も一つの殘飯2022年06月12日 21:20

山水唐画指南
 『鄥其山漫文 生ける支那の姿』

 魯迅 序 内山 完造著
 
 (三五 - 三八頁)
 も一つの殘飯            2022.06.12

 上海の店屋では食事は殆んど包飯と言つて、一種の仕出し辨當屋から運んで來るものである。其の持つて來る時には何もないが、食ひ殘りの道具を集めに來る時には必ず一人とか二三人とかの告化子が定つてついて來る。そして運び出した飯桶から盆碗の悉くをのぞいて見て、少しでも殘物かあれば、古罐や古盆にあけて持つて行つてしまふのである。それは全く例外のない確かな事實である。
 此の時包飯店の苦力が、殘飯を彼等の掠奪に委せて置けぱば何でもないが、一度やらんとなると事だ。其處には一つの紛爭さへも發生するのである。
 然し此の爭は如何なることがあつても、告化于の勝利である。
 私はこんな所に非常に興味を覺える。此所にも中國一流の理窟がある。然し誰も其の理窟は言はない。一寸外から知ることは困羅であるが、私は斯うした場合中國式理論を斯う解釋するのである。
 包飯店は一人一ケ月何元かで幾人かの仕出しを引受けるのである。毎日運搬する食事はちやんと儲けて運んで來るのであつて、其の運んで來たものを全部食べてしまつても決して包飯店の方では損にはならぬのである。亦請負はして食ふ方にしても、持つて來たものを全部貪べ様が半分食べ樣がどうでも勝手である。腹一ぱいになればそれでいゝのだから現物は不要である。即ち食殘りの物は全部道具と共に包飯を運ぶ人の手に渡されるので、其の渡つた物の中で運搬苦力が又飯を食ふ、それも一向差支はないが、尚殘つた殘物は告化子にやるのも當然と謂つた譯である。之を少し法理的?に言へばかうなる。
 包飯店は一度運んで來た食事の全部は、契約によつて賣渡した物であるから引渡すと共に所有權は御客の方に移つてゐる譯である。
 御客は所有權を以て此を食ひ、殘つた物に對しては其の所有權を放棄して其の殘物を運搬苦力に引渡すのである。運搬苦力は只運搬するだけであつて所有權のある理由はない。其所で包飯の殘物と言ふものは所有者のない中ぶらりんのものになる。そこで生活に中ぶらりんの告化子先生が當然収得權を主張するものであり、全體が之を極めて當然と認めてゐるのである。
 いやいや、そんな理窟は間違つてゐると言ふかも知れない。しかし事實は確に以上の通りである。食へない告化子のために、食ひ殘りをやることが確實な事實となつてゐることは、一口に言へば生存と言ふことのためには、殘物の所有權なんか言ふ人はないといふことを示すものである。生存權は自然に所有權を超越してゐるのである。

引用・参照・底本

『鄥其山漫文 生ける支那の姿』内山完造著 昭和十一年六月五日第三版 學藝書院
(国立国会図書館デジタルコレクション)