日米通商條約の一方的癈棄 ― 2023年08月05日 22:11
『アメリカの對日謀略史』宮慶治著
(43-45頁)
一六 日米通商條約の一方的癈棄
けれどもこれはまだ序幕のうちで、米國が對日強硬態度を眞に示したのは昭和十四年七月廿六日の日米通商條約の癈棄(註1)である。同日午後三時半、米國々務次官補セイヤーはわが須磨參事官の來訪を求め、ハル國務長官から堀内大使宛の通告を手交した。それによると「米國は他國との間に存在する通商條約を、よりよくその目的を達成ずるにはどんな變更と加へたらよいか檢討してゐたが、日米通商條約には新たな考慮と加へなければならないといふこと發見した。この考慮と、新事態の發生について米國の權益を擁護し、かつ助長するために本條約の期限終結を希望する」といふのであつた。どんな新専態が發生しやうとも、このやうな一方的な、豫告なしの條約癈棄といふことは、國際慣例を無視した外交史上例のない暴擧なのである。米國がこの通告を行つた背景として考へられる三つの要素がその當時存在してゐた。一つはノモンハン事件(註2)で、一つは珠江の封鎖通告(註3)が行はれ、一は天津租界隔絶問題の日英東京圓卓會談(註4)で英國が日本に折れた形で一般的原則を認めたことである。この三つの要素にどのやうな思惑が加へられたかしれないが、英國の腰くだけ的な態度に活を入れ、一層蔣介石政権に精神的に強力な援助を與へ、同時に支那に於ける白人權益をあくまで護り通してみせるといふ我武者羅な目標で持つてゐたことは疑ひを入れないところである。かくして米國は八十七年前ペレリ提督の砲門で奪ひとつた日米通商條約を、八十七年後には、再び砲門にもたとへられるやうな一方的な態度で癈棄し去つたのである。今や米國は支那事變干涉者として英國に代つて抗日陣營の指揮をとる位置に立つたので ある。
翌昭和十五年四月十七日には米國政府はまた重要な聲明を發した。これは蘭印の現狀維持についてのものであるが「蘭印の内政に干涉を加えることは、蘭印ばかりでなく全太平洋地域に亙る安定、平和ならびに安全に有害な影響を及すであらう」と其後の A•B•C•D包圍陣(註5)の前觸れを行ひ、將來日本の東亞新秩序が蘭印に及ぶことを豫め牽制し、日本の南進企圖を阻害するための先手を打つたのである。次いでビルマ•ルートを英國が一時閉鎖し、六月佛印に援蔣物資禁絶のための檢査員が派遣されるや、ビルマ•ルート閉鎖に反到し、意氣消沈の蔣政權に元氣を與へるために、日本に對する工作機械の輸出制限、七月には航空僕、同附婿品、機械類、石油、鉛、層鐵の輸出に許可制を布き同時に蔣に再び二千五百萬ドルの追加クレヂットの設定を許し、その對日敵性はますます露骨となつて來た。十四億九千萬ドルにのぼる大海軍擴張案が議會を通過したのもこの頃であつて、日本に備ふる準備に米國は國を擧げて狂奔してゐたのであつた。
(註1)
日米通商条約の廃棄は、1939年7月26日にアメリカ合衆国が日本に対して通告した条約の廃棄である。この条約は、日本とアメリカの間の貿易を規制していた。アメリカは、日本が中国を侵略していることに反対し、この条約の廃棄を通告した。この条約の廃棄は、日米関係の悪化につながり、第二次世界大戦の勃発の一因となった。
日米通商条約の廃棄は、日本にとって大きな打撃となった。日本は、アメリカからの輸入に大きく依存していたため、この条約の廃棄により、多くの輸入品が値上がりした。また、アメリカが日本への輸出を制限したため、日本経済は大きな打撃を受けた。
日米通商条約の廃棄は、日米関係の悪化につながった。アメリカは、日本が中国を侵略していることに反対し、この条約の廃棄を通告した。日本は、この条約の廃棄をアメリカの経済制裁と見なした。このため、日米両国は対立を深め、第二次世界大戦の勃発の一因となった。
日米通商条約は、1858年(安政5年)に日本とアメリカ合衆国との間に締結された条約である。この条約は、日本がアメリカ合衆国と初めて結んだ不平等条約であり、日本にとって大きな打撃となった。
日米通商条約の主な内容は、以下の通り。
・日本は、アメリカ合衆国との間に通商条約を締結する。
