支那・アメリカ・ロシヤ及び日本 (二)2022年06月22日 15:08

浮世絵板画傑作集. 第6集 鳥居清長
 『支那は起ちあがる』室伏高信 游華記

 序 文

 私はアメリカとロシヤと支那とについて考へてゐる。老いぼれの西歐のことは私たちにはもうどうでもよいものである。今日と明日とについて考へるものは、それから日本について考へるものは、この世界のトリオについて考ふべきである。
 私はこうした立場から嘗つて『アメリカ=その經濟と文明』を書き、そして昨年はこの考へをもつで支那に遊んだ。ロシヤのことがやがてつゞくであらう。
 アメリカにロシヤに支那――私はこゝに世界の力が、經濟が、政治が、文明の悉くが、存在もし、またこれによつて決定されても行くことを信じてゐる。この一連の世界の解刮と批判とによつて現實の世界を知り、またその方向を認識して行くことが出來るであらう。――またそれから日本の現實と方向とをも。
 そのゆゑに、私にとつては、『アメリカ』が單なるアメリカの紹介でも憧憬でもないやうに、支那についてのこの私の著述も、支那を紹介することでも讃美することでもない。私はこれによつて現代文明とその方向とを示し、そして日本がどうなり、またどうすべきかを示したいのである。
 世界は果してアメリカ的高度資本主義の勝利を示しゐるか。或はまたマルクス主義的辯證法の勝利を豫言してゐるか。私は理論からして現實を規定しようとする立場とは反對に、現實からしてわれわれの若い、未來のある、そして力強い理論を見出してゆきたいと思ふ。

               大岡山にて、六年三月

                      室 伏 高 信

 (二五六-二九二頁)
 支那・アメリカ・ロシヤ及び日本 (二) 2022.06.22

 1

 アメリカと並び、またアメリカにつゞくであらうものは、支那とロシヤであるといふことに、多くの異論はないであらう。英國は滅亡の途上にあり、獨逸は衰弱し、フランスは未來をもたないとしたら、明日の世界は先づ支那とロシヤであらう。そして、われわれの日本が、この支那とロシヤとの二つに境して立つてゐることを忘れてならないのはもちろんである。支那・ロシヤ・日本――私たちはこの問題に進んで行かう。

 2

 ロシヤについては二つの極端がその眞相を妨げてゐる。資本主義の立楊からするものがロシヤの眞相を意識的に歪曲してゐると同じ程度において、共産主義の立場をとるもがが意識的にその善きものを誇張し、そしてその弱點を隠くしてゐる。
 私はこゝにはロシャについて詳しいことを語らうとは思はない。私はこゝには支那を語り、支那の最も對蹠的なものとしてのアメリカをこれにかゝはつての限りで語り、そしてまたこれにかゝはつての限りにおいて日本について語りたいと思つてゐる。
 私の見るところでは、ソヴエイト・ロシヤの五年計畫なるものゝ成功は――そしてこれは恐らくは或る程度においての成功を見ることがあらうが、この成功の與へる世界的な影響は、ボルシェヴヰズムそのものよりも遥に偉大であらう。
 ロシヤは伸びるに違ひない。世界において最も伸びる國の一つとして私はロシヤを見る。西歐の諸國が昨日であり、アメリカが今日であるのに比べるならば、ロシャはたしかに明日である。
 明日をまつまでもない。ロシヤは既に起ちあがり、「ロシヤの小麥」は世界の市場を狂亂させてゐる。ボルシェヴヰズムの宣傅が殆んど何等の手がかりをさへも見出すことの出來なかつたアメリカにおいて、「ロシヤの小麥」は、シカゴの市場を攪亂し、それによつてまた世界の頭腦を攪亂する。唯物史観はこの點からいつては少しの誤りもない。マルクスの腦細胞から出發してレエニンの唇を通過した理論――灰色の理論においてよりは、何萬ブッシェルの小麥はより多くの力をもつてゐる。赤化宣傳を鼻の先きであざ笑ふことの出來るものも山のやうに積みあげられた小麥を笑つてゐることは出來ないであらう。ボルシェウヰキの理論をを粉碎することは容易であるが、小麥を粉碎することは容易ではないからである。
「ロシヤの小麥」がロシヤのボルシェヴヰズムよりも重大であることには二重の意味がある。農民的ロシヤが世界の市場に進出することはその一つである。農民ロシヤは、農民として世界に進出する機會をもつてゐることにおいて、ロシヤのための機會があり、世界の農民のために機會があり、そしてまたこれによつて今日の世界の最も高度の現實――高度資本主義そのものよりも一層に高度の現實を證據立てゝゐる。けれども私の一層に注意を促したいことは、ロシヤにおいて最初に世界に世界の脅威として送られたものが、「ロシヤの小麥]であつたといふことである。われわれはこゝに五年計畫の可能を見、またこゝにロシヤの未來をも見る。

