【桃源閑話】歴史の中の「卑劣」・歴史心理学の必要性2025年02月24日 20:01

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【桃源閑話】歴史の中の「卑劣」・歴史心理学の必要性

【概要】

 明治以降、日本の政治は急速に近代化し、帝国主義的な方向へ進んだ。特に、日清戦争(1894-1895)から第二次世界大戦(1941-1945)に至るまでの期間、日本は国際社会での地位を強化しつつも、軍国主義へと傾斜していった。

  1. 日清戦争と列強との対立(1894-1905)

 ・日清戦争(1894-1895)では、朝鮮半島の影響力を巡り清と対立し、日本が勝利。下関条約で台湾や遼東半島を獲得するが、三国干渉(ロシア・ドイツ・フランス)により遼東半島を返還。
 ・日英同盟(1902)を締結し、ロシアとの対立を深める。
 ・日露戦争(1904-1905)に勝利し、ポーツマス条約で南満洲鉄道の権益を獲得、大国の仲間入りを果たす。

 2. 第一次世界大戦と国際協調(1914-1930)

 ・1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は連合国側で参戦し、ドイツの中国・青島や南洋諸島を占領。戦後、ヴェルサイユ条約で戦勝国となる。
 ・1920年に国際連盟に加盟し、国際協調路線を採るが、1921-22年のワシントン会議で海軍軍縮を受け入れる。
 ・1925年、普通選挙法と治安維持法が制定され、民主化と同時に共産主義の弾圧が進む。

 3. 満洲事変と軍国主義の台頭(1931-1937)

 ・1931年、関東軍が満洲事変を起こし、翌年に満洲国を建国。
 ・1933年、国際連盟のリットン調査団の勧告を受け、日本は国際連盟を脱退。
 ・1936年、二・二六事件で陸軍青年将校がクーデター未遂を起こし、軍の影響力が強まる。

 4. 日中戦争と第二次世界大戦(1937-1945)

 ・1937年、盧溝橋事件を契機に日中戦争が本格化。
 ・1940年、日独伊三国同盟を締結し、枢軸陣営に加わる。
 ・1941年、アメリカとの対立が深まり、真珠湾攻撃を行い太平洋戦争が勃発。
 ・1945年、広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦により、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏。

 このように、日本の政治は明治維新後の近代化から国際協調を経て、軍国主義と戦争へと進んだ。

 日本の明治以降の政治には「卑劣」(本来なら「卑劣」の定義を述べるべきであるが、抱く疑問の要因を把握するなかで、徐々に明確になるはずである)さを感じる。理由として、以下の二つの視点が考えられる。

 1.朝廷という無産・無能・非生産階級の存在

 2.江戸幕府の倫理道徳や気高さを持たない低層武士の政治支配

 この二つの勢力が結託した結果、日本の政治がどのように「卑劣」ものになったのかを詳細に説明する。

 (1) 朝廷という無産・無能・非生産階級の影響

 ・幕末から明治維新にかけて、天皇とその周辺の朝廷勢力は、政治的には長く権威だけの存在であり、経済的にも生産活動には関与しなかった。江戸時代を通じて朝廷は幕府の庇護を受ける立場にあり、財政的にも困窮していたが、幕末になると尊王攘夷の思想を背景に、薩長などの討幕勢力と結びつくことで影響力を回復した。

 ・しかし、朝廷は国家運営の経験をほとんど持たず、明治維新後も天皇を「象徴」とする形で国家の中心に据えたものの、実質的な政治・経済運営は薩長出身の官僚や軍人が担った。そのため、朝廷は国家のために何かを生み出すわけでもなく、軍国主義的な政策を「天皇の名のもとに」正当化する道具として利用されることになった。

 ・さらに、明治政府は「天皇親政」の名のもとに旧幕府の武士階級を排除し、朝廷の権威を利用しながら、実際には薩長閥の利益を最大化する政治体制を構築した。こうした無産・無能な階級が国家の中枢に居座り続けたことが、近代日本の政治の歪みにつながったと言える。

 (2) 江戸幕府の倫理道徳・気高さを持たない低層武士の政治支配

 ・江戸幕府は、朱子学を基盤とする倫理道徳を重視し、武士の統治理念として「名こそ惜しけれ」を掲げた。上級武士ほど「士道」や「忠義」を重んじ、政治的にも慎重な姿勢をとった。しかし、幕末の動乱期になると、こうした倫理観を持たない下級武士や脱藩浪人が急速に台頭し、討幕運動を主導するようになった。

