は、それぞれが国際エネルギー機関(IEA)において1979年について誓約した調整済み輸入水準を実現し、また1980年の輸入をこの1979年の水準に維持し、これを監視するであろう。
7ヵ国は、1985年の石油輸入の上限についての目標として、下記の数値をとる意図を表明する。
・フランス、ドイツ、イタリア(注)及び英国については、1975年の数値。
・カナダについては、現在と1985年までの期間にわたリカナダの石油生産は極端に減少していくところ、石油消費の年間平均成長率を1%に低下せしめ、その結果として、1985年までに1日当り5万バーレル分石油輸入を減少せしめる。従って、カナダの輸入目標値は、1日当り60万バーレルとなろう。
・日本は1985年の目標として、1日あたり630万バーレルから690万バーレルの間の範囲を超えない水準を採用する。日本は、この目標を定期的に検討し、かつ、時々の進展及び成長見通しに照らしてこれを一層明確なものとし、また、より低い数値に近づくために、節約、利用の合理化及び代替エネルギー源の熱心な開発を通じて、石油輸入を削減するよう最善を尽すものである。
・米国は、1985年の輸入についての目標として、1977年の水準または1979年についての調整済みの目標を超えない輸入水準、即ち、1日当り850万バーレルを採用する。
これらの1985年の目標は、エネルギー節約及び代替エネルギー源の開発の双方を監視するうえでの参考として用いられる。
われわれ7ヵ国及び欧州共同体委員会の代表からなるOECD内のハイレベルグループは、達成された結果について定期的に検討する。成長によって生ずる特別な必要を考慮に入れるため、多少の調整を許すこととする。
これらの約束を履行するにあたって、われわれの指針となる原則は、異った供給の態様、石油輸入を制限するために払った努力、各国の経済状況、入手可能な石油の量及び各国のエネルギー節約についての可能性を考慮しつつ、全ての国々のために石油製品の公平な供給を確保することである。
われわれは、他の工業国に対し、自国について同様な目標を設定するよう勧奨する。
われわれは、石油の国際取引の登録制を導入することにより、石油市場の動きを公開する措置をとることに合意する。われわれは、石油企業及び石油輸出国に対しスポット市場取引を節制するよう勧奨する。われわれは、原油の積み降しの時に、生産国により証明された買入れ価格を示す文書の提出を要求することの実現可能性を考慮する。同じく、われわれは、石油企業の利潤状況及び石油企業にとって利用可能な資金の使用に関し、一層良い情報を入手するよう努める。
われわれは、世界市場価格の水準に国内石油価格を維持すること、あるいは出来る限り速やかにこの水準に国内石油価格を引上げることの重要性につき合意する。われわれは、国内の石油価格が低く抑えられることに起因し、石油価格に対し又上昇圧力を加えることになり得る行政措置を最少限にし最終的には取りやめるよう、また、同様の効果をもつような新規の補助金を回避するよう努める。
われわれ7ヵ国は、政府による備蓄のために石油を購入すれば価格に対して不当な圧力を加えることになる際にはこれを行わないこととし、この目的のためにわれわれが行う決定について協議することとする。
3. われわれは、われわれ7ヵ国が環境を損うことなく石炭の利用、生産及び可能な限り拡大することを誓約する。われわれは、産業及び電力部門において、石炭をもって石油に代替させることに努力し、石炭輸送の改善を奨励し、石炭プロジェクトヘの投資に対して積極的な姿勢を維持し、長期契約による石炭貿易を国家的緊急事態によって必要となる場合を除き、中断しないことを誓約し、また、石炭輸入を阻害しない措置によって、エネルギー政策、地域政策及び社会政策上望ましい国内石炭生産の水準を維持する。
われわれは、代替エネルギー源、とりわけ、一層の汚染、特に大気中の炭酸ガス及び硫酸ガスの増大を防止することに役立つ代替エネルギー源を拡大する必要がある。
今後数十年において原子力発電能力が拡大しなければ、経済成長及び高水準の雇用の達成は困難となろう。これは国民の安全を保障する条件の下に行われなければならない。われわれはこの目的のための協力する。この点に関して、国際原子力機関(IAEA)は中心的役割を果しうる。
われわれは、核燃料の安定供給と核拡散の危険性の極小化に関するボン・サミットにおいて達せられた了解を再確認する。
エネルギー分野における新しい技術は、世界がより長期にわたって燃料の危機から解放されるための鍵である。これらの技術の開発及び商業化のためには、多額の公共及び民間の資金が必要とされよう。われわれは、かかる資金が利用可能となることを確保する。各国国内において現にとられ、又は、計画されている行動を検討し、また、資金供与を含む国際協力の必要性と可能性について報告するために、経済協力開発機構(OECD)、国際エネルギー機関(IEA)及びその他の適当な国際機関と連繋した国際エネルギー技術グループが創設されよう。
われわれは、最近のOPEC会議においてとられた決定を遺憾とするものである。われわれは、幾つかの参加国が比較的穏健な態度を示したことを認める。しかし、それにも拘らず合意された石油価格の不当な上昇は、極めて深刻な経済的かつ社会的結果をもたらさざるを得ない。かかる石油価格の上昇は、一層の世界的なインフレとより低い成長を意味する。それは失業の増大及び一層の国際収支困難につながり、世界の開発途上国及び先進国の安定を等しくおびやかすこととなろう。われわれは、石油輸出国とともに、世界石油市場における需給見通しを如何に明確にするかにつき、検討する用意がある。
4. われわれは、各国経済につきボンにおいて合意された政策を、現在の状況を反映するよう調整しつつ、継続すべきであることに合意する。エネルギーの不足及び石油の高価格は、所得の実質移転をもたらした。われわれは、国内経済政策を通じ、われわれの経済への損害を最少限にとどめるよう努める。しかし、われわれの選択の幅は限られている。この損害をそれに見合う所得の増加によって埋めあわせる試みは、単にインフレを昂進するにすぎない。
5. われわれは、各国経済の長期的な生産効率及び柔軟性を向上させるため、一層力を尽すべきであることに合意する。必要とされる諸措置には、投資及び研究開発に対する一層の刺激、衰退産業から新たな産業へ資本及び労働が移動することを一層容易にする措置、投資及び生産性に対して不必要な障害を与えない規制政策、若干の公共部門の経常支出の伸びの削減、並びに貿易及び資本の国際的流れに対する障害の除去が含まれうる。
6. 東京ラウンドにおいて達成された諸合意は、重要な成果である。われわれは、これらの合意の早期かつ誠実な実施を確約している。われわれは、保護主義と闘う決意を新たにする。われわれは、多角的貿易交渉において達成された諸合意を監視するため、また、開放的な世界貿易体制を維持するうえでの今後の政策の手段として、ガットが強化されることを欲する。われわれは、できる限り多数の国が、これらの諸合意及び体制全体に完全に参加することを歓迎するものである。
7. われわれは、各国において持続的な対外均衡を達成するために適切な経済政策を遂行する努力を強化する。外国為替市場の安定は世界貿易及び世界経済の健全な発展のために肝要である。この点は他の国の通貨当局とともに実施してきた1978年11月1日の米国のプログラム及び欧州通貨制度の成功裡の発足というボン・サミット以降の2つの重要な進展によって一層高められてきた。われわれは、為替市場政策においても、また、IMFの諸責任、なかんずく、監視の役割及び国際通貨制度を一層強化する上での役割の効果的な遂行を支持する点においても、緊密な協力を継続する。
8. 建設的な南北関係は世界経済の健全さのための条件である。われわれとしては、開発途上国が開放的な世界貿易体制により完全に参画するよう、また、変化しつつある国際環境にわれわれの経済を適応させるよう一貫して努力してきた。われわれが直面する問題は、世界的なものである。これらの問題は責任の分かち合いとパートナーシップによってのみ解決できる。しかしこのパートナーシップは工業国の努力にのみ依存することはできない。OPEC諸国の果すべき役割はまさしく同様に重要である。石油価格を大幅に引き上げるとの今回の決定は、石油資源をもたない開発途上国の直面する問題と先進国がこれら諸国を助ける上での困難を共に深刻に増大させるであろう。この決定は、幾つかの開発途上国に対して再起不能といってもよい程の影響を及ぼすかも知れない。このような情勢下においてわれわれは、民間及び公的並びに二国間及び多数国間の資金を含め、開発途上国に対する資金の流れを増大する必要性を認識するものである。開発途上国における良好な投資環境は、外国投資の流れを助長するであろう。
われわれは、極めて多くの人々が依然として絶対的貧困の状況下で生活していることを深く憂慮している。われわれは、われわれの援助計画の中で最貧国に特別の考慮を払う。
われわれは、コメコン諸国がその役割を果すよう再度勧奨する。
われわれは、飢餓及び栄養不良を克服することについて、開発途上国との協力にさらに重点をおく。われわれは、開発途上国が効果的な食糧分野の戦略を発展させ、また、強固な国内食糧備蓄に必要な貯蔵能力を築きあげることにつき多数国間の機関が支援するよう勧奨する。農業研究のための二国間及び多数国間援助の増大は、特に重要である。これらの方途及び他の方途により、われわれは、現地の条件に適合した技術協力を通じ、開発途上国の人造りを支援する努力を増大する。
われわれは、また開発途上国がその潜在エネルギー源を開発することに対する援助に特別な重点を置く。われわれは、世界銀行の炭化水素開発のプログラムを強く支持し、その拡大を勧奨する。われわれは開発途上国の再生可能エネルギーの利用増大を助けるべく一層力を尽す。われわれは、世界銀行がかかる努力を調整することを歓迎する。
(注) 1978年の水準に関するイタリアの約束は、欧州共同体全体の約束のコンテクストで受け入れられる。
1 ランブイエ サミット 宣 言(仮 訳)1975年11月17日
フランス、ドイツ連邦共和国、イタリア、日本国、グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の元首及び首相は、1975年11月15日から17日までランブイエ城に集い、次の通り宣言することに合意した。
我々は、この3日間に世界の経済情勢、我々の国々に共通する経済の諸問題、これらの人間的、社会的及び政治的意味あい、ならびにこれらの問題を解決するための諸構想について、十分かつ実り多き意見の交換を行った。
我々がここに集うこととなったのは、共通の信念と責任とを分ち合っているからである。我々は、各々個人の自由と社会の進歩に奉仕する開放的かつ民主的な社会の政府に責任を有する。そして、我々がこれに成功することは、あらゆる地域の民主主義社会を強化し、かつ、これらの社会にとり真に緊要である。我々は、それぞれ、主要工業経済の繁栄を確保する責任を有する。我々の経済の成長と安定は、工業世界全体及び開発途上国の繁栄を助長することとなる。
ますます相互依存が深まりつつある世界において、この宣言に述べられている諸目的の達成を確保するために、我々は、我々の十分な役割を果すとともに、経済の発展段階、資源賦存度及び政治的、社会的制度の差異を越え、すべての国々の間の一層緊密な国際協力と建設的対話のための我々の努力を強化する意図を有する。
先進工業民主主義諸国は、失業の増大、インフレの継続及び重大なエネルギー問題を克服する決意を有する。今回の会合の目的は、我々の進捗状況を検討し、将来克服すべき諸問題をより明確に確認し、かつ、我々が今後辿るべき進路を設定することであった。
最も緊要な課題は、我々の経済の回復を確保し、失業がもたらす人的資源の浪費を減少せしめることである。経済の回復を確固たるものとするにあたり、その成功を脅かすこととなる追加的インフレ圧力の発生を回避することが肝要である。目的とすべきは、着実かつ持続的な成長である。かくして、消費者及び企業家の自信が回復されることとなる。
我々は、我々の現在の政策が両立し、かつ、相補うものであり、回復が進行しつつあることを確信する。しかしながら、我々は、政策の遂行にあたり、警戒を怠ることなく、また、時宜に応じ対処する必要性を認める。我々は、回復の挫折を許容しない。我々は、インフレの再燃を容認しない。
我々の関心は、また、世界貿易、通貨問題及びエネルギーを含む原材料の分野における新たな努力の必要性に集中した。
国内的回復及び経済の拡大の進行に伴い、我々は、世界貿易の量的増大の回復に努力しなければならない。その増大と価格安定は、開放された貿易体制の維持により促進されることとなる。保護主義再燃の圧力が強まりつつある現在、主要貿易国は、OECDプレッジの諸原則に対するコミットメントを確認することが緊要であり、また、他国の犠牲において自国の問題の解決をはかり得るような措置に訴えることは、それが経済、社会及び政治の分野において有害な結果をもたらすものであり、回避することが緊要である。すべての諸国、なかんずく国際収支において強い立場にある諸国及び経常収支上の赤字国は、互恵的世界貿易の拡大のための政策を推進する責任を有する。
我々は、多角的貿易交渉が促進されるべきであると信じる。この交渉は、東京宣言にもられている諸原則に従って、一部の分野における関税撤廃をも含む大幅な関税引下げ、農産品貿易の相当な拡大及び非関税措置の軽減を目的とすべきである。この交渉は、最大限の貿易自由化を達成することを目的とすべきである。我々は、1977年中にこの交渉を完了するとの目標を提案する。
