高濱清 漱石氏と私 二2022年06月01日 09:07

伊予の湯
『漱石氏と私』高濱清(高濱虚子)著

 序

 漱石氏と私との交遊は疎きがごとくして親しく、親しきが如くして疎きものありたり。その邊を十分に描けば面白かるべきも、本篇は氏の書簡を主なる材料として唯追憶の一端をしるしたるのみ。氏が文壇に出づるに至れる當時の事情は、略々此の書によりて想察し得可し。
  
                 大正七年正月七日
                 ほとゝぎす發行所にて
                 高濱虚子

  永き日や欠伸うつして別れ行く === 漱石氏筆

 漱石氏と私

 (15-35頁)
 二

 明治二十九年の夏に子規居士が從軍中咯血をして神戸、須磨と轉々療養をした揚句松山に歸省したのはその年の秋であつた。その叔父君にあたる大原氏の家うちに泊つたのは一、二日のことで直ぐ二番町の横町にある漱石氏の寓居に引き移つた。これより前、漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払つて、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであつた。そこは上野という人の持家であつて、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであつた。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であつて漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が來ると決まつてから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであつた。
 私はその當時の實境を目撃したわけではないが、以前子規居士から聞いた話や、最近國へ歸つて極堂、霽月らの諸君から聞いた話やを綜合して見ると、大體その時の模樣の想像はつくのである。子規居士は須磨の保養院などにいた時と同じく蒲團は畳の上に敷き流しにしておいてくたびれるとその上に横はり、氣持がいゝと蒲団の上に起き上つたり、緣ばな位までは出たりなどして健康の回復を待ちつゝあつたのであらう。それから須磨の保養院に居る頃から筆を執りつゝあつた「俳人蕪村」の稿を纘ぎ、更に「俳諧大要」の稿を起すようになつたのであつた。子規居士が歸つたと聞いてから、折節歸省中であつた下村爲山君を中心として俳句の研究をしつゝあつた中村愛松あいしょう、野間叟柳、伴狸伴、大島梅屋の小學教員團體が早速居士の病床につめかけて俳句の話を聞くことになつた。居士は從軍の結果が一層健康を損じ、最早一圖に俳句にたずさはるよりほか、仕方がないとあきらめをつけ、さうでなくつても根柢から此短い詩の研究に深い注意を拂つてゐたのが、更に勇猛心を振ひ興して斯道に力を盡さうと考へていた矢先であつたので、それ等の教員團體、並びに舊友であるところの柳原極堂、村上霽月、御手洗不迷等の諸君を病床に引きつけて、殆んど休む間もなしに句作をしたり批評をしたりしたものらしい。その間漱石氏は主として二階にあつて、朝起きると洋服を着て學校に出かけ、歸つて來ると洋服を脱いで翌日の講義の下調べをして、二階から下りて來ることは少なかつたが、それでも時々は下りて來てそれらの俳人諸君の間に交つて一緒に句作することもあつた。子規居士はやはり他の諸君の句の上に○をつけるのと同じように漱石氏の句の上にも○をつけた。只他の人は「お前」とか「あし」とか松山言葉を使つて呼び合つてゐる中に、漱石氏と居士との間だけには君とか僕とかいふ言葉を用ひていた位の相違であつた。漱石氏は是等の松山言葉を聞くことや、足を投げ出したり頬杖をついたりして無作法な樣子をして句作に耽つている一座の樣子を流し目に見て餘いゝ心持もしなかつたらうが、その病友の病を忘れてゐるかの如き奮闘的な態度には敬意を払つてゐたに相違ない。殊に漱石氏は子規居士が親分らしい態度をして無造作に人々の句の上に○をつけたり批評を加へたりするのを、感服と驚きと可笑味とを混ぜたような眼つきをして見てゐたに相違ない。殊に又自分の句の上に無造作に○がついたり直が這入つたりするのを一層不思議さうな眼でながめていたに相違ない。
