西アジア紛争の根源:サイクス・ピコ協定2024年05月20日 11:51

国立国会図書館デジタルコレクション「青楼美人合 第1冊」を加工して作成
 現在の西アジア紛争の根源を理解するためには、1916年のサイクス・ピコ協定(註)に注目することが不可欠である。

 この協定は、第一次世界大戦中にフランス、イギリス、ロシアの間で結ばれ、オスマン帝国の領土を分割することを目的とした秘密協定である。この協定の結果、地域の地理的、文化的、民族的な状況を無視した人工的な国境が引かれ、多くの現代的な問題の土台を作り上げた。

 サイクス・ピコ協定の背景と内容

 サイクス・ピコ協定は、オスマン帝国の崩壊を見越して、その後の領土分割を決めるためのものであった。イギリスのマーク・サイクスとフランスのフランソワ・ジョルジュ・ピコが主導し、地域をイギリスとフランスの影響下に分割することを取り決めた。この協定に基づき、以下のような分割が行われた。

フランス:シリア北部とレバノンを含む地域。
イギリス:イラク南部とパレスチナ、ヨルダンを含む地域。
国際管理区域:パレスチナの一部。

 サイクス・ピコ協定の影響

 サイクス・ピコ協定が地域に与えた影響は甚大であり、以下のような問題を引き起こた。

 1.人為的な国境:地理的、文化的、民族的な境界を無視して国境が引かれたため、民族や宗派の対立が激化した。例えば、クルド人は複数の国に分割され、独立国家を持つことができなかった。

 2.委任統治制度:オスマン帝国崩壊後、1920年のサン・レモ会議で正式にイギリスとフランスが委任統治権を得た。この制度により、西アジアのアラブ諸国は独立が認められず、植民地的支配が続いた。

 3.パレスチナ問題:サイクス・ピコ協定とその後のバルフォア宣言(1917年)により、ユダヤ人の移住が進んだ。これはパレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人の対立を深め、イスラエル建国とその後の中東戦争へと繋がった。

 現在の西アジアにおける影響

 サイクス・ピコ協定がもたらした人為的な国境や外部勢力による支配は、現在もなお西アジアの政治的不安定と社会的対立の根源となっている。以下はその具体例である。

 ・シリア内戦:シリアの複雑な宗派構成は、サイクス・ピコ協定に基づく国境によってさらに混乱を増した。

 ・イラクの不安定:シーア派、スンニ派、クルド人の対立は、サイクス・ピコ協定による人為的分割が背景にある。

 ・パレスチナ問題:イスラエルとパレスチナの紛争は、サイクス・ピコ協定とバルフォア宣言に始まる歴史的経緯が深く関係している。

 まとめ

 サイクス・ピコ協定は、西アジアにおける現在の多くの紛争の根本的原因の一つである。この協定により、地域の地理的、文化的、民族的状況が無視され、外部勢力の都合に合わせて人工的な国境が引かれた。その結果、地域の政治的不安定や社会的対立が増し、今日に至るまで多くの問題を引き起こしている。この歴史的背景を理解することは、西アジアの現在の紛争や問題を深く理解するための鍵となる。

【視点】

サイクス・ピコ協定の詳細

1916年5月16日に結ばれたサイクス・ピコ協定は、第一次世界大戦中にオスマン帝国の領土をどのように分割するかを秘密裏に取り決めた協定である。この協定はイギリスの外交官マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ・ピコの名前に由来している。協定は以下の内容を含んでいた。

 ・フランスの影響地域:シリアの大部分とレバノンを含む地域。フランスは、ダマスカス、ハマ、ホムス、アレッポなどの主要都市を含む地域で影響力を持つこととなった。

 ・イギリスの影響地域:バグダッド、バスラ、パレスチナ南部を含む地域。イギリスは、現在のヨルダン、イラク南部、クウェートに至るまでの地域で影響力を持つこととなった。

