賭博の概念2023年02月04日 17:46

唐詩選五言絶句(題袁氏別)
 『鄥其山漫文 生ける支那の姿』

 魯迅 序 内山 完造著

 (八四-八九頁)
 賭博の概念             2023.02.04

 昔の人はなかなか偉いことを云ふ。誰れでもが如つて居る樣に、處かわれば品かわると云ふ言葉など、日本内地丈けでも成程と首肯出來る事もあるが、それが上海迄出で來ると、一層はつきり瑶解出來て、今更ながら適切な言葉だなと感心させられる。旱い話が日本人の言ふ東洋及び東洋人とは、日本人、朝鮮人、支那人、印度人其の他多く亞細亞の東部に位するところの國、及び人々を指して、言ふのであるが、支那人が言ふ東洋及び東洋人と云ふのは。それこそ大變な違ひである。東洋とは日本一國を指し、東洋人とは從って日本人と云ふことである。
 序でだから一寸書いて見るが、日本と云ふ文字は、日出國と云ふ文字と共に支那の浙江省東再岸の人及び福建省布東海岸の人々が、始めて使ったものではあるまいか。
 浙江福建一滯の東海岸の人々は、毎日太陽が東の海の彼方から出て來るのを見て居る。そして太陽の出て來る士地を想像して、日本及び日出國を以て呼ばれる樣になったのではあるまいか。
 現に、今尚ほ此等地方人の日本の發音は、につぽん(ぽんの發音が少しはつきりしないが)若くは、やぽんと發音するのみならず、我國の人が、日本と云ひ、日出國と呼ぶならば、更らに日本よりも東に位する土地を指すべきだと思ふ。それは日本から見れば、太陽は更に東の方から出て來る樣に見えるからである。
 閑話休題。
 日本人の賭博と云ふ概念はお金を賭けて勝負を爭ふ事を指して居るのである。此の概念は無論國法律が教へたのであらうか、兎に角、密柑やお菓子を啼けては、賭博とは云はぬ。それは慰みであると云ふ。
 支那旅行記や、叉那談によく出るのは、支那と云ふ國は、無茶な國だ。國の法律には、賭博を禁じ、賭博犯の刑罰はちゃんと出來てゐるのに、督軍公署の中でも、兵營の中でもいや、警察の中でも、平氣で賭博をやつて居ると云ふことである。(最近はそんなことは無いとのことであるが)あれを見た人はそう思ふのも無理はないが、其處だ、處かわれば品かわるのだ。
 支那と云ふ處が、かわつて居ることを忘れて、全く日本的に考へるから、支那は無茶の樣に思はれるのであるが、處がかわつたのだから品かわる筈だと一寸考へて、さてどんなに晶かかわ品がかわるのかを、今一足踏み込んで考へて見ればよいのである。
 支那では、法律によつて明らかに賭博を禁じて居る。しかしながら其賭博と云ふ概念が日本とは違つて居るのである。支部の人は、蜜柑とお菓子とお金とを違つた物とは考へないのだ。全く同一の物として考へで居るのだ。慰みと、賭博との相違は、勝負する人によつて決定されるのだ。
 たとへお金を賭けて勝負を爭つて居つても、それが家族の人ばかりであつたり、友人や親類縁者の者ばかりであつたり、又お客樣であつたりした場合は、全く慰みと解釋する。
 然かし、其の一座の中に、お金を賭けて、勝負を爭ふことを、仕事にして居る、所謂黑人の賭博師が一人でも混じつて居ると、それは法律が禁じて居る所の、立派な賭博と云ふものである。尤も中華民國に革命されてからは、一度日本の通りにお金を賭けて、勝負を爭ふ行爲を賭博犯として處刑することしたが、それでは大變である處から、法律は改正されて、只公けの場所でお金を賭けて、勝負を爭ふ行爲を賭博と認めることになつたが、是れ又甚だ不便であると云ふで、三度改正されて、今日は又日本と同樣お金を賭けて勝負を爭ふ行爲を賭博犯として處罰することになつたのだと鄥其山は聞いてゐる。尚この時實を説明して呉れた高等法院の某法官は、法律はそうなって居るが、實際にはその通りに裁判はいたしません、と付け加へた。
 例へ法律はどんなに改正されても、一般人は依然として從來の賭博概念を持つて居る。
 そして、此の考へ方が、人を中心として居るだけに、合理的な樣な氣がするが如何。

引用・参照・底本

『鄥其山漫文 生ける支那の姿』内山完造著 昭和十一年六月五日第三版 學藝書院

(国立国会図書館デジタルコレクション)