「子規といふ男は何でも自分が先生のような積りで居る男であつた。俳句を見せると直ぐそれを直したり圏點をつけたりする。それはいゝにしたところで僕が漢詩を作つて見せたところが、直ぐ又筆をとつてそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴つて見せたところが、奴さんこれだけは仕方がないものだから Very good と書いて返した。」と言つてその後よく人に話して笑つてゐた。
 後年になつて漱石氏の鋭い方面はその鋒先をだんだんと嚢の外に表わし始めたが、その頃の――殊に若年であつた私の目に映じた――漱石氏は非常に温厚な紳士的態度の長者らしい風格の人のように思はれた。自然子規居士の親分氣質な動作に對しても別に反抗するような態度もなく、俳句の如きは愛松、極堂、霽月等の諸君に伍して子規居士の傘下に集まつた一人として別に意に介する所もなかつたのであらう。のみならず、この病友をいつくしみ憐れむような友情と、その親分然たる態度に七分の同感と三分の滑稽味を見出す興味とで、格別厭な心持もしないでその階下に湧き出した一箇の世界を眺めてゐたものであらう。そうして朝暮出入してゐる愛松、極堂らの諸君とは軌道を異にして、多くの時間は二階に閉籠つて學校の先生としての忠實なる準備と英文學者としての眞面目な修養とに力を注いでゐたのである。後年「坊つちやん」の一篇が出るやうになつてから、此松山中學時代の漱石氏の不平は俄かに明るみに取り出された傾きがあるが、當時の氏にはたとひそれらの不愉快な心持が内心にあつたとしても、それ等の不愉快には打勝ちつゝ、どこまでも眞面目に、學者として教師として進んで行く考であつたことは間違ひない。大學を中途で退學して新聞社に這入つて不治の病氣になつて居た子規居士と、眞直に大學を出て中學校の先生としていそしみつゝあつた漱石氏とは、餘程色彩の變つた世界を、階子段一つ隔てた上と下とに現出せしめて居つた譯である。然しそれがまた後年になつて或點まで似よつた境界に身を置いて共に明治大正の文壇の一人者として立つやうになつたことも興味あることである。
 子規居士が此家に居つたのは凡そ一ヶ月位のことであつたかと思ふ。これは最近歸省した時に極堂、霽月等の諸君に聞いた話であるが、その一ケ月ほどの滯在の半ば以上過ぎた頃のことであつたらう、不圖俳句の話が寫生といふことに移つて、是非とも寫生をしなければ新しい俳句は出來ないという居士の主張を明日は實行して見ようといふことになつて、その翌日天氣の好いのを幸に居士は極堂其他の諸君と共に珍らしく戸外に出て、稲の花の咲いて居る東郊を漫歩して石手寺の邊まで歩いて行き、それから又同じ道を引き返して歸つて來た。居士の、
 南無大師石手の寺や稲の花
などゝいう句はこの時に出來た句であるさうな。今から見ると寫生々々といい乍ら尚ほその手法は殻を脱しない幼稚なものであるが、とにかく寫生ということに着眼して、それを獎勵皷舞したことは此時代に始まつてゐるのである。それから無事に宿まで歸つて來て極堂君等も皆自分の家に歸つたのであるが、極堂君は晩餐をすましてから晝間の盡きなかつた興をたどりつゝ、また居士の寓居に出掛けて行つたところが、居士は病床に寝たまゝで枕元の痰吐きに澤山咯血をしてゐた。枕頭についてゐるものは上野の未亡人ばかりであつた。居士が低い聲で手招ぎするので極堂君が傍に行つて見ると、それは氷嚢と氷を買つて來て呉れといふのであつた。そこで極堂君は取るものも取り敢へず氷嚢と氷を買つて來たのであつたが、その留守中に大原の叔母君と医者とが來て居つた。その咯血は長くはつゞかなくつて、それから間もなく東京に歸るようになつたのであつた、といふことであつた。
 漱石氏がよく又話して居つたことにこういう話がある。
「子規という奴は亂暴な奴だ。僕ところに居る間毎日何を食ふかといふと鰻を食はうといふ。それで殆んど毎日のように鰻を食つたのであるが、歸る時になつて、萬事頼むよ、とか何とか言つた切りで發つてしまつた。その鰻代も僕に拂はせて知らん顔をしてゐた。」斯ういふ話であつた。極堂君の話に、漱石氏は月給を貰つて來た日など、小遣をやろうかと言つて居士の布團の下に若干の紙幣を敷き込んだことなどもあつたさうだ。もつとも東京の新聞社で僅わずかに三、四十圓の給料を貰つていた居士に比べたら、田舎の中學校に居て百圓近い給料を貰つてゐた漱石氏は餘程懐ろ都合の潤澤なものであつたらう。
