一九 A・B・C・D 陣營確立す2024年03月20日 07:23

国立国会図書館デジタルコレクション「東海道五十三対 宮乃駅 (東海道五十三対)」を加工して作成
『アメリカの對日謀略史』宮慶治著

 (49-51頁)
 一九  A・B・C・D 陣營確立す       

 また一方松岡外相は訪獨旅行の歸途、モスクワでスターリン、モロトフと會談して、四月十三日日ソ中立條約を締結した。この日本の拔打的の行動は、日本が北方への後顧の憂を除いて、南進政策を強行するものと考へてか、英、米、蘭印の軍部代表はマニラで極東防衡會議を開き、これより先、重慶には米國空軍准將クラゲットが赴いて連絡してあったので、こゝに A・B・C・D聯合は成立したのである。
 このやうな對日包圍陣の主唱者である米國と、日本との關係が、いつまで假裝平和の雰圍氣の下に續けられて行くであらうか。果してその破綻は遂に昭和十六年九月廿二日の日佛印軍事協定の成立に伴ひ、わが軍がサイゴン附近に進駐した 時にあらはれた。この報が傳はると、米國は在米日本資産の凍結令を發付したのである。これより先きルースベルトは日本の南進政策を嚇かす目的で大膽にも
『われわれはこの戰爭をある一定の區域に擴がらせないやうに努力してゐる。日これからの區域の一つは太平洋だ。南太平洋にはわれわれが是非必要なものがある。ゴム、錫はその品物であり、蘭印、海峡植民地、佛印はその産地だ。そこで南太不洋に戰火の及ばないやうにわれわれの外交政策は行はれてゐる。そこで腎本といふ國が問題になつてくる。日本が南に向つて版圖を擴げる意思を持つてゐるかどうかといふことは別問題とし、日本はともかく石油を持つてない。だからもしわれわれが日本に石油の供給を絶つたとしたならば、日本はおそらく一年前に蘭印に進出してゐたらう。そうなれば戰爭だから、われわれが日本へ石油を供給してゐるといふのは、南太平洋を戰爭から遠ざけておく手なのである』
 と語つたが、その。佛印に日本軍が入つたのであつたから彼らの憤怒がどれほど甚しかつたは想像に餘りがある。對日資産凍結は全面的の對日石油輸出禁止を物語るものである。石油を禁輸すればどうなるか。ル―ズベル卜はその點を明白に言明してゐではないか。英國、蘭印、さては濠洲、印度等英属領、自治領等ABD系の各國は續々とこれに追随し、日本對ABDの關係は、當に斷崖に達したのであるけれども日本は飽くまで平和を求めでもたのである。この嵐の關頭に立ちながらなほこの窮局を打開し、太平洋の平和を維持しやうと努力を拂ふのに否まなかつたのである。

【参考】

・第二次世界大戦時のABCD陣営は、アメリカ合衆国(A)、イギリス(B)、中国(C)、およびオーストラリア(D)の4つの国を指す。

この用語は、主に太平洋戦線における同盟関係を表す際に使用された。アメリカとイギリスは、連合国側であると同時に、中国とオーストラリアもまた同盟に参加し、共通の目標である枢軸国に対抗した。

中国はアジア太平洋地域における重要な戦略的位置を占めており、アメリカとイギリスは中国との協力を重視した。オーストラリアはその地理的位置から太平洋戦線においても重要な役割を果たした。

このABCD陣営は、太平洋戦線における連合国の一翼を担い、枢軸国、特に日本との戦いにおいて重要な役割を果たした。

・日佛印軍事協定は、第二次世界大戦中の日本とフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)との間で結ばれた軍事協定です。1940年9月30日に締結された。

この協定は、日本がフランス領インドシナにおける軍事行動に協力することと引き換えに、フランス領インドシナの石油や他の資源の利用を認めるものであった。日本は、フランスの敗北を受けて同地域への影響力を拡大し、東南アジアにおける軍事的地位を強化することを意図していた。

この協定は、日本の東南アジア侵略の一環として位置づけられる。協定締結後の1941年には、日本はフランス領インドシナに軍隊を派遣し、同地域を事実上占領した。この行動は、アメリカやイギリスなどの連合国との緊張を高め、太平洋戦争勃発の一因となった。

日佛印軍事協定は、日本がアジアにおける勢力を拡大し、資源を確保するために結んだ戦略的な協定であり、第二次世界大戦の影響を受けた地域の歴史において重要な出来事の一つである。

・松岡外相は、日中戦争が勃発していた時期に外相として在任した。その間、彼は日中間の緊張を緩和しようと努力したが、その一方で日本の勢力拡大政策を支持した。彼は日本の軍事行動を正当化するための外交努力を行ったが、これは日中関係や日米関係の悪化に拍車をかけることになった。

特に、松岡は1940年に米国への特使として訪れ、フランクリン・ルーズベルト大統領と会談を行った。この会談は、日米関係の緊張を高めることとなった。その後、日本が太平洋戦争への道を歩む中で、彼の外交政策は国際的な孤立を招くこととなった。

松岡外相は、戦後に国際的な戦争犯罪として裁かれることはなかったが、彼の役割は日本の戦時中の外交政策において論争の的となっている。

・松岡洋右外相と日ソ中立条約の関係は重要である。日ソ中立条約は、日本とソビエト連邦(当時)との間に結ばれた中立条約であり、1939年4月13日に締結された。この条約は、松岡洋右が外相を務めていた時期に成立した。

この条約の背景には、日ソ関係の緊張がある。日本は、ソ連に対して北方領土問題を抱えており、ソ連との関係は緊張していた。そこで、日本は欧州の戦争におけるソ連の動向を注視し、自国の安全を確保するために中立条約の締結を模索した。

松岡外相は、この中立条約の交渉と締結に深く関与した。彼は、ソ連との交渉を通じて条約の締結を実現し、日本の国際的な立場を強化することに努めた。条約の締結により、日本は欧州戦線での状況を注視する余裕を得ると同時に、ソ連との直接の軍事衝突を避けることができた。

しかし、この中立条約は後に破棄され、日ソ関係は再び緊張の度を増し、第二次世界大戦末期にはソ連が対日参戦を果たすこととなった。その後の戦後、北方領土問題や戦争におけるソ連の役割によって、日ソ関係は長期間にわたって困難なものとなった。

(【参考】はブログ作成者が付記した。)

引用・参照・底本

『アメリカの對日謀略史』宮慶治著 昭和十七年一月二十八日發行 大東亞社

(国立国会図書館デジタルコレクション)

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