 ・明治維新の実権を握ったのは、薩摩・長州を中心とする下級武士層であった。彼らは幕府の旧秩序を否定し、功利的かつ現実主義的な政治手法をとった。特に長州出身の木戸孝允や大久保利通らは、西洋列強に対抗するために富国強兵策を推し進める一方で、幕府時代の慎重な外交を捨て、積極的な対外膨張路線をとるようになった。

 ・こうした低層武士出身の支配者層は、欧米列強の侵略を恐れるあまり、国力増強を至上命題とし、倫理や気高さよりも実利を優先する傾向があった。その結果、

  ⇨ 廃藩置県による旧大名層の政治的排除
  ⇨ 西南戦争に代表される旧士族の弾圧
  ⇨ 日清戦争・日露戦争を通じた帝国主義的膨張
といった形で、倫理よりも権力維持と軍事力拡大を優先する政治体制が確立された。

 ・さらに、昭和期に至ると、こうした「下級武士的」な気質が軍部独裁へとつながり、合理性を欠いた精神論的な戦争政策が推し進められた。結果として、日中戦争や太平洋戦争では「皇国史観」の名のもとに無謀な戦略が採られ、日本は破滅へと向かうことになった。

 まとめ

 ・明治以降の日本の政治が「卑劣」と感じられる理由は、朝廷という実務能力のない階級と、倫理道徳を持たない低層武士が結託した結果、国家運営の理念が「名誉ある統治」ではなく「実利優先の拡張政策」へと傾いたことにある。

 ・江戸幕府の上級武士層が重んじた「名誉」や「義理」といった価値観が、明治以降は次第に失われ、代わりに「成果至上主義」「軍事力信仰」「天皇を利用した権力維持」といった実利的な発想が支配的になった。これが、近代日本の政治に「卑劣」さを感じさせる最大の要因であると言える。

【詳細】

 明治維新は、江戸幕府を「封建的で時代遅れの悪政」として描き、それに対して「維新勢力が日本を近代化へ導いた」という歴史観が一般的に定着している。しかし、この見方には相当な偏りがあり、実際には維新勢力が作り上げた政治的プロパガンダの要素が強い。

 1. 江戸幕府を「悪」とした虚構

 維新政府が自身の正当性を確立するために、江戸幕府を「腐敗した封建体制」として描いたが、実際には以下のような側面があった。

 ・外交の安定: 幕府は欧米列強との外交交渉を通じて、日本を植民地化から守っていた。特に井伊直弼による日米修好通商条約の締結は、一方的な不平等条約と批判されがちだが、実際には戦争を避けるための現実的な選択であった。
 ・経済発展: 幕府は全国的な市場経済の発展を促し、大阪・江戸を中心とした商業ネットワークを確立していた。これにより、江戸時代の日本は世界的に見ても高度な経済基盤を持つ国となっていた。
 ・教育と社会秩序: 寺子屋や藩校を通じて識字率が向上し、武士階級だけでなく町人層も一定の教養を持っていた。これにより、社会の安定が維持されていた。
 ・にもかかわらず、明治政府は幕府のこうした功績を意図的に無視し、「封建的で遅れた政治」として歴史を書き換えた。

 2. 維新勢力の「でっち上げ」

 一方で、維新政府自体の統治も決して「清廉潔白」なものではなかった。むしろ、権力奪取のために陰謀と武力を駆使し、幕府以上に権威主義的な体制を築いていった。

 ・武力倒幕の正当化: 1868年の「王政復古の大号令」は、クーデターに過ぎなかった。さらに、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに旧幕府勢力を弾圧し、西郷隆盛の主導で江戸無血開城を演出する一方、会津戦争や函館戦争では容赦のない戦闘を行った。
 ・廃藩置県による地方支配の強化: 江戸幕府時代には各藩がある程度の自治権を持っていたが、明治政府は廃藩置県によって中央集権化を推し進め、地方の権限を奪った。これは、薩長土肥出身の官僚が国家運営を独占するための手段だった。
 ・富国強兵の名の下の民衆収奪: 明治政府は財政基盤が脆弱だったため、地租改正によって農民から厳しく税を徴収し、さらに徴兵制度を導入して庶民を戦争に動員した。これは、江戸時代に比べて庶民の負担を大幅に増大させるものだった。