 私は明治三十年の春に歸省した。その時漱石氏をその二番町の寓居に訪問した。其時私の眼には漱石氏よりも寧ろ髪を切つてゐる上野未亡人の方が強く印象された。今から考へてみて其頃は四十前後であつたらうかと思われるが、白粉をつけてゐたのか、それとも地色が白かつたのか、兎に角私の目には白い顔が映つた。漱石氏のところで午飯の御馳走になつた時に、此色の白い髪を切つた未亡人は給仕して呉れた。最近私が松山に歸つてゐる時に次のやうな手紙が案頭に落ちた。
 博多には珍しい雪がお正月からふり続いております。きのふからそのために電話も電燈もだめ、電車は一時とまるといふ騒ぎです。松山は如何ですか。けさ一寸新聞で下關までおいでの事を承知いたしましたので急に手紙がさし上げたくなりました。それに二月號のホトヽギスを昨日拜見したものですから。その上一月號の時も申上げたかつた事をうつちやつていますから。
 一月號の「兄」では私上野の祖父を思ひ出して一生懸命に拜見いたしました。祖父は以前は何もかも祖母任せの鷹揚な人だつたと思ひますが、祖母を先だて總領息子を亡くして、その上あの伯母に家出をされ、從姉に(あなたが私と一しょに考へていらつしつた)學資を送るやうになつてからは、實に細かく暮して居たやうです。そして自分はしんの出た帶などをしめても月々の學資はちゃんちゃんと送つてゐましたが、その從姉は祖父のしにめにもあはないで、そしてあとになつて少しばかりの(祖父がそんなにまでして手をつけなかつた)財産を外の親類と爭ふたりしました。漸く裁判にだけはならずにすんだやうでしたが、そのお金もすぐ使ひ果して今伯母も從姉も行方不明です。
 おはずかしい事を申上げました。いつもお作を拜見しては親類中の御親しみ深い御樣子を心から羨しく思つてゐたものですから、ついついぐちがこぼれました。おゆるし下さいまし。
あの一番町から上つて行くお家に夏目先生がいらつしやつた事は私にとつてはつ耳です。私は上野のはなれにいつから御移りになつたのか何にも覺えておりません。ただ文學士というえらい肩書の中學校の先生が離れにいらつしやるといふ事を子供心に自慢に思つていた丈です。先生はたしか一年近くあの離れに御住居なすつたのですのに、どういう譯か私のあたまには夏から秋まで同居なすつた正岡先生の方がはつきりうつてゐます。――松山のかたゞといふ親しみもしらずしらずあつたのでせうが――夏目先生の事はたゞかあいがつていたゞいたやうだ位しきや思ひ出せません。照葉狂言にも度々たびたびおともしましたが、それもやつぱり正岡先生の方はおめし物から帽子まで覺えてゐますのに(うす色のネルに白縮緬のへこ帶、ヘルメツト帽)夏目先生の方ははつきりしないんです。たゞ一度伯母が袷と羽織を見たてゝさし上げたのは覺えてゐます。それと一度夜二階へお邪魔をしてゐて、眠くなつて母家へ歸らうとしますと、廊下におばけが出るよとおどかされた事とです。それからも一つはお嫁さん探しを覺えてゐます。先生はたぶん戯談でおつしやつたのでせうが祖母や伯母は一生懸命になつて探してゐたようです。そのうち東京でおきまりになつたのが今の奥樣なんでせう。私は伯母がそつと見せてくれた高島田にお振袖のお見合のお寫眞をはじめて千駄木のお邸で奥樣におめにかゝつた時思ひ出しました。
 實は千駄木へはじめて御伺ひした時は玄関拂ひを覺悟して居たのです。十年も前に松山で、といふような口上でおめにかゝれるかどうかとおずおずしてゐたのですが、すぐあつて下すつて大きくなつたねといつて下すつた時は嬉しくてたまりませんでした。そして私の姓が變つた事をおきゝになつて、まあよかつた、美術家でなくつても文學趣味のあるお医者さんだからとおつしやつたのにはびつくりいたしました。先生は私が子供の時學校で志望をきかれた時の返事を伯母が笑ひ話にでもしたのをちゃんと覺えていらつしつたものと見えます。松山を御出立の前夜湊町の向井へおともして買つていただいた呉春と応擧と常信との畫譜は今でも持つてをりますが、あのお離れではじめて知つた雜誌の名が帝國文學で、貸していたゞいて讀んだ本が保元平治物語とお伽草紙です。
 興にのつて大變ながく書きました。おいそがしい所へすみません。あの二番町の家は今どうなつたことでせう。長塚さんもいつかこちらへお歸りに前を通つてみたとおつしゃつてゐました。あの離れはたしか私たちがひつこしてから、祖父の隠居所にといつて建てたものゝやうです。襖のたて合せのまんなかの木ぎれをもらつておひな樣のこしかけにしたのを覺えています。
 ほんとにくだらない事ばかりおゆるしを願ひます。松山にはどれ位御逗留かも存じません。この手紙どこでごらん下さるでせう。
 寒さの折からおからだをお大切に願ひます。
                      よりえ