 3

 五年計畫は何ゆゑにロシヤにおいて可能であるか、少くとも可能でありうるか。――世界恐慌の渦中にあつて。――英國は永久衰退の正體を暴露し、獨逸は底の底までその血を失ひ、フランスは世紀末的な小繁榮以上に出ることは出來ないし、「繁榮のアメリカ」がまた久しくその繁榮を見失つてゐる時に、ロシヤは何ゆゑにそれの上り坂を上つてゐるか。
 マルクス主義の勝利、共産主義の勝利、そしてスタリン勝利といふ聲は、共産主義者によつてだけではなしに、世界の資本主義が、また反動主義が、ポルシェヴヰキを恐怖し、或は壓迫することによつて、彼等自らの信念を暴露してゐるともいふべきである。
 ボルシェヴヰキの情熱を、努力を、もしくはその組織をも、われわれはもとより過少に見積つつてはならないに相違ない。だれ切つた資本主義、爛熟した現代文明、そして死にかゝつた西歐諸國民の間にあつて、ロシヤのボルシェヴヰキたちが兎も角も一つの理想をもち、計畫をもち、組織をもち、そして情熱をさへももつて、廣大な共同的未來のために戰つてゐるととは、そのこと自體世界の脅威でもあり、教訓でもあり、それによつて何等かの花が咲き、實が結ばれるであらうことはもとよりである。そしてまたわれわれは率直にロシヤの努力とその効果とを承認することを躊躇しないものである。またそして、やがて全世界がロシヤの努力と効果とを一層に承認しとければならない時の來ることを信じてゐるものである。
 けれどもこのことは丁抹の農民が信じられなければならないことと何等かの違つた意味をわれわれに示してゐるか。
 私のいはんとしてゐることは次の點である、ロシヤが世界の脅威となりつゝあることは、ボルシェヴヰキの――マルクス主義の理論からではなくして、農民ロシヤ――ロシヤにおける農民的事實に基いてゐるものだといふことである。

 4

 ロシヤは何ゆゑに上り坂を推んでゐるかを再問しよう。世界が下り坂――英國のやうな工業的國家がその優越な機械と、資本と、熟練と、勞働者とを有するにも拘らず、それの永久的下り坂の運命を如何ともすることが出來ない時に何ゆゑにロシヤがそれの上り坂を樂しんでゐるかについて。
 私はアメリカについてアメリカの繁榮の一つの有力な原因がそれ自身のうちに市場をもつてゐることの事實を學げた。英国がその國外において主もなる市場をもつてゐるのに對して、アメリカが自國のうちにそれ自身の市場をもつてゐることの事實を。
 ロシヤの場合について見よう。われわれはアメリカについてと同じことを、ロシヤについていふことは出來ないか。
 今日のロシヤと今日のアメリカとの違つてゐる點はかうだ、アメリカはアメリカのうちに市場をもつてゐるだけであるが、ロシヤはそれ自身のうちに外國――英國工業のための市場を、そして今日ではフォオド的トラクタアのための最大市場の一つをもつてゐることである。
 自國のうちにそれ自身の市場をもつてゐるアメリカは何ゆゑに繁榮するか。この理論は同時にそれ自身のうちに市場をもたない英國が衰亡するの理論である。またこの理論である、ヨオロッパからアメリカへの、世界勢力の推移を決定してゐる説明の決定的なものは。
 このことからしてわれわれは第二の如何なる理論にと發展することが出來るか。
 (一)それ自身に市場をもたないものからもつてゐるものヘ――ヨオロッパからアメリカへ
 (二)それ自身に市場をもつてゐるものからそれ自身のうちに工業先進國の市場をもつてゐるものへ――アメリカからロシヤヘ。
 ロシヤの強味をわれわれはこゝに見る、ロシヤが何ゆゑに復興するかの理諭を、そしてまたロシヤが何ゆゑに上り坂に立つてゐるかの理論を。
 その理論である、また次のことを命令してゐるのは、ロシヤは工業輸出國に向つて進んでゐるのではなくして自給國に向つで進んでゐるのだといふととを。また從つてこの理論からわれわれは次のやうな批刊に達するであらう、工業主義的マルクス主義はロシヤにおいては存在の餘地のないものであるといふことを。

