モロトフ・リッベントロップ協定2024年02月20日 18:06

国立国会図書館デジタルコレクション「当世七小町 見たて雨乞 (当世七小町)」を加工して作成
* モロトフ・リッベントロップ協定(Molotov-Ribbentrop Pact)は、1939年に締結された、ナチス・ドイツとソビエト連邦の間の非攻撃条約です。この協定は、ヨーロッパにおける政治的な権力の再編に重要な影響を与えました。

この協定では、ドイツとソビエト連邦はお互いを攻撃しないこと、および戦争の場合に中立を守ることが規定されました。また、両国は東欧諸国における勢力範囲を定め、ポーランドに対する分割協定も含まれていました。具体的には、ドイツは西部のポーランド地域を、ソビエト連邦は東部のポーランド地域を併合することが取り決められました。

この協定は、第二次世界大戦の勃発につながりました。1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、その結果、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告しました。その後、ソビエト連邦もポーランドに侵攻し、ポーランドは二つの大国によって分割されました。

モロトフ・リッベントロップ協定は、後にナチス・ドイツとソビエト連邦の間の提携が破綻し、独ソ戦が勃発する過程において重要な役割を果たしました。

モロトフは、ヨシフ・スターリン政権下で活躍したソビエト連邦の政治家で、外交官です。フルネームはヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov)で、1890年から1986年にかけて生きました。

彼は1917年のロシア革命後、共産主義者として政治活動を始め、スターリンの側近として重要な地位に就きました。彼は外交政策において特に重要な役割を果たし、モロトフは1939年のモロトフ・リッベントロップ協定(Nazi-Soviet Non-Aggression Pact)の交渉において、ナチス・ドイツとの関係の構築に深く関与しました。

その後、第二次世界大戦中にはソビエト連邦の外相として活躍し、戦後には国内の政治的な粛清や権力闘争においても重要な役割を果たしました。彼の名前はモロトフ・カクテル(Molotov cocktail)に由来しています。これは彼の名前を冠した命名ではなく、むしろフィンランド軍に対するソ連軍の攻撃に対抗するためにフィンランドが使った火炎瓶が、彼の名前を皮肉って呼ばれたものです。
リッベントロップは、ナチス・ドイツの政治家、外交官であり、第二次世界大戦中にドイツの外務大臣として活動しました。彼のフルネームはヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)で、1893年から1946年にかけて生きました。

リッベントロップは、ナチス党の前衛的なメンバーとして知られ、アドルフ・ヒトラーの信頼を得て、外交政策の要職につきました。彼はヨーロッパ各国との外交交渉を担当し、ナチス・ドイツの拡大主義政策を推進しました。

特に、彼は1939年のモロトフ・リッベントロップ協定の交渉において重要な役割を果たしました。この協定は、ナチス・ドイツとソビエト連邦との間の非攻撃条約であり、後にポーランド侵攻の際の両国の利害調整をもたらしました。

第二次世界大戦中には、リッベントロップはドイツの外交政策を指導し、枢軸国同盟や占領地域の管理など、ドイツの外交活動に深く関与しました。戦後、彼はニュルンベルク裁判でナチス戦犯として裁かれ、死刑判決を受けて絞首刑に処されました。

* 「アーリア人」という用語は、19世紀のヨーロッパの学者たちによって提唱され、その後ナチス・ドイツなどで悪用された概念である。その意味合いは時代や文脈によって異なるが、一般的には次のように説明される。

言語的な意味合い: 最初にこの用語が登場したのは、印欧語族の一部であるインド・ヨーロッパ語派の起源を指すためであった。19世紀の言語学者は、インド・ヨーロッパ語派を話す民族の共通の起源を「アーリア人」と呼んだ。

人種的な意味合い: ナチス・ドイツの用語として、アーリア人は「純粋な」北欧・ゲルマン系の人種を指した。ナチスのイデオロギーでは、アーリア人は優れた種族であり、他の人種よりも高貴であるとされた。

政治的な悪用: ナチス・ドイツでは、アーリア人の優越性を主張し、その他の人種や民族に対する迫害や虐待を正当化するために用いられた。このイデオロギーに基づいて、ホロコーストなどの人道に対する大量虐殺が行われた。

一般的に言えば、現代の学術的および一般的な文脈では、「アーリア人」という用語はナチス・ドイツのイデオロギーに基づく人種主義的な概念として扱われ、そのような概念に基づく人種差別や虐待を正当化するためには使われない。

* コムソモール(Komsomol)は、ソビエト連邦における共産主義青年団の略称である。正式名称は全連邦共産主義青年同盟(Всесоюзный ленинский коммунистический союз молодёжи)であり、ロシア語で「レーニン共産主義青年同盟」という意味である。

コムソモールは、1918年に設立され、ソビエト連邦共産党に直接関連する青年組織として機能した。その目的は、青年たちを共産主義の理念に熱心に育成し、共産主義革命の実現に参加させることであった。活動内容は多岐にわたり、青年の政治的教育、社会奉仕活動、スポーツ、文化活動などが含まれていた。

コムソモールはソビエト社会において重要な役割を果たし、多くのソビエト市民が青年期に加入した。一部の若者は志願ではなく義務として参加し、その後ソ連共産党に入党することが期待された。コムソモールのメンバーシップは、政治的信念やキャリアにおいて有利な地位を得るための一つの手段でもあった。

コムソモールは、ソビエト連邦の崩壊とともに解散したが、その影響と遺産は、現代のロシアおよび他のポストソビエト諸国の若者世代にも残っている。

* 現在のロシアの正式名称は「ロシア連邦」(Russian Federation)である。これは、1991年のソビエト連邦の崩壊後に成立した新しい国家の名前である。ロシア連邦は、かつてのソビエト連邦の構成共和国の一つであり、ヨーロッパとアジアにまたがる広大な国土を持つ国家である。

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