・日本は、アメリカ合衆国の船舶に日本港を開港する。
・日本は、アメリカ合衆国に対して関税を低くする。
・日本は、アメリカ合衆国に対して治外法権を認める。
日米通商条約は、日本にとって大きな打撃となった。なぜなら、この条約により、日本はアメリカ合衆国の経済的影響力にさらされることになったからである。また、治外法権の認めにより、アメリカ合衆国人は日本で犯罪を犯しても日本の法律が適用されず、日本の裁判所の管轄外となった。
日米通商条約は、日本にとって不平等条約でしたが、日本にとってもメリットがあった。なぜなら、この条約により、日本はアメリカ合衆国との貿易が拡大し、経済発展につながったからである。また、治外法権の認めにより、外国人が日本での活動が自由になり、日本への投資が促進されました。
日米通商条約は、日本にとって大きな影響を与えた条約だった。この条約により、日本は経済発展を遂げたが、同時に不平等条約の弊害にも見舞われた。
1911年の日米通商条約は、1858年に結ばれた日米修好通商条約を改定したものであり、日本が条約国に対し関税を課す権利を回復したことから「関税自主権回復条約」とも呼ばれている。この条約は、日本が西洋諸国と対等な関係を築く上で大きな一歩となった。
この条約は、当時の日本外相小村寿太郎が主導して交渉し、1911年2月21日にアメリカ合衆国ワシントンD.C.で調印された。この条約は、1911年4月4日に発効し、日本は同年7月17日にすべての条約国と同時に発効した。
この条約は、日本にとって大きな意義があった。なぜなら、この条約により、日本は条約国に対し関税を課す権利を回復したことで、財政収入が増加し、経済発展が促進されたからである。また、この条約により、日本は条約国と対等な関係を築くことができ、国際社会での発言力を高めることができた。
この条約は、日本にとって大きな成果をもたらした条約であった。この条約により、日本は経済発展を遂げ、国際社会での発言力を高めることができた。
(註2)
ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の国境付近で発生した日本軍とソ連軍の戦闘である。日本軍は、モンゴル人民共和国への侵攻を計画していたが、ソ連軍の反撃を受けて敗北した。この事件は、日ソ両国にとって大きな戦略的打撃となり、第二次世界大戦の勃発につながった。
ノモンハン事件は、満州国とモンゴル人民共和国の国境線が明確に定められていなかったことが原因で発生した。日本軍は、モンゴル人民共和国への侵攻を計画していたが、ソ連軍はこれを阻止するためにモンゴル人民共和国を支援した。両軍は、1939年5月から9月にかけて、激しい戦闘を繰り広げた。最終的に、ソ連軍は勝利し、日本軍は敗北した。
ノモンハン事件は、日ソ両国にとって大きな戦略的打撃となった。日本軍は、モンゴル人民共和国への侵攻に失敗したことで、満州国の安全保障が脅かされた。ソ連軍は、ノモンハン事件で日本軍を撃退したことで、東アジアにおける軍事的優位を確立した。この事件は、第二次世界大戦の勃発につながった。
この事件は、日本軍とソ連軍の間で短期間に起こった小規模な戦闘が、地域的な紛争から国際的な緊張を引き起こす事態に発展した例として注目されています。
ノモンハン事件の主な背景は次の通り。
・領土問題: ノモンハン地域は中ソ国境地帯で、両国間に領土的な争いが存在した。ソ連とモンゴルは、ノモンハン地域を自国の領土と主張しており、日本もその一部を占拠していた。
・資源と利益: ノモンハン地域は資源が乏しい地域でしたが、地政学的な重要性があった。また、満州事変や日中戦争など、日本とソ連の関係に緊張が高まっていた時期でもあった。
1939年5月、日本軍とソ連軍の間で小規模な衝突が勃発し、それが大規模な戦闘へと拡大した。両軍は激しい戦闘を繰り広げ、特にソ連軍は戦車戦術を駆使して優位に立ちった。戦闘は数か月にわたり続き、多くの兵士が死傷した。
