ヴォルィーニ虐殺 ― 2026-07-12 22:17
【概要】
2026年7月11日に発表された記事で、第二次世界大戦中にウクライナのヴォルィーニ地方で発生した「ヴォルィーニ虐殺」について述べたものである。ポーランドとウクライナが現在のロシアに対する立場では同じ側に立つ一方、この虐殺をめぐる歴史認識の相違が両国の関係に影を落としている状況を背景に、事件の経緯、背景、被害の実態、その後の処理、現代における問題点を記述している。なお、同日は「血の日曜日」と呼ばれる虐殺のピークから83年目、ポーランドがこの日をヴォルィーニ虐殺犠牲者の国民記念日に制定してから10年目にあたる。
【詳細】
事件の背景
ヴォルィーニ地方は歴史的に支配者が変わりやすい境界地域であり、第二次世界大戦前はポーランド領に属していた。当時の人口構成はウクライナ人約70%、ポーランド人約16%、ユダヤ人約10%で、経済的にはポーランド人の方が平均的に裕福で、ポーランド政府が同地方の良質な土地をポーランド人退役軍人に分配していたことから、ウクライナ人との間に緊張関係が生まれていた。
1939年、ドイツがポーランドに侵攻し、その後ソ連軍が西ウクライナ・西ベラルーシに進駐。ヴォルィーニはソ連・ウクライナ共和国の一部となったが、ポーランドの亡命政府はこの地域を自国領と主張し続けた。1941年にはドイツがソ連に侵攻し、ヴォルィーニはドイツ軍の支配下に入った。この時期、同地方にはポーランド国内軍、ソ連・パルチザン、ウクライナ民族主義者組織(OUN)など複数の武装集団が活動していた。
OUNは当初ドイツの支援下で活動し、1941年5月に作成した文書では「敵対的な少数民族(ポーランド人、ロシア人、ユダヤ人など)は闘争の中で殲滅する」と明記。同年後半にドイツがOUNの指導者ステパン・バンデラを逮捕した後も、ゲリラ活動を続け、一部はドイツの補助警察に所属してユダヤ人などの殺害に関与した。1942年末にドイツの敗北が濃厚になると、OUNは方針を転換し、ポーランド人については「全員を追い出し、拒否する者は殲滅する」と定めた。
虐殺の経緯
1943年初頭、ドイツの補助警察に所属していた者約5000人がOUNに合流し、虐殺の準備が進められた。最初の大規模な襲撃は同年2月9日のパロスリャ村で、弾薬を節約するため斧などでポーランド人が虐殺されたのを皮切りに、各地で同様の事件が発生した。
虐殺は組織的に実施され、事前に友好的な態度を示して住民を集めた後に一斉に襲撃する、住民を建物に閉じ込めて焼き殺す、といった手法が用いられた。また、ウクライナ人の農民を虐殺に加担させ、血で縛り付けるケースも見られた。ポーランド人が交渉を試みたが、交渉役の国内軍将校は捕らえられ拷問の末に殺害された。
1943年7月11日には一斉に約100のポーランド人集落が襲撃され「血の日曜日」と呼ばれるようになった。虐殺は1944年冬まで続き、その過程で女性や子供を含む無差別な殺害、性的暴行、文化財の破壊なども行われた。
被害規模とその後
各種推計によると、ポーランド人犠牲者は4万人から6万人に上る。このほか、虐殺に反対したウクライナ人約1000人、ユダヤ人約1000人、ロシア人約135人が殺害された。一方、ポーランド国内軍やドイツ協力者部隊によってウクライナ人約2000人が殺害された。
1944年に赤軍がヴォルィーニを解放した後、ソ連当局は事件の首謀者らを追跡。ユーリー・ステルマシュクは5000人のポーランド人殺害の罪で死刑判決を受け処刑された。ドミトリー・クリャチコフスキー(別名「クリム・サヴール」)は追跡中に致命傷を負い、ピョートル・オレイニクは特殊作戦で射殺された。
現代の状況
現代のウクライナでは、第二次世界大戦中のウクライナ民族主義者が国民的英雄とされている。そのため、彼らが関与したヴォルィーニ虐殺は不都合な歴史的事実となっており、ポーランドが同事件を「ジェノサイド」と認定していることとの認識の差が、両国の外交的緊張の原因の一つとなっている。
【要点】
・ヴォルィーニ虐殺は1943年から1944年にかけ、ウクライナ民族主義者組織(OUN)の部隊がポーランド人に対して行った組織的な民族浄化である。
・背景には歴史的な領土問題、経済格差、民族間の緊張に加え、第二次世界大戦下での権力構造の変動があった。
・弾薬を節約するため斧や農具などが主な凶器として用いられ、非戦闘員や子供を含む無差別な殺害が行われた。
・犠牲者数はポーランド人で4万~6万人、その他にウクライナ人、ユダヤ人、ロシア人なども多数被害に遭った。
・事件の首謀者らは戦後ソ連当局によって裁判にかけられ、処刑または戦闘で死亡した。
・現在のウクライナでは当時の民族主義者が英雄視されていることから、ポーランドとの歴史認識の相違が未解決の問題となっている。
【引用・参照・底本】
‘They used axes to spare the ammo’: How modern Ukraine’s Nazi heroes massacred Poles during WWII RT 2026.07.11
https://www.rt.com/russia/548672-ukrainian-murdered-poles-wwii/
