伊:エチオピア植民地支配と虐殺事件・賠償2024年05月20日 17:47

国立国会図書館デジタルコレクション「青楼美人合 第1冊」を加工して作成
 イタリアのエチオピア植民地支配とそれに伴う虐殺事件は、歴史においても現代においても重要な課題となっている。1935年から1941年の間、イタリアはエチオピアを植民地として支配し、この期間中に多くのエチオピア人が虐殺や拷問を受けた。特に1937年のアディスアベバ虐殺事件(註)では、ロドルフォ・グラツィアーニ総督に対する暗殺未遂事件を受けて、イタリア軍が報復として数万人のエチオピア人を殺害した。

 このような歴史的背景にもかかわらず、イタリアでは長い間、この虐殺や植民地支配に対する公の議論はほとんど行われていなかった。しかし、最近の社会的・政治的な運動や国際的な圧力により、植民地時代の負の遺産に対する認識が高まりつつある。特に「Black Lives Matter」や「Rhodes Must Fall」などの運動が、植民地主義に関する批判的な視点を促進し、賠償の必要性についての議論を呼び起こした。

 イタリア国内でも変化が見られる。例えば、2022年10月にはローマ市議会が植民地時代の地域名の改訂を決定し、植民地主義の遺産に関する意識を高めるための取り組みが行われた。このような動きは、イタリア社会全体が過去の植民地支配とその影響を認識し、将来的にはエチオピアへの賠償に向けた具体的な行動につながる可能性がある。

 エチオピア側もイタリアに対して戦犯の裁判や賠償を求め続けてきたが、冷戦期の国際情勢や連合国の支援により、これらの試みは成功しなかった。近年、再び賠償の問題が浮上しており、国際的な圧力やイタリア国内の意識変革が進むことで、賠償に向けた動きが具体化することが期待されている。

 このように、イタリアとエチオピアの関係は歴史的に複雑であり、過去の植民地支配に対する認識と責任をどう取るかが問われ続けている。賠償問題は、単に経済的な補償だけでなく、歴史的な正義と和解の一環として重要な意味を持っている。

【視点】

イタリアのエチオピア植民地支配とその過程で発生した虐殺事件について、歴史的背景、具体的な事件の詳細、国際的な反応、現在の賠償問題に関する動向をさらに詳述する。

歴史的背景

イタリアのエチオピア侵略は、ベニート・ムッソリーニのファシスト政権が掲げた「新しいローマ帝国」の一環として行われた。1935年、イタリアはエチオピア(当時のアビシニア)に侵攻し、1936年には首都アディスアベバを占領してエチオピアを正式に併合した。これにより、イタリア領東アフリカが成立し、エチオピアはエリトリアとイタリア領ソマリランドとともに一つの植民地となった。

アディスアベバ虐殺事件

1937年2月19日、アディスアベバで発生した虐殺事件は、エチオピア人にとって最も記憶に残る悲劇の一つである。この事件は、エチオピア副王でイタリア東アフリカ総督だったロドルフォ・グラツィアーニに対する暗殺未遂事件を契機に発生した。2人のエリトリア人愛国者がグラツィアーニに手榴弾を投げ付け、これにより数人が死亡し、グラツィアーニ自身も負傷した。

この攻撃に対する報復として、イタリア軍は3日間にわたる大規模な虐殺を実行した。イタリア兵は無差別にエチオピア市民を殺害し、民家に火を放った。この虐殺により、推定で最大2万人のエチオピア人が命を落としたとされている。また、多くの市民が逮捕され、拷問を受けた。

国際的な反応と無関心

当時、いくつかの外国人外交官がこの虐殺を目撃し、衝撃的な報告を本国に送っている。アメリカの外交官はワシントンに対し、イタリア軍が容赦なく民間人に発砲し、家々に火を放っていると報告した。フランスの外交官もまた、遺体が適切な埋葬もされずに積み上げられ、ガソリンで焼かれた様子を伝えた。

しかし、国際社会は当時、エチオピアの悲劇に対してほとんど関心を示さなかった。これは、第二次世界大戦が間近に迫り、国際的な緊張が高まっていたためでもあった。また、冷戦期においても、イタリアは西側諸国の一員として重要な位置を占めており、戦犯の裁判や賠償の問題は棚上げされた。

賠償問題と現在の動向

冷戦が終わった後も、エチオピアはイタリアに対して賠償を求め続けたが、大きな進展は見られなかった。しかし、近年になって欧米諸国での植民地主義に対する再評価の動きが、イタリアにも影響を与え始めた。例えば、アメリカでの「Black Lives Matter」運動や、南アフリカの「Rhodes Must Fall」運動は、植民地時代の過去に対する認識と責任を問い直すきっかけとなった。