 5

 ロシヤにおいて勝利を占めてゐるのは工業主義的マルクス主義であるのではない。ロシヤが農民國であることの單純なる事實のうちにある。今日までの農民國が、從つてまた世界の他の工業輸出國によつての市場――被搾取場としての農民國が、それ自身の工業をもち、またこれによつて被搾取者から自給自立の國家となりつゝあることの單純なる、そしてまた實に今日の世界經濟の犯しがたい鐡則とその鐡則の實行過程の進行しつゝあるといふことの事實のうちにある。

 6

 ロシヤが何ゆゑに上昇しつゝあるかの理論は同時に支那が何ゆゑに上昇するかの理論である。そして支那がロシヤに比べて人口と資源と地の理とを占めてゐることは、ロシヤにおいてよりも、支那が世界の舞臺において一層に大きな役割を果たすであらうことの證據としてあげることに聊かの不條理もない。私はこの意味からいつてアメリカからロシヤヘといふことの代りに、アメリカからロシヤと支那へ、就中アメリカから支那へといふものである。私はこの點で世界の方向を次のごとくに規定することの當然であることを信ずる。
 英國からアメリカへ
 アメリカから支那へ。

 7 here

 世界の眼が支那に向けられてゐることについては、多くの言葉を費すことの必要はない。支那の將來について絶望的な觀察を示すものであつても、支那において、世界の問題を見てゐることには何の變りもないのである。
 支那の將來がどうなるであらうかの問題吐決して容易に斷言せらるべきことではない。支那がその人口と資源とを、そのなすべきの役割にとつかせるの時が五年後であるか、十年後であるか、或は二十年三十年後のことであるかは、何人も明確には豫言することの出來ないことである。けれどもこれをその可能の問題において答へよう、アメリカに次いでの、世界の中心となるものが、支那を措いて何處に存在するか。
 こゝはまだ軍閥の國である、土豪劣紳の國である。春秋以來崩壊しはじめたといはれる封建制度が今日も尚ほその崩壊をつゞけつゝある國である。
 工業はもちろん幼稚であり、資本はまだ商業資本・高利貸資本の域を脱しない。資本の蓄積はいふに足らず、その國民の生活標準は驚くべきほどの低度においてある。支那の勢力はまだまだ伏在的であり、その活動はまだまだ準備のうちにある。けれどもこの伏在的な力、この準備の偉大さについて、何人がよくこれを疑ふことが出來るか。 `
 こゝには世界陸地の十五分の一があり、世界人口の四分の一がある。地廣人稠といはれるこの世界の偉大なる伏在的の力を見よう。こゝまには多くの鐡の埋藏されてゐることを、石炭を、石油を。アンチモニイを、夕ングステンを、水銀を、金を、亜鉛を、マンガンを――支那にはあらゆる鑛物と、工業原料と、生絲と、茶と、農業生産物の尨大なる一列と、そしてまたそれ以上に、農業生産を何倍かにするあらゆる可能によつて惠まれてゐることについて。
 支那の問題はたゞ支那が何時その目をさますかといふことであつた。支那は今日もまだ軍閥の害から免かれることは出來ないではゐるが、われわれの注意に上ることは、支那の方向が已に決定され、如何なる軍閥も、如何なる反動思想も、最早これを動かすことが出來ないといふことである。世界戰爭から以後において、支那は最早や昔の支那ではない。支那資本主義の發達については私はこゝに一々その數字を擧げない。けれども支那において將來に向つての準備が出來つゝあることは着々として證明されてゐる。支那における外国貿易の内容が變化しつゝあることに見ても、また支那において外國の帝國主義が行き詰まりつゝあることの事實に見ても、新しい支那が如何にそれ自身を自覺しまたそれ白身を進めつゝあるかを知ることは容易である。今日の支那は最早や第二のバルカンでもなければ世界の植民地でも、もしくは外國資本主義のための單なる消費場でもない。支那は既に世界の舞臺において一つの地位をもつたといつてよいのである。