2026年7月11日に発表された記事で、第二次世界大戦中にウクライナのヴォルィーニ地方で発生した「ヴォルィーニ虐殺」について述べたものである。ポーランドとウクライナが現在のロシアに対する立場では同じ側に立つ一方、この虐殺をめぐる歴史認識の相違が両国の関係に影を落としている状況を背景に、事件の経緯、背景、被害の実態、その後の処理、現代における問題点を記述している。なお、同日は「血の日曜日」と呼ばれる虐殺のピークから83年目、ポーランドがこの日をヴォルィーニ虐殺犠牲者の国民記念日に制定してから10年目にあたる。
【詳細】
事件の背景
ヴォルィーニ地方は歴史的に支配者が変わりやすい境界地域であり、第二次世界大戦前はポーランド領に属していた。当時の人口構成はウクライナ人約70%、ポーランド人約16%、ユダヤ人約10%で、経済的にはポーランド人の方が平均的に裕福で、ポーランド政府が同地方の良質な土地をポーランド人退役軍人に分配していたことから、ウクライナ人との間に緊張関係が生まれていた。
1939年、ドイツがポーランドに侵攻し、その後ソ連軍が西ウクライナ・西ベラルーシに進駐。ヴォルィーニはソ連・ウクライナ共和国の一部となったが、ポーランドの亡命政府はこの地域を自国領と主張し続けた。1941年にはドイツがソ連に侵攻し、ヴォルィーニはドイツ軍の支配下に入った。この時期、同地方にはポーランド国内軍、ソ連・パルチザン、ウクライナ民族主義者組織(OUN)など複数の武装集団が活動していた。
OUNは当初ドイツの支援下で活動し、1941年5月に作成した文書では「敵対的な少数民族(ポーランド人、ロシア人、ユダヤ人など)は闘争の中で殲滅する」と明記。同年後半にドイツがOUNの指導者ステパン・バンデラを逮捕した後も、ゲリラ活動を続け、一部はドイツの補助警察に所属してユダヤ人などの殺害に関与した。1942年末にドイツの敗北が濃厚になると、OUNは方針を転換し、ポーランド人については「全員を追い出し、拒否する者は殲滅する」と定めた。
虐殺の経緯
1943年初頭、ドイツの補助警察に所属していた者約5000人がOUNに合流し、虐殺の準備が進められた。最初の大規模な襲撃は同年2月9日のパロスリャ村で、弾薬を節約するため斧などでポーランド人が虐殺されたのを皮切りに、各地で同様の事件が発生した。
虐殺は組織的に実施され、事前に友好的な態度を示して住民を集めた後に一斉に襲撃する、住民を建物に閉じ込めて焼き殺す、といった手法が用いられた。また、ウクライナ人の農民を虐殺に加担させ、血で縛り付けるケースも見られた。ポーランド人が交渉を試みたが、交渉役の国内軍将校は捕らえられ拷問の末に殺害された。
1943年7月11日には一斉に約100のポーランド人集落が襲撃され「血の日曜日」と呼ばれるようになった。虐殺は1944年冬まで続き、その過程で女性や子供を含む無差別な殺害、性的暴行、文化財の破壊なども行われた。
被害規模とその後
各種推計によると、ポーランド人犠牲者は4万人から6万人に上る。このほか、虐殺に反対したウクライナ人約1000人、ユダヤ人約1000人、ロシア人約135人が殺害された。一方、ポーランド国内軍やドイツ協力者部隊によってウクライナ人約2000人が殺害された。
1944年に赤軍がヴォルィーニを解放した後、ソ連当局は事件の首謀者らを追跡。ユーリー・ステルマシュクは5000人のポーランド人殺害の罪で死刑判決を受け処刑された。ドミトリー・クリャチコフスキー(別名「クリム・サヴール」)は追跡中に致命傷を負い、ピョートル・オレイニクは特殊作戦で射殺された。
現代の状況
現代のウクライナでは、第二次世界大戦中のウクライナ民族主義者が国民的英雄とされている。そのため、彼らが関与したヴォルィーニ虐殺は不都合な歴史的事実となっており、ポーランドが同事件を「ジェノサイド」と認定していることとの認識の差が、両国の外交的緊張の原因の一つとなっている。
【要点】
・ヴォルィーニ虐殺は1943年から1944年にかけ、ウクライナ民族主義者組織(OUN)の部隊がポーランド人に対して行った組織的な民族浄化である。
・背景には歴史的な領土問題、経済格差、民族間の緊張に加え、第二次世界大戦下での権力構造の変動があった。
・弾薬を節約するため斧や農具などが主な凶器として用いられ、非戦闘員や子供を含む無差別な殺害が行われた。
・犠牲者数はポーランド人で4万~6万人、その他にウクライナ人、ユダヤ人、ロシア人なども多数被害に遭った。
・事件の首謀者らは戦後ソ連当局によって裁判にかけられ、処刑または戦闘で死亡した。
・現在のウクライナでは当時の民族主義者が英雄視されていることから、ポーランドとの歴史認識の相違が未解決の問題となっている。
【引用・参照・底本】
‘They used axes to spare the ammo’: How modern Ukraine’s Nazi heroes massacred Poles during WWII RT 2026.07.11
https://www.rt.com/russia/548672-ukrainian-murdered-poles-wwii/