我々は、緊張緩和の進展及び世界経済の成長の重要な一要素として、我々と社会主義諸国との経済関係の秩序ある実り多き増進を期待する。
我々は、また、現在進められている輸出信用に関する交渉を早期に完結するための努力を強化する。
通貨問題に関し、我々は、より一層の安定のために作業を進める意図を確認する。この作業は、世界経済の基調を成す経済・金融上の諸条件のより一層の安定を回復する努力をも含んでいる。同時に、我々の通貨当局は、為替相場の無秩序な市場状態またはその乱高下に対処すべく行動するであろう。我々は、国際通貨制度の改革を通じて安定をもたらす必要に関し、他の多くの国の要請により、合衆国とフランスの見解に歩み寄りがみられたことを歓迎する。この歩み寄りは、IMFを通じ、同暫定委員会のジャマイカでの次期会合における国際通貨改革の諸懸案に関する合意を助長することとなろう。
開発途上国と先進工業世界との間の協調的関係及び相互理解の改善は、それぞれの繁栄の基盤をなす。我々の経済の持続的成長は、開発途上国の成長のために必要であり、また、開発途上国の成長は、我々の経済の健全性に大きく貢献するものである。
開発途上諸国の現在の大幅な経常収支赤字は、これらの諸国のみならず世界全体にとって重大な問題である。この問題は、幾多の相互補完的な方途によって対処されなければならない。いくつかの国際的会議における最近の諸提案は、既に先進国と開発途上国との間の話合いの雰囲気を改善した。しかし、開発途上国を助けるために、速やかな実際的行動が必要とされている。従って、我々は、開発途上国の輸出所得の安定化のための国際的諸取極め及びこれら諸国の赤字補填を支援する措置を緊急に改善するにあたり、IMFその他適当な国際的場において我々の役割を果すものである。この関連において、最貧開発途上国に重点が置かれるべきである。
世界経済の成長は、エネルギー源の増大する供給可能性に明らかに結びついている。我々は、我々の経済の成長のために必要なエネルギー源を確保する決意である。我々の共通の利益は、節約と代替エネルギー源の開発を通じ、我々の輸入エネルギーに対する依存度を軽減するために、引続き協力することを必要としている。これらの諸施策及び産油国と消費国との間の双方の長期的利益に応えるための国際協力を通じて、我々は、世界エネルギー市場におけるより均衡のとれた条件と調和のとれた着実な発展を確保するために努力を惜しまない。
我々は、12月16日に予定されている国際経済協力会議の開催を歓迎する。我々は、すべての関係国の利益が擁護され、かつ増進されることを確保するとの積極的考え方に立ってこの対話をとり進める。我々は、先進工業国も開発途上国も、世界経済の将来の成功と、その基礎となる協力的政治関係に共に重大な利害を有していると確信する。
我々は、既存の制度の枠組み及びすべての関係国際機関において、これらのすべての問題についての協力を強化する意図を有する。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/puerto_rico76/j02_a.html
2 プエルト・リコ サミット プエルト・リコ国際会議共同宣言(仮訳)1976年6月28日
カナダ、フランス、ドイツ連邦共和国、イタリア、日本国、グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国並びにアメリカ合衆国の元首及び首相は、1976年6月27日及び28日にプエルト・リコのドラード・ビーチに集い、下記の宣言に合意した。
われわれの運命の相互依存関係は、われわれが共通の目的意識をもって共通の経済問題に対処すること及び一層の協力を通じて相互に調和した経済戦略に向けて作業することを必要としている。
われわれは、他の国の利益に考慮を払うことが緊要であると考える。そしてこれは世界の開発途上国との関係において特に妥当である。
われわれは、これらの目的のために、広い範囲の問題について広汎かつ実り多い意見交換を行った。この会合は、われわれの相互理解を増進し、いくつかの分野における協力を強化するための好機であった。われわれのうち欧州共同体の加盟国である国は、その枠組みの中において努力を行う意図を有する。
ランブイエにおいて、経済の回復が第一義的な目標として設定され、また、われわれの求める安定は、そのそれぞれの国の経済金融上の基礎的な状況に依存していることについて意見の一致をみた。
ランブイエ以来著しい前進がなされた。景気後退の際、今後経済が長期的に活力を保持していけるかどうかについて広く懸念がもたれたが、今やこのような懸念は根拠のないものであることが証明されるにいたった。経済及び金融面の先行きに対する懸念は、将来に対する自信の回復によってとって代られた。経済の回復は順調に進行しており、われわれの多くの国においてインフレ克服及び失業の低減について実質的な進捗がみられた。このことによって依然として経済の回復が比較的弱い諸国の状況が改善されてきた。
経済に対する過度の刺激並びに貿易及び資本移動に対する新たな阻害要因を回避しようとする最近のわれわれの決意は、この回復を健全かつ広範なものとすることに貢献した。この結果、均衡のとれた成長への復帰は今や目前にある。われわれは、この機会を逃さない決意である。
今やわれわれの目的は、持続的拡大への移行を効果的に管理することであり、これによって多くの国において存続している失業の高水準が低減され、かつインフレの再来を回避するというわれわれの共通目標が脅かされないこととなろう。このためには、生産的投資の増大と、われわれの社会の各層間の協調を必要とする。このためわれわれの個別の必要性及び事情に沿って、財政の一層の均衡回復並びに財政・金融政策の分野での節度ある措置及び場合によっては、所得政策を含む補完的な政策をとることもあり得よう。増大しつつある相互依存関係のもとに、以上の政策を策定するに当っては、他国における経済活動の方向に対する配慮を必要とする。諸政策を正しく組合せることにより、われわれは、秩序ある持続的な経済の拡大、並びにより低い失業及びインフレ問題を除去しようとするわれわれの共通目標への新たな前進という諸目的を達成し得ると確信する。持続的な経済拡大及びこれに伴う個人の福祉の増大は、高いインフレ率の下では達成し得ない。
昨年11月の会合において、われわれは、国際通貨制度の構造的改革に関する意見の相違を解決し、安定的為替相場制度をすみやかに決定すべきことに合意した。これは、経済金融情勢の基礎的な安定をつくりだすために不可欠な前提となるものである。
これらの諸目的を念頭において、われわれは、具体的な了解に達し、これはジャマイカにおける国際通貨基金の会議に大きく貢献した。われわれは、関係国すべてによるこれらの合意に対する立法府による早期の承認が望ましいと考える。われわれは無秩序な市場状態に対処するわれわれの能力を増進し、かつ、経済上の諸問題及びその解決に必要な是正策に関する理解を深めるべく一層協力することに合意した。われわれは、この協議の枠組の上にわれわれの努力をさらに積み重ねて行くであろう。
11月以降、米ドルと殆どの主要通貨との間の関係は著しく安定している。しかし、いくつかの通貨には大きな変動がみられた。
経済金融上の基礎的な状況に必要な安定性は、明らかに末だ回復していない。慎重な秩序ある持続的な経済拡大及びそのために不可欠なインフレの制圧という諸目標を達成しようとするわれわれの決意は、より一層の安定の基盤を提供するものである。
通貨安定というわれわれの目的は、国際収支の不均衡をファイナンスするための金融的圧力によって損われてはならない。従ってわれわれは、各国が慢性的又は構造的な国際収支不均衡を是正し又は回避すべく、それぞれの経済と国際通貨を管理することの重要性を認識する。よってわれわれ各自は、適当な国内及び対外政策の適用を通じ、一層安定的かつ永続性のある国際収支構造に向けて努力を傾ける意図を確認する。
世界の国際収支不均衡は、今後とも続くものとみられる。われわれは、国内の経済的安定を回復するにいたらず、かつ、大幅な国際収支赤字に直面しており特殊の問題を抱えるいくつかの先進国にとって問題が生じ得ることを認識する。われわれは、これらの諸問題の解決という観点から、これらの問題についての一層の分析を行うため、適切な機関において引続き他国と協力する事に同意する。もし経済成長における一般的な撹乱を回避するために一時的な国際収支赤字をファイナンスする援助が必要となれば、かかる援助は基礎的な均衡を回復するための確固たる計画を前提としたかつ多角的な手段を通じて提供される事が最も適当であろう。
貿易の分野においては、最近の景気後退にもかかわらず、われわれは開放された貿易体制を維持する事に概ね成功してきた。OECDにおいてわれわれは新たな貿易障害の導入を回避するとの誓いを再確認した。
通商上の保護主義への誘惑に屈する国々は、ゆくゆくその競争上の地位が低下するという事態に直面することとなろう。即ちそれらの国々の経済の活力は悪影響を受け、同時に連鎖反応が生じ、世界の貿易量は縮小し、すべての国々に被害を及ぼすこととなろう。最近更新されたOECD貿易プレッジが定める政策からの逸脱が見られる場合には、その制限を除去することが不可欠かつ緊要となる。また、貿易に重大な歪曲をもたらし、保護主義の復活を招来するような意図的な為替相場政策を回避することが重要である。
われわれは、多角的貿易交渉を1977年末までに完結するとの目的を設定している。われわれは、ここに、この目的を再確認し、東京宣言に従い適当な機関を通じこれを達成するためあらゆる努力を傾けることを約束する。
貿易交渉完結の上は、われわれは貿易の最大限の拡大という長期的目標に向かって、主要貿易地域間の関係を緊密化しかつ強化することが望ましいことを認める。
われわれは、東西経済関係について討議した。われわれは、この関連において東西貿易の着実な発展を歓迎し、東西間の経済関係が健全な金融上及び互恵的通商上の基礎の上にたって、その潜在的可能性が十分進展するよう希望を表明した。かかる経済的結びつきが全般的な東西関係を強化することを確保するために、われわれは注意深く配慮を払うとともにわれわれの努力を行うことがこの関係からみて適当であることに意見の一致をみた。
われわれは、参加諸国による輸出信用に関する調整のとれたガイドラインの採用を歓迎する。われわれは、これらのガイドラインが可及的速やかにかつできるだけ多数の国により採用することを希望する。
持続的拡大というわれわれの目標を追求するにあたって、資本の流れは、資源の効率的配分を促進し、かつこれによりわれわれの経済的福祉を増進させる。従ってわれわれは、国際投資の流れに対する自由な環境が重要であることに合意する。これに関連しわれわれは、先週OECD閣僚理事会が開催された際発表された宣言を建設的な発展と考える。
エネルギーの分野においては、われわれは、各種のエネルギー資源を開発し、節約し、かつ合理的に利用するため及び開発途上国のエネルギーに関する開発目的を支援するため、努力する意向である。
我々は、国民の生活を改善せんとする開発途上国の願望を支持する。先進工業民主主義国は、開発途上国の努力について決定的な役割をになっている。両者間の協力は、相互の尊重に基づくものでなければならず、また全ての関係者の利益も考慮に入れ、非産的な対決をしりぞけ開発の問題の建設的解決を出すための持続的かつ協調的な努力に基づくものでなければならない。
先進工業民主主義国は国際経済の効率的な運用を高める開発途上国の問題の健全な解決に同意しかつその実施に協力することにより、開発途上国がその願望をみたすことを最も有効に助けうる。密接な協力とよりよき協調が先進工業民主主義国間において必要である。我々の努力は、相互に支援的たるべきであって、競争的なものであってはならない。国際経済協力のための我々の努力は、開発途上国自身の持続的経済成長と生活水準の向上を志向する政策を補完するものと考えられるべきである。
ランブイエにおいて先進国と開発途上国との間の協力関係の重要性が確認された。第7回国連特別総会において到達された合意についての作業の継続、なかんずくいくつかの開発途上国の国際収支問題を取り上げることについて特別の関心が払われた。その後実質的な進展が見られている。我々は、国際経済協力会議の枠組みの中で進められている作業に広くみられる建設的な精神並びにナイロビの第4回国連貿易開発会議におけるいくつかの分野で達成された成果を歓迎する。国際通貨基金においてとられた新たな措置は、開発途上国の輸出所得の安定及びそれら諸国の赤字の是正に大きく貢献した。
我々は、先進国と開発途上国との対話が相互に利益のある分野において具体的な成果をもたらすことを期待しつつこれを最も重視するものである。また、我々は、成功を確保する政治的意思のもとに適当な場合には交渉を行うことをも含め、適切な機関におけるこの過程に参加するとの我々の決意を再確認する。我々の共通の目標は全ての国民の間の衡平かつ生産的な関係に寄与する実際的な解決を見出すことにある。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/tokyo79/j05_a.html
5 東京 サミット 宣 言(仮 訳)1979年6月29日