この事件は国際的な注目を集め、日本とソ連の関係が一層緊張した結果、8月には停戦が合意された。この停戦協定は、日ソ中立条約として知られるもので、両国間の軍事衝突を終結させた。しかし、この事件は両国間の緊張を増大させ、第二次世界大戦の勃発に向けた流れを加速させる要因となった。
ノモンハン事件は、国際政治と歴史における重要な出来事であり、日本とソ連の関係、地域的な紛争、軍事戦術の側面など、多くの要因が絡み合っていたた。
(註3)
珠江の封鎖通告は、1939年に、中華民国広東省の軍事当局が出した通告である。この通告は、日本軍が広東省を侵攻した場合、珠江を封鎖し、日本軍の補給路を断つと発表した。この通告は、日本軍を牽制し、広東省の防衛を固める目的で出された。
珠江は、広東省の東部を流れる川で、広東省の経済と軍事にとって重要な水路でる。日本軍が広東省を侵攻した場合、珠江を封鎖されると、日本軍の補給路が断たれ、戦線の維持が困難になる。この通告は、日本軍にとって大きな脅威となり、広東省への侵攻を思いとどまらせた。
珠江の封鎖通告は、広東省の防衛を固め、日本軍を牽制する効果があった。しかし、この通告は、広東省の経済にも大きな影響を与えた。珠江は、広東省の主要な輸送路であり、珠江の封鎖により、広東省の経済活動は大きく停滞した。この通告は、広東省の経済に大きな打撃を与えた。
珠江の封鎖通告は、日本軍を牽制し、広東省への侵攻を思いとどまらせましたが、広東省の経済にも大きな打撃を与えた。
(註4)
1930年代の天津租界隔絶問題の日英東京円卓会談は、1937年7月1日に開催された。この会談は、日本とイギリスが天津租界における隔絶問題を解決するために開催した会談である。この会談は、日本側から外務大臣松岡洋右、イギリス側から駐日大使バーナード・バトラー卿が出席した。
天津租界は、1860年の天津条約によって日本とイギリスに割譲された租界である。この租界は、中国本土から隔離された形で存在しており、日本とイギリスの居住者以外は入居できなかった。この隔離政策は、中国政府や中国人の反発を招き、日英両国の関係にも悪影響を及ぼしていた。
日英東京円卓会談では、日本側は隔離政策を撤廃し、中国国民にも天津租界に入居を認めるよう主張した。イギリス側は、隔離政策の撤廃には中国政府の同意が必要であり、中国政府の同意を得るまでは隔離政策を維持する必要があるとして、日本側の主張を受け入れなかった。
日英東京円卓会談は、日英両国の対立が深まったまま終了したが、この会談をきっかけに、日英両国は天津租界における隔離問題の解決に向けて協議を継続することになった。そして、1939年に日英共同宣言が発表され、天津租界における隔離政策は撤廃された。
日英東京円卓会談は、日英両国の対立が深まったものの、天津租界における隔離問題の解決に向けて協議を継続したことは、日英両国関係の改善につながった。また、この会談は、中国国民の権利を守るという意味でも意義のあるものであった。
ただし、この会談は、日英両国が天津租界における隔離問題を解決するための会談ではあるが、1937年7月7日に勃発した日中戦争の影響で、会談は中止された。
1939年の日英共同宣言は、イギリスと日本によって締結された国際的な合意でる。この宣言は、日英両国の関係を改善し、アジア太平洋地域の平和と安定を促進することを目的としていた。具体的な背景や内容については次の通り。
背景:
1930年代、日本は中国での拡大主義的な行動を進め、満州事変(1931年)を経て中国北部の満州地域を占領し、「満州国」を建国した。これに続いて、日中戦争(1937年-1945年)が勃発し、日本の中国に対する侵略行動が拡大していった。このような状況の中で、日本とイギリスは外交的な関係を改善し、アジア太平洋地域における安定を図ることを模索していた。
内容:
1939年1月、日英両国はロンドンで共同宣言を締結した。この宣言の内容は以下のような要点が含まれていた:
非侵略の原則: 日本とイギリスは相互に、他国に対する武力行使を行わないこと、または他国の領土や主権を侵害しないことを確認した。この宣言は非侵略の原則を強調し、両国の平和的な関係を構築する努力を表明した。