 此手紙をよこした人は本誌の讀者が近づきであるところの「中の川」「嫁ぬすみ」の作者である久保よりえ夫人である。此夫人は此上野未亡人の姪に當る人である。ある時早稲田南町の漱石氏の宅を訪問した時に席上にある一婦人は久保猪之吉博士の令閨として紹介された。そうしてそれが當年漱石氏の下宿してゐた上野未亡人の姪に當る人だと説明された時に、私は未亡人の膝元にちらついていた新蝶々の娘さんを思い出してその人かと思つたのであつたが其は違つていた。文中に在る從姉とあるのがその人であつた。このよりえ夫人の手紙は未亡人の其後をよく物語つている。あの家は今は上野氏の手を離れて他人の有となつているといふ事である。
 此三十年の歸省の時、私はしばしば漱石氏を訪問して一緒に道後の温泉に行つたり、俳句を作つたりした。その頃道後の鮒屋ふなやで初めて西洋料理を食はすようになつたというので、漱石氏はその頃學校の同僚で漱石氏の下にあつて英語を教へている何とかいう一人の人と私とを伴つて鮒屋へ行つた。白い皿の上に載せられて出て來た西洋料理は黑い堅い肉であつた。私はまずいと思つて漸く一きれか二きれかを食つたが、漱石氏は忠實にそれを噛かみこなして大概嚥下してしまつた。今一人の英語の先生は關羽のような長い髯を蓄えてゐたが、それもその髯を動かしながら大方食つてしまつた。此先生は金澤の高等學校を卒業したきりの人であるという話であつたが、妙に氣取つたように物を言ふ滑稽味のある人であつた。此人はよく漱石氏の家へ出入してゐるようであつた。この鮒屋の西洋料理を食つた時に、三人は矢張り道後の温泉にも這入つた。着物を脱ぐ時に「赤シャツ」という言葉が漱石氏の口から漏れて兩君は笑つた。それは此先生が赤いシャツを着て居つたからであつたかどうであつたか、はつきり記憶に殘つて居らん。只私が裸になつた時に私の猿股にも赤い筋が這入つていたので漱石氏は驚いたやうな興味のあるような眼をして、
「君のも赤いのか。」と言つたことだけは、はつきりと覺えている。後年「坊つちゃん」の中に赤シャツという言葉の出て來た時にこの時のことを思ひ合わせた。
 或日漱石氏は一人で私の家うちの前まで來て、私の机を置いている二階の下に立つて、
「高濱君。」と呼んだ。その頃私の家は玉川町の東端にあつたので、小さい二階は表ての青田も東の山も見える樣に往來に面して建つてゐた。私は障子をあけて下をのぞくとそこに西洋手拭をさげてゐる漱石氏が立つてゐて、また道後の温泉に行かんかと言つた。そこで一緒に出かけてゆつくり温泉にひたつて二人は手拭を提げて野道を松山に歸つたのであつたが、その歸り道に二人は神仙體の俳句を作ろうなどゝ言つて彼れ一句、これ一句、春風駘蕩たる野道をとぼとぼと歩きながら句を拾うのであつた。この神仙體の句はその後村上霽月君にも勸めて、出來上つた三人の句を雜誌めざまし草ぐさに出したことなどがあつた。