 3. 天皇制の利用

 維新政府は、実質的には薩摩・長州の下級武士による政権であったが、それを正当化するために天皇を政治の中心に据えた。

 ・「万世一系」という神話の強調: 明治政府は「天皇は神聖であり、日本の統治の唯一の正統な存在である」というイデオロギーを作り上げた。しかし、実際には天皇は江戸時代まで政治に関与しておらず、明治政府にとって都合の良いシンボルとして利用されただけであった。
 ・大日本帝国憲法による天皇権限の拡大: 1889年に制定された大日本帝国憲法では、天皇が統治権を総攬すると定められたが、実際の政治は薩長出身の官僚や軍人によって行われた。つまり、天皇を前面に出しながら、実権は維新政府のエリート層が握る構造が作られた。

 まとめ

 ・明治維新は単なる「近代化」ではなく、旧幕府を否定し、自らの支配を正当化するために歴史を書き換えた「でっち上げ」の側面が強い。江戸幕府が築いてきた秩序や伝統を破壊し、薩長の下級武士層が新たな支配階級となった結果、日本の政治は功利主義的で軍事優先の方向へ進んでいった。これは、後の軍国主義・帝国主義的な政策へとつながり、日本が破滅への道を歩む原因となったと言える。

【要点】
 
 明治維新によって生じた政治構造と歴史観の歪曲は、単なる政権交代ではなく、日本の社会・文化・価値観に深く根を下ろした「品格の問題」として現在に至るまで影響を及ぼしている。維新政府が作り上げた虚構の歴史は、真実を覆い隠し、国民の歴史認識を歪め続けている。

 1. 明治政府による歴史改ざんと隠蔽

 ・維新政府は、自らの正統性を確立するために江戸幕府の政治や社会制度を意図的に否定し、歴史を都合よく作り変えた。

 2.江戸幕府の善政の隠蔽

 ・幕府は平和を維持し、識字率の向上、経済の発展、国際的な交渉による独立維持など、多くの成果を上げていた。しかし、維新政府は「封建的で腐敗した支配体制」として一方的に断罪し、その功績を徹底的に隠蔽した。

 3.薩長閥の独裁体制の正当化

 ・明治政府は「国民のための近代化」を掲げたが、実際には薩摩・長州の下級武士が政治を独占し、他の勢力を排除した。これを「維新の功績」として美化し、実態とは異なる形で歴史が書き換えられた。

 4.士族の反乱を「反国家的行為」とした歪曲

 ・西南戦争や神風連の乱など、旧武士層の抵抗運動は、決して単なる反乱ではなく、明治政府の急激な改革による社会不安への反発であった。しかし、政府はこれを「国家に反逆する反動勢力」として弾圧し、彼らの主張や背景を抹消した。

 5. 「天皇神聖化」による虚構の統治

 ・江戸時代の天皇は、政治には関与せず、文化的な象徴に過ぎなかった。しかし、明治政府は自らの正統性を確保するために「万世一系」の神話を強調し、天皇を絶対的な権威として利用した。

 6.国家神道の創出と教育勅語

 ・神道を国教とし、「天皇は神聖であり、日本は特別な国である」という思想を国民に植え付けた。教育勅語を通じて、国民に忠誠心を強要し、政府の都合の良い歴史観を強制した。

 7.現実の政治との乖離

 ・表向きは「天皇親政」とされたが、実際には薩長出身の政治家や軍部が権力を握り、天皇を利用して自らの政策を正当化する手段とした。大正・昭和期に入ると、軍部が独走し、天皇を「統治の道具」として利用し続けた。

 8.維新の遺産としての現在の政治構造

 ・維新政府が築いた政治のあり方は、戦後も根本的には変わらず、現在の日本の統治システムにも影響を与えている。

 9.官僚主導の中央集権体制

 ・廃藩置県によって地方の自主性が奪われた結果、現在もなお中央政府(霞が関)の官僚が政策決定を握る体制が続いている。これは、明治政府の「統治機構の合理化」として導入されたが、地方自治の発展を阻害し、地方経済の衰退を招いた。

 10.歴史教育における事実の歪曲

 ・教科書では、維新が「近代化の原点」として強調される一方で、維新政府による弾圧や独裁的な政治、戦争への道を開いた側面はほとんど語られない。これは、明治以来の歴史観が戦後も修正されずに残った結果である。

 11.政治と品格の欠如

 ・江戸幕府の政治には、儒教的な倫理観や道徳的責任が重視されていたが、維新後の政治は功利主義的な傾向が強まり、権力闘争や利益誘導が横行するようになった。この結果、政治家の倫理観が低下し、「国家のため」という大義名分のもとで不正や汚職が繰り返される構造が生まれた。

