臨終の魯迅先生2024年03月20日 07:54

国立国会図書館デジタルコレクション「東海道五十三対 四日市 (東海道五十三対)」を加工して作成
 『上海漫語』内山 完造 著

 (151-157頁)
 臨終の魯迅先生

 十月十八目午前六時頃。許夫人が來られた。悲しくも今は絶筆となつた先生からの寸信であつた。
  
  老版
  意外なことで夜中から又喘息がハジまつたダカラ十時頃の約束がモウ出來ないから甚だ濟みません。御頼み申ます。電話で須藤先生を頼んで下さい。早速して下さる樣にと
                          艸々頓首 拜
   十月十八日
 十時には面會の約束があつたのである。手紙を見ながら許夫人の話を聞いて居つた私は、一種言ひ難い胸騒ぎを覺えた。    ‘
 いつもはキチンとかかれる手紙が、今朝は筆が亂れて居る。私は早速須藤醫師へ電話して、スグ來て下さるやうにお頼みして置いて、そのまゝ驅けつけた。先生は机の前の椅子に腰かけて、右の手に烟草を持つて居られたが、顏の色は非常に惡かつた。呼吸が苦るしさうであつた、それでも私はスグ須藤醫師が來られる旨を告げて、前の籐椅子(それは是迄よく先生が腰かけて居られた寢椅子である)に腰を下ろした。
 先生の呼吸が如何にも苦るしさうに見えるので.私は靜かに背部をサスつた。許夫人も同じくサスつで居られたが、少しも落ちつかれない。私の家では喘息の妙藥として、鶏の卵の油を造つてあるので以前にも一度お上りになりませんかと云ふたことがあつたが、先生はマアよしませうと云うて、飲まれなかつたのであるが.今朝は事によつたら飲まれるかも知れないと思つて、家内が、駄目です先生は決して飲まれませんよ、と云ふにも拘らず、私はカプセルにはひつたのを六個持つて行つたのであつた。須藤醫師の來られる迄の手當として、私は先生に卵の油をお上りになりませんかと云ふたところ.先生は、ウン飲むと云はれたので、私は早速カプセルの蓋を除いて先生の口へ持つて行つたら、先生は飛びつくやうにして、三個迄飲んで下さつた。私は嬉しかつた。心の中で、どうか効果を顯はして呉れるやうに、と祈つて居つた。
 そして、少しおやすみになつては如何ですか、と云うたが、先生は横に寢ると苦るしいと云うて、矢張り椅子に腰かけて、時々身體をゆすりながら。上半身を眞直になるやうにされた。私は見て居つて、餘程苦しいのだなと思つた。烟草をお止めになつたらと云ふと、たうとう吸ひのこりを捨てられた。許夫人と二人で青中をさすつて居つたら.須藤醫師が來られた。須藤醫師は部屋の入口から、先生をすかして見るやうな姿勢をして這入つて來られた。どうしたんな、とお國丸出しの言藁で言はれた時の醫師の顏には、心配の色がありありと讀まれた。私は、一人心の中で祈らざるを得なかつた。
 先生は苦るしい呼吸の中から、トギレトギレの言葉で、今朝四時から又喘息が出たこと、早ぐ注射して呉れと云はれた。其時には、醫師は已に注射の準備が出來て居つたので、スぐ右の腕に一本注射された。
 先生の呼吸は矢張り苦るしさうであつた。一分二分經つた頃先生は、『どうしたんだらう、一向效がない。』
と云はれた。醫師はモウ、一、二分せないとネ、と云ひながら、それでも次ぎの注射の準備をして居られた。そして、一本で效かねばモウ一本せう、と云はれた。五分經つたが先生の呼吸に變化がない。依然として、フツフツ苦るしさうな呼吸をして居られるので、醫師は第二囘の注射を又右の腕にされた。一二分經つた頃先生は、少し效いで來たやうだ、と言はれた。呼吸もチョツト樂になつたやうに見えた。私と許夫人とは期せすして、ホツと一ト息して、殆ど同時に背中をきすつたところ先生は、止めて呉れ、と云はれたので、二人共さすることを止めた。先生の苦悶が少しやはらいだのであつた。須藤醫師と話が始まつた。丁度八時五分前であつた。私は八時に一寸店に約束があつたので、須藤醫師にお頼みして置いて店へ歸つて來た。何んの知らせもない、モウ大丈夫と、實は安心して居つたので、來客と話をして居ると、其處へ須藤醫師が來られて、どうも喘息がまだ冶らないばかりでなく、心臓性喘息になつたやうだ、一つ松井博士にも診察して頂きたい、との事であつたので、スダ福沢病院へ松井博士をも迎へに自動車を出したが、折惡しく博士は日曜日で卿不在との事で、お出掛け先きそ聞いて、須藤醫師自らお迎へに行つて下さつた。石井醫學士が偶然にも來て下さつたので、魯迅先生の今曉來發病の樣子をお話したところ、早速お見舞せうと云うて行つて下さつた。