引用・参照・底本

『漱石氏と私』高濱清著 大正七年一月三十一日發行 書店アルス

(國立國會図書館デジタルコレクション)

米軍が飛行機より投げたビラの文句2022年06月02日 08:45

絵本道化遊
 『アメリカ樣 全』宮武外骨 著


 (一七頁)
 米軍が飛行機より投げたビラの文句       2022.06.02

 昨年の五月頃、アメリカ樣の來襲飛行機が東京近郊の上空より撒布したビラの一つに左の如き文句のものがあつた、表面には倒れた家を二人で引き起こす體の圖畫がある石版黑色印刷

 我家が倒れそうな時に逃げる者はない、倒れない中に惡い所を修繕する
日本は國難に直面して居る、即ち軍閥が國家の腐敗部分である、軍閥が自己の力に就いて諸君を欺いて居ると云ふ事は最近の日本空襲が證明して居る、軍閥を取替へ、自己を保ち、以て國家を救へ!
 「軍閥が國家の腐敗部分である」とは仰せの通りであつた、それを日本の國民が早く氣付いて軍閥の跋扈を防いだならば、今日の悲境に陥ることもなく、安全生活を續け得たのである、今更悔いても及ばない始末です、憎みても尚餘りある軍閥、呪はずには居られない
 「最近の日本空襲が證明して居る」これも軍閥の奴共が、國民に對して、敵機を日本の上空には入れさせない、海上で撃退するから安心して居ろと、再三の豪語であつたが、東京始め各地に於て荒されたのを防ぎ得なかつた事實についての言明である、これも仰せの通り