カナダ、ドイツ連邦共和国、フランス、イタリア、日本国、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国並びにアメリカ合衆国の元首及び首相は、1979年6月28日及び29日に東京で会合した。欧州共同体の権限に属する事項の討議については、欧州理事会議長及び同共同体委員会委員長が同共同体を代表して参加した。
1. ボン・サミットにおいて達成された諸合意は、世界経済の改善に貢献した。より高い経済成長がいくつかの国ではあり、また、国際収支の不均衡の縮小及び通貨の一層の安定があった。
2. しかし、新たな挑戦が生じた。多くの国において鎮静化しつつあったインフレーションは、現在再び勢いを得つつある。より高い石油価格及び石油不足は、われわれ全ての国において経済政策の運用の余地を狭めた。それらは、工業国及び開発途上国双方において、インフレーションを悪化させ、成長を低下させるであろう。非産油開発途上国は、最大の被害を受ける諸国に含まれる。
われわれは、これらの問題に取組むための共通の戦略につき合意した。最も緊急な課題は、石油消費を減少させ、他のエネルギー源の開発を促進することである。
われわれ7ヵ国は、すでに石油消費の減少のために重要な措置をとってきた。われわれはかかる努力を強化する。
欧州共同体は、1979年の石油消費を5億トン1日当り1,000万バーレルに制限すること及び1980年より1985年までの共同体の年間石油輸入量を1978年より高くない水準に維持することを決定している。共同体は、この約束を監視している。また、フランス、ドイツ、イタリア及び英国は、これらの年間の水準に対する各加盟国の寄与分を特定するよう共同体の他の加盟国に対し勧告する旨合意した。カナダ、日本及び米国は、それぞれが国際エネルギー機関(IEA)において1979年について誓約した調整済み輸入水準を実現し、また1980年の輸入をこの1979年の水準に維持し、これを監視するであろう。
7ヵ国は、1985年の石油輸入の上限についての目標として、下記の数値をとる意図を表明する。
・フランス、ドイツ、イタリア(注)及び英国については、1975年の数値。
・カナダについては、現在と1985年までの期間にわたリカナダの石油生産は極端に減少していくところ、石油消費の年間平均成長率を1%に低下せしめ、その結果として、1985年までに1日当り5万バーレル分石油輸入を減少せしめる。従って、カナダの輸入目標値は、1日当り60万バーレルとなろう。
・日本は1985年の目標として、1日あたり630万バーレルから690万バーレルの間の範囲を超えない水準を採用する。日本は、この目標を定期的に検討し、かつ、時々の進展及び成長見通しに照らしてこれを一層明確なものとし、また、より低い数値に近づくために、節約、利用の合理化及び代替エネルギー源の熱心な開発を通じて、石油輸入を削減するよう最善を尽すものである。
・米国は、1985年の輸入についての目標として、1977年の水準または1979年についての調整済みの目標を超えない輸入水準、即ち、1日当り850万バーレルを採用する。
これらの1985年の目標は、エネルギー節約及び代替エネルギー源の開発の双方を監視するうえでの参考として用いられる。
われわれ7ヵ国及び欧州共同体委員会の代表からなるOECD内のハイレベルグループは、達成された結果について定期的に検討する。成長によって生ずる特別な必要を考慮に入れるため、多少の調整を許すこととする。
これらの約束を履行するにあたって、われわれの指針となる原則は、異った供給の態様、石油輸入を制限するために払った努力、各国の経済状況、入手可能な石油の量及び各国のエネルギー節約についての可能性を考慮しつつ、全ての国々のために石油製品の公平な供給を確保することである。
われわれは、他の工業国に対し、自国について同様な目標を設定するよう勧奨する。
われわれは、石油の国際取引の登録制を導入することにより、石油市場の動きを公開する措置をとることに合意する。われわれは、石油企業及び石油輸出国に対しスポット市場取引を節制するよう勧奨する。われわれは、原油の積み降しの時に、生産国により証明された買入れ価格を示す文書の提出を要求することの実現可能性を考慮する。同じく、われわれは、石油企業の利潤状況及び石油企業にとって利用可能な資金の使用に関し、一層良い情報を入手するよう努める。
われわれは、世界市場価格の水準に国内石油価格を維持すること、あるいは出来る限り速やかにこの水準に国内石油価格を引上げることの重要性につき合意する。われわれは、国内の石油価格が低く抑えられることに起因し、石油価格に対し又上昇圧力を加えることになり得る行政措置を最少限にし最終的には取りやめるよう、また、同様の効果をもつような新規の補助金を回避するよう努める。
われわれ7ヵ国は、政府による備蓄のために石油を購入すれば価格に対して不当な圧力を加えることになる際にはこれを行わないこととし、この目的のためにわれわれが行う決定について協議することとする。
3. われわれは、われわれ7ヵ国が環境を損うことなく石炭の利用、生産及び可能な限り拡大することを誓約する。われわれは、産業及び電力部門において、石炭をもって石油に代替させることに努力し、石炭輸送の改善を奨励し、石炭プロジェクトヘの投資に対して積極的な姿勢を維持し、長期契約による石炭貿易を国家的緊急事態によって必要となる場合を除き、中断しないことを誓約し、また、石炭輸入を阻害しない措置によって、エネルギー政策、地域政策及び社会政策上望ましい国内石炭生産の水準を維持する。
われわれは、代替エネルギー源、とりわけ、一層の汚染、特に大気中の炭酸ガス及び硫酸ガスの増大を防止することに役立つ代替エネルギー源を拡大する必要がある。
今後数十年において原子力発電能力が拡大しなければ、経済成長及び高水準の雇用の達成は困難となろう。これは国民の安全を保障する条件の下に行われなければならない。われわれはこの目的のための協力する。この点に関して、国際原子力機関(IAEA)は中心的役割を果しうる。
われわれは、核燃料の安定供給と核拡散の危険性の極小化に関するボン・サミットにおいて達せられた了解を再確認する。
エネルギー分野における新しい技術は、世界がより長期にわたって燃料の危機から解放されるための鍵である。これらの技術の開発及び商業化のためには、多額の公共及び民間の資金が必要とされよう。われわれは、かかる資金が利用可能となることを確保する。各国国内において現にとられ、又は、計画されている行動を検討し、また、資金供与を含む国際協力の必要性と可能性について報告するために、経済協力開発機構(OECD)、国際エネルギー機関(IEA)及びその他の適当な国際機関と連繋した国際エネルギー技術グループが創設されよう。
われわれは、最近のOPEC会議においてとられた決定を遺憾とするものである。われわれは、幾つかの参加国が比較的穏健な態度を示したことを認める。しかし、それにも拘らず合意された石油価格の不当な上昇は、極めて深刻な経済的かつ社会的結果をもたらさざるを得ない。かかる石油価格の上昇は、一層の世界的なインフレとより低い成長を意味する。それは失業の増大及び一層の国際収支困難につながり、世界の開発途上国及び先進国の安定を等しくおびやかすこととなろう。われわれは、石油輸出国とともに、世界石油市場における需給見通しを如何に明確にするかにつき、検討する用意がある。
4. われわれは、各国経済につきボンにおいて合意された政策を、現在の状況を反映するよう調整しつつ、継続すべきであることに合意する。エネルギーの不足及び石油の高価格は、所得の実質移転をもたらした。われわれは、国内経済政策を通じ、われわれの経済への損害を最少限にとどめるよう努める。しかし、われわれの選択の幅は限られている。この損害をそれに見合う所得の増加によって埋めあわせる試みは、単にインフレを昂進するにすぎない。
5. われわれは、各国経済の長期的な生産効率及び柔軟性を向上させるため、一層力を尽すべきであることに合意する。必要とされる諸措置には、投資及び研究開発に対する一層の刺激、衰退産業から新たな産業へ資本及び労働が移動することを一層容易にする措置、投資及び生産性に対して不必要な障害を与えない規制政策、若干の公共部門の経常支出の伸びの削減、並びに貿易及び資本の国際的流れに対する障害の除去が含まれうる。
6. 東京ラウンドにおいて達成された諸合意は、重要な成果である。われわれは、これらの合意の早期かつ誠実な実施を確約している。われわれは、保護主義と闘う決意を新たにする。われわれは、多角的貿易交渉において達成された諸合意を監視するため、また、開放的な世界貿易体制を維持するうえでの今後の政策の手段として、ガットが強化されることを欲する。われわれは、できる限り多数の国が、これらの諸合意及び体制全体に完全に参加することを歓迎するものである。
7. われわれは、各国において持続的な対外均衡を達成するために適切な経済政策を遂行する努力を強化する。外国為替市場の安定は世界貿易及び世界経済の健全な発展のために肝要である。この点は他の国の通貨当局とともに実施してきた1978年11月1日の米国のプログラム及び欧州通貨制度の成功裡の発足というボン・サミット以降の2つの重要な進展によって一層高められてきた。われわれは、為替市場政策においても、また、IMFの諸責任、なかんずく、監視の役割及び国際通貨制度を一層強化する上での役割の効果的な遂行を支持する点においても、緊密な協力を継続する。
8. 建設的な南北関係は世界経済の健全さのための条件である。われわれとしては、開発途上国が開放的な世界貿易体制により完全に参画するよう、また、変化しつつある国際環境にわれわれの経済を適応させるよう一貫して努力してきた。われわれが直面する問題は、世界的なものである。これらの問題は責任の分かち合いとパートナーシップによってのみ解決できる。しかしこのパートナーシップは工業国の努力にのみ依存することはできない。OPEC諸国の果すべき役割はまさしく同様に重要である。石油価格を大幅に引き上げるとの今回の決定は、石油資源をもたない開発途上国の直面する問題と先進国がこれら諸国を助ける上での困難を共に深刻に増大させるであろう。この決定は、幾つかの開発途上国に対して再起不能といってもよい程の影響を及ぼすかも知れない。このような情勢下においてわれわれは、民間及び公的並びに二国間及び多数国間の資金を含め、開発途上国に対する資金の流れを増大する必要性を認識するものである。開発途上国における良好な投資環境は、外国投資の流れを助長するであろう。
われわれは、極めて多くの人々が依然として絶対的貧困の状況下で生活していることを深く憂慮している。われわれは、われわれの援助計画の中で最貧国に特別の考慮を払う。
われわれは、コメコン諸国がその役割を果すよう再度勧奨する。
われわれは、飢餓及び栄養不良を克服することについて、開発途上国との協力にさらに重点をおく。われわれは、開発途上国が効果的な食糧分野の戦略を発展させ、また、強固な国内食糧備蓄に必要な貯蔵能力を築きあげることにつき多数国間の機関が支援するよう勧奨する。農業研究のための二国間及び多数国間援助の増大は、特に重要である。これらの方途及び他の方途により、われわれは、現地の条件に適合した技術協力を通じ、開発途上国の人造りを支援する努力を増大する。
われわれは、また開発途上国がその潜在エネルギー源を開発することに対する援助に特別な重点を置く。われわれは、世界銀行の炭化水素開発のプログラムを強く支持し、その拡大を勧奨する。われわれは開発途上国の再生可能エネルギーの利用増大を助けるべく一層力を尽す。われわれは、世界銀行がかかる努力を調整することを歓迎する。
(注) 1978年の水準に関するイタリアの約束は、欧州共同体全体の約束のコンテクストで受け入れられる。
アメリカ大帝國の出現 ― 2022-05-05 11:33
『米國の研究』清沢冽著
第一編 米國といふ國
(23-27頁)
七 「アメリカ大帝國」の出現 2022.05.05
富に勢力と名譽欲はつきものである。始めは「なにあの成りあがり者めが」と、その活動を白眼で見る素封家も、その成りあがり者が、富を蓄積する事縣下隨一といふやうになれば、名譽職も、政治上の勢力も知らない内にその人のものとなり、當人もそのあり餘る活動力に委せて、天晴れ政治家になりすませて仕舞ふ。
この個人の心理狀態は、また一國の心理狀態である。冒險的心理の持主であり、無限の富力を背景にする米國が、今や經濟に勝て、政治に向ふのは極めて自然である。そしてかうした徑路で到達した政治が、帝國主義的傾向を帶び、多分の侵略的(政治的であるよりは經濟的な)分子をも含でゐるのは、已むを得ない次第だと思ふ。
最近アメリカに行つた英國のバートランド・ラツセルは、英國に歸つてかういふ感想を發表してゐる……
彼等(米國人)は軍國的である、そして從來アメリカが軍隊の少ないことから得ることを得なかつたところの利益を得んことを望んでゐる、軍事教育は各種學校、大學等に於て實施され、愛國的感情は出來るだけ奬勵されてゐる。
米國がその經濟の指揮するところにより、帝國主義――それは領土的であるよりも、寧ろ經濟的なる――の新生涯に入るべきは、頗る可能であるやうに見える。既にそこに好機會が存在してゐる以上、如何なる國家でもかつて之を拒絶し得た例しはない、多分太平洋はアメリカが膨脹する第一の場面であらう。これが日本の恐れるところでありまた日本が武士精神の漲ぎつてゐる所以でもある。
併し乍らアメリカには又帝國主義的冒險に反對する大なる一般的勢力がある。そしてこの勢力が一種の牽制的な効果を奏し得るかも知れない。