協力と協議: 両国は国際的な問題について協力し、協議を行うことで合意した。また、アジア太平洋地域の平和と安定を維持するために努力することも確認された。
影響と評価:
この宣言は、日本とイギリスの外交関係を改善する一環として締結されたが、実際には日中戦争の進行や国際的な緊張の高まりにより、宣言の影響は限定的であった。宣言が締結された翌年の1940年には、日本は日独伊三国同盟(枢軸国)に加盟し、第二次世界大戦への参戦へと進んでいった。
この宣言は、国際政治の複雑な背景と戦争の進行という時代背景を反映しており、日本とイギリスの外交努力の一環として理解されることが多い。
(註5)
ABCD包囲網とは、1941年7月にアメリカ、イギリス、中国、オランダが日本に対して石油輸出を禁止したことをきっかけに、これらの国々が日本を経済的に包囲した政策である。この包囲網は、日本の対米開戦に大きな影響を与えた。
ABCD包囲網の背景には、日本の大陸進出に対するアメリカの懸念があった。日本は1931年に満州事変を起こし、1937年には日中戦争を開始した。これらの戦争は、日本が中国大陸に侵攻し、その資源を獲得することを目的としていた。アメリカは、日本の大陸進出が自国の利益を損なうと考え、日本に圧力をかけていた。
1941年7月、アメリカは、日本が東南アジアに侵攻した場合、石油輸出を禁止することを発表した。この発表は、日本にとって大きな打撃となった。日本は、石油を輸入に頼っており、石油輸出が禁止されると、軍事活動が継続できなくなる恐れがあった。
日本は、アメリカの圧力に屈せず、東南アジアへの侵攻を決定した。1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃を実施し、アメリカと開戦した。ABCD包囲網は、日本の対米開戦に大きな影響を与えたと言える。
※本文(注)は文字起こし者のものである。
引用・参照・底本
『アメリカの對日謀略史』宮慶治著 昭和十七年一月二十八日發行 大東亞社
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(43-45頁)
一六 日米通商條約の一方的癈棄
けれどもこれはまだ序幕のうちで、米國が對日強硬態度を眞に示したのは昭和十四年七月廿六日の日米通商條約の癈棄(註1)である。同日午後三時半、米國々務次官補セイヤーはわが須磨參事官の來訪を求め、ハル國務長官から堀内大使宛の通告を手交した。それによると「米國は他國との間に存在する通商條約を、よりよくその目的を達成ずるにはどんな變更と加へたらよいか檢討してゐたが、日米通商條約には新たな考慮と加へなければならないといふこと發見した。この考慮と、新事態の發生について米國の權益を擁護し、かつ助長するために本條約の期限終結を希望する」といふのであつた。どんな新専態が發生しやうとも、このやうな一方的な、豫告なしの條約癈棄といふことは、國際慣例を無視した外交史上例のない暴擧なのである。米國がこの通告を行つた背景として考へられる三つの要素がその當時存在してゐた。一つはノモンハン事件(註2)で、一つは珠江の封鎖通告(註3)が行はれ、一は天津租界隔絶問題の日英東京圓卓會談(註4)で英國が日本に折れた形で一般的原則を認めたことである。この三つの要素にどのやうな思惑が加へられたかしれないが、英國の腰くだけ的な態度に活を入れ、一層蔣介石政権に精神的に強力な援助を與へ、同時に支那に於ける白人權益をあくまで護り通してみせるといふ我武者羅な目標で持つてゐたことは疑ひを入れないところである。かくして米國は八十七年前ペレリ提督の砲門で奪ひとつた日米通商條約を、八十七年後には、再び砲門にもたとへられるやうな一方的な態度で癈棄し去つたのである。今や米國は支那事變干涉者として英國に代つて抗日陣營の指揮をとる位置に立つたので ある。