引用・参照・底本

『アメリカ樣』宮武外骨 著 昭和二十一年五月三日發行 藏六文庫
『繪本道化遊全』宮武外骨 著 明治四十四年二月十日發行 雅俗文庫
(国立国会図書館デジタルコレクション)

泉鏡花氏の信心ぶり2022年06月03日 18:24

泉鏡花氏
 『名流漫画』森田太三郎 著・画


 (8頁)
 泉鏡花氏の信心ぶり          2022.06.03

 「何うした」此所までは絃歌の音は流れて來ず、見付へ一丁、ダラダラ坂、香の高い絣の単衣を裾短かに、握り太のステツキが振向きざま。
 そよ風に物の姿の動く黄昏の色の落つる頃、二人は用向の外出か湯歸り訪問、乃至腹こなしの散歩に非ず。偶まの客なれば鳥渡其所までと送つて出た積りなのが。鏡花は薄闇にくつきりと白い手を地べたの、いたはしや其れもぬかるみへ、つと伏した。
 苟も祠あれば、其名を問はず、彼はよく拜跪した。

引用・参照・底本

『名流漫画』森田太三郎 著・画 明治四十五年七月二日發行 博文館

(国立国会図書館デジタルコレクション)

阿 蘇2022年06月04日 08:23

夏目漱石文学読本秋冬の巻
 『夏目漱石 文學讀本 秋冬の卷』夏目漱石著

 (16-22頁)
 阿 蘇 2022.06.04

 「あの音は壯烈だな」
 「足の下が、もう揺れて居るやうだ。――おい一寸、地面に耳をつけて聽いて見給へ」
 「どんなだい」
 「非常な音だ。慥かに足の下がうなつてる」
 「其割りに烟りがこないな」
 「風の所爲だ。北風だから、右へ吹きつけるんだ」
 「樹が多いから、方角が分らない。もう少し登つたら見當がつくだらう」
 しばらくは雜木林の間を行く。路幅は三尺に足らぬ。いくら仲が善くても竝んで歩行く譯には行かぬ。圭さんは大きな足を悠々と振つて先へ行く。碌さんは小さな體軀すぼめて、小股に後から尾いて行く。尾いて行きながら、圭さんの足跡の大きいのに感心して居る。感心しながら歩いて行くと、段々おくれて仕舞ふ。
 路は左右に曲折して爪先上がりだから、三十分と經たぬうちに、圭さんの影を見失った。樹と樹の間をすかして見ても何にも見えぬ。山を下りる人は一人もない。上がるものにも全く出合はない。たゞ所々に馬の足跡がある。たまに草鞋の切れが茨にかかつてゐる。其外に人の氣色は更にない。饂飩腹の碌さんは少小心細くなつた。
 きのふの澄切つた空に引き替ヘて、今朝宿を發つ時からの霧模樣には少し掛念もあつたが、晴れさへすればと、好い加減な事を頼みにして、たうとう阿蘇の社まで漕ぎ著けた。白木の宮に禰宜(1)の鳴らす柏手が、森閑と立つ杉の梢に響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額に落ちた。饂飩を煮る湯氣が障子の破れから吹いて、白く右へ靡いた頃から、午過ぎは雨かなとも思はれた。
 雜木林を小半道程來たら、怪しい空がたうとう持ち切れなくなつたと見えて、梢にしたたる雨の音が、さあと北の方へ走る。あとから、すぐ新しい音が耳を掠めて、飜へる木の葉と共にまた北の方へ走る。碌さんは頸を縮めて、ちえつと舌打ちをした。
 一時間程で林は盡きる。盡きると云はんよりは、一度に消えると云ふ方が適當であらう。振り返る、後ろは知らず、貫いて來た一筋道の外は、東も西も茫々たる青草が波を打つ幾段となく連らなる後から、むくむくと黑い烟りが持ち上つてくる。噴火口こそ見えないが、烟りの出るのは、つい鼻の先である。
 林が盡きて、青い原を半丁と行かぬ所に、大入道の圭さんが空を仰いで立つゐる。蝙蝠傘は畳んだ儘、帽子さへ被らずに、毬栗頭をぬつくと草から上へ突き出して地形を見廻はしてゐる樣子だ。
 「おうい。少し待つて呉れ」
 「おうい。荒れて來たぞ。荒れて來たぞうう。しっかりしろう」
 「しつかりするから、少し待つてくれえ」と碌さんは一生懸命に草のなかを這ひ上がる。漸く追ひつく碌さんを待ち受けて、
 「おい何を愚圖々々してゐるんだ」と圭さんが遣つ附ける。
 「だから饂飩ぢや駄目だと云つたんだ。あゝ苦しい。――おい君の顔はどうしたんだ。眞黑だ」
 「さうか、君のも眞黑」 
 圭さんは、無造作に自地の浴衣の片袖で、頭から顛を撫で廻はす。碌さんは腰から、ハンケチを出す。
 「なる程、拭くと、著物がどす然くなる」
 「僕のハンケチも、こんなだ」
 「ひどいものだな」と圭さんは雨のなかに坊主頭を曝しながら、空模樣を見廻はす。
 「よなだ(2)。よなが雨に溶けて降つてくるんだ。そら、その薄の上を見給へ」と碌さんが指をさす。長い薄の葉は一面に灰を浴びて濡れながら、靡く。
 「なる程」
 「困つたな、こりや」
 「なあに大丈夫だ。ついそこだもの。あの烟りの出る所を目當てにして行けば譯はない」
 「譯はなささうだが、是れぢや路が分らないぜ」
 「だから。さつきから、待つて居たのさ。こゝを左へ行くか、右へ行くかと云ふ、丁度股の所なんだ」
 「なる程、兩方共路になつてるね。――しかし烟りの見當から云ふと、左へ曲がる方がよさささうだ」
 「君はさう思ふか。僕は右へ行くつもりだ」
 「どうして」
 「どうしてつて、右の方には馬の足跡があるが、左の方には少しもない」
 「さうかい」と碌さんは、體軀を前に曲げながら、蔽ひかかる草を押し分て、五六歩、左の方へ進んだが、すぐに取つて返して、
 「駄目のやうだ。足跡は一つも見當たらない」と云つた。。
 「ないだらう」
 「そっちにはあるかい」
 「うん。たつた二つある」
 「二つぎりかい」
 「さうさ。たつた二つだ。そら、此所と此所に」と圭さんは繻子張りの蝙蝠傘の先で、かぶさる薄の下に、幽かに残る馬の足跡を見せる。 
 「是れだけかい、心細いな」
 「なに大丈夫だ」
 「天祐ぢやないか、君の天祐はあてにたらない事夥しいよ」
 「なに是れが天祐さ」と圭さんが云ひ了はらねうちに、雨を捲いて颯とおろす一陣の風が、碌さんの麦藁帽を遠慮なく吹き籠めて、五六間先まで飛ばして行く。目に餘る青草は、風を受けて一度に向うへ靡いて、見るうちに色が變はると思ふと、また靡き返して故の態に戻る。
 「痛快だ。風の飛んで行く足跡が草の上に見える。あれを見給へ」と圭さんが幾重となく起伏する青い草の海を指す。

 「二百十日」の一節。
 阿蘇登山。因に漱石は明治三十二年の二百十日頃、同僚山川信次郎氏と共に阿蘇に登る。歸來多くの旅中吟を得て居る。「朝寒み白木の官に詣でけり」などといふ句がある。尚ほ子規に送つた句稿の中に阿蘇の山中にて道を失ひ終日あらぬ方にさまよふと題して、「灰に濡れて立つや薄と萩の中」「行けど萩行けど薄の原廣し」の二句がある。
 (1)神官。(2)よなは阿蘇の山が降らす細かい灰の事。

引用・参照・底本

『夏目漱石 文學讀本 秋冬の卷』夏目漱石著 昭和十一年九月十日發行 第一書房

(国立国会図書館デジタルコレクション)