このラツセルの見方は、われ等の共鳴を惜み得ざるところである。米國のこの傾向を帝國主義なりと喝破したのはラツセルに止まらない。前回に引照したスコツト・ニヤリング教授は米國をアメリカ帝國と呼んでいる、同氏はAmerican Empireなる著書において、米國を「帝國」なりと呼び普通の人は共和國を呼ぶに「エンパイヤー」といふ稱號を以てすることを拒むであらう。普通「エンパイヤー」は「エンペラー」と結びつけられ、帝國の中心が、最高の世襲的君主だと思つてゐる。けれども少し靜察すれば、此言葉が誤つてゐることが判る。「英帝国」はその皇帝の權力は、合衆國大統領のそれに及ばないにもかゝはらす、英帝國と呼んでゐるではないか。之に反し歐洲東部の小少國で、その領土に絶對なる權力を揮つてゐるにかゝはらす、「帝國」とは呼ばれないではないか。
と述べ、更に同教授は『新イングリツシユ辭書』に
最高の而して廣大なる政治的統治が、一國の立權により、他の領土に行はれてゐるところに帝國が存在する。
とあるを引照して、「昔は帝國の意義は政治的であつたけれども、今やそれは經濟的勢力を意味するやうになつた」といひ、何れにして帝國の特色は
一、征服された領土、
二、統治された人民
三、帝國的即ち統治する階級
四、統治する階級の利益のために、統治される人民及び征服された領土の利益を搾取する
の四つである、しかして米國はこの内の一つも缺いて居らぬといふのが同教授の議論である。同教授は更に進んで
名は何等の意味をなさぬ、ローマは自身共和國と呼んで居る間に帝國であつた。ナポレオンはフランス共和國の權威の下に、その帝國主義的活動をなした。
と繰返し、しかして帝國主義の最後の到達點は結局「獨裁者」「最高の統治者」「皇帝」等を選ぶことにあり、此人々の注意は次の四つに拂はれる
第一、國内の國民間の煽動及び反亂を押ふる事
第二、征服した土地に帝國的支配權を保つ事
第三、帝國の國境を擴張する事
第四、自己の位置に滿足してゐる階級の間に於て、國内及び國外の利益搾取をなすために、不
熄の闘爭をなす事
といふのである。
以上はニヤリング教授の説の一部である。左傾的なる同氏の立論に對し、われ等は必ずしも全般の賛意を拂ふものではないが、同氏の示さんとする米國の帝國主義的態度は、同氏の筆により、極めて鮮明に描き出だされてゐると思ふ。
引用・参照・底本
『米國の研究』清沢冽著 大正十四年十一月十八日發行 日本評論社
(国立国会図書館デジタルコレクション)
第一編 米國といふ國
(23-27頁)
七 「アメリカ大帝國」の出現 2022.05.05
富に勢力と名譽欲はつきものである。始めは「なにあの成りあがり者めが」と、その活動を白眼で見る素封家も、その成りあがり者が、富を蓄積する事縣下隨一といふやうになれば、名譽職も、政治上の勢力も知らない内にその人のものとなり、當人もそのあり餘る活動力に委せて、天晴れ政治家になりすませて仕舞ふ。
この個人の心理狀態は、また一國の心理狀態である。冒險的心理の持主であり、無限の富力を背景にする米國が、今や經濟に勝て、政治に向ふのは極めて自然である。そしてかうした徑路で到達した政治が、帝國主義的傾向を帶び、多分の侵略的(政治的であるよりは經濟的な)分子をも含でゐるのは、已むを得ない次第だと思ふ。
最近アメリカに行つた英國のバートランド・ラツセルは、英國に歸つてかういふ感想を發表してゐる……
彼等(米國人)は軍國的である、そして從來アメリカが軍隊の少ないことから得ることを得なかつたところの利益を得んことを望んでゐる、軍事教育は各種學校、大學等に於て實施され、愛國的感情は出來るだけ奬勵されてゐる。
米國がその經濟の指揮するところにより、帝國主義――それは領土的であるよりも、寧ろ經濟的なる――の新生涯に入るべきは、頗る可能であるやうに見える。既にそこに好機會が存在してゐる以上、如何なる國家でもかつて之を拒絶し得た例しはない、多分太平洋はアメリカが膨脹する第一の場面であらう。これが日本の恐れるところでありまた日本が武士精神の漲ぎつてゐる所以でもある。
併し乍らアメリカには又帝國主義的冒險に反對する大なる一般的勢力がある。そしてこの勢力が一種の牽制的な効果を奏し得るかも知れない。
このラツセルの見方は、われ等の共鳴を惜み得ざるところである。米國のこの傾向を帝國主義なりと喝破したのはラツセルに止まらない。前回に引照したスコツト・ニヤリング教授は米國をアメリカ帝國と呼んでいる、同氏はAmerican Empireなる著書において、米國を「帝國」なりと呼び普通の人は共和國を呼ぶに「エンパイヤー」といふ稱號を以てすることを拒むであらう。普通「エンパイヤー」は「エンペラー」と結びつけられ、帝國の中心が、最高の世襲的君主だと思つてゐる。けれども少し靜察すれば、此言葉が誤つてゐることが判る。「英帝国」はその皇帝の權力は、合衆國大統領のそれに及ばないにもかゝはらす、英帝國と呼んでゐるではないか。之に反し歐洲東部の小少國で、その領土に絶對なる權力を揮つてゐるにかゝはらす、「帝國」とは呼ばれないではないか。
と述べ、更に同教授は『新イングリツシユ辭書』に
最高の而して廣大なる政治的統治が、一國の立權により、他の領土に行はれてゐるところに帝國が存在する。
とあるを引照して、「昔は帝國の意義は政治的であつたけれども、今やそれは經濟的勢力を意味するやうになつた」といひ、何れにして帝國の特色は
一、征服された領土、
二、統治された人民
三、帝國的即ち統治する階級
四、統治する階級の利益のために、統治される人民及び征服された領土の利益を搾取する
の四つである、しかして米國はこの内の一つも缺いて居らぬといふのが同教授の議論である。同教授は更に進んで
名は何等の意味をなさぬ、ローマは自身共和國と呼んで居る間に帝國であつた。ナポレオンはフランス共和國の權威の下に、その帝國主義的活動をなした。
と繰返し、しかして帝國主義の最後の到達點は結局「獨裁者」「最高の統治者」「皇帝」等を選ぶことにあり、此人々の注意は次の四つに拂はれる
第一、國内の國民間の煽動及び反亂を押ふる事
第二、征服した土地に帝國的支配權を保つ事
第三、帝國の國境を擴張する事
第四、自己の位置に滿足してゐる階級の間に於て、國内及び國外の利益搾取をなすために、不
熄の闘爭をなす事
といふのである。
以上はニヤリング教授の説の一部である。左傾的なる同氏の立論に對し、われ等は必ずしも全般の賛意を拂ふものではないが、同氏の示さんとする米國の帝國主義的態度は、同氏の筆により、極めて鮮明に描き出だされてゐると思ふ。
引用・参照・底本
『米國の研究』清沢冽著 大正十四年十一月十八日發行 日本評論社
(国立国会図書館デジタルコレクション)
弱者を挫く米國の伝統 ― 2022-05-06 09:01
『アメリカの對日謀略史』宮慶治 著
(3-11頁)
二 「弱者を挫く」米國の伝統 2022.05.06
エマーソンは「機會があれば膨脹しやうとするのが米國である」と云つたといふが、これが米國の眞の姿なのである。
故國英國から新天地の開拓を目ざし、大西洋を超えて來た米國民の祖先は、決して穏かな人の集まりではなかつた筈である。先住の他國人を征服し、アメリカインデャンを打ち倒してその領土を擴めて行つた彼らに、今滿洲國に見るわれら日本民族の平和な開拓民の姿があつたであらうか。母國英國と、同胞闘ひ合つた末に奪取した『自由』と『獨立』に『平和』と『人道』の響きをこもらせるには、餘りに血なまぐさい感じがするではないが。
米國の國民性は全く平和の使徒にも、人道の選手にも適さないものを持つてゐる。彼らは拳闘を好み、アメリカン・フツトボールに喝采を送り、リンチに快哉を叫ぶものである。彼らは飽くなき闘爭心と、機會かあれば闘ひとらうとする性格の所有者なのだ。たゞその使用する武器が、時には大砲となり、時には彼らのもつとも得意する黄金とかはるだけにすぎないのだ。彼らの相手に廻るものは常に『侵略者』であり『政治的經濟的支配』を目標とする『軍事的征服』を行ふ者なのである。彼らは、だからいつまでも『正義』の權化で、その大砲も、黄金も、世界の人道平和のために用ひるやむにやまれぬ武器なのだ。けれども、いつの世にか征服者が、最初から『侵略者』となつてあらはれて來たことがあらうか。やむにやまれない武器を便用しなかつたものがあらうか。われわれは米國の某々財閥の出資した某々財團が、人類のために如何に貢献したかといふだけで、米國が人道主義者であると信じ切ることは出來ない。某々財團が建てた立派な學校やその設備によつて、その國の文化への、米國民の協力を表はすものと善意に解釋するほど愚であつてはならない。われわれはその底に潜むものを察するの明がなくてはならない。
曾つてわが國民は米國五代の大統碩モンローが、神聖同盟の干渉に反對して一八二三年に發したいはゆるモンロー宣言を米國の唯一の國是として解したことがあつた。この宣言の意圖するところは『米國は歐洲の君主主義的國家がアメリカ大陸に植民するとか、またはこゝ領土を獲得するとかの行爲を絶對に排撃する。同時に歐洲に對しては米國は干渉しない。」といふもりであつて、これは見やうによつては、米國は米大陸の擁護だけに専念する。他に對しては、何らの野心は持たないのだといふまことに自衛上當然のことを云つてゐるやうにきこえるのであるが、この宣言には歐洲と米大陸とは登場してゐるが、アジアその他の大陸については一言も言及してないことに大いに注目しなければならない。
このモンロー宜言の解釋については當時の米國には、米大陸と歐洲との他に顧みるものがなかつた。だから米國は米大陸の帝國主義的覇權確立の意味の、この宣言だけで滿足してゐたのだといはれるのがこれまでの定説であつた。
しかし一七八三年獨立が成就し、その八九年に初代大統領に就任したワシントンが、建國の翌年一七八四年二月二十二日に、商船エムプレス・オブ・チャイナに野生の人参をはじめ、米國ではほとんどたゞ同樣であるが、支那では巨利を得て賣り捌かれる毛皮、棉花、鉛、胡椒等を積載し、米支貿易のために出發させたことは何んと見るべきであらうか。この船こそ八年間の獨立戰爭に、疲弊したとはいへ、戰闘的な米國が、アジア大陸に、太平洋に當時やうやく盛んとなつた歐洲各國の勢力範圍擴張戰を坐視することが出來なくて放つた偵察船だつたのである。しかもこのエムプレス・オブ・チャイナは一年二ヶ月の航海の後、ニューヨークから喜望峰を廻つて廣東へ赳くことに成功し、再びニューヨークに歸還したが、この時米國に積みかへつたものは支那絹、綠茶、陶器等で、三萬三千七百ドルの純益をあげ、米國の支那熟は非常に昂揚されたのである。そしてこの時の指揮官ショウ少佐は、ワシントンが大統領になると共に、初代の米國廣東總領事に任命されたものである。それから七年後の一七九〇年には、米國の對支貿易額は米國の總貿易額の七分の一に達したのであつた。だから、米國より先に、支那貿易を行つてゐた各國との間に摩擦が起るのは當然であつて、各國は協同して米國の排撃を企てたものであつた。そこでワシントンは一七九四年前記のショウ廣東總領事に命じて『支那は米國のために門戸を開放せよ』と、清朝政府に申人れを行はせた。この事實から推して、米國が支那に大きな關心を持ち、また支那市場に大きな發言權を持つてゐるかのやうに振舞ふ今日の態度は、決して近代の所産ではないことを知るであらう。またモンロー宣言が、アジア大陸に言及しなかつた理由も解釋がつくのである。しかもこのモンロー宣言は、決して狭義に米國人には解釋されてゐない。のみならず、モンロー宜言の米大陸の文字は更に時によると思ひもよらぬお添物を伴つてわれらの眼前にあらはれてくる。このやうな事はモンロー宣言の本旨に反するではないかと訊せば、米國人は『モンロー主義は伸縮自在なることインドゴムの如く、その間口の廣いことは、戸外のやうなものだ』(ニユーヨータ、サン)と嘯くのである。
こうした米國及び米國人の特性を知らねば、決して日米間の問題は解釋がつかないのである。米國は常に擴大し、膨脹しやうとしてゐる。しかもその向ふ所は、抵抗力の強くないところを目標とする。これは米國膨脹史と、その方向とを顧れば直ちに肯くことが出來るのである。
一八四六年の米墨戰爭もその一例である。スペインの束縛を脱して間もないメキシコを攻略し、メキシコに、テキサス州の買収を申込んで斷はれるや、直ちに兵を入れて首都メキシコを攻略し、メキシコ政府にグアダルツプ・ヒダルゴ條約でテキサスの他にニユー・メキシコ、北部カリフオルニアの百三十八萬八千餘方キロに亙る廣大な豐沃の地を割かしめたのである。その後こうした強要買収でメキシコから獲た土地を併せれば、カリフオルニヤ、ネヴアダ、ユタ、ニユー・メキシコ、アリゾナの五州とコロラド、ワイオミング兩州の大部といふことになる。これは何と強辯しやうとも『侵略者』といはねばなるまい。
また一八六七年三月セワード國務長官の手で行はれたアラスカの買収は『大平洋の洗ふところの岸』を僅か七百二十萬ドルの安値で行はれ、これが今日の對日北方作戰の基地となつてゐる』のだ。
一八九八年に結ばれた米西平和條約は、また米國の露骨な太平洋政策のあらはれで、この結果フイリピンとグアムは米國の領有に歸したのであつた。この米西戰爭は、どう考へても、正義のために行はれた戰爭でないことは、米國人自身も承認するところであつて、殊にフイリピン獨立軍をうまうまと瞞着し、あまつさへ、その首領アギナルドを悲憤のどん底に投じた米國の僞瞞政策は、いかにして辨護の餘地があるであらうか。この年はロシヤが日本にあの有名な三國干渉を行つて、遼東半島の租借権を得、ドイツが 膠州灣を、英國が九龍半島と威海衛とを租借した年であることを思ひ合せれば、フイリピン占領の意圖は明白になるであらう。これら歐洲列強と伍して、今まで何の足がゝりもなかつた米國が、アジア大陸近くにその前進根據地を求めたところに、大いに重要な意義が見出されるではないか。