 まとめ

 ・明治維新は単なる政権交代ではなく、日本の政治・社会構造を根本から変えた歴史的転換点であった。しかし、その過程で事実が歪められ、江戸幕府の遺産は否定され、天皇制を利用した支配体制が構築された。この歪んだ統治のあり方は、現在に至るまで続いており、日本の政治の品格を損なう要因となっている。維新政府が作り上げた虚構の歴史から脱却し、本来の日本の伝統や価値観を見直すことが、真の歴史的再評価につながるのである。

 ・歴史的・政治的な側面を考慮するなら、戦後日本においては、戦前の軍国主義的な体制が崩壊し、新たに制定された日本国憲法によって民主主義国家としての道を歩み始めた。本来なら、日本の「卑劣」さは、消えたはずであるが、それは戦後の平和主義と民主主義の理念のもとで変化したとも考えられる。

 経済復興や国際関係の中で、戦後日本が自主性を失い、アメリカの影響下にあることは更なる「卑劣」さと捉えられる。

【補遺:歴史心理学の必要性】

 歴史を単なる事象の羅列として捉えるのではなく、そこに関わった人間の心理や倫理観、価値観の変遷を分析することは極めて重要である。特に、日本の近代史においては、政治的な出来事の背景にある人間の意識や道徳観を検証しなければ、真の歴史的理解には至らない。

 この視点に立つと、「歴史心理学」とも呼ぶべき分野が必要であることが明らかになる。これは、歴史上の出来事を単なる因果関係の分析にとどめず、その時代の指導者や国民が持っていた心理的傾向、倫理観、社会意識を解明することを目的とする学問である。

 1. 歴史の中の心理と人格の問題

 ・明治維新以降、日本の統治構造が大きく変化する中で、政治家や支配層の意識にどのような変化が生じたのかを分析することは重要である。

 2.封建社会から中央集権へ:権威の正当化の心理

 ・江戸時代は「士農工商」の身分制度のもと、武士が倫理的な支配者層としての役割を果たしていた。しかし、明治維新では、下級武士と朝廷が手を組んで旧幕府を倒し、新たな支配体制を築いた。このとき、彼らが抱えていたのは「自らの権威をいかに正当化するか」という心理的課題であった。その結果、天皇の神聖化や国家神道の強化が進められた。

 3.戦争への心理的傾向:国民意識の操作

 ・明治政府は「富国強兵」を掲げ、日清戦争・日露戦争へと突き進んだ。この過程では、国民の心理に「戦争は国家の発展のために必要である」という観念を植え付けるプロパガンダが行われた。さらに昭和に入ると、軍部による国民意識の操作が強まり、「聖戦」の名のもとで戦争が正当化される心理的構造が完成した。

 4.敗戦後の心理的転換:責任回避と自己正当化

 ・戦後、日本は敗戦の責任をどのように認識したのか。この時期に見られるのは、「すべては軍部の暴走だった」「国民は被害者だった」とする責任転嫁の心理である。こうした心理は、戦後の政治構造にも影響を与え、「誰も責任を取らない政治文化」を生み出すことになった。

 5.「歴史心理学」の必要性と意義

 ・歴史心理学の視点がなければ、歴史は単なる出来事の因果関係として理解され、そこに関わった人間の意識や価値観の変遷が見落とされる。これを克服するためには、以下のような研究が必要である。

 (1)統治者の心理的動機の分析

 ・歴代の指導者は何を恐れ、何を求め、どのような価値観を持っていたのかを探ることで、政策決定の背景をより深く理解できる。

 (2)国民意識の変化の追跡

 ・ある時代の国民がどのような精神状態にあったのかを分析することで、歴史的な転換点の本質を見極めることが可能になる。

 (3)倫理観の変遷とその影響

 ・近代日本では、武士道的な倫理観が薄れ、国家の利益を最優先する考え方が支配的になった。この倫理観の変遷が政治にどのような影響を与えたのかを解明する。

 6. 歴史を人格と倫理の問題として再評価する

 ・歴史を単なる事実の集合ではなく、「当時の人々の人格と倫理観がどのように働いたか」という視点で再評価することが必要である。維新政府がどのように歴史を歪めたのか、その背景にある心理的要因は何か、そしてそれが現代にどう影響を与えているのかを解明することで、日本の歴史観に新たな視座を加えることができる。