イタリア国内でも変化が見られる。2022年10月、ローマ市議会は植民地時代の地域名の改訂を決定し、植民地主義の遺産に関する意識を高めるための取り組みが行われた。このような動きは、イタリア社会が過去の植民地支配とその影響を認識し、将来的にはエチオピアへの賠償に向けた具体的な行動につながる可能性を示している。

賠償の意義

賠償問題は単に経済的な補償だけでなく、歴史的な正義と和解の一環として重要な意味を持つ。エチオピアに対する賠償は、過去の植民地支配による被害を認め、その影響を是正するための一歩となる。また、エチオピアとイタリアの関係を改善し、未来に向けて新たな協力関係を築くための基盤ともなり得る。

このように、イタリアのエチオピア植民地支配と虐殺事件の歴史は複雑であり、未解決の問題が多く残されている。賠償問題の進展には、イタリア国内の意識変革と国際的な圧力が重要な役割を果たす。

・歴史的背景

1935年: ベニート・ムッソリーニのファシスト政権下、イタリアがエチオピア(当時アビシニア)に侵攻。
1936年: エチオピアを正式に併合し、イタリア領東アフリカが成立(エリトリア、ソマリランドと一体化)。
ムッソリーニの「新しいローマ帝国」構想の一環として行われた侵略。

・アディスアベバ虐殺事件

1937年2月19日: エチオピア副王・イタリア東アフリカ総督ロドルフォ・グラツィアーニに対する暗殺未遂事件が発生。
2人のエリトリア人愛国者がグラツィアーニに手榴弾を投げ、数人が死亡、グラツィアーニが負傷。
報復: イタリア軍がアディスアベバで3日間にわたる大規模な虐殺を実行。
無差別にエチオピア市民を殺害し、民家に火を放つ。
最大2万人のエチオピア人が死亡。
多くの市民が逮捕され、拷問を受ける。

・国際的な反応と無関心

外国人外交官による目撃報告。

アメリカ外交官: イタリア軍が無差別に発砲し、家々に火を放っていると報告。
フランス外交官: 遺体が適切な埋葬もされず、ガソリンで焼かれた様子を報告。

国際社会の反応: 当時はほとんど関心が示されず。

第二次世界大戦が迫っていたため、国際的な緊張が高まっていた。
冷戦期においても、イタリアは西側諸国の一員として重要視され、賠償や戦犯裁判は棚上げ。

・賠償問題と現在の動向

エチオピアの賠償要求: 冷戦後も続けられたが、大きな進展は見られず。
近年の社会的・政治的運動の影響。
「Black Lives Matter」運動(アメリカ)や「Rhodes Must Fall」運動(南アフリカ)が植民地主義に対する再評価を促進。

・イタリア国内の変化

2022年10月: ローマ市議会が植民地時代の地域名を改訂。
植民地主義の遺産に関する意識向上の取り組み。

・賠償の意義

賠償問題は単に経済的補償ではない。
歴史的な正義と和解の一環として重要。
エチオピアに対する賠償は過去の植民地支配の被害を認め、是正するための一歩。
エチオピアとイタリアの関係改善、未来に向けた新たな協力関係の基盤となり得る。

・まとめ

イタリアのエチオピア植民地支配と虐殺事件は、歴史的に複雑で未解決の問題が多く残る。
賠償問題の進展には、イタリア国内の意識変革と国際的な圧力が重要な役割を果たす。

【註】
1937年のアディスアベバ虐殺事件は、エチオピアの首都アディスアベバで起きた悲劇的な事件である。以下に、その背景、経緯、結果について説明する。

背景

第二次エチオピア戦争

イタリア王国がエチオピア帝国に対して行った侵略戦争。
1935年から1936年にかけて行われた戦争で、イタリアがエチオピアを占領。

イタリアの植民地政策

エチオピアはイタリアの東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)の一部となる。
イタリアの植民地支配に対するエチオピア人の抵抗が続いていた。

皇帝ハイレ・セラシエの亡命

エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは、イタリアの侵略により1936年に亡命。
亡命後もエチオピア国内では反イタリアの抵抗運動が活発化。

事件の経緯

グラツィアーニ総督の暗殺未遂

1937年2月19日、イタリアのエチオピア総督ロドルフォ・グラツィアーニが、アディスアベバで開催された公開行事中に暗殺未遂事件に遭遇。
グラツィアーニは重傷を負ったが、一命を取り留めた。