ハワイ群鳥の領有も、またその手段にいたつては唾棄に値するものがある。一八七二年十二月ハワイではカメハナハ五世が急死し、次いで王族ルナリオが王位に即いたが一年で死亡し、王姫リリウオカラニ女王が即位した。このどさくさまぎれに在住米人の地主達は獨立の機をねらつてゐたが、女王が憲法を改正して王權を伸張させやうとしたのをとらへて愚民を煽動し、叛亂起こさせ、ホノルル碇泊中の米艦は、またこの叛亂軍を援助し、遂に革命は成功してサンドウイツチ共和國が成立したのである、しかしこれはもとより米國領有の前提で、一八九八年の米西戰爭の眞最中に併合を斷行してしまつたものである。
また米國が太平洋、大西洋の兩洋をつなぐことが、太平洋政策上、重要なものであることに着眼して行つたのがパナマ共和國の獨立問題である。パナマ地峡は由來コロンビア共和國に屬してゐたが、米國がこの地に運河を築くことにコロンビア議會が反對したのを知るや、直ちにコロンビア軍隊内の不平分子を煽てあげて叛亂を起こさせ、例によつて米軍が尻押しをし、遂に一九〇三年十一月三日のパナマ共和國の獨立宣言となり、同月十八日のペイ、ブナン、ヴアリラ條約でパナマ運河地帶の米國領有が實現したのであつた。時の大統領は、現大統領ルーズベルトの親父であつたことは人も知るとほりである。
以上の歴史的事實によつて明かなやうに、米國はも早その手を伸ばすことの出來ない歐洲方面に進路をとることなく、賢明にも、なほその自力で闘ひとり、膨脹出來ると信ぜられる太平洋方面に、その發展路を求めて來たのである。これはワシントン大統領の對支門戸開放要求及び、モンロー宣言の底流lなすものであつて、西進こそ米國の國是なのであつた。この西進の前途に横たはるものは、曾つてのアメリカンインデアンの如く、ヤンキーの銃火の前に虚しき抵抗を試みねばならぬ、憐れな運命を背負ふものと豫定してゐたのである。けれども彼らは、その黎明期を知つて、その成長瑚に入つた日本の偉大な力を知らなかつた。そこに彼らの誤算があり、彼らの焦慮と、あくなき對日壓迫が生じて來たのである。
引用・参照・底本
『アメリカの對日謀略史』宮慶治 著 昭和十七年一月二十八日發行 大東亞社
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(3-11頁)
二 「弱者を挫く」米國の伝統 2022.05.06
エマーソンは「機會があれば膨脹しやうとするのが米國である」と云つたといふが、これが米國の眞の姿なのである。
故國英國から新天地の開拓を目ざし、大西洋を超えて來た米國民の祖先は、決して穏かな人の集まりではなかつた筈である。先住の他國人を征服し、アメリカインデャンを打ち倒してその領土を擴めて行つた彼らに、今滿洲國に見るわれら日本民族の平和な開拓民の姿があつたであらうか。母國英國と、同胞闘ひ合つた末に奪取した『自由』と『獨立』に『平和』と『人道』の響きをこもらせるには、餘りに血なまぐさい感じがするではないが。
米國の國民性は全く平和の使徒にも、人道の選手にも適さないものを持つてゐる。彼らは拳闘を好み、アメリカン・フツトボールに喝采を送り、リンチに快哉を叫ぶものである。彼らは飽くなき闘爭心と、機會かあれば闘ひとらうとする性格の所有者なのだ。たゞその使用する武器が、時には大砲となり、時には彼らのもつとも得意する黄金とかはるだけにすぎないのだ。彼らの相手に廻るものは常に『侵略者』であり『政治的經濟的支配』を目標とする『軍事的征服』を行ふ者なのである。彼らは、だからいつまでも『正義』の權化で、その大砲も、黄金も、世界の人道平和のために用ひるやむにやまれぬ武器なのだ。けれども、いつの世にか征服者が、最初から『侵略者』となつてあらはれて來たことがあらうか。やむにやまれない武器を便用しなかつたものがあらうか。われわれは米國の某々財閥の出資した某々財團が、人類のために如何に貢献したかといふだけで、米國が人道主義者であると信じ切ることは出來ない。某々財團が建てた立派な學校やその設備によつて、その國の文化への、米國民の協力を表はすものと善意に解釋するほど愚であつてはならない。われわれはその底に潜むものを察するの明がなくてはならない。
曾つてわが國民は米國五代の大統碩モンローが、神聖同盟の干渉に反對して一八二三年に發したいはゆるモンロー宣言を米國の唯一の國是として解したことがあつた。この宣言の意圖するところは『米國は歐洲の君主主義的國家がアメリカ大陸に植民するとか、またはこゝ領土を獲得するとかの行爲を絶對に排撃する。同時に歐洲に對しては米國は干渉しない。」といふもりであつて、これは見やうによつては、米國は米大陸の擁護だけに専念する。他に對しては、何らの野心は持たないのだといふまことに自衛上當然のことを云つてゐるやうにきこえるのであるが、この宣言には歐洲と米大陸とは登場してゐるが、アジアその他の大陸については一言も言及してないことに大いに注目しなければならない。
このモンロー宜言の解釋については當時の米國には、米大陸と歐洲との他に顧みるものがなかつた。だから米國は米大陸の帝國主義的覇權確立の意味の、この宣言だけで滿足してゐたのだといはれるのがこれまでの定説であつた。
しかし一七八三年獨立が成就し、その八九年に初代大統領に就任したワシントンが、建國の翌年一七八四年二月二十二日に、商船エムプレス・オブ・チャイナに野生の人参をはじめ、米國ではほとんどたゞ同樣であるが、支那では巨利を得て賣り捌かれる毛皮、棉花、鉛、胡椒等を積載し、米支貿易のために出發させたことは何んと見るべきであらうか。この船こそ八年間の獨立戰爭に、疲弊したとはいへ、戰闘的な米國が、アジア大陸に、太平洋に當時やうやく盛んとなつた歐洲各國の勢力範圍擴張戰を坐視することが出來なくて放つた偵察船だつたのである。しかもこのエムプレス・オブ・チャイナは一年二ヶ月の航海の後、ニューヨークから喜望峰を廻つて廣東へ赳くことに成功し、再びニューヨークに歸還したが、この時米國に積みかへつたものは支那絹、綠茶、陶器等で、三萬三千七百ドルの純益をあげ、米國の支那熟は非常に昂揚されたのである。そしてこの時の指揮官ショウ少佐は、ワシントンが大統領になると共に、初代の米國廣東總領事に任命されたものである。それから七年後の一七九〇年には、米國の對支貿易額は米國の總貿易額の七分の一に達したのであつた。だから、米國より先に、支那貿易を行つてゐた各國との間に摩擦が起るのは當然であつて、各國は協同して米國の排撃を企てたものであつた。そこでワシントンは一七九四年前記のショウ廣東總領事に命じて『支那は米國のために門戸を開放せよ』と、清朝政府に申人れを行はせた。この事實から推して、米國が支那に大きな關心を持ち、また支那市場に大きな發言權を持つてゐるかのやうに振舞ふ今日の態度は、決して近代の所産ではないことを知るであらう。またモンロー宣言が、アジア大陸に言及しなかつた理由も解釋がつくのである。しかもこのモンロー宣言は、決して狭義に米國人には解釋されてゐない。のみならず、モンロー宜言の米大陸の文字は更に時によると思ひもよらぬお添物を伴つてわれらの眼前にあらはれてくる。このやうな事はモンロー宣言の本旨に反するではないかと訊せば、米國人は『モンロー主義は伸縮自在なることインドゴムの如く、その間口の廣いことは、戸外のやうなものだ』(ニユーヨータ、サン)と嘯くのである。
こうした米國及び米國人の特性を知らねば、決して日米間の問題は解釋がつかないのである。米國は常に擴大し、膨脹しやうとしてゐる。しかもその向ふ所は、抵抗力の強くないところを目標とする。これは米國膨脹史と、その方向とを顧れば直ちに肯くことが出來るのである。
一八四六年の米墨戰爭もその一例である。スペインの束縛を脱して間もないメキシコを攻略し、メキシコに、テキサス州の買収を申込んで斷はれるや、直ちに兵を入れて首都メキシコを攻略し、メキシコ政府にグアダルツプ・ヒダルゴ條約でテキサスの他にニユー・メキシコ、北部カリフオルニアの百三十八萬八千餘方キロに亙る廣大な豐沃の地を割かしめたのである。その後こうした強要買収でメキシコから獲た土地を併せれば、カリフオルニヤ、ネヴアダ、ユタ、ニユー・メキシコ、アリゾナの五州とコロラド、ワイオミング兩州の大部といふことになる。これは何と強辯しやうとも『侵略者』といはねばなるまい。
また一八六七年三月セワード國務長官の手で行はれたアラスカの買収は『大平洋の洗ふところの岸』を僅か七百二十萬ドルの安値で行はれ、これが今日の對日北方作戰の基地となつてゐる』のだ。
一八九八年に結ばれた米西平和條約は、また米國の露骨な太平洋政策のあらはれで、この結果フイリピンとグアムは米國の領有に歸したのであつた。この米西戰爭は、どう考へても、正義のために行はれた戰爭でないことは、米國人自身も承認するところであつて、殊にフイリピン獨立軍をうまうまと瞞着し、あまつさへ、その首領アギナルドを悲憤のどん底に投じた米國の僞瞞政策は、いかにして辨護の餘地があるであらうか。この年はロシヤが日本にあの有名な三國干渉を行つて、遼東半島の租借権を得、ドイツが 膠州灣を、英國が九龍半島と威海衛とを租借した年であることを思ひ合せれば、フイリピン占領の意圖は明白になるであらう。これら歐洲列強と伍して、今まで何の足がゝりもなかつた米國が、アジア大陸近くにその前進根據地を求めたところに、大いに重要な意義が見出されるではないか。
ハワイ群鳥の領有も、またその手段にいたつては唾棄に値するものがある。一八七二年十二月ハワイではカメハナハ五世が急死し、次いで王族ルナリオが王位に即いたが一年で死亡し、王姫リリウオカラニ女王が即位した。このどさくさまぎれに在住米人の地主達は獨立の機をねらつてゐたが、女王が憲法を改正して王權を伸張させやうとしたのをとらへて愚民を煽動し、叛亂起こさせ、ホノルル碇泊中の米艦は、またこの叛亂軍を援助し、遂に革命は成功してサンドウイツチ共和國が成立したのである、しかしこれはもとより米國領有の前提で、一八九八年の米西戰爭の眞最中に併合を斷行してしまつたものである。
また米國が太平洋、大西洋の兩洋をつなぐことが、太平洋政策上、重要なものであることに着眼して行つたのがパナマ共和國の獨立問題である。パナマ地峡は由來コロンビア共和國に屬してゐたが、米國がこの地に運河を築くことにコロンビア議會が反對したのを知るや、直ちにコロンビア軍隊内の不平分子を煽てあげて叛亂を起こさせ、例によつて米軍が尻押しをし、遂に一九〇三年十一月三日のパナマ共和國の獨立宣言となり、同月十八日のペイ、ブナン、ヴアリラ條約でパナマ運河地帶の米國領有が實現したのであつた。時の大統領は、現大統領ルーズベルトの親父であつたことは人も知るとほりである。
以上の歴史的事實によつて明かなやうに、米國はも早その手を伸ばすことの出來ない歐洲方面に進路をとることなく、賢明にも、なほその自力で闘ひとり、膨脹出來ると信ぜられる太平洋方面に、その發展路を求めて來たのである。これはワシントン大統領の對支門戸開放要求及び、モンロー宣言の底流lなすものであつて、西進こそ米國の國是なのであつた。この西進の前途に横たはるものは、曾つてのアメリカンインデアンの如く、ヤンキーの銃火の前に虚しき抵抗を試みねばならぬ、憐れな運命を背負ふものと豫定してゐたのである。けれども彼らは、その黎明期を知つて、その成長瑚に入つた日本の偉大な力を知らなかつた。そこに彼らの誤算があり、彼らの焦慮と、あくなき對日壓迫が生じて來たのである。
引用・参照・底本
『アメリカの對日謀略史』宮慶治 著 昭和十七年一月二十八日發行 大東亞社
(国立国会図書館デジタルコレクション)
高濱清 漱石氏と私 一 ― 2022-05-07 17:35
『漱石氏と私』高濱清(高濱虚子)著
『漱石氏と私』高濱清著
序
漱石氏と私との交遊は疎きがごとくして親しく、親しきが如くして疎きものありたり。その邊を十分に描けば面白かるべきも、本篇は氏の書簡を主なる材料として唯追憶の一端をしるしたるのみ。氏が文壇に出づるに至れる當時の事情は、略々此の書によりて想察し得可し。
大正七年正月七日
ほとゝぎす發行所にて
高濱虚子
永き日や欠伸うつして別れ行く === 漱石氏筆
漱石氏と私
一 2022.05.07
今私は自分の座右に漱石氏の數十本の手紙を置いて居る。近年は餘り人の手紙は保存することをしないけれども、十年前頃までは先輩の手紙の大方保存しておいた。それは一纏めになつて古い行李の中に納められてある。今度漱石氏が亡くなつたのに就いて家人の手によつて選り出されたものが即ち座右にあるところの數十通の手紙である。まだ年月の順序でそれを排列することもしないでゐるのであるが、一寸手にとつてみたところでは大方漱石氏が「猫」を書くやうになつてから以來一兩年間の手紙で、それ以前の手紙は極めて少いやうである。さうして漱石氏が朝日新聞に入社してその紙上以外に筆を執らぬやうになつてから後はまた著しくその數を減じている。
