裏日本 ― 2023年02月01日 10:02
『裏日本』 文學博士 久米邦武 著
(一 - 一四頁)
裏日本序 2023.02.01
是書はなづけて裏日本といふ、裏とは僻隅の謂にあらず、日本の裏は世界に對する表なり、我民族の偉大なる歴史は山陰の出雲よりして大和に發展したり、夫れ國民が外に向ひ發展する時代には裏面ことごとく振ひしに、中古に國勢蹉跌して外交政策の退嬰主義に陥ゐりてより、裏日本の稱は僻隅の謂となりたり、是衰世の思想なるのみ、試みに活眼を開き我日本が東瀛の中に屹立して四方に發展したる過去二千餘歳の天地に思想を用うるならば、山陰の山河は忽ち著色に異彩を發し、前に湛えたる日本海の碧浪を跳へて左右に展開せられたる陸地は、此に在ては日域たり、彼に在ては韓境たり、斯羅といひ、倭奴といひ、熊襲といひ、越狄、蝦夷、沃沮、肅愼の屬までを我神國祭政下に聯結せしめ、之を控制し、之を循撫し、之を皇化にいれんと努め、是時に當つて日本海に交通の頻繁なる、互に比鄰の如くに往來し、大小船舶の海岸に輻湊したる光景を想中に映出すなるべし。
日本の原人については、或は南よりすといひ、或は北よりすといひ、或は交々南北よりすしいひ、諸説紛々として定まらざれど、余は斷言す、南北のいずれにもせよ、海上を健歩して到來したるものなるは動かすべからず。されば我民族は操舟に長し、信風を候ひ、潮流を測り、帆を操り拕を轉し、、狂瀾怒涛を犯し、大洋を渉る猶ほ担途を歩するが如くなりき、是等が各地に聚合して海國健兒の團體をなしてたるは疑ひをいれざるなり。されば其眼中には薩摩沖縄の群島は連矼のみ、臺灣呂宋は飛渡のみ、而して隠岐對馬を日韓の驛路となし、時代の長き經過には地變も起り、日韓對岸の海中にまま沈没したる島嶼の存するを見れば、上古に兩地の海驛は更に接近したるを偲ぶにぞ。縱し然らずとするも日本海峡の最狭處は渡るに何かあらん、直に一盆池の跳躍に値するの距離なるのみ。故に吾人はよろしく近世桎梏されたる鎖國の小天地にありたる思想より脱却して、上古に海上を闊歩したる強悍雄豪なりし祖先の民族性を想ひ起さゞるべからず、其刋にはまづ此の裏日本を讀より始めよ。
山陰は決して僻隅にあらず、然り、出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後等の日本海に向へる
諸港は、今の太平洋南洋に向きたる横濵神戸の其よりも猶ほ大陸に接近し、古來文明東漸の通路となり、細大文物の輸入は之を經由し、幷せて民族も亦移遷歸化し、此より内地に流布彌蔓して素尊日槍の遺せる偉積は今に朽ずして存在す、吾人は自ら知らずして遠き往古の餘澤を受け、其利を受ゐるを疑はざるべし。譬へば建築造船の用たる杉檜樟柀の材、衣服の料たる絲綿麻殻の類、刀刃鍬鋤資たる鐵鋼の如き、抑も何の代に何の地より採用されたる歟、杵築の大社何によつて造營されたる、熊野の檜壇は何によつて尊とき、美保の關は何のために設けたる、抑も出石の神 社は何のために祠れる、大神山の峻峰が郡巒の波を湧かし、智頭川の幹流が十渓の水を容れ、其左右の高原平野に生たる。草木ことごとく日韓一國の時代を語るに非ざるはなし。此を推て之を思ひなば昔の裏日本は決して今の裏日本に非ず、否、山陰道一帶は國初より外に向ひ國務發展の中心地點として、東に北に稼働したる要地なりき、さらば其歴史の觀察は一部地方の地理に止まらず、大日本の文明を吐呑したる裏日本を尋究すべき料ならざるはなし。