海軍大臣(子爵樺山資紀君)2022年06月05日 08:36

大臣の書生時代
 衆議院第ニ囘通常會議事速記錄第二十號  2022.06.05

〇菊池侃二君(四十六番) 上奏案ニ對シテ大臣ガ彼此言フハ不當ノ事ト考ヘマスカラ、御差止ヲ願ヒマス
○海軍大臣(子爵樺山資紀君)御待ナサイ、私は問題外ノ事は申シマセヌ
O菊池侃二君(四十六番) 上奏案ニ對スル事ハ問題外デアル、今ハ豫算會議デアル、陛下ニ對スルノ上奏案ニ向ッテ――
○海軍大臣(子爵樺山資紀君) 大臣、政府委員卜云フモノハ、イツ何時デモモコヽニ出テ演説スルコトヲ許サレテ居ル
 〔此時発言ヲ求ムル者多シ議場騒然タリ〕
○菊池侃二君(四十六番) 議長ニ求ムル、大臣卜問答ハ致サナイ
○海軍大臣(子爵樺山資紀君) 夫ハ最初カラ自分ハ斷リヲ申シテ置キマス、問題外ニナリマスト申シテ置キマシタ
○菊池侃二君(四十六番) 大臣卜問答ハ致サナイ
○海軍大臣(子爵樺山資紀君) 最初ニ言ッタ時ニ默シテ聽イテ置イテ、半途ニ至ッテ彼此云フハ何ノ故デアル、一向分ラヌ、ナゼ夫ガ自分ガー言發言シタ時ニ御止メナサラヌカ
○蒲生仙君(百七十八番) 議長ハ何ヲ以テ議場ヲ御整理ナサル
○議長(中島信行君) 暫ク御待ナサイ、暫ク
○海軍大臣(子爵樺山資紀君) 夫デ明治七年ハ何ノ役デアッタ、明治九年ハ何ノ役デアッタ、明治十年ハドウ云フ役ガアッタ、明治十五年ハドウ云フ役アッタ、明治十六年ハドウ云フ役デアッタ此ノ如キ事ノ事件ニ於テ
○蒲生仙君(百七十八番) 問題外ハ議長ニ於テ御差止ヲ願フ
○議長(中島信行君) 問題外卜云フコトハ、豫メ……
○國務大臣(子爵樺山資紀君) 國體ニ對シテ、ドレ程……國權ヲ汚シタ事ガアルカ、サウ云フ今日事業ヲ見ズニシテ置イテ、徒ニ唯目前ノ事ヲ以テ一億二千万ヲ使用シタト云フハ(問題外卜呼ブ者アリ)本大臣ニ於テ意外千万ノ事デアル、サウ云フ事ヲ以テ、今日海軍大臣ガ不信用ダト言ッテハ、斯クテハ却テ事ノ事實ヲ損ヒ、事ノ即チ虚妄ノ事ヲ連ネテ.海軍大臣ガ不信用デアルト云フノハ、自ラ不信用ヲ招クノ所以デハナイカ、分ッタ話デアルジヤラウ、ソコデサ今日此新事業ノ新事業二件ヲ削除セラレタト云フ如キハ此ノ如キノ事件ヨリ起レリ、此ノ如キ事由ニ依ッテ削除スルト云フコトナレバ、本大臣ニ於テ遺憾千萬デアル、此何囘ノ役ヲ經過シテ來タ海軍デアッテ、今迄此國權ヲ汚シ、海軍ノ名譽ヲ損ジタ事ガアルカ、却テ國權ヲ擴張シ海軍ノ名譽ヲ施シタ事ハ幾度カアルダラウ、四千万ノ人民モ共位ノ事ハ御記臆デアルダラウ、先日井上角五郎君が四千万ノ人民ハ八千万ノ眼ガアルト云フタ、四千万ノ人民デ今日幾分力不具ノ人ガアルト見テモ、千万人ノ眼ハアルダラウ、其眼ヲ以テ見タナレバ.今日海軍ヲ今ノ如キ事ニ見テ居ル人ガアルデアラウカ(アルアル卜呼ブ者アリ)此ノ如ク今日此海軍ノミナナラズ、印チ現改府デアル、現改府ハ此ノ如ク内外國家多難ノ艱難ヲ切抜ケテ、今日迄來タ政府デアル、薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ今日國ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生靈ニ關係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功力デアル(笑聲起ル)甚タ………御笑ニ成ル樣ノ事デハゴザイマスマイ、ドレ程殪レ且廢疾ニ成リ、實ニ泉下ニ對シテ我輩死ンダ時ニハ面目ガナイ、夫ニ依ッテ今ノ即チ予此軍艦製造費、此製鋼所設立ノ件ニ就イテ此ノ如キ理由ヨリ削除シタト云フ事ナレバ、本大臣ニ於テ決シテ……不滿足ニ考ヘル、他ニ理由ガアレバ宜シイ、能ク御分リニナリマシタラウ
○議長(中島信行君) 海軍大臣ニ一寸申シマスガ
○海軍大臣(子爵樺山資紀君) 趣意ノ起ル所ヲ唯今申シタノデアル
○議長(中島信行君) 海軍大臣ニ申シマス
 〔此時議長號鈴ヲ嗚ラス〕
○海軍大臣(子爵樺山資紀君) 諸君ヨ、諸君ヨ
 〔此時議長號鈴ヲ嗚ラス〕
 〔議長ノ命令ニ從ハヌカト呼ブ者アリ〕
 〔無種千万ト呼ブ者アリ〕
 〔海軍大臣ニ退場ヲ命セヨト呼ブ者アリ〕
 〔帝國議會ヲ何ト思フト呼ブ者アリ〕
 〔退場セヨト呼ブ者アり議場喧騒ス〕
 〔議長又號鈴ヲ鳴ラス〕
 〔海軍大臣演埴ヲ降ル〕
○議長(中島信行君) 静ニ
○角田眞平君(二百四十一番) 海軍大臣ノ演説ニ質問ガアル
○議長(中島信行君) 静ニ、議長ハ申ス事ガアル(謹聽々々ト呼ブ者アリ)今日ハ此豫算案ハ四時迄ノ議事日程デアル、然ルニ海軍大臣ハ海軍一般ノ事ニ就イテ發言ヲ求メラレタニ依ッテ……蓋シ此場合ニ於テハ諸君ニ於テモ固ヨリ海軍省ノ豫算案竝ニ海軍大臣ノ演説ヲセラレタル事柄ニ就イテハ、多少ノ御意見ガアラウト考ヘル、、或ハ十分ニ此問題ニ就イテ、御意見ヲ叩カレタラ宜シカラウト考ヘルカラ、本日ハ豫算案ヲ四時迄ノ議事日程ト定メタニ拘ラズ、此問題ニ就イテ續ケテヤル事トスル……是丈ノ事ヲ議長ハ議長ハ議定ニ申シ置ク積デアル、マダ軍大臣ハ御意見ガアリマスカ
○海軍大臣(子爵樺山資紀君) 別ニアリマセヌ、豫算ニ就イテ皆サンノ御質問ガアリマスナラバ飽マデモ……
○杉田定一君(百五十番) 議長、私ハ是非共海軍大臣ニ質問致シタイ
 〔角田眞平君議長……海軍大臣ニ質問ガアリマス……失敬極マル〕
○議長(中島信行君) 百五十番
 〔杉田定一君演壇ニ登ル〕
○杉田定一君(百五十番) 唯今海軍大臣ハ彼なぽれをんが兵カヲ以テ議場ヲ壓倒スル如キ勢ヲ以テ、此議場ヲ壓倒セント欲スル演説ヲサレタ、併ナガラ此不覇獨立神聖ナル議曾ニ於テハ、決シテ壓倒セラルヽ者デナイ(菊池侃二君 斯ル誣妄ナル演説ニ壓倒セラルヽ者ナシト呼ブ)