私が漱石氏に就いての一番古い記憶はその大學の帽子を被つてゐる姿である。時は明治二十四、五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規居士が歸省していた時のことで、その席上には和服姿の居士と大學の制服の膝をキチンと折つて坐つた若い人と、居士の母堂と私とがあつた。母堂の手によつて、松山鮓とよばれてゐるところの五目鮓が拵へられて其大學生と居士と私との三人はそれを食ひつゝあつた。他の二人の目から見たら其頃まだ中學生であつた私はほんの子供であつたであらう。また十七八の私の目から見た二人の大學生は遥かに大人びた文學者としてながめられた。その頃漱石氏はどうして松山に來たのであつたらうか。それはその後しばしば氏に會しながらも終に尋ねてみる機會がなかつた。やはり休みを利用して此地方へ來たついでに歸省中の居士を訪ねて來たものであつたらうか。その席上ではどんな話があつたか、全く私の記憶には殘つておらぬ。たゞ何事も放膽的であるやうに見えた子規居士と反對に、極めてつゝましやかに紳士的な態度をとつてゐた漱石氏の模樣が昨日の出來事の如くはつきりと眼に殘つている。漱石氏は洋服の膝を正しく折つて靜座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬ樣に行儀正しくそれを食べるのであつた。そうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな樣子で箸はしをとるのであつた。それから兩君はどういふやうにして、どういふ風に別れたか、それも全く記憶にない。たゞその時私は一本の傘を居士の家に忘れて歸つて來たことと、其次ぎ居士を訪問してみると赤や綠や黄や青やの詩箋に二十句ばかりの俳句が記されてあつた、それを居士が私に見せて、「これが此間來た夏目の俳句ぢゃ。」と言つたことを覺えて居る。どんな句があつたか記憶しないが何でも一番最初に書いてあつた句が鶯の句であつたことだけは記憶して居る。
その後も子規居士の口から漱石氏に就いての話はしばしば聞いた。極く真面目に勉強する人で學校の成績が常にいゝといふことや、學資を得る爲に早稲田の専門學校に教えに行つてゐるといふことや、その他今記憶に殘つてはゐないけれどもいろいろの話を聞いた。居士がその親友として私に話した人の名前は餘り澤山なく、菊池謙二郎、秋山真之、その他二三の人であつたが、同じ文學に携はる者としては夏目といふ名前がしばしば繰返された。
それから三四年經つて明治二十八年に私は松山に歸省した。私は明治二十五年に松山を出て京都に遊學し、それから仙臺、東京と處を替へたのであつたが、この明治二十八年に歸省した時に、漱石氏は大學を出て松山の中學校の教師になつてゐたので、それを訪問してみることを子規居士から勸められた。三四年前一度居士の宅で遇つた大學生が夏目氏其人であることは承知してゐたが、その時は全くの子供として子規居士の蔭に小さく坐つたままで碌に談話も交へなかつた人のことであるから、私は初對面の心持で氏の寓居を訪ねた。氏の寓居といふのは一番町の裁判所の裏手になつて居る、城山の麓の少し高みのところであつた。その頃そこは或る古道具屋が住まつてゐて、その座敷を間借りして漱石氏はまだ妻帶もしない書生上りの下宿生活をして居つたのであつた。そこはもと菅といふ家老の屋敷であつて、その家老時代の建物は取除けられてしまつて、小さい一棟の二階建の家が廣い敷地の中にぽつんと立つてゐるばかりであつたが、その廣い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の綠につづいてゐる松の林もあつた。裁判所の横手を一丁ばかりも這入て行くと、そこに木の門があつてそれを這入ると不規則な何十級かの石段があつて、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まつてゐる四間か五間の二階建の家があつた。私はそこでどんな風に案内を乞うたか、それは記憶に殘つて居らん。多分古道具屋の上かみさんが、
「夏目さんは裏にゐらつしゃるから、裏の方に行つて御覧なさい。」とでも言つたものであろう、私はその家の裏庭の方に出たのであつた。今言つた蓮池や松林がそこにあつて、その蓮池の手前の空地の所に射垜があつて、そこに漱石氏は立つていた。それは夏であつたのであろう、漱石氏の着ている衣物は白地の單衣であつたように思ふ。その單衣の片肌を脱いで、其下には薄いシャツを着てゐた。さうして其左の手には弓を握つてゐた。漱石氏は振返つて私を見たので近づいて來意を通ずると、
「ああそうですか、一寸待つてください、今一本矢が殘つているから。」とか何とか言つてその右の手にあつた矢を弓につがえて五、六間先にある的をねらつて發矢と放つた。其時の姿勢から矢の當り具合などが、美しく巧みなように私の眼に映つた。それから漱石氏は餘り厭味のない氣取つた態度で駈足をして其的のほとりに落ち散つてゐる矢を拾いに行つて、それを拾つてもどつてから肌を入れて、
「失敬しました。」と言つて私を其居間に導いた。私はその時どんな話をしたか記憶には殘つて居らぬ。たゞ艶々しく丸髷を結つた年増の上さんが出て来て茶を入れたことだけは記憶して居る。
この古道具屋の居たという家は私にも縁のある家で、それから何年か後にその家や地面が久松家の所有になり、久松家の用人をしてゐた私の長兄が留守番旁々其所そこに住まうやうになつて、私は歸省する度にいつもそこに寐泊りをした。即ち漱石氏の假寓していた二階に私はいつも寐泊りしたのであつた。それから私の兄が久松家の用人をやめて自分の家に戻つて後、そこには藤野古白の老父君であつた藤野漸翁が久松家の用人として住まつていた。大正三年の五月に私は寶生新氏(漱石氏の謡の師匠)や、河東碧梧桐君や、次兄池内信嘉やなどゝ共に松山に歸省したことがあつた。それは池内の企で松山で能を催すことになつて一同打連れだつて歸省したのであつたが、その時寶生氏を始め一同は藤野氏の所に集つて申合はせをした。尤もそれは例の二階建の小さい家の方ではなくつて、久松家の所有になつてから直ぐ其家に隣つて稍〻廣い座敷が二間ばかりある時々の集會などに用ふる一棟の別座敷が作られた、その方に集つて申合せをしたのであつた。その申合せをして居る時に、藤野氏の家人の聲がして、
「今一人の書生さんが見えて、夏目さんがどうとか仰しやるのですが……」と其意味を解しかねたやうに言つた。藤野翁はそれに答えて、
「それは何か間違であらう、河東さんや高濵さんはおいでになつて居るが、夏目さんはおいでになつてゐない、とそう返事をおし。」と言つた。一座の人は皆默々として思ひもよらぬその話に餘り意をとめなかつたやうであつたが、私は二十年前のことがたちまち頭に閃いて、
「それは夏目君が以前此家に居たことがあつた、といふことに就いて何か訊きに來たのであろう。」と言つた。
「夏目君がここにゐたとは?」と藤野翁は私の顔をいぶかしさうに見た。その他の人も皆不思議さうに私の顔を見た。そこで私は、
「兎に角その書生さんに會つて見ませう。」と藤野氏の家人に言つて、下駄を突つかけて表に出て見た。そこには大學の制帽を被つた一人の書生さんが突つ立つてゐた。
「どういう御用ですか。」と訊いてみたら、
「私は夏目先生の著作を愛讀してゐるものですが、神經衰弱に罹つて一年ばかり學校を休んでいる間に所々を旅行して今度この地に來たのです。先生のお書きになつた何かの記事のうちに此家に下宿してゐられたということがあつたように記憶してゐたのでどんな所かその跡が見たくて來たのです。」といふことであつた。そこで私はその書生さんを案内して、まだ形の殘つてゐる射垜の邊から例の大きくない二階建などを見せた。その書生さんはあまり多く語りもせずに歸つて行つた。その時名刺を貰つたけどもその名前は格別記憶にも殘つてゐなかつた。が、その翌年發行所の電話のベルが鳴つて、
「私は渡邊と言つていつか松山で斯くかくのことをしてもらつた者であるが、一度夏目先生にお目にかゝりたいと思ふ。お紹介が願へないでせうか。」といふことであつた。私は承知の旨を答へた。私の書いた紹介状を渡邊自身が取りに來たのは其日か其翌日かのことであつた。其後渡邊君のことはまた考へる機會もなかつたのであるが漱石氏の葬式の時、青山の齊場に丁度私の傍に立つていた一人の青年がその渡邊君であつて久し振りに挨拶をした。それから最近一月十日の日附の郵便が鎌倉の私の案頭に落ちた。それは斯ういふ手紙であつた。
拝呈
私は大正三年の春先生に松山で御目にかゝり、四年の十二月に夏目先生に紹介していただいたもので御座います。先生の御蔭で夏目先生に御目にかゝる事が出來て大變悦んで居りました處、夏目先生は死なれまして又寂寞を感ずる樣になりました。遠慮であつたのと御邪魔してはならぬと云ふ考へから度々は参りませんでしたが、比較的に親しく御話を承り少しは串戯も申しましたが、死なれて急に何となく物足らない樣な心地になり、東京に居つてもつまらない樣な心になりました。それと同時に、今迄運命とかいう樣な事は全く考へた事もなかつたのですが少しは運命と云ふ事を考へる樣になりました。私が松山へ行つたのは數年前『坊ちやん』を讀んだ事がありましたため、その跡を尋ねに松山へ行きたいと云ふ心が自然にその年の春浮んで來たのです。同時に先生が御郷里の松山へ歸つて御出おいでだとは思ひもそめなかつた事であります。それに夏目先生の下宿の跡を尋ねて廻つて居つた時先生に御目にかかるを得たのは如何に考へても不思議な運命だと思はれます。それのみならず紹介していただいて一ヶ年の後夏目先生が死なれたと云ふ事がまた奇しく思はれます。昨年十二月九日に死なれるのが天命であつたとすれば、御生前に御目にかゝるために松山へ行きたいと云ふ心が三年の春に浮んだのであるかも知れぬと思ひます。考へれば如何にも妙です。どんな力が働いてこんな事が出來るのかちょつとも知れませぬ。しかし何はともあれ先生に紹介していただいた事は常に深く感謝しております。この冬休暇に歸つて獵をして居るうち今日山鳥が一羽とれましたから御禮の印に御送り致します。ツグミではないから安心して食つて下さいませ。
一月十日
義雄
高浜先生
私から言つても丁度松山に歸つていて、然も以前漱石氏の寓居であつた所に行つてゐた時に、渡邊君が漱石氏の寓居の跡を訪ねて來たということは奇縁といはねばならぬ。山鳥は早速調理して食つた。旨かつた。ツグミ云々とあるのは漱石氏が胃潰癰を再發して死を早めたのはツグミの焼鳥を鳥つた爲だとかいふ話があつたのによるのであらう。
引用・参照・底本
『漱石氏と私』高濱清著 大正七年一月三十一日發行 書店アルス
(国立国會図書館デジタルコレクション)
『漱石氏と私』高濱清著
序
漱石氏と私との交遊は疎きがごとくして親しく、親しきが如くして疎きものありたり。その邊を十分に描けば面白かるべきも、本篇は氏の書簡を主なる材料として唯追憶の一端をしるしたるのみ。氏が文壇に出づるに至れる當時の事情は、略々此の書によりて想察し得可し。
大正七年正月七日
ほとゝぎす發行所にて
高濱虚子
永き日や欠伸うつして別れ行く === 漱石氏筆
漱石氏と私
一 2022.05.07
今私は自分の座右に漱石氏の數十本の手紙を置いて居る。近年は餘り人の手紙は保存することをしないけれども、十年前頃までは先輩の手紙の大方保存しておいた。それは一纏めになつて古い行李の中に納められてある。今度漱石氏が亡くなつたのに就いて家人の手によつて選り出されたものが即ち座右にあるところの數十通の手紙である。まだ年月の順序でそれを排列することもしないでゐるのであるが、一寸手にとつてみたところでは大方漱石氏が「猫」を書くやうになつてから以來一兩年間の手紙で、それ以前の手紙は極めて少いやうである。さうして漱石氏が朝日新聞に入社してその紙上以外に筆を執らぬやうになつてから後はまた著しくその數を減じている。
私が漱石氏に就いての一番古い記憶はその大學の帽子を被つてゐる姿である。時は明治二十四、五年の頃で、場所は松山の中の川に沿うた古い家の一室である。それは或る年の春休みか夏休みかに子規居士が歸省していた時のことで、その席上には和服姿の居士と大學の制服の膝をキチンと折つて坐つた若い人と、居士の母堂と私とがあつた。母堂の手によつて、松山鮓とよばれてゐるところの五目鮓が拵へられて其大學生と居士と私との三人はそれを食ひつゝあつた。他の二人の目から見たら其頃まだ中學生であつた私はほんの子供であつたであらう。また十七八の私の目から見た二人の大學生は遥かに大人びた文學者としてながめられた。その頃漱石氏はどうして松山に來たのであつたらうか。それはその後しばしば氏に會しながらも終に尋ねてみる機會がなかつた。やはり休みを利用して此地方へ來たついでに歸省中の居士を訪ねて來たものであつたらうか。その席上ではどんな話があつたか、全く私の記憶には殘つておらぬ。たゞ何事も放膽的であるやうに見えた子規居士と反對に、極めてつゝましやかに紳士的な態度をとつてゐた漱石氏の模樣が昨日の出來事の如くはつきりと眼に殘つている。漱石氏は洋服の膝を正しく折つて靜座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬ樣に行儀正しくそれを食べるのであつた。そうして子規居士はと見ると、和服姿にあぐらをかいてぞんざいな樣子で箸はしをとるのであつた。それから兩君はどういふやうにして、どういふ風に別れたか、それも全く記憶にない。たゞその時私は一本の傘を居士の家に忘れて歸つて來たことと、其次ぎ居士を訪問してみると赤や綠や黄や青やの詩箋に二十句ばかりの俳句が記されてあつた、それを居士が私に見せて、「これが此間來た夏目の俳句ぢゃ。」と言つたことを覺えて居る。どんな句があつたか記憶しないが何でも一番最初に書いてあつた句が鶯の句であつたことだけは記憶して居る。
その後も子規居士の口から漱石氏に就いての話はしばしば聞いた。極く真面目に勉強する人で學校の成績が常にいゝといふことや、學資を得る爲に早稲田の専門學校に教えに行つてゐるといふことや、その他今記憶に殘つてはゐないけれどもいろいろの話を聞いた。居士がその親友として私に話した人の名前は餘り澤山なく、菊池謙二郎、秋山真之、その他二三の人であつたが、同じ文學に携はる者としては夏目といふ名前がしばしば繰返された。