吾友文學博士久米邦武氏は、去る明治四十五年六月、余と共に同車して山陰に旅行し、鐵道に沿ふたる各驛を横過し、名區大區には率ね足跡をつけ、而して汽車六七の間に瞥見したる川流山脈にして地理の大勢を演繹し、氏が胸中萬卷の蘊蓄上に築かれたる超邁卓抜なる識見は、其中に雲蒸電發し、到る處の目に觸れ源々として窮まらず、車中逆旅の談話、會場宴席の講演これを一時的の幻影に附するを欲せずして、歸る後に錄し一部の書を成し余に示さる、披いて之を見れば、曾遊を想起し卷の改まるを覺えず、當時車窓を送迎したる山川は昔ながらの地理なるも、此に民族が占住して與へたる名を聞けば即ち史觀は始まる、見る所の景象、聞く所の事態、みな古今の盛衰興廢を語るに非ざる話。是書は演繹の緒を此に挑げ、而して建築、拓殖、土産、生業、風俗、其他あらゆる事物の沿革を旁引博證し、之を比較し、之を輳合し、一緒纔に畢れば一端又抽んつ、さながら串玉の如し。抑も歴史は斷燗の故紙なり、其斷緒を繋ぎ燗片綴れり襤褸は化して煥爛たる錦繍をなす、亦愉快ならずや。
是書は名づけて裏日本とふも規模廣汎なり、時代は神代より近古まで二千歳を上下し、地境は九州朝鮮より中國南海北越を包ね、國初に日韓聯合の祭政狀態より、出雲と中州と統治の交渉、海神山祇の外交關係を説き、國家創業の偉大なる宏謨を實地に徴したる等、殊に刮目に値すべし。爾来國造國司守護等の隆替を説いて佐々木山名の興亡に及び、或は地形の變遷、田野の荒廢、租税の増損、乃至は農園、漁牧、殖産、工業に於る遺傳的系統の素あるを知り、港灣の開塞、船舶の出入、關剗遺跡等に經濟の消息を窺ひ見るを得べく、故墟舊跡、神殿佛閣も朽を化して新となり、而して俚俗に浮傳する宗教の附會、詩人の布衍になれる傳説の妄謬を撲滅して迷霧を霽せるは、老吏の斷獄の如きものあり。蓋し其文才の歴史研究によりて鬱屈したるもの、忽ち山水の間に奔走して風景の觸目につれ、自發して藻華となり、よく文辭を乾枯の患より救ひ、讀者をして羊腸の路を辿りながら山花を攪賞して疲るゝを覺えざらしむる概ありて、實益と趣致と華實兼得たるものといふべし。
是書は氏の一少著にすぎざるべしと雖も、博覧にして卓識を具す力量の溢るゝに非ざれば、此く應接不遑底好著を成し易からざるを信ず。故に看官これを捉えて一の著實なる山陰旅行案内記となし車牀逆旅の覧に充るも必ず益受くる淺少ならざるべし。更に好學の士にして大に利せんと欲せば、是に由りて晦渋なる神代の實相を啓發するを得、其端緒を追て國郡の覇發達したる跡を識り、古史の觀察に資する効力は甚だ顯著なるべし。若し世の業務に忙はしくして閑を偸み歴史知識を得んと欲する人は、是册を披看しなば、他の數十編にまさり、自ら興趣を覺えつゝ、特殊の益を得るを疑はざるけり。取分け山陰道の諸士に對しては、該地に此の良著を得られたるを賀す、必ずこれを熟誦して祖先の偉業遺澤を認識し、各自に深慨を發して自覺の活眼を開き、前途の將来に飛躍を試むるの絶好なる刺戟劑となるといふに躊躇せざるなり。
曩に余は裏日本の山陰が久しく鎖國の底に沈淪し古昔の偉大なる餘風は既に地を拂ひたらんと思ひきや今度鐵道の開通せるにより遊跡を著るの幸を得て實地を見しに交通機關の纔に成りて血液の貫通するや到る處の人氣忽ち亢奮し陸に海に農に工に都會も港灣も富庶繁榮を競爭的に圖る進取の勢ひ著しきを目睹し祖先の遺傳が民族の性稟に染泌したるの深きに感悦したり。新日本の版圖は日本海を環擁したり山陰山陽は一股の島嘴のみ世界に向つて活動飛躍す可き今の時運に當り、何ぞ區々たる表裏を言はんや。但是書の裏日本と名づけたるは、古への裏日本にして中世の退嬰によりて僻隅に陥ゐりたることを此書の豊富なる内容に觀てむ、自ら警醒せられんを庶幾し、茲に之を辨して以て序となす。
大正元年三月
伯爵 大隈重信
引用・参照・底本
『裏日本』文学博士 久米邦武 著 大正四年十二月七日發行 公民同盟出版部