 8

 私はこゝに先づ支那の方向についてこれを簡單な形式であらはそう。
 打倒土豪劣紳!
 打倒軍閥!
 打倒買辨!
 打倒帝國主義!
 そして關税自主ヘ!
 打倒外國工業主義的搾取ヘ!
 そして工業的自給經濟ヘ!
 このうちの前五者については支那には一人の異論もない。支那は一人のごとぐにしてこの點において起ちあがつた。共産主義も、三民主義も、――スタリン派も、卜ロッキイ派も、蔣介石も、改組派も、西山會議派も、もしくは南方の浙江財閥も、北方支部に生れつゝある村治派の諸君も、この點では一人の異論もないことである。
 工業自給の點においては、マルクス主義の立場には一つの理論がある。マルクス主義は世界の工業化を前提とする。世界がブルジョア對プロレタリアの二大階級に分裂するであらうといふことを前提することなくしては、マルクス主義はその一切の根據を失ふであらう。この鮎からしてマルクスの一切の理論は生れ、またこの上に築かれてゐる。ロシヤのボルシェヴヰキがロシヤの工業自給ではなくして「工業化」を目標としてゐるのは、この點からして正に當然なことではある。彼等はマルクスの兒であり、十九世紀の世界の現實とまたその思想とを代表する。實に英国が工業的に限りなき上り坂を上りつゝあり、人口の大半が都會に向つて集中しつゝあり、世界の富が英國に集中されつゝあり、また人口の増加が富の増大を代表しつゝあり、資本家も勞働者もともに繁榮しつゝあり、そして西歐の諸國がこの大英帝國の型に倣つて、世界がブルジョアとプロレタリアの二大階級に分裂しようとしてゐたところの、あのマルクスの時代の――十九世紀の現實と思想とを。
 けれどもマルクスの生れた時からしては百十三年、共産黨宜言の時からして八十三年、責本論第一卷が發表された時からしても正に六十四年――この間に世界が如何に狂風的に變化したかを想像しよう、實に中世紀においての五世紀にも、十世紀にも、或はそれ以上にも當るほどの偉大な變化の起つたことについて。     。
 上り坂は下り坂となり、勞働需要は失案者となり、都會萬能の聲はバック・ツウ・ランドの聲となり、資本家と勞勘考との繁榮は双方の行詰りに達し、凡ての盛んなりしものが凡ての衰頽するものとなりつゝある、今日の世界の動かしがたい傾向について見よう。マルクス主義が望むも望ざるも、世界の方向は既に央定されてゐる。
 曰く工業主義の行き詰り、曰く工業自自給經濟への發展、曰く一切のオウトノミイ的世界へ。

 9

 支那について世界が直接にその復讐をうけなければならないものは支那の工業自給である。世界の人口の四分の一に近いものをもつてゐる支那――そして實に世界工業國にとつての最大最良の市場であつた支那が、それ自身の工業を、また經濟をもつことは――そしてまた一億以上の人口をもつてゐるロシヤがこれと並び、三億の人口をもつでゐる印度がスワデシとまたブラウン・スワラヂのために戰つてゐることは、世界をその經濟の根本において革命することを意味する。獨りオロッパからアメリカへ、またアメリカから支那へといふごとき、國家勢力の降頽を意味してゐるだけではない。世界經濟の組織と原理とがその根本においで變革されることを意味する、そしてまたこれとともに世界のイデオロギイが根本的に變革されることを。
 われわれをして先づこの世界の巨大なる變化に眼を開かしめよ。そしてまたこの變化が何ゆゑに起りつゝあるかについての理諭にわれわれの新しい眼を開かしめよ。――それからとの新しい眼をもつて新興支那の方向と意義と力とを見せしめよ。

 10

 支那はヨオロッパのやうに世界を搾取することもないであらうし、またアメリカのやうに世界を征服することもないであらう。支那の理想は自主的の國家となることでしかない。經濟的にいふなら一つの自給的經濟に到達することでしかない。孫文の理想はこれである。國民黨の理想はこれである。そして全支那の理想とするところがこれであるといつてもよい。
 私は新しい世界の秩序をとゝに見るものである。獨り支郵だけでさうであらうのみではなしに。來るべき世界は、今日までの工業主義的經濟・工業國萬能の經濟・國際的搾取の經濟に對しては一切の終りを與へるであらう、そして凡ての國が新しい意味に於ての、食料自袷的、また工業自給的を單位とするに至るであらう。アメリカから支那への世界經濟のまた世界文明の推移において、私はかくのごとき世界原理の變化が來りつゝあると考へてゐるものである。