それから三四年經つて明治二十八年に私は松山に歸省した。私は明治二十五年に松山を出て京都に遊學し、それから仙臺、東京と處を替へたのであつたが、この明治二十八年に歸省した時に、漱石氏は大學を出て松山の中學校の教師になつてゐたので、それを訪問してみることを子規居士から勸められた。三四年前一度居士の宅で遇つた大學生が夏目氏其人であることは承知してゐたが、その時は全くの子供として子規居士の蔭に小さく坐つたままで碌に談話も交へなかつた人のことであるから、私は初對面の心持で氏の寓居を訪ねた。氏の寓居といふのは一番町の裁判所の裏手になつて居る、城山の麓の少し高みのところであつた。その頃そこは或る古道具屋が住まつてゐて、その座敷を間借りして漱石氏はまだ妻帶もしない書生上りの下宿生活をして居つたのであつた。そこはもと菅といふ家老の屋敷であつて、その家老時代の建物は取除けられてしまつて、小さい一棟の二階建の家が廣い敷地の中にぽつんと立つてゐるばかりであつたが、その廣い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の綠につづいてゐる松の林もあつた。裁判所の横手を一丁ばかりも這入て行くと、そこに木の門があつてそれを這入ると不規則な何十級かの石段があつて、その石段を登りつめたところに、その古道具屋の住まつてゐる四間か五間の二階建の家があつた。私はそこでどんな風に案内を乞うたか、それは記憶に殘つて居らん。多分古道具屋の上かみさんが、
「夏目さんは裏にゐらつしゃるから、裏の方に行つて御覧なさい。」とでも言つたものであろう、私はその家の裏庭の方に出たのであつた。今言つた蓮池や松林がそこにあつて、その蓮池の手前の空地の所に射垜があつて、そこに漱石氏は立つていた。それは夏であつたのであろう、漱石氏の着ている衣物は白地の單衣であつたように思ふ。その單衣の片肌を脱いで、其下には薄いシャツを着てゐた。さうして其左の手には弓を握つてゐた。漱石氏は振返つて私を見たので近づいて來意を通ずると、
「ああそうですか、一寸待つてください、今一本矢が殘つているから。」とか何とか言つてその右の手にあつた矢を弓につがえて五、六間先にある的をねらつて發矢と放つた。其時の姿勢から矢の當り具合などが、美しく巧みなように私の眼に映つた。それから漱石氏は餘り厭味のない氣取つた態度で駈足をして其的のほとりに落ち散つてゐる矢を拾いに行つて、それを拾つてもどつてから肌を入れて、
「失敬しました。」と言つて私を其居間に導いた。私はその時どんな話をしたか記憶には殘つて居らぬ。たゞ艶々しく丸髷を結つた年増の上さんが出て来て茶を入れたことだけは記憶して居る。
この古道具屋の居たという家は私にも縁のある家で、それから何年か後にその家や地面が久松家の所有になり、久松家の用人をしてゐた私の長兄が留守番旁々其所そこに住まうやうになつて、私は歸省する度にいつもそこに寐泊りをした。即ち漱石氏の假寓していた二階に私はいつも寐泊りしたのであつた。それから私の兄が久松家の用人をやめて自分の家に戻つて後、そこには藤野古白の老父君であつた藤野漸翁が久松家の用人として住まつていた。大正三年の五月に私は寶生新氏(漱石氏の謡の師匠)や、河東碧梧桐君や、次兄池内信嘉やなどゝ共に松山に歸省したことがあつた。それは池内の企で松山で能を催すことになつて一同打連れだつて歸省したのであつたが、その時寶生氏を始め一同は藤野氏の所に集つて申合はせをした。尤もそれは例の二階建の小さい家の方ではなくつて、久松家の所有になつてから直ぐ其家に隣つて稍〻廣い座敷が二間ばかりある時々の集會などに用ふる一棟の別座敷が作られた、その方に集つて申合せをしたのであつた。その申合せをして居る時に、藤野氏の家人の聲がして、
「今一人の書生さんが見えて、夏目さんがどうとか仰しやるのですが……」と其意味を解しかねたやうに言つた。藤野翁はそれに答えて、
「それは何か間違であらう、河東さんや高濵さんはおいでになつて居るが、夏目さんはおいでになつてゐない、とそう返事をおし。」と言つた。一座の人は皆默々として思ひもよらぬその話に餘り意をとめなかつたやうであつたが、私は二十年前のことがたちまち頭に閃いて、
「それは夏目君が以前此家に居たことがあつた、といふことに就いて何か訊きに來たのであろう。」と言つた。
「夏目君がここにゐたとは?」と藤野翁は私の顔をいぶかしさうに見た。その他の人も皆不思議さうに私の顔を見た。そこで私は、
「兎に角その書生さんに會つて見ませう。」と藤野氏の家人に言つて、下駄を突つかけて表に出て見た。そこには大學の制帽を被つた一人の書生さんが突つ立つてゐた。
「どういう御用ですか。」と訊いてみたら、
「私は夏目先生の著作を愛讀してゐるものですが、神經衰弱に罹つて一年ばかり學校を休んでいる間に所々を旅行して今度この地に來たのです。先生のお書きになつた何かの記事のうちに此家に下宿してゐられたということがあつたように記憶してゐたのでどんな所かその跡が見たくて來たのです。」といふことであつた。そこで私はその書生さんを案内して、まだ形の殘つてゐる射垜の邊から例の大きくない二階建などを見せた。その書生さんはあまり多く語りもせずに歸つて行つた。その時名刺を貰つたけどもその名前は格別記憶にも殘つてゐなかつた。が、その翌年發行所の電話のベルが鳴つて、
「私は渡邊と言つていつか松山で斯くかくのことをしてもらつた者であるが、一度夏目先生にお目にかゝりたいと思ふ。お紹介が願へないでせうか。」といふことであつた。私は承知の旨を答へた。私の書いた紹介状を渡邊自身が取りに來たのは其日か其翌日かのことであつた。其後渡邊君のことはまた考へる機會もなかつたのであるが漱石氏の葬式の時、青山の齊場に丁度私の傍に立つていた一人の青年がその渡邊君であつて久し振りに挨拶をした。それから最近一月十日の日附の郵便が鎌倉の私の案頭に落ちた。それは斯ういふ手紙であつた。
拝呈
私は大正三年の春先生に松山で御目にかゝり、四年の十二月に夏目先生に紹介していただいたもので御座います。先生の御蔭で夏目先生に御目にかゝる事が出來て大變悦んで居りました處、夏目先生は死なれまして又寂寞を感ずる樣になりました。遠慮であつたのと御邪魔してはならぬと云ふ考へから度々は参りませんでしたが、比較的に親しく御話を承り少しは串戯も申しましたが、死なれて急に何となく物足らない樣な心地になり、東京に居つてもつまらない樣な心になりました。それと同時に、今迄運命とかいう樣な事は全く考へた事もなかつたのですが少しは運命と云ふ事を考へる樣になりました。私が松山へ行つたのは數年前『坊ちやん』を讀んだ事がありましたため、その跡を尋ねに松山へ行きたいと云ふ心が自然にその年の春浮んで來たのです。同時に先生が御郷里の松山へ歸つて御出おいでだとは思ひもそめなかつた事であります。それに夏目先生の下宿の跡を尋ねて廻つて居つた時先生に御目にかかるを得たのは如何に考へても不思議な運命だと思はれます。それのみならず紹介していただいて一ヶ年の後夏目先生が死なれたと云ふ事がまた奇しく思はれます。昨年十二月九日に死なれるのが天命であつたとすれば、御生前に御目にかゝるために松山へ行きたいと云ふ心が三年の春に浮んだのであるかも知れぬと思ひます。考へれば如何にも妙です。どんな力が働いてこんな事が出來るのかちょつとも知れませぬ。しかし何はともあれ先生に紹介していただいた事は常に深く感謝しております。この冬休暇に歸つて獵をして居るうち今日山鳥が一羽とれましたから御禮の印に御送り致します。ツグミではないから安心して食つて下さいませ。
一月十日
義雄
高浜先生
私から言つても丁度松山に歸つていて、然も以前漱石氏の寓居であつた所に行つてゐた時に、渡邊君が漱石氏の寓居の跡を訪ねて來たということは奇縁といはねばならぬ。山鳥は早速調理して食つた。旨かつた。ツグミ云々とあるのは漱石氏が胃潰癰を再發して死を早めたのはツグミの焼鳥を鳥つた爲だとかいふ話があつたのによるのであらう。
引用・参照・底本
『漱石氏と私』高濱清著 大正七年一月三十一日發行 書店アルス
(国立国會図書館デジタルコレクション)
夏目漱石の博士號辭退 ― 2022-05-08 10:36
『博士物語』千田理示造著
(一九-二四頁)
七、夏目漱石の博士號辭退 2022.05.08
夏目漱石が博士號を辭退して世間を騒がせてから、もう三十年近くにもなるが、其後今日に至るまで欲しい人は數へ切れない程あつても、イラないといふ殊勝の人は一人も現はれない。學界人にとつて博士號はやはり有難いものに相違ない。ところでこれ程人の欲しがる博士號を漱石はナゼ辭退したのであるか。事情の判らない者から言はせると漱石が天下無類のすね者のやうにも思はれるが――少しく内部の行がゝりと當時の漱石の境遇を洞察して見ると、ナル程と頷かれるものがある。
明治四十四年二月二十一日のことだ。文學博士會に於て有賀長雄・森槐南・幸田露伴・佐々木信綱・夏目漱石の六人が博士に推薦されることになつて文部省から夫々學位を授與すべき旨を知らせて來た。此時漱石は病氣の爲入院中であつたが、知らせを受けけるや直に之を辭退すべく、福原専門學務局長宛に次の如き書狀を送つている。
拝啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の處に入院中)本日午前十時學位を授與するから出頭しろと云ふ御通知が參つたさうであります留守宅のものは今朝電話で主人は病氣で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申して參りました
學位授與と申すと二三日前の新聞で承知した通り博士會で小生を博士に推薦されたに就て右博士の稱號を小生に授與になる事かと存じます然る處小生は今日迄たゞの夏目なにがしとて世を渡つて參りました是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故學位授與の儀は御辭退致したいと思ひます宜敷御取計を願ひます 敬具
二月二十一日夜 夏目金之助
専門學務局長福原鐐次郎殿
そして次のやうな感想を述べてゐる。
……私は法律家でないから法律上の事は知りません、たゞ私に學位が欲しくないと云ふ事實があつた丈です、勅令だから學位令を變更するのが六づかしいと云ふなら私にも解るが博士を辭退出來ないと云ふのは何んなものでせう……明治も既に五十年近くになつて見れば政府で人工的に拵へた學位が、さう何時迄も學者に勿體がられなければ政府の威信に關すると云ふ樣な考へは當局者だつてさう鋭角的に維持する必要もないでせう。實は先例あるとか無いとか云はれては少し迷惑するので私は博士のうちに親友もありますし又敬愛してゐる人も少なくはないのですが必ずしも彼等諸君の叕徹を追ふて生活の行路を行かねばならぬと迄は考へてゐないのであります。博士を辭する私は先例に照して見たら變人かも知れませんが段々個人々々の自覺が日増に發展する人文の趨勢から察すると是から先も私と同樣に學位を斷る人が大分出で來るだらうと思ひます……
實際夏目なにがしで過ごしたいのが彼の偽らざる心境であつたらう。漱石から見れば大学教授や博士などは何の魅力を感じないばかりか寧ろ甚しい侮辱の感さへ起つてゐたのだ。「猫」にしろ「草枕」にしろ彼の出世作には大學教授や博士などのことを主人公の口を假りてサンザンに罵倒してゐる――之が取も直さず漱石の本心であつたのだ。
併し漱石が博士號を辭退せねばならぬもつと大きな原因があつた。それは時の文科大學長坪井九馬三博士との衝突からである。漱石が帝大文科の助教授の職を辭して東京朝日に入る時のことであつた。坪井博士は漱石の東朝入りをいたく惜んで如何にもして之を引止めやうといろいろの好餌を持出した。曰く
「洋行もさすべし。教授にも昇すべし、軈て博士にも推薦すべければ暫らく此の職に留まられたし」と。
だが漱石は却々承知しない。飽迄も東朝入りの決心を語るのみ、博士の言をば一つも容れなかつた――遂に博士は激怒した。
「さらば勝手にすべし。だが博士の縈位は永久に與へず」と
「よろしい。永久に博士たることを欲せず」と
こゝで二人は喧嘩別れとなつた。博士號辭退の裏面にはかういふイキサツがあつたのである。
漱石は其以前からも乾枯びた教授の仕事などは厭でいやで堪らない。然かも年俸にしてせいぜい九百圓前後の助教授などは何んの未練もない、機會があらぱ辭さうとしてゐたのだ―一そこへだ。當時の東朝主筆である池邊三山が三千圓の年俸を以て彼を入社せしめややとしたのであるから漱石の身に取つてはどんな好餌を並べたとて大學などに踏留まる譯はないのだ。一方坪井博士側ら言はせると最高學府の職から一個の新聞記者にならうなどとは恰度士族が穢多にでもなるか、貴婦人が賣笑婦にでも堕するやうな考へであつたに相違ない。今と違つて其の頃はまだまだ官學め有難味が骨の髄までも浸み込んでゐた時代のことである。躍起になつて之れを引止めやうとしたのも無理からぬとことであつた。
ところで博士號は辭退することが出來るかどうか。何しろ先例もないことであつて當時法律論が却々喧しかつた――或る者は可とし、或者は否とし、結局其の儘になつて了つたやうで無論漱石は飽迄學位記を受取らない。で今でも宙に迷つてゐると思ふが然し博士名鑑には立派に文學博士夏目金之助と載つてゐる。地下の漱石定めし苦笑してゐることであらう。
英文學者としての漱石の學識は確かに博士以上のものであつたかも知れぬ。文壇人としても其の周囲の人から敬慕せられたところを見ると變つてはゐたが確かに偉い人であつた。現在のやうに博士の價値が年々低下して來ると漱石が博士號辭退の精神も何となく意味深いものと思はれるのである。
引用・参照・底本
『博士物語』千田理示造著 昭和十一年八月廿八日發行 森田書房
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(一九-二四頁)
七、夏目漱石の博士號辭退 2022.05.08