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(一 - 一四頁)
裏日本序 2023.02.01
是書はなづけて裏日本といふ、裏とは僻隅の謂にあらず、日本の裏は世界に對する表なり、我民族の偉大なる歴史は山陰の出雲よりして大和に發展したり、夫れ國民が外に向ひ發展する時代には裏面ことごとく振ひしに、中古に國勢蹉跌して外交政策の退嬰主義に陥ゐりてより、裏日本の稱は僻隅の謂となりたり、是衰世の思想なるのみ、試みに活眼を開き我日本が東瀛の中に屹立して四方に發展したる過去二千餘歳の天地に思想を用うるならば、山陰の山河は忽ち著色に異彩を發し、前に湛えたる日本海の碧浪を跳へて左右に展開せられたる陸地は、此に在ては日域たり、彼に在ては韓境たり、斯羅といひ、倭奴といひ、熊襲といひ、越狄、蝦夷、沃沮、肅愼の屬までを我神國祭政下に聯結せしめ、之を控制し、之を循撫し、之を皇化にいれんと努め、是時に當つて日本海に交通の頻繁なる、互に比鄰の如くに往來し、大小船舶の海岸に輻湊したる光景を想中に映出すなるべし。
日本の原人については、或は南よりすといひ、或は北よりすといひ、或は交々南北よりすしいひ、諸説紛々として定まらざれど、余は斷言す、南北のいずれにもせよ、海上を健歩して到來したるものなるは動かすべからず。されば我民族は操舟に長し、信風を候ひ、潮流を測り、帆を操り拕を轉し、、狂瀾怒涛を犯し、大洋を渉る猶ほ担途を歩するが如くなりき、是等が各地に聚合して海國健兒の團體をなしてたるは疑ひをいれざるなり。されば其眼中には薩摩沖縄の群島は連矼のみ、臺灣呂宋は飛渡のみ、而して隠岐對馬を日韓の驛路となし、時代の長き經過には地變も起り、日韓對岸の海中にまま沈没したる島嶼の存するを見れば、上古に兩地の海驛は更に接近したるを偲ぶにぞ。縱し然らずとするも日本海峡の最狭處は渡るに何かあらん、直に一盆池の跳躍に値するの距離なるのみ。故に吾人はよろしく近世桎梏されたる鎖國の小天地にありたる思想より脱却して、上古に海上を闊歩したる強悍雄豪なりし祖先の民族性を想ひ起さゞるべからず、其刋にはまづ此の裏日本を讀より始めよ。
山陰は決して僻隅にあらず、然り、出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後等の日本海に向へる
諸港は、今の太平洋南洋に向きたる横濵神戸の其よりも猶ほ大陸に接近し、古來文明東漸の通路となり、細大文物の輸入は之を經由し、幷せて民族も亦移遷歸化し、此より内地に流布彌蔓して素尊日槍の遺せる偉積は今に朽ずして存在す、吾人は自ら知らずして遠き往古の餘澤を受け、其利を受ゐるを疑はざるべし。譬へば建築造船の用たる杉檜樟柀の材、衣服の料たる絲綿麻殻の類、刀刃鍬鋤資たる鐵鋼の如き、抑も何の代に何の地より採用されたる歟、杵築の大社何によつて造營されたる、熊野の檜壇は何によつて尊とき、美保の關は何のために設けたる、抑も出石の神 社は何のために祠れる、大神山の峻峰が郡巒の波を湧かし、智頭川の幹流が十渓の水を容れ、其左右の高原平野に生たる。草木ことごとく日韓一國の時代を語るに非ざるはなし。此を推て之を思ひなば昔の裏日本は決して今の裏日本に非ず、否、山陰道一帶は國初より外に向ひ國務發展の中心地點として、東に北に稼働したる要地なりき、さらば其歴史の觀察は一部地方の地理に止まらず、大日本の文明を吐呑したる裏日本を尋究すべき料ならざるはなし。