 ・国際管理区域:パレスチナは、国際管理区域として設定され、聖地エルサレムを含むこの地域は、後に複雑な問題を引き起こした。

サイクス・ピコ協定の意図と目的

協定の主な目的は、第一次世界大戦後にオスマン帝国の崩壊が確実視されていたため、ヨーロッパ列強が中東地域での影響力を拡大し、資源(特に石油)を確保することであった。この協定により、西アジア(中東)の地理的再編が行われたが、これは現地の住民の意志や希望を完全に無視したものであった。

サイクス・ピコ協定の直接的な影響

1.人為的国境の設定

 ・この協定により、現地の民族、宗派、文化的背景を無視した国境が引かれた。これが後の民族対立や宗派間の紛争の原因となった。

 ・例えば、クルド人はトルコ、イラン、イラク、シリアの4カ国に分割され、独自の国家を持つことができなかった。このため、現在でもクルド人による自治や独立を求める運動が続いている。

2.委任統治制度の導入

 ・第一次世界大戦後、オスマン帝国が崩壊すると、1919年のパリ講和会議と1920年のサン・レモ会議を経て、イギリスとフランスは委任統治権を得た。この制度は、地域の住民が自立するまで先進国が統治するという建前であったが、実際には植民地支配を延長するものであった。

 ・フランスはシリアとレバノンを、イギリスはイラク、ヨルダン、パレスチナを統治した。

パレスチナ問題の起源

サイクス・ピコ協定とバルフォア宣言(1917年)は、パレスチナ問題の直接的な原因となった。

1.バルフォア宣言

 ・1917年11月、イギリス政府はユダヤ人国家の建設を支持するバルフォア宣言を発表した。この宣言は、ユダヤ人の故国建設を支持するもので、パレスチナへのユダヤ人移住を促進した。

 ・これにより、1920年代から1940年代にかけてユダヤ人の移住が増加し、現地のアラブ人との対立が激化した。

2.ユダヤ人移住とアラブ人の反発

 ・1948年のイスラエル建国時には、パレスチナにおけるユダヤ人の人口が急増し、全人口の約30%を占めるまでになった。この移住の結果、多くのパレスチナ人が難民となり、アラブ・イスラエル紛争が勃発した。

サイクス・ピコ協定の長期的影響

1.中東戦争と紛争の連鎖

 ・サイクス・ピコ協定による人工的な国境は、現代に至るまで中東の紛争の引き金となっている。特にアラブ諸国とイスラエルの対立は、その象徴的な例である。

 ・例えば、1967年の第三次中東戦争(六日戦争)や1973年の第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)は、いずれもサイクス・ピコ協定に端を発する国境問題や領土問題が背景にある。

2.民族・宗派間の対立

 ・サイクス・ピコ協定は、シリアやイラクなどの国々での宗派対立を激化させた。シリア内戦(2011年-)やイラク内戦(2003年-)は、その具体例である。

 ・これらの国々では、スンニ派、シーア派、クルド人、アラウィー派などの対立が続いており、これが地域の安定を阻害している。

まとめ

サイクス・ピコ協定は、現代の西アジア(中東9における多くの紛争の根本的な原因を提供した。人工的な国境線の設定、現地住民の意志の無視、外部勢力による支配の継続が、この地域の不安定さを助長した。これらの歴史的背景を理解することは、現在の中東問題を深く理解し、解決策を見出すための重要なステップである。

・サイクス・ピコ協定の背景と内容

協定締結日: 1916年5月16日
当事国: イギリス、フランス、ロシア
目的: 第一次世界大戦後のオスマン帝国領土の分割

主要内容

フランスの影響地域: シリアの大部分、レバノン
イギリスの影響地域: イラク南部、パレスチナ、ヨルダン
国際管理区域: パレスチナの一部(特にエルサレム)

サイクス・ピコ協定の意図と目的

戦後の領土再編: オスマン帝国の崩壊を見越し、領土を分割
資源確保: 特に石油資源の確保が主要な目的
植民地主義の延長: 地域の地理的・民族的状況を無視

サイクス・ピコ協定の直接的な影響

人為的国境の設定

地理的・文化的・民族的背景を無視した国境設定
民族対立や宗派間の紛争の原因に
例: クルド人の分割(トルコ、イラン、イラク、シリア)