イタリア軍の報復

暗殺未遂事件を受け、イタリア軍は報復措置としてアディスアベバで大規模な虐殺を開始。
数日間にわたり、エチオピア市民を対象に無差別の殺戮が行われた。

虐殺の規模

正確な犠牲者数は不明だが、推定で少なくとも1,400人から30,000人にのぼるとされる。
市民のみならず、反乱の容疑をかけられた者、知識人、宗教指導者もターゲットとなった。

エチオピア国内の状況

虐殺によりアディスアベバの市民生活は壊滅的な打撃を受けた。
エチオピア人のイタリア支配への反発がさらに強まる結果に。

国際的反応

イタリアの行為は国際的に非難されたが、当時の国際連盟は有効な制裁を行うことができなかった。
イタリアの残虐行為に対する批判が広がる一方で、国際社会の実効的な介入は限定的。

エチオピア抵抗運動の強化

虐殺事件はエチオピアの抵抗運動を一層激化させる契機となった。
反イタリアのゲリラ戦が続き、1941年には連合国の支援を受けてエチオピアがイタリアから解放される。

結論

アディスアベバ虐殺事件は、イタリアの植民地支配とそれに対するエチオピア人の抵抗が激化する中で発生した悲劇的な出来事である。この事件はエチオピアの歴史における重要な転機となり、イタリアの植民地政策の残虐性を象徴するものとなった。また、この事件はエチオピア人の民族的団結と抵抗の象徴として記憶され続けている。

(註はブログ作成者が参考の為に付記した。)

引用・参照・底本

伊のエチオピア植民地支配と忘れてはならない虐殺;賠償支払いの行方は? ParsToday 2024.05.19

https://parstoday.ir/ja/news/world-i124348

アフリカ:西側諸国の「安全保障」を信頼せず2024年05月20日 18:46

国立国会図書館デジタルコレクション「青楼美人合 第1冊」を加工して作成
 アフリカが西側諸国の「安全保障」を信頼できない理由は、歴史的な背景と現代の軍事・政治的介入の結果に深く根ざしている。

 歴史的背景と植民地時代の影響

 ・植民地時代の搾取と分断

 ヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地化は、ベルリン会議(1884〜1885年)(註)で最高潮に達し、アフリカの地理的、文化的、民族的な境界を無視して人工的な国境が設定された。この分断は現在でも多くの紛争の原因となっている。

 新植民地主義と軍事介入

 ・新植民地主義

 独立後も旧宗主国は、経済的および軍事的な影響力を維持しようとし、フランスは特にフランス語圏のアフリカ諸国に対する影響力を強化した。これには軍事協定や経済支援を通じたものが含まれるが、これらはアフリカ諸国の自立を妨げた。

 ・西側諸国の軍事介入

 西側諸国の軍事介入は多くの場合、平和と安定をもたらすのではなく、逆にさらなる不安定を引き起こた。例えば、2011年のリビアに対するNATOの軍事攻撃は、カダフィ大佐の失脚後にリビアを破綻国家にし、テロ組織や民兵組織の台頭を招いた。

 テロと不安定の拡大

 ・対テロ戦争の失敗

 コンゴ、ナイジェリア、リビア、マリ、ソマリア、スーダンなどの国々は、テロの脅威にさらされている。西側諸国はテロと戦うための軍事援助を提供しているが、その多くは効果がなく、逆にテロ組織の影響力を強化する結果となった。

 地域の自主性と安全保障

 ・地域の安全保障への希求

 アフリカ諸国は西側諸国の介入がもたらす依存と不安定に対する反発から、地域レベルでの相互協力を重視するようになっている。これは、外部の干渉に頼らず、自国の安全と持続可能な発展を目指すための取り組みの一環である。

 まとめ

 アフリカが西側諸国の「安全保障」を信頼できない理由は、過去の植民地支配による搾取と分断、独立後の新植民地主義的な関与、そして現代の軍事介入がもたらす不安定の連鎖にある。これらの要因が、アフリカ諸国の独立した安全保障と持続可能な発展を阻んでいるため、地域内での協力と自主性を重視する方向へとシフトしているのである。

【視点】

アフリカが西側諸国の「安全保障」を信頼できない理由をさらに詳しく説明する。これには歴史的背景、現代の軍事介入の影響、そして地域的な自主性の重視といった複数の要素が絡み合っている。

歴史的背景と植民地時代の影響

・植民地支配の歴史

ベルリン会議(1884~1885年): ヨーロッパ列強がアフリカを分割するために行った会議で、アフリカの地理的、文化的、民族的な境界を無視して、人工的な国境が引かれました。このことが、多くの民族や文化を分断し、現在に至るまで民族紛争の原因となっている。