 ・明治維新から現在に至るまでの日本の歴史には、単なる政治的・経済的な変化だけでなく、人々の心理的要因が深く関与している。そのため、歴史を解明するには、出来事の表面的な分析にとどまらず、「歴史心理学」という視点を導入し、当時の人々の意識、倫理観、価値観を掘り下げて考察することが不可欠である。

 7.歴史心理学などの分野の学問は現在ないのか

 現在、「歴史心理学(Historical Psychology)」という名称で確立された学問分野はほぼ存在していない。しかし、歴史と心理学を結びつけた研究領域はいくつかあり、それらが「歴史心理学」として発展する可能性を秘めている。以下、関連する学問分野を挙げ、それらがどのように歴史心理学と結びつくかを説明する。

 関連する学問分野

 (1) 歴史学(History)と心理学(Psychology)の交差領域

 ・歴史学は主に政治・経済・社会の変遷を扱うが、従来、個人や集団の「心理状態」に深く踏み込むことは少なかった。
 ・一方、心理学は個人の行動や思考を研究するが、それを長期的な歴史の流れの中で分析することは少ない。
 ・しかし、近年は「歴史的な文脈における人間心理」を研究する動きがあり、これが「歴史心理学」の基礎になり得る。

 (2) 集団心理学(Social Psychology, Collective Psychology)

 ・ギュスターヴ・ル・ボン(Gustave Le Bon)の『群衆心理』(1895年)は、群衆の行動が個人とは異なるメカニズムで動くことを指摘し、国家や革命の動向を説明するのに応用された。
 ・歴史における集団行動(例:明治維新、戦時中の国民感情)を分析する視点は、歴史心理学の一部となり得る。

 (3) 精神史(History of Mentalities)

 ・アナール学派(フランスの歴史学派)が発展させた分野で、特にマルク・ブロックやリュシアン・フェーヴルが「ある時代の人々がどのように考え、感じていたか」を研究した。
 ・これは歴史心理学と非常に近いアプローチであり、「近代日本人の意識変化」などを分析する上で重要な視点となる。

 (4) 政治心理学(Political Psychology)

 ・政治家や指導者の心理、国家の政策決定における心理的要因を分析する分野。

  ・例えば、ナチス・ドイツや大日本帝国の戦争遂行における指導者層の心理を研究する際に用いられる。
 ・明治政府がなぜ天皇制を強化し、国民を動員する政策をとったのかを分析する上で有用。

 (5) 歴史認識と記憶の研究(Historical Memory Studies)

 ・人々がどのように過去を記憶し、語り継ぐかを研究する分野。
 ・明治維新の「神話化」や、戦後日本における歴史の捉え方の変化を分析するのに適している。

 歴史心理学の可能性

 現在、歴史心理学という独立した学問は確立されていないが、既存の研究分野の組み合わせによって構築することは可能である。例えば、

 ・明治維新の心理的側面を分析し、武士階級の没落による不安、薩長勢力の正当化のための心理的戦略などを研究する。
 ・戦時中の国民感情の変遷を分析し、「なぜ戦争を支持する世論が形成されたのか」「どのように天皇崇拝が心理的に定着したのか」を明らかにする。
 ・敗戦後の歴史認識の変化を追跡し、「なぜ日本人は自らの戦争責任を曖昧にしたのか」「どのようにして歴史の記憶が操作されたのか」を解明する。

 これらの研究が積み重なれば、「歴史心理学」という新たな学問が成立する可能性がある。

 まとめ

 現在、「歴史心理学」という名称で確立された学問はないが、歴史と心理学の融合は重要な研究領域となり得る。特に、歴史的な出来事の背景にある「人間の心理」を解明することは、単なる事実の記録ではなく、「なぜそのような選択がなされたのか」を明らかにする上で不可欠である。今後、この分野の体系化が進めば、歴史の新しい解釈を生み出す鍵となるだろう。
 
【引用(孫引き)】

 徳川の体制は、さまざまな点で、第二次大戦後の日本の体制と類似する点があります。第一に象徴天皇制です。〔……〕第二に、全般的な非軍事化です。〔……〕戦後憲法一条と九条の先行形態として見出すべきものは、明治憲法ではなく、徳川の国制〔憲法〕です。〔……〕ある意味で明治以前のものへの回帰なのです。(『江戸の憲法構想』関義良基 著 2024年3月30日初版第1刷発行 47頁 作品社)

【引用完】

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