委任統治制度の導入

第一次世界大戦後、イギリスとフランスが委任統治権を獲得
フランス:シリアとレバノン
イギリス:イラク、ヨルダン、パレスチナ

パレスチナ問題の起源

バルフォア宣言(1917年11月2日)

イギリスがユダヤ人国家建設を支持
ユダヤ人移住を促進
ユダヤ人移住とアラブ人の反発:

1920年代から1940年代にかけてユダヤ人の移住が増加
1948年のイスラエル建国までにユダヤ人の人口が全体の約30%に増加
パレスチナ人の難民化、アラブ・イスラエル紛争の勃発

サイクス・ピコ協定の長期的影響

中東戦争と紛争の連鎖

人工的な国境が中東の紛争の引き金
例: 1967年の第三次中東戦争、1973年の第四次中東戦争

民族・宗派間の対立

シリアやイラクでの宗派対立を激化
シリア内戦(2011年-)、イラク内戦(2003年-)の背景に

具体例と現代の影響

シリア内戦: 宗派構成の複雑さが紛争の要因
イラクの不安定: スンニ派、シーア派、クルド人の対立
パレスチナ問題: ユダヤ人移住とアラブ人住民の対立

まとめ

歴史的背景の重要性: 現代の中東問題の理解と解決に不可欠
サイクス・ピコ協定の影響: 人工的国境と外部勢力の支配が地域の不安定さを助長

【註】

1916年のサイクス・ピコ協定について

概要

1916年5月、イギリス、フランス、ロシアの3カ国間で締結された秘密協定である。第一次世界大戦中のオスマン帝国領土の分割と戦後の勢力範囲を定めた。

内容

イギリス:イラク、ヨルダン、パレスチナの大部分、キプロスを支配
フランス:シリア、レバノンを支配
ロシア:黒海沿岸部、アルメニア、トルコ北東部を支配

背景

オスマン帝国の弱体化と解体への懸念
戦後の勢力圏拡大を狙うイギリスとフランス
ロシアとの協調関係の構築

影響

アラブ民族主義の高揚
イスラエル建国の要因
中東地域の紛争の種

評価

植民地主義的な協定
中東地域に混乱と不安をもたらした

詳細

協定はロシア革命でロシアが脱落し、英仏2カ国の協定となった。
イギリスはユダヤ人へのパレスチナ建国支援を約束するバルフォア宣言と、アラブ独立を約束するフセイン=マクマホン協定を締結していたが、これらの協定とは矛盾する内容だった。
協定の内容は1917年にロシア革命で暴露され、アラブ世界で反英仏感情が高まった。
戦後、英仏は協定に基づいて委任統治を開始したが、民族自決運動の高まりにより、1940年代までに独立が認められた。
パレスチナについては、ユダヤ人とアラブ人の間で激しい対立が続き、1948年にイスラエル建国、1948年と1967年の中東戦争勃発へと繋がった。

現代への影響

サイクス・ピコ協定は、中東の政治地図を大きく変えた。この協定は、アラブ民族主義者の間で強い反発を招き、後のイスラエル・パレスチナ紛争の遠因となった。

協定によって画定された国境線は、現在の中東諸国の国境線にほぼそのまま残っており、地域紛争の火種となっている。
パレスチナ問題は未解決のまま、イスラエルとパレスチナの間で武力衝突が断続的に発生している。

その他

サイクス・ピコ協定は、イギリス外交官マーク・サイクスとフランス外交官フランソワ・ジョルジュ・ピコによって交渉された。
この協定は、1917年のロシア革命によってロシアが脱落したため、英仏2カ国間の協定となった。
サイクス・ピコ協定は、1920年のサン・レモ会議と1922年のローザンヌ条約で正式に確認された。

(註はブログ作成者が参考の為に付記した。)

引用・参照・底本

現在の西アジア紛争の根源、サイクス・ピコ協定 ParsToday 2024.05.19

https://parstoday.ir/ja/news/middle_east-i124352

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