植民地時代の搾取: 植民地時代、ヨーロッパ諸国はアフリカの資源を搾取し、現地の経済や社会を犠牲にして自国の利益を追求した。この遺産は、アフリカ諸国の経済的な発展を阻み続けている。

新植民地主義と軍事介入

・新植民地主義

経済的・軍事的影響の継続: アフリカ諸国が独立した後も、旧宗主国は経済的および軍事的な協定を通じて影響力を維持しようとした。例えば、フランスは多くの旧植民地との間で軍事協定を締結し、これらの国々に軍事基地を設け続けた。これにより、アフリカ諸国は依然として旧宗主国に依存し続ける状況が続いている。

・西側諸国の軍事介入

リビアの例: 2011年のNATOによるリビアへの軍事介入は、ムアンマル・カダフィ大佐の政権を崩壊させたが、その結果リビアは破綻国家となり、様々なテロ組織や民兵組織が台頭した。この混乱は北アフリカ全体に波及し、地域の不安定を増大させた。

テロとの戦いの失敗: 西側諸国はテロと戦うためにアフリカ諸国に軍事援助を提供しているが、多くの場合、その援助は十分な効果を上げていない。例えば、ナイジェリアでのボコ・ハラムに対する戦いでは、アメリカやフランスの支援にもかかわらず、テロの脅威は依然として深刻である。

地域の自主性と安全保障

・地域の安全保障への希求

自立した安全保障の模索: アフリカ諸国は西側諸国の介入がもたらす依存と不安定を避けるために、地域レベルでの協力を強化している。アフリカ連合(AU)や地域経済共同体(ECOWAS、SADCなど)は、アフリカ諸国間での自主的な安全保障と経済協力を促進するために設立された。

地域紛争解決の取り組み: アフリカ諸国は、外部の干渉に頼らずに自国の問題を解決するための取り組みを強化している。例えば、エチオピアとエリトリアの平和協定や、南スーダンの内戦に対する地域の介入などがある。

信頼の欠如の根本原因

・持続的な不信

西側の利益優先: 西側諸国の多くの介入は、アフリカ諸国の利益よりも自国の地政学的利益や経済的利益を優先しているとの見方が広がっている。このことが、アフリカ諸国が西側諸国の意図に対して根深い不信を抱く原因となっている。

失敗した介入の歴史: 過去の介入が期待された成果を上げず、逆に状況を悪化させた例が多く見られることから、西側諸国の安全保障策に対する信頼が揺らいでいる。

結論

アフリカが西側諸国の「安全保障」を信頼できない理由は、植民地支配から新植民地主義に至るまでの長い歴史的背景と、現代の軍事介入がもたらす不安定の連鎖にある。これらの要因が、アフリカ諸国の独立した安全保障と持続可能な発展を阻んでいるため、アフリカ諸国は地域内での協力と自主性を重視する方向へとシフトしている。

・歴史的背景と植民地時代の影響

ベルリン会議(1884~1885年)

ヨーロッパ列強がアフリカを分割し、人為的な国境を設定。
民族や文化を分断し、現在に至るまで紛争の原因となる。
植民地時代の搾取

ヨーロッパ諸国がアフリカの資源を過剰に搾取。
現地の経済や社会が犠牲になり、持続的な発展を阻害。

・新植民地主義と軍事介入

新植民地主義

独立後も旧宗主国は経済的・軍事的影響力を維持。
フランスは旧植民地との軍事協定を通じて影響力を強化。

西側諸国の軍事介入の影響

リビア(2011年)

NATOの介入でカダフィ政権が崩壊後、リビアは破綻国家に。
テロ組織や民兵組織が台頭し、地域の不安定が増大。

テロとの戦いの失敗

アメリカやフランスの支援にもかかわらず、ナイジェリアでのボコ・ハラムなどのテロの脅威が継続。
軍事援助が十分な効果を上げず、テロ組織の影響力が強化。

・地域の自主性と安全保障

地域の安全保障への希求

アフリカ連合(AU):アフリカ諸国間の自主的な安全保障と経済協力を促進。
地域経済共同体(ECOWAS、SADCなど)
地域レベルでの協力を強化し、外部の干渉に依存しない安全保障体制の構築。