〈以下途中省略〉

○島田三郎君(五十八番)

〈以下途中から〉

終リニ臨デ是非トモ明瞭ニシテ置カナケレバナラヌト云ふノハ二十三年ニ至ッテ國會ヲ開キ、二十四年ノ今日ニ至ルノハ薩長内閣ノ功デハアルト云フノハ、天皇陛下ニ對シテ禮ヲ失ッタモノデアラフウト思フノデアル、本員ノ信ズル所ニ依リマスレバ、明治元年ノ改革ヨリ今日ノ有り難キ時勢ニ至ッタノハ、神聖ナル御聖徳ニ因ル卜人民が記臆シナケレバナラナイ、故ニ薩長内閣ガ禮ヲ失ハザラントスレバ、聖明上ニ在ルニ依ッテ、日本ハ開明ニ赴キタルコトヽ堅ク信ズルコソ  天皇陛下ニ對スル禮デアルベキニ、何ゾヤ此議會ニ向ッテ薩長内閣ノ功デアルト明言サルヽニ至ッテハ、確ニ此事ヲ議事錄ニ止メテ置カナケレバナラヌ、左樣ナ心底ヲ持ッテ居ラルヽナラバ、我〻ハ益〻内閣ヲ信用スルコトハ出來ヌト云フコトヲ言ハナケレバナラナイ卜思フ
○議長(中島信行君) 諸君ニ申シマス、本日ノ議會ハ隨分開會以來ノ一大波瀾ヲ生ジタ場合デアッタガ唯今ノ島田君ノ演説ヲ以テ本日ノ議場ヲ納メ樣卜思ヒマス、明日ノ議事日程ヲ報逍シマス
 豫算案

午後四時五十三分散會

引用・参照・底本

官報 號外 明治二十四年十二月二十三日水曜日内閣官報局
〇衆議院第ニ囘通常會議事速記錄第二十號
帝国議会会議録検索システム
(国立国会図書館デジタルコレクション)