吾友文學博士久米邦武氏は、去る明治四十五年六月、余と共に同車して山陰に旅行し、鐵道に沿ふたる各驛を横過し、名區大區には率ね足跡をつけ、而して汽車六七の間に瞥見したる川流山脈にして地理の大勢を演繹し、氏が胸中萬卷の蘊蓄上に築かれたる超邁卓抜なる識見は、其中に雲蒸電發し、到る處の目に觸れ源々として窮まらず、車中逆旅の談話、會場宴席の講演これを一時的の幻影に附するを欲せずして、歸る後に錄し一部の書を成し余に示さる、披いて之を見れば、曾遊を想起し卷の改まるを覺えず、當時車窓を送迎したる山川は昔ながらの地理なるも、此に民族が占住して與へたる名を聞けば即ち史觀は始まる、見る所の景象、聞く所の事態、みな古今の盛衰興廢を語るに非ざる話。是書は演繹の緒を此に挑げ、而して建築、拓殖、土産、生業、風俗、其他あらゆる事物の沿革を旁引博證し、之を比較し、之を輳合し、一緒纔に畢れば一端又抽んつ、さながら串玉の如し。抑も歴史は斷燗の故紙なり、其斷緒を繋ぎ燗片綴れり襤褸は化して煥爛たる錦繍をなす、亦愉快ならずや。
是書は名づけて裏日本とふも規模廣汎なり、時代は神代より近古まで二千歳を上下し、地境は九州朝鮮より中國南海北越を包ね、國初に日韓聯合の祭政狀態より、出雲と中州と統治の交渉、海神山祇の外交關係を説き、國家創業の偉大なる宏謨を實地に徴したる等、殊に刮目に値すべし。爾来國造國司守護等の隆替を説いて佐々木山名の興亡に及び、或は地形の變遷、田野の荒廢、租税の増損、乃至は農園、漁牧、殖産、工業に於る遺傳的系統の素あるを知り、港灣の開塞、船舶の出入、關剗遺跡等に經濟の消息を窺ひ見るを得べく、故墟舊跡、神殿佛閣も朽を化して新となり、而して俚俗に浮傳する宗教の附會、詩人の布衍になれる傳説の妄謬を撲滅して迷霧を霽せるは、老吏の斷獄の如きものあり。蓋し其文才の歴史研究によりて鬱屈したるもの、忽ち山水の間に奔走して風景の觸目につれ、自發して藻華となり、よく文辭を乾枯の患より救ひ、讀者をして羊腸の路を辿りながら山花を攪賞して疲るゝを覺えざらしむる概ありて、實益と趣致と華實兼得たるものといふべし。
是書は氏の一少著にすぎざるべしと雖も、博覧にして卓識を具す力量の溢るゝに非ざれば、此く應接不遑底好著を成し易からざるを信ず。故に看官これを捉えて一の著實なる山陰旅行案内記となし車牀逆旅の覧に充るも必ず益受くる淺少ならざるべし。更に好學の士にして大に利せんと欲せば、是に由りて晦渋なる神代の實相を啓發するを得、其端緒を追て國郡の覇發達したる跡を識り、古史の觀察に資する効力は甚だ顯著なるべし。若し世の業務に忙はしくして閑を偸み歴史知識を得んと欲する人は、是册を披看しなば、他の數十編にまさり、自ら興趣を覺えつゝ、特殊の益を得るを疑はざるけり。取分け山陰道の諸士に對しては、該地に此の良著を得られたるを賀す、必ずこれを熟誦して祖先の偉業遺澤を認識し、各自に深慨を發して自覺の活眼を開き、前途の將来に飛躍を試むるの絶好なる刺戟劑となるといふに躊躇せざるなり。
曩に余は裏日本の山陰が久しく鎖國の底に沈淪し古昔の偉大なる餘風は既に地を拂ひたらんと思ひきや今度鐵道の開通せるにより遊跡を著るの幸を得て實地を見しに交通機關の纔に成りて血液の貫通するや到る處の人氣忽ち亢奮し陸に海に農に工に都會も港灣も富庶繁榮を競爭的に圖る進取の勢ひ著しきを目睹し祖先の遺傳が民族の性稟に染泌したるの深きに感悦したり。新日本の版圖は日本海を環擁したり山陰山陽は一股の島嘴のみ世界に向つて活動飛躍す可き今の時運に當り、何ぞ區々たる表裏を言はんや。但是書の裏日本と名づけたるは、古への裏日本にして中世の退嬰によりて僻隅に陥ゐりたることを此書の豊富なる内容に觀てむ、自ら警醒せられんを庶幾し、茲に之を辨して以て序となす。
大正元年三月
伯爵 大隈重信
引用・参照・底本
『裏日本』文学博士 久米邦武 著 大正四年十二月七日發行 公民同盟出版部
(国立国会図書館デジタルコレクション)