地域紛争解決の取り組み

エチオピアとエリトリアの平和協定

自主的な地域内での平和構築の成功例。

南スーダンの内戦介入

地域の国々が主導して平和と安定を模索。

・信頼の欠如の根本原因

西側の利益優先

西側諸国の介入はしばしば自国の地政学的利益や経済的利益を優先。
アフリカ諸国の利益が軽視されることが多い。

失敗した介入の歴史

多くの軍事介入が期待された成果を上げず、状況を悪化させた例が多い。
リビアの事例などがその典型であり、信頼が揺らいでいる。

・結論

アフリカが西側諸国の「安全保障」を信頼できない理由は、以下の通り。

植民地支配と新植民地主義の歴史的背景。
現代の軍事介入がもたらす不安定の連鎖。
西側諸国の利益優先と失敗した介入の歴史。
アフリカ諸国は、自立した安全保障と持続可能な発展を目指して、地域内での協力と自主性を重視する方向へシフトしている。

【註】
ベルリン会議(1884~1885年)

1884年から翌年にかけて開催されたこの会議は、アフリカの分割競争を加速させた重要な国際会議であった。ドイツ帝国宰相ビスマルクの主導で開催され、欧州列強14カ国が参加した。

会議の主な目的は、コンゴ自由国の将来と、アフリカにおける欧州列強の領土拡大を規制するルールを定めることであった。

会議の結果

コンゴ自由国はベルギー王の個人領土として承認された。
アフリカ大陸は、欧州列強の勢力圏に分割された。
ベルリン条約が締結され、アフリカ分割の法的根拠となった。

ベルリン会議の影響

アフリカの植民地化が本格化した。
欧州列強間の緊張が高まり、第一次世界大戦の遠因となった。
アフリカ諸国は、欧州列強の支配下に置かれ、政治、経済、文化において大きな影響を受けた。

ベルリン会議の重要性

ベルリン会議は、アフリカの歴史における転換点となった。この会議によって、アフリカ大陸は欧州列強の支配下に置かれ、その後のアフリカの歴史に大きな影響を与えた。

(註はブログ作成者が参考の為に付記した。)

引用・参照・底本

アフリカが西側諸国の「安全保障」を信頼できない理由とは? ParsToday 2024.05.19

https://parstoday.ir/ja/news/world-i124364

イラン大統領と外相らヘリコプター事故で殉教2024年05月20日 19:41

国立国会図書館デジタルコレクション「青楼美人合 第1冊」を加工して作成
 この事故はイランにとって大きな悲劇である。ライースィー大統領やアミールアブドッラーヒヤーン外相、そして他の方々が国を代表して公務を果たしていた中での出来事であり、その殉教は多くの人々に深い悲しみをもたらす。彼らの公共の奉仕と犠牲に敬意を表す。

【視点】

この事故は、イランのライースィー大統領やアミールアブドッラーヒヤーン外相を含む公式代表団が、国境付近のダムプロジェクトの開始式典および別のダムプロジェクトの最終手続きのために訪れていた際に発生した。彼らは公式の任務を果たすためにヘリコプターに乗り、移動していたのであるが、悪天候に巻き込まれてしまい、ヴァルゼガーン郡で墜落した。

この事故の収拾には、数十の救援部隊が派遣されたが、山中の森林地帯での墜落と濃霧のため、機体の発見が数時間かかった。そして、救援部隊と赤新月社の一団がドローンを使って事故現場を特定し、機体を発見したが、残念ながら乗っていた全員が殉教した。

この事故で亡くなった方々には、イラン大統領のセイエド・エブラーヒーム・ライースィー氏と外務大臣のホセイン・アミールアブドッラーヒーン氏だけでなく、他の重要な人物も含まれている。たとえば、タブリーズ市の金曜礼拝導師を務めていたセイエド・モハンマドアリー・アーレハーシェム師や、東アーザルバーイジャーン州の知事であったマーレク・ラフマティー氏もその中に含まれています。彼らの殉教は、イラン国内外で広く悲しみと哀悼の意を表された。

・事故概要

イランのライースィー大統領とアミールアブドッラーヒヤーン外相を含む公式代表団が、国境付近のダムプロジェクトの開始式典および別のダムプロジェクトの最終手続きのために東アーザルバーイジャーン州を訪問中。
代表団はヘリコプターで移動していたが、悪天候により墜落事故が発生。

・救援活動

数十の救援部隊が派遣され、事故現場を捜索。
山中の森林地帯と濃霧のため、数時間かかって機体を発見。
ドローンを使用して事故現場を特定し、機体を確認。

・犠牲者

イラン大統領セイエド・エブラーヒーム・ライースィー氏と外務大臣ホセイン・アミールアブドッラーヒーン氏を含む全員が殉教。
他にも、タブリーズ市の金曜礼拝導師であるセイエド・モハンマドアリー・アーレハーシェム師や東アーザルバーイジャーン州知事のマーレク・ラフマティー氏も犠牲者となった。