翌昭和十五年四月十七日には米國政府はまた重要な聲明を發した。これは蘭印の現狀維持についてのものであるが「蘭印の内政に干涉を加えることは、蘭印ばかりでなく全太平洋地域に亙る安定、平和ならびに安全に有害な影響を及すであらう」と其後の A•B•C•D包圍陣(註5)の前觸れを行ひ、將來日本の東亞新秩序が蘭印に及ぶことを豫め牽制し、日本の南進企圖を阻害するための先手を打つたのである。次いでビルマ•ルートを英國が一時閉鎖し、六月佛印に援蔣物資禁絶のための檢査員が派遣されるや、ビルマ•ルート閉鎖に反到し、意氣消沈の蔣政權に元氣を與へるために、日本に對する工作機械の輸出制限、七月には航空僕、同附婿品、機械類、石油、鉛、層鐵の輸出に許可制を布き同時に蔣に再び二千五百萬ドルの追加クレヂットの設定を許し、その對日敵性はますます露骨となつて來た。十四億九千萬ドルにのぼる大海軍擴張案が議會を通過したのもこの頃であつて、日本に備ふる準備に米國は國を擧げて狂奔してゐたのであつた。
(註1)
日米通商条約の廃棄は、1939年7月26日にアメリカ合衆国が日本に対して通告した条約の廃棄である。この条約は、日本とアメリカの間の貿易を規制していた。アメリカは、日本が中国を侵略していることに反対し、この条約の廃棄を通告した。この条約の廃棄は、日米関係の悪化につながり、第二次世界大戦の勃発の一因となった。
日米通商条約の廃棄は、日本にとって大きな打撃となった。日本は、アメリカからの輸入に大きく依存していたため、この条約の廃棄により、多くの輸入品が値上がりした。また、アメリカが日本への輸出を制限したため、日本経済は大きな打撃を受けた。
日米通商条約の廃棄は、日米関係の悪化につながった。アメリカは、日本が中国を侵略していることに反対し、この条約の廃棄を通告した。日本は、この条約の廃棄をアメリカの経済制裁と見なした。このため、日米両国は対立を深め、第二次世界大戦の勃発の一因となった。
日米通商条約は、1858年(安政5年)に日本とアメリカ合衆国との間に締結された条約である。この条約は、日本がアメリカ合衆国と初めて結んだ不平等条約であり、日本にとって大きな打撃となった。
日米通商条約の主な内容は、以下の通り。
・日本は、アメリカ合衆国との間に通商条約を締結する。
・日本は、アメリカ合衆国の船舶に日本港を開港する。
・日本は、アメリカ合衆国に対して関税を低くする。
・日本は、アメリカ合衆国に対して治外法権を認める。
日米通商条約は、日本にとって大きな打撃となった。なぜなら、この条約により、日本はアメリカ合衆国の経済的影響力にさらされることになったからである。また、治外法権の認めにより、アメリカ合衆国人は日本で犯罪を犯しても日本の法律が適用されず、日本の裁判所の管轄外となった。
日米通商条約は、日本にとって不平等条約でしたが、日本にとってもメリットがあった。なぜなら、この条約により、日本はアメリカ合衆国との貿易が拡大し、経済発展につながったからである。また、治外法権の認めにより、外国人が日本での活動が自由になり、日本への投資が促進されました。
日米通商条約は、日本にとって大きな影響を与えた条約だった。この条約により、日本は経済発展を遂げたが、同時に不平等条約の弊害にも見舞われた。
1911年の日米通商条約は、1858年に結ばれた日米修好通商条約を改定したものであり、日本が条約国に対し関税を課す権利を回復したことから「関税自主権回復条約」とも呼ばれている。この条約は、日本が西洋諸国と対等な関係を築く上で大きな一歩となった。
この条約は、当時の日本外相小村寿太郎が主導して交渉し、1911年2月21日にアメリカ合衆国ワシントンD.C.で調印された。この条約は、1911年4月4日に発効し、日本は同年7月17日にすべての条約国と同時に発効した。
この条約は、日本にとって大きな意義があった。なぜなら、この条約により、日本は条約国に対し関税を課す権利を回復したことで、財政収入が増加し、経済発展が促進されたからである。また、この条約により、日本は条約国と対等な関係を築くことができ、国際社会での発言力を高めることができた。
この条約は、日本にとって大きな成果をもたらした条約であった。この条約により、日本は経済発展を遂げ、国際社会での発言力を高めることができた。
(註2)
ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の国境付近で発生した日本軍とソ連軍の戦闘である。日本軍は、モンゴル人民共和国への侵攻を計画していたが、ソ連軍の反撃を受けて敗北した。この事件は、日ソ両国にとって大きな戦略的打撃となり、第二次世界大戦の勃発につながった。
ノモンハン事件は、満州国とモンゴル人民共和国の国境線が明確に定められていなかったことが原因で発生した。日本軍は、モンゴル人民共和国への侵攻を計画していたが、ソ連軍はこれを阻止するためにモンゴル人民共和国を支援した。両軍は、1939年5月から9月にかけて、激しい戦闘を繰り広げた。最終的に、ソ連軍は勝利し、日本軍は敗北した。
ノモンハン事件は、日ソ両国にとって大きな戦略的打撃となった。日本軍は、モンゴル人民共和国への侵攻に失敗したことで、満州国の安全保障が脅かされた。ソ連軍は、ノモンハン事件で日本軍を撃退したことで、東アジアにおける軍事的優位を確立した。この事件は、第二次世界大戦の勃発につながった。
この事件は、日本軍とソ連軍の間で短期間に起こった小規模な戦闘が、地域的な紛争から国際的な緊張を引き起こす事態に発展した例として注目されています。
ノモンハン事件の主な背景は次の通り。
・領土問題: ノモンハン地域は中ソ国境地帯で、両国間に領土的な争いが存在した。ソ連とモンゴルは、ノモンハン地域を自国の領土と主張しており、日本もその一部を占拠していた。
・資源と利益: ノモンハン地域は資源が乏しい地域でしたが、地政学的な重要性があった。また、満州事変や日中戦争など、日本とソ連の関係に緊張が高まっていた時期でもあった。
1939年5月、日本軍とソ連軍の間で小規模な衝突が勃発し、それが大規模な戦闘へと拡大した。両軍は激しい戦闘を繰り広げ、特にソ連軍は戦車戦術を駆使して優位に立ちった。戦闘は数か月にわたり続き、多くの兵士が死傷した。
この事件は国際的な注目を集め、日本とソ連の関係が一層緊張した結果、8月には停戦が合意された。この停戦協定は、日ソ中立条約として知られるもので、両国間の軍事衝突を終結させた。しかし、この事件は両国間の緊張を増大させ、第二次世界大戦の勃発に向けた流れを加速させる要因となった。
ノモンハン事件は、国際政治と歴史における重要な出来事であり、日本とソ連の関係、地域的な紛争、軍事戦術の側面など、多くの要因が絡み合っていたた。
(註3)
珠江の封鎖通告は、1939年に、中華民国広東省の軍事当局が出した通告である。この通告は、日本軍が広東省を侵攻した場合、珠江を封鎖し、日本軍の補給路を断つと発表した。この通告は、日本軍を牽制し、広東省の防衛を固める目的で出された。
珠江は、広東省の東部を流れる川で、広東省の経済と軍事にとって重要な水路でる。日本軍が広東省を侵攻した場合、珠江を封鎖されると、日本軍の補給路が断たれ、戦線の維持が困難になる。この通告は、日本軍にとって大きな脅威となり、広東省への侵攻を思いとどまらせた。
珠江の封鎖通告は、広東省の防衛を固め、日本軍を牽制する効果があった。しかし、この通告は、広東省の経済にも大きな影響を与えた。珠江は、広東省の主要な輸送路であり、珠江の封鎖により、広東省の経済活動は大きく停滞した。この通告は、広東省の経済に大きな打撃を与えた。
珠江の封鎖通告は、日本軍を牽制し、広東省への侵攻を思いとどまらせましたが、広東省の経済にも大きな打撃を与えた。
(註4)
1930年代の天津租界隔絶問題の日英東京円卓会談は、1937年7月1日に開催された。この会談は、日本とイギリスが天津租界における隔絶問題を解決するために開催した会談である。この会談は、日本側から外務大臣松岡洋右、イギリス側から駐日大使バーナード・バトラー卿が出席した。
天津租界は、1860年の天津条約によって日本とイギリスに割譲された租界である。この租界は、中国本土から隔離された形で存在しており、日本とイギリスの居住者以外は入居できなかった。この隔離政策は、中国政府や中国人の反発を招き、日英両国の関係にも悪影響を及ぼしていた。