 暫らくして、須藤石井兩醫師が来て下さつて、病氣は重態であるから今日は充分気をつけて呉れとの事であつた。イヤ危險であるやうにも言はれたのであるが、私は許夫人には.危險とは言ひ得なかつた。看護婦を呼んで、醫師からの手當で『二時間毎に注射すること』と呼吸の苦るしい時には酸素吸入をすることを命じられた。私はスグに酸素發生器の準俑をして持つて行き、一方、酸素管の準備を藥店に依頼して置いて、取敢ず酸素發生器によつて吸入して頂いた。先生は、其時はベットに寢て居られたが、酸素の吸入は幾分呼吸を楽にするらしく見えた。先生は.『僕の病氣はどうなつてるのだらう.』
と云はれた。私は靜かにお寢みになるのが一番です、醫師もさう申しました.出來るだけ靜かにして寢させて呉れとの事ですから、どうぞ、色々の事を考へないで寢て下さい、と云うて居るところへ、酸素管を持つて來たので、更らに酸素管からの吸入を準備した。酸素管からの吸入の方が工合がよかつたと見えて、先生はウツラウツラと寢られるやうであつた.それより前に、私は萬一を考へて、許夫人に、重患であるから注意の必要であることを話して、令弟建人先生を呼ぶことにして電話をしたところ、スグに驅けつけて來られた。そして、須藤醫師も、マアマア大丈夫でせう、と云はれたとかで、又明朝來るからと云うて歸宅せられたとの事でありたが、私はどうも心配でならんので、店員を一人先生の家へ泊まらせることにして置いた。
 そして、一先づ、私も歸つて來たが、どうしても心配でならんので、更らに石井醫學士に來て貰うて診察して頂いたところ、重態であるから矢張り令弟にも來て頂く方がよいだらうとの事で、私は再度建人先生を來て頂くべく電話をかけさせた.暫らくして、建人先生は來られたので、醫師の話をして、注意して頂く事にした。そして私と下の應接で話して居ると、許夫人が私を心配して、歸つて寢るやうにと勸めて下さる。然かし何んと無く心配なのではあるが、それを云ふ勇氣もなく、それとなく建人先生と話しながら、徹夜するつもりで居つたところ、夫人が、先生も靜かにして居られるから、どうぞ歸つて呉れ、建人先生も二階で寢て貰ふからと非常に氣がねして言はれるので、夫人に氣がねさせるのも心苦しいことと思うて.遂に夜十二時半に私は歸宅した。
 それが先生との永久の別離にならうとは、神ならぬ身の知ろよしもなかつたのである。歸つたところ、未だ寢もやらず待つて居つた家内に、先生の模樣を話してどうぞ急變のないやうに、と祈りつゝに寢に就いたが、私の神經は非常に興奮して、どうしても睡れない。右に左に轉々苦悶しつゝ只々どうぞ事なく明朝になるやうにと祈つて居つた。午前五時の時計の音を聞いてから警らくした頃、老版々々と呼ぶ肇が聞えた。私はギクリツとした。飛び起きて窓を開けた。スグ來て下さい。そして醫師をスグ呼んで下さい、と云ふので、使ひの者にそのまゝ石井醫師を呼びに行くやうに命じて、私はスグ店から、須藤醫師ヘスグ往診して下さいと頼んで置いて、宙を飛んで驅けつけた。午前五時三十一分であつた。しかし、萬事は終つてゐた。
 先生の額は未だ温かい。手も温かい。然かし、呼吸は絶えて居る。脈も打たない。私は手を片手に握つて、額に片手をあてゝ居つた。温か味はダンダンに消えて行く。許夫人は机にもたれて泣いで居られる。私は慰める言葉が出ない、共に泣くのみであつた。石井醫師が來られた。浚有怯子である。練いて狽砥g師も床られたが。沒有法子であつた。如向に文明を誇る醫術も、未た一指の觸れる可からざるものがある、それは生命である。
 私はスグに、鹿地夫妻や、其他の人々にも通知した。

 嗚呼悲しい哉魯迅先生遂に逝く。時は一九三六年十月十九日午前五時二十五分、『僕の病氣はどうなつてるのだらう』との一語は、私の耳からは消えることがないであらう。 

引用・参照・底本

『上海漫語』内山 完造 著 昭和十六年一月十二日十二版 改造社

(国立国会図書館デジタルコレクション)

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