・この事故はイラン国内外で大きな悲しみをもたらし、国の指導者や地域の有力者を失ったことに深い追悼の意が捧げられた。

引用・参照・底本

イラン大統領と外相らがヘリコプター事故で殉教 ParsToday 2024.05.20

https://parstoday.ir/ja/news/iran-i124366

イラン・イスラム革命の継続する影響2024年05月20日 20:28

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 イラン・イスラム革命が西アジア地域における植民地主義の支配を打ち砕く上で果たした役割を強調している。イランの革命は世界的な注目を集め、西側諸国やアナリストらが予測していたような短命のものではなく、むしろ長期にわたって影響を及ぼし続けていることが示唆されている。

 特に、この記事が強調するのは、イランの革命が単なる国内政治的な出来事にとどまらず、イスラム世界全体における抑圧に対する抵抗の象徴となったことである。イランのホメイニー師は、革命の勝利以前からイスラム教徒の団結を呼びかけ、イスラエル政権の危険性を警告していた。

 また、この記事はイスラエルとの対立やパレスチナ問題に焦点を当て、イランの革命がイスラム世界全体における抵抗の象徴となり、パレスチナの支持者に光を与えたことを強調している。イランの革命は、イスラエルに対する抵抗の枢軸を強化し、アラブ諸国における抵抗の成功に寄与したとされている。

 イラン・イスラム革命が単なる国内政治の出来事に留まらず、西アジア地域やイスラム世界全体に与えた影響を論じており、特に植民地主義や抑圧に対する抵抗の象徴としての役割を強調している。

【視点】

イラン・イスラム革命(1979年)は、イラン国内だけでなく、西アジア全体、さらには国際的なレベルで重大な影響を及ぼした。この革命の意義と影響についてさらに詳しく説明する。

背景と革命の経緯

1979年2月、イランでイスラム革命が成功し、パフラヴィー王朝が倒され、アーヤトッラー・ホメイニーが最高指導者となった。この革命は、長年にわたるシャー・モハンマド・レザー・パフラヴィーの独裁と、西側諸国(特にアメリカ合衆国)との緊密な関係に対する反発から生まれた。パフラヴィー政権は、近代化政策や世俗化政策を進めていたが、その過程で多くの国民の宗教的感情や伝統文化を軽視し、政治的抑圧や経済的不平等が広がっていた。

イラン・イスラム革命の意義

・反植民地主義の象徴

革命は、西側の影響を排除し、独自のイスラム的価値観と自立を追求する運動として認識された。特にアメリカの影響を排除しようとする姿勢は、他の西アジア諸国や開発途上国にとって重要なメッセージとなった。

・宗教と政治の結びつき

イラン革命は、宗教が政治的な力となり得ることを示した。ホメイニーはイスラム法(シャリーア)に基づく政府の樹立を目指し、宗教的権威を政治的正当性の基盤とした。このモデルは、他のイスラム圏の反政府運動やイスラム主義グループに影響を与えた。

・パレスチナ問題への影響

イランは革命後、パレスチナの解放を重要な政策目標とし、イスラエルに対する強硬な姿勢を取るようになった。これは、イスラム世界全体におけるパレスチナ問題への関心を喚起し、支援を強化する動きとなった。

西アジアへの影響

・地域の政治バランスの変化

イラン革命は、西アジアの地政学的バランスを大きく変えた。以前は親米的だったイランが反米・反西側の立場に転じたことで、地域の政治・軍事同盟に大きな変化が生じた。

・反政府運動の鼓舞

革命は、他の国々で抑圧に苦しむ人々にとって希望の象徴となった。特にシーア派のコミュニティやイスラム主義グループは、イランの成功を見て自らの運動を活発化させた。

・テロと内戦の影響

革命の影響を受けて、イランはヒズボラなどのシーア派武装組織への支援を強化し、レバノンやイラクなどでの影響力を拡大した。これにより、地域のテロや内戦の複雑化が進んだ。

国際的な反応と影響

・西側諸国の対応

革命直後、西側諸国はイランを孤立させようとする経済制裁や外交的圧力を強めた。アメリカは特にイランとの対立を深め、1980年代のイラン・イラク戦争ではイラクを支援した。