日英東京円卓会談では、日本側は隔離政策を撤廃し、中国国民にも天津租界に入居を認めるよう主張した。イギリス側は、隔離政策の撤廃には中国政府の同意が必要であり、中国政府の同意を得るまでは隔離政策を維持する必要があるとして、日本側の主張を受け入れなかった。
日英東京円卓会談は、日英両国の対立が深まったまま終了したが、この会談をきっかけに、日英両国は天津租界における隔離問題の解決に向けて協議を継続することになった。そして、1939年に日英共同宣言が発表され、天津租界における隔離政策は撤廃された。
日英東京円卓会談は、日英両国の対立が深まったものの、天津租界における隔離問題の解決に向けて協議を継続したことは、日英両国関係の改善につながった。また、この会談は、中国国民の権利を守るという意味でも意義のあるものであった。
ただし、この会談は、日英両国が天津租界における隔離問題を解決するための会談ではあるが、1937年7月7日に勃発した日中戦争の影響で、会談は中止された。
1939年の日英共同宣言は、イギリスと日本によって締結された国際的な合意でる。この宣言は、日英両国の関係を改善し、アジア太平洋地域の平和と安定を促進することを目的としていた。具体的な背景や内容については次の通り。
背景:
1930年代、日本は中国での拡大主義的な行動を進め、満州事変(1931年)を経て中国北部の満州地域を占領し、「満州国」を建国した。これに続いて、日中戦争(1937年-1945年)が勃発し、日本の中国に対する侵略行動が拡大していった。このような状況の中で、日本とイギリスは外交的な関係を改善し、アジア太平洋地域における安定を図ることを模索していた。
内容:
1939年1月、日英両国はロンドンで共同宣言を締結した。この宣言の内容は以下のような要点が含まれていた:
非侵略の原則: 日本とイギリスは相互に、他国に対する武力行使を行わないこと、または他国の領土や主権を侵害しないことを確認した。この宣言は非侵略の原則を強調し、両国の平和的な関係を構築する努力を表明した。
協力と協議: 両国は国際的な問題について協力し、協議を行うことで合意した。また、アジア太平洋地域の平和と安定を維持するために努力することも確認された。
影響と評価:
この宣言は、日本とイギリスの外交関係を改善する一環として締結されたが、実際には日中戦争の進行や国際的な緊張の高まりにより、宣言の影響は限定的であった。宣言が締結された翌年の1940年には、日本は日独伊三国同盟(枢軸国)に加盟し、第二次世界大戦への参戦へと進んでいった。
この宣言は、国際政治の複雑な背景と戦争の進行という時代背景を反映しており、日本とイギリスの外交努力の一環として理解されることが多い。
(註5)
ABCD包囲網とは、1941年7月にアメリカ、イギリス、中国、オランダが日本に対して石油輸出を禁止したことをきっかけに、これらの国々が日本を経済的に包囲した政策である。この包囲網は、日本の対米開戦に大きな影響を与えた。
ABCD包囲網の背景には、日本の大陸進出に対するアメリカの懸念があった。日本は1931年に満州事変を起こし、1937年には日中戦争を開始した。これらの戦争は、日本が中国大陸に侵攻し、その資源を獲得することを目的としていた。アメリカは、日本の大陸進出が自国の利益を損なうと考え、日本に圧力をかけていた。
1941年7月、アメリカは、日本が東南アジアに侵攻した場合、石油輸出を禁止することを発表した。この発表は、日本にとって大きな打撃となった。日本は、石油を輸入に頼っており、石油輸出が禁止されると、軍事活動が継続できなくなる恐れがあった。
日本は、アメリカの圧力に屈せず、東南アジアへの侵攻を決定した。1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃を実施し、アメリカと開戦した。ABCD包囲網は、日本の対米開戦に大きな影響を与えたと言える。
※本文(注)は文字起こし者のものである。
引用・参照・底本
『アメリカの對日謀略史』宮慶治著 昭和十七年一月二十八日發行 大東亞社
(国立国会図書館デジタルコレクション)