 11

 日本はどうなるか、この世界の局面において日本はどうなるか――支那をわれわれに市場とすることによつて立つて來た日本はどうなるか。
 私はこゝにはこの問題に解決を與へることが目的ではない。けれども日本を離れては日本人には如何なる問題もないといふのが私の考へである。支那の問題といふも日本の問題である。日本の問題を離れては支那問題なるものはない。われわれは今日はこの意味にがいて支那問題をわれわれの前にもつてゐる。日本はどうなるのか。

 12

 われわれが支那問題を重大視したければならないことは今も昔も同じではある。明治中期の日本人が、そしてまたその時代の遺物としての今日の政治が支那問題を重大視しなければならないやうに、われわれもまた支那問題において世界の一つの重心を、また日本問題の一つの重心を見る。けれどもその意味が如何に變化しつゝあるかに注意を向けよう。
 嘗つては日本の自立のため、日本の民族的獨立の理想のためであつたこともある。民族的獨立からして帝國主義ヘ――日本は民族的獨立から帝國主義への一大轉向において支那――この廣大な自然に惠まれた支那にと眼を向け、一歩々々それによって立たたけれぱならたいとするの、國家的方向をとつた。日本の帝國主義は支那を顧みることたくてもとより無意味であつたのである。
 經濟的事情が一層にこのことを要求した。日本の帝國主義は必然的にそれの工業主義そ伴つて來た。ヨオロッパがしたやうに日本もまた工業的國家の列にと進み、工業主義において國家の根本策を建てた。
「それ自身においての市場」をもたない日本の眼が海外へ向けられるのは必然である。そしてその眼が隣邦の廣大な自然と人口とに向けられるのは必然のうちの必然である。日本の工業はその隣邦においてこの廣大な自然と人口とを惠まれたととによつて發展し、それは急速に一大工業國の列にと進んだ。
 こゝには何の祕密もない。日本の異常なる進歩の跡には何の祕密もない。これを日本人の天才に歸せしめることを望むものは望むもよい。けれどもわれわれの隣りに地廣人稠の支那――昔ながらに殆んど自然經濟の狀態におかれて來た支那の地廣人稠がなかつたと假定しよう。日本の「天才」はどこにこれを用ゐ、どこにその効果を發揮したか。
 支那の廣大な市場を考へることなくして日本の工業主義を考へることの出來るたゞ一人の人間もあるか?そしてまた日本の工業主義を考へることなくして日本の今日の帝國的發展を考へることの出來るたゞの一人でもあるか?
 一切のナンセンスに終りを與へよう。そしてわれわれは如何なる無用な證明をも用ゐることなくして次のやうに論斷しよう。日本は支那の市場において今日の大と發展とをもちえたものであると。
 支那へ!
 支那ヘ!
 支那ヘ!
 われわれの眼は向けられ、われわれの日本は支那において根をもつた。工業的な日本は支那においてのみその根をもちえたのである。
 われわれは再び
 支那ヘ!
 支那へ!
 支那ヘ!
といふだらう。これがかわれわれの日本をその根において理解する所以でもある。われわれは支那を見ることなくしてわれわれの日本の如何なる大をも發展をも、その大と發展との如何なる理論をも見出すことは出來ないからである。
 けれども今日は時代の一變したことについて、――世界の事情が一變したことについて、また支那自身が昔の支那ではなくして――満洲マンダリンや、土豪劣紳や、買辨や、舊軍閥やの支那ではなくして、新しい魂と力とをもつて起ちあがらうとしつゝある支那であることについて、それから世界の帝國主義が行き詰り、世界經濟が總じて恐慌のうちにあり、また日本の資本主義が十年間に亙つて漸次的哀弱を重ねながら、そして遂にその最後の最も艱難な時代に到著しつゝあることについて、そしてまたこの艱難が避けがたき支那の支那的意識から生れ來りつゝあることの事實について――この世界の、支那の、また日本の現實から出發しよう。
 日本はどうなる?

引用・参照・底本

『支那は起ちあがる』室伏高信著 昭和六年六月一四日 新潮社

(国立国会図書館デジタルコレクション)