・イスラム主義の拡大

イラン革命は、イスラム主義の台頭を促進した。エジプトのムスリム同胞団やパレスチナのハマスなど、イスラム主義を掲げる運動が力を増し、政治的影響力を強化した。

・国際テロリズムの台頭

革命後、イランが支援する武装組織が増加し、国際テロリズムの脅威が高まった。これは、米国やその同盟国にとって新たな安全保障上の課題となった。

結論

イラン・イスラム革命は、単なる国内の政権交代にとどまらず、西アジア全体の政治的・宗教的風景を大きく変えた。反植民地主義、イスラム主義の拡大、パレスチナ問題への新たなアプローチなど、その影響は多岐にわたる。革命から40年以上が経過した現在でも、その影響は続いており、地域と国際社会における重要な要素となっている。

・イラン・イスラム革命の背景と経緯

1979年2月: イラン・イスラム革命が成功し、パフラヴィー王朝が倒される。
リーダー: アーヤトッラー・ホメイニーが最高指導者に就任。
原因: シャー・モハンマド・レザー・パフラヴィーの独裁、西側諸国(特にアメリカ合衆国)との緊密な関係に対する反発。
政策: シャー政権による近代化政策、世俗化政策、宗教的感情や伝統文化の軽視、政治的抑圧、経済的不平等。

・イラン・イスラム革命の意義

反植民地主義の象徴

西側の影響を排除し、イスラム的価値観と自立を追求。
アメリカの影響排除が他の西アジア諸国や開発途上国に重要なメッセージ。

宗教と政治の結びつき

宗教が政治的な力となることを示す。
シャリーアに基づく政府の樹立、宗教的権威を政治的正当性の基盤とする。

パレスチナ問題への影響

革命後、パレスチナ解放を政策目標とし、イスラエルに対する強硬姿勢。
イスラム世界全体でのパレスチナ問題への関心を喚起、支援を強化。

・西アジアへの影響

地域の政治バランスの変化

イランが反米・反西側の立場に転じたことで地政学的バランスが変化。

反政府運動の鼓舞

抑圧に苦しむ他国の人々に希望の象徴。
シーア派コミュニティやイスラム主義グループが自らの運動を活発化。

テロと内戦の影響

イランがヒズボラなどのシーア派武装組織を支援。
地域のテロや内戦の複雑化。
国際的な反応と影響

西側諸国の対応

西側諸国はイランを孤立させようと経済制裁や外交的圧力を強化。
アメリカはイラン・イラク戦争でイラクを支援。

イスラム主義の拡大

イスラム主義の台頭を促進。
エジプトのムスリム同胞団やパレスチナのハマスなどが政治的影響力を強化。

国際テロリズムの台頭

イランが支援する武装組織の増加。
国際テロリズムの脅威が高まり、米国や同盟国に新たな安全保障上の課題。

・結論

影響の継続: 革命から40年以上経過しても影響は続いており、地域と国際社会における重要な要素。
多岐にわたる影響: 反植民地主義、イスラム主義の拡大、パレスチナ問題への新たなアプローチなど。

・イラン・イスラム革命は、西アジア全体の政治的・宗教的風景を大きく変え、地域と国際社会における重要な要素となっている。

引用・参照・底本

西アジアで植民地主義ゲームを打ち砕いたイラン・イスラム革命 ParsToday 2024.05.20

https://parstoday.ir/ja/news/iran-i124312

中国を含む国際社会からイランへ哀悼の意2024年05月20日 23:06

国立国会図書館デジタルコレクション「青楼美人合 第1冊」を加工して作成
 イランのエブラヒム・ライシ大統領とホセイン・アミール・アブドラヒアン外相がヘリコプター墜落事故で急死したことを受け、中国の習近平国家主席を含む国際社会から哀悼の意が寄せられている。

 習近平国家主席は、イランのモハマド・モクバー暫定大統領に深い哀悼の意を表明し、中国とイランの戦略的パートナーシップの促進におけるライシ師の役割を強調した。

 ライシ師の死は、彼が有力候補だったイランの最高指導者の後継者に一時的な空席を生じさせた。それにもかかわらず、専門家は、イランの強固な政治構造により、イランの政治的安定は損なわれないと考えている。この事故はイランと米国の交渉を遅らせ、短期的な外交的混乱を引き起こす可能性がある。

 イランは5日間の国家喪に服すと宣言し、この事件をきっかけに、さまざまな指導者から世界的な哀悼の意が表明された。現在暫定大統領であるモクバーは、50日以内に行われる新しい大統領選挙の組織を監督する。