夏目漱石が博士號を辭退して世間を騒がせてから、もう三十年近くにもなるが、其後今日に至るまで欲しい人は數へ切れない程あつても、イラないといふ殊勝の人は一人も現はれない。學界人にとつて博士號はやはり有難いものに相違ない。ところでこれ程人の欲しがる博士號を漱石はナゼ辭退したのであるか。事情の判らない者から言はせると漱石が天下無類のすね者のやうにも思はれるが――少しく内部の行がゝりと當時の漱石の境遇を洞察して見ると、ナル程と頷かれるものがある。
明治四十四年二月二十一日のことだ。文學博士會に於て有賀長雄・森槐南・幸田露伴・佐々木信綱・夏目漱石の六人が博士に推薦されることになつて文部省から夫々學位を授與すべき旨を知らせて來た。此時漱石は病氣の爲入院中であつたが、知らせを受けけるや直に之を辭退すべく、福原専門學務局長宛に次の如き書狀を送つている。
拝啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の處に入院中)本日午前十時學位を授與するから出頭しろと云ふ御通知が參つたさうであります留守宅のものは今朝電話で主人は病氣で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申して參りました
學位授與と申すと二三日前の新聞で承知した通り博士會で小生を博士に推薦されたに就て右博士の稱號を小生に授與になる事かと存じます然る處小生は今日迄たゞの夏目なにがしとて世を渡つて參りました是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故學位授與の儀は御辭退致したいと思ひます宜敷御取計を願ひます 敬具
二月二十一日夜 夏目金之助
専門學務局長福原鐐次郎殿
そして次のやうな感想を述べてゐる。
……私は法律家でないから法律上の事は知りません、たゞ私に學位が欲しくないと云ふ事實があつた丈です、勅令だから學位令を變更するのが六づかしいと云ふなら私にも解るが博士を辭退出來ないと云ふのは何んなものでせう……明治も既に五十年近くになつて見れば政府で人工的に拵へた學位が、さう何時迄も學者に勿體がられなければ政府の威信に關すると云ふ樣な考へは當局者だつてさう鋭角的に維持する必要もないでせう。實は先例あるとか無いとか云はれては少し迷惑するので私は博士のうちに親友もありますし又敬愛してゐる人も少なくはないのですが必ずしも彼等諸君の叕徹を追ふて生活の行路を行かねばならぬと迄は考へてゐないのであります。博士を辭する私は先例に照して見たら變人かも知れませんが段々個人々々の自覺が日増に發展する人文の趨勢から察すると是から先も私と同樣に學位を斷る人が大分出で來るだらうと思ひます……
實際夏目なにがしで過ごしたいのが彼の偽らざる心境であつたらう。漱石から見れば大学教授や博士などは何の魅力を感じないばかりか寧ろ甚しい侮辱の感さへ起つてゐたのだ。「猫」にしろ「草枕」にしろ彼の出世作には大學教授や博士などのことを主人公の口を假りてサンザンに罵倒してゐる――之が取も直さず漱石の本心であつたのだ。
併し漱石が博士號を辭退せねばならぬもつと大きな原因があつた。それは時の文科大學長坪井九馬三博士との衝突からである。漱石が帝大文科の助教授の職を辭して東京朝日に入る時のことであつた。坪井博士は漱石の東朝入りをいたく惜んで如何にもして之を引止めやうといろいろの好餌を持出した。曰く
「洋行もさすべし。教授にも昇すべし、軈て博士にも推薦すべければ暫らく此の職に留まられたし」と。
だが漱石は却々承知しない。飽迄も東朝入りの決心を語るのみ、博士の言をば一つも容れなかつた――遂に博士は激怒した。
「さらば勝手にすべし。だが博士の縈位は永久に與へず」と
「よろしい。永久に博士たることを欲せず」と
こゝで二人は喧嘩別れとなつた。博士號辭退の裏面にはかういふイキサツがあつたのである。
漱石は其以前からも乾枯びた教授の仕事などは厭でいやで堪らない。然かも年俸にしてせいぜい九百圓前後の助教授などは何んの未練もない、機會があらぱ辭さうとしてゐたのだ―一そこへだ。當時の東朝主筆である池邊三山が三千圓の年俸を以て彼を入社せしめややとしたのであるから漱石の身に取つてはどんな好餌を並べたとて大學などに踏留まる譯はないのだ。一方坪井博士側ら言はせると最高學府の職から一個の新聞記者にならうなどとは恰度士族が穢多にでもなるか、貴婦人が賣笑婦にでも堕するやうな考へであつたに相違ない。今と違つて其の頃はまだまだ官學め有難味が骨の髄までも浸み込んでゐた時代のことである。躍起になつて之れを引止めやうとしたのも無理からぬとことであつた。
ところで博士號は辭退することが出來るかどうか。何しろ先例もないことであつて當時法律論が却々喧しかつた――或る者は可とし、或者は否とし、結局其の儘になつて了つたやうで無論漱石は飽迄學位記を受取らない。で今でも宙に迷つてゐると思ふが然し博士名鑑には立派に文學博士夏目金之助と載つてゐる。地下の漱石定めし苦笑してゐることであらう。
英文學者としての漱石の學識は確かに博士以上のものであつたかも知れぬ。文壇人としても其の周囲の人から敬慕せられたところを見ると變つてはゐたが確かに偉い人であつた。現在のやうに博士の價値が年々低下して來ると漱石が博士號辭退の精神も何となく意味深いものと思はれるのである。
引用・参照・底本
『博士物語』千田理示造著 昭和十一年八月廿八日發行 森田書房
(国立国会図書館デジタルコレクション)
夏目漱石の詩 ― 2022-05-09 14:52
『夏目漱石 文學讀本 秋冬の卷』夏目漱石著
(332-333頁)
詩
眞蹤寂莫杳難尋
眞に寂莫をたずねんとすれども杳として尋ね難し
欲抱虚懐歩古今
虚懐を抱かんとして古今を歩む
碧水碧山何有我
碧水碧山何の我かあらん
蓋天蓋地是無心
蓋天蓋地是れ無心
依稀暮色月離草
依稀たり暮色月草を離れ
錯落秋聲風在林
錯落たり秋聲風林にあり
限耳雙忘身亦失
限耳ふたつながら忘れ身また失す
空中獨唱白雲吟
空中ひとり唱ふ白雲吟
大正五年十一月二十日夜の詩であるが、この翌日漱石は死の床についてつひに起たなかつた。蓋しこの詩は漱石詩集の圧卷であり、かの「則天去私」の境涯を詠つた辭世の如き觀さへある。
引用・参照・底本
『夏目漱石 文學讀本 秋冬の卷』夏目漱石著 昭和十一年九月十日發行 第一書房
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(332-333頁)
詩
眞蹤寂莫杳難尋
眞に寂莫をたずねんとすれども杳として尋ね難し
欲抱虚懐歩古今
虚懐を抱かんとして古今を歩む
碧水碧山何有我
碧水碧山何の我かあらん
蓋天蓋地是無心
蓋天蓋地是れ無心
依稀暮色月離草
依稀たり暮色月草を離れ
錯落秋聲風在林
錯落たり秋聲風林にあり
限耳雙忘身亦失
限耳ふたつながら忘れ身また失す
空中獨唱白雲吟
空中ひとり唱ふ白雲吟
大正五年十一月二十日夜の詩であるが、この翌日漱石は死の床についてつひに起たなかつた。蓋しこの詩は漱石詩集の圧卷であり、かの「則天去私」の境涯を詠つた辭世の如き觀さへある。
引用・参照・底本
『夏目漱石 文學讀本 秋冬の卷』夏目漱石著 昭和十一年九月十日發行 第一書房
(国立国会図書館デジタルコレクション)
ハリスの墓 ― 2022-05-11 08:55
『非常日本への直言』清沢洌・著
(二五九-二六二頁)
第五、ハリスの墓 2022.05.11
かねてハリスのことを心がけている僕は、紐育に居つたのを好機に、ブルツクリンにあるタウンゼント・ハリスの墓に詣でた。
『ハリスの墓に詣でようではないか』といつてくれたのは、紐育日本人會の香西次郎君、同君は謂はゞ紐育の探臺で、珍しいものといふと大概同君のところから出る、自動車を提供してくれたのが、綱本清松君。それから嘗て寫眞師もやつたことがあるといふ柴田谷三郎君が昔し把つた杵柄ならぬ寫眞機を持つて行つてくれた。
墓は紐育市外に當るブルツクリンの町外れのグリーンウツド墓地にある。
『タウンゼント・ハリス、そんな人の墓場が確かにあるのですか、聞いたことがないな、一寸待つて下さいよ』
香西君の質問に答へて、墓の事務所の人はさういひながら、インデツクスを擴げた。
エー、ビ―、シー順のカード式にして、何でも組織的にやるところが如何にも米國式である。僕はロンドンでカール・マルクスの墓を訪ねた時は、かう簡單に行かないで、大分間誤ついた。
『ある、ある』
さういつて事務員の人はカードを出して來た。カードにはかうある。
姓名 タウンゼント・ハリス
年齢 七十五歳
死んだ日 一八七八年二月二十五日
埋葬日 一八七八年二月二十八日
出生地 紐育州
墓地 七六一五 區域 九九
死因 肺充血
葬儀會社 アデアー
香西君の話しでは、この日本人の恩人は、晩年は振はず、ロングアイランドの妹の家にお世話になつて、極めて貧乏の境遇で死んださうだ。淋しくクラブなどによくかれの姿が見られたといふ。
この前に何かの時、松平大使、總領事齊藤博氏などが、この墓に來た時は雜草が一面で、これを刈りとつて始めて墓の實體を見たといふ。
『今日も、鎌でも持つて行かなきや駄目でせうよ』
と、出發前に香西君が云つた。しかし墓場全體が整つた今、枯草はなかつた。たゞ青草の上に、檣もなく、淋しく墓石が立つてゐる姿は、かれの一生がさうであつたように、孤獨そのものであつた。
墓は高い丘にあつて、右手の方にはコーネーアイランドが僅かに姿を現はし、正面はブルツクリンの一部だが、この邉には紐育名物の摩天樓はない。
墓にはかういふ文字が刻されてゐる――
タウンゼント・ハリスの記念のために
一八〇三年十月五日紐育州サンデー・ヒルに生まれ、一八七八年二月二十五日紐育において死す。
日本帝國に駐箚せる第一囘の合衆國公使。一八五七年―― 八年かれによつて作られたる條約は、たゞにかれ自身の國に對してのみならず、日本にとつても歡迎すべきものであつた。『外交官としてのかれの全生涯は、かれが自國に對し忠良であつたと同時に、その送られたる國民に對し、誠實なる尊敬を有してゐた。そして彼等の權利に對する彼の尊敬は、「日本の友人」といふ肩書きをかれ等からかちえた。』
最後の括弧の中の文字については、僕は一寸思ひ出せないが、誰か權威者の歴史から引照した文句であらう。
かれ歿して正に六〇年。かれはこの丘から、その方針樹立に力のあつた日本の發展と、その腦みを如何に眺めてゐるのであらうか。
引用・参照・底本
『非常日本への直言』清沢洌著 昭和八年三月二十二日發行 千倉書房
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(二五九-二六二頁)
第五、ハリスの墓 2022.05.11
かねてハリスのことを心がけている僕は、紐育に居つたのを好機に、ブルツクリンにあるタウンゼント・ハリスの墓に詣でた。
『ハリスの墓に詣でようではないか』といつてくれたのは、紐育日本人會の香西次郎君、同君は謂はゞ紐育の探臺で、珍しいものといふと大概同君のところから出る、自動車を提供してくれたのが、綱本清松君。それから嘗て寫眞師もやつたことがあるといふ柴田谷三郎君が昔し把つた杵柄ならぬ寫眞機を持つて行つてくれた。
墓は紐育市外に當るブルツクリンの町外れのグリーンウツド墓地にある。
『タウンゼント・ハリス、そんな人の墓場が確かにあるのですか、聞いたことがないな、一寸待つて下さいよ』
香西君の質問に答へて、墓の事務所の人はさういひながら、インデツクスを擴げた。
エー、ビ―、シー順のカード式にして、何でも組織的にやるところが如何にも米國式である。僕はロンドンでカール・マルクスの墓を訪ねた時は、かう簡單に行かないで、大分間誤ついた。
『ある、ある』
さういつて事務員の人はカードを出して來た。カードにはかうある。
姓名 タウンゼント・ハリス
年齢 七十五歳
死んだ日 一八七八年二月二十五日
埋葬日 一八七八年二月二十八日
出生地 紐育州
墓地 七六一五 區域 九九
死因 肺充血
葬儀會社 アデアー
香西君の話しでは、この日本人の恩人は、晩年は振はず、ロングアイランドの妹の家にお世話になつて、極めて貧乏の境遇で死んださうだ。淋しくクラブなどによくかれの姿が見られたといふ。
この前に何かの時、松平大使、總領事齊藤博氏などが、この墓に來た時は雜草が一面で、これを刈りとつて始めて墓の實體を見たといふ。
『今日も、鎌でも持つて行かなきや駄目でせうよ』
と、出發前に香西君が云つた。しかし墓場全體が整つた今、枯草はなかつた。たゞ青草の上に、檣もなく、淋しく墓石が立つてゐる姿は、かれの一生がさうであつたように、孤獨そのものであつた。
墓は高い丘にあつて、右手の方にはコーネーアイランドが僅かに姿を現はし、正面はブルツクリンの一部だが、この邉には紐育名物の摩天樓はない。
墓にはかういふ文字が刻されてゐる――
タウンゼント・ハリスの記念のために
一八〇三年十月五日紐育州サンデー・ヒルに生まれ、一八七八年二月二十五日紐育において死す。
日本帝國に駐箚せる第一囘の合衆國公使。一八五七年―― 八年かれによつて作られたる條約は、たゞにかれ自身の國に對してのみならず、日本にとつても歡迎すべきものであつた。『外交官としてのかれの全生涯は、かれが自國に對し忠良であつたと同時に、その送られたる國民に對し、誠實なる尊敬を有してゐた。そして彼等の權利に對する彼の尊敬は、「日本の友人」といふ肩書きをかれ等からかちえた。』
最後の括弧の中の文字については、僕は一寸思ひ出せないが、誰か權威者の歴史から引照した文句であらう。
かれ歿して正に六〇年。かれはこの丘から、その方針樹立に力のあつた日本の發展と、その腦みを如何に眺めてゐるのであらうか。
引用・参照・底本
『非常日本への直言』清沢洌著 昭和八年三月二十二日發行 千倉書房
(国立国会図書館デジタルコレクション)