【視点】

イランの大統領エブラーヒーム・ライースィーと外務大臣ホセイン・アミール=アブドラヒアンがヘリコプター事故で死亡したことが、国際社会に大きな衝撃を与えている。この突然の出来事に対し、中国の習近平国家主席をはじめ、多くの国の指導者たちが哀悼の意を表した。

中国の反応

習近平主席はイランの第一副大統領モハンマド・モクベールに対して弔意を表し、ライースィーの死去はイラン国民にとって大きな損失であり、中国にとっても良き友人を失ったことになると述べた。習主席は、ライースィーがイランの安全と安定の維持、国の発展と繁栄に重要な貢献をしたと評価した。また、ライースィーが中国とイランの包括的戦略パートナーシップの強化にも積極的に取り組んでいたことを強調した。

イラン国内の影響

ライースィーの死去は、イランの最高指導者の後継者選びに一時的な空白をもたらすとされている。ライースィーは、イランの保守派の中で重要な人物であり、後継者候補として有力視されていた。彼の死により、保守派内での権力闘争や人事異動が起こる可能性がある。しかし、イランの政治システムは強固であり、国家の正常な運営に大きな混乱が生じることはないと専門家は考えている。イランの最高指導者アリー・ハーメネイー師も、国家の運営に支障はないと強調している。

外交への影響

ライースィーとアミール=アブドラヒアンは、イランの外交政策において重要な役割を果たしていた。特にアメリカとの間での交渉や中東地域の紛争への対応において、彼らの不在は一時的な影響を与える可能性がある。しかし、イランの長期的な外交方針、特に中国やロシアとの関係強化に関しては大きな変化はないとされている。

国際的な反応

イランの大統領と外務大臣の死去に対し、多くの国の指導者が哀悼の意を表した。イラクのムハンマド・シーア・アッ=スーダーニー首相やカタール、インド、パキスタン、ロシアの指導者たちも哀悼の意を示した。

イランでは、モクベールが暫定大統領に任命され、50日以内に新しい大統領選挙が行われる予定である。イランの政治体制は強固であり、この困難な時期を乗り越える力があると考えられている。

結論

エブラーヒーム・ライースィー大統領とホセイン・アミール=アブドラヒアン外務大臣の突然の死去は、イラン国内外に大きな衝撃を与えたが、イランの政治体制の強固さと安定性により、国家の運営や外交方針に大きな変動が起こる可能性は低いと見られている。中国との関係も引き続き強化される見通しである。

・事故の概要

日付と場所:2024年5月19日、イランの北西部ジョルファ付近でヘリコプター事故発生。
犠牲者:エブラーヒーム・ライースィー大統領、ホセイン・アミール=アブドラヒアン外務大臣、東アゼルバイジャン州知事、その他の政府関係者とボディガード。

・中国の反応

弔意表明:習近平国家主席がイランの第一副大統領モハンマド・モクベールに弔意を表明。
評価:ライースィーのイランの安定と発展への貢献、中国とイランの包括的戦略パートナーシップの強化を評価。
支援の表明:中国はイランに対する継続的な支援と協力を表明。

・イラン国内の影響

最高指導者の後継問題:ライースィーの死により、最高指導者の後継者選びに一時的な空白が生じる。
保守派の動向:ライースィーは保守派の重要人物であり、彼の死は保守派内での権力闘争や人事異動を引き起こす可能性。
政治体制の安定:イランの政治システムは強固であり、国家運営に大きな混乱は生じないと専門家が指摘。

・外交への影響

アメリカとの交渉:ライースィーとアミール=アブドラヒアンの不在により、アメリカとの交渉が一時的に停滞する可能性。
中東地域の紛争:外交の主要人物の死去は、中東地域の紛争への対応に一時的な影響を与える可能性。
長期的な外交方針:中国やロシアとの関係強化に大きな変化はないと予測される。

・国際的な反応

哀悼の意:イラク、カタール、インド、パキスタン、ロシアなどの指導者が哀悼の意を表明。
モクベールの暫定大統領任命:モクベールが暫定大統領に任命され、新しい大統領選挙が50日以内に行われる予定。

・結論

イランの政治体制:イランの政治体制は強固であり、ライースィーの死による国家運営の混乱は限定的。
中国との関係:中国との包括的戦略パートナーシップは引き続き強化される見通し。
外交方針:イランの長期的な外交方針には大きな変化はないと見られる。

引用・参照・底本

Xi expresses condolences over Iranian President Raisi's death, says ‘China lost a good friend’ GT 2024.05.20

https://www.globaltimes.cn/page/202405/1312656.shtml

イランのライシ大統領がヘリコプター事故で死去、習近平国家主席が弔電 人民網日本語版 2024.05.21