倫と落 ― 2023年04月04日 21:56
『鄥其山漫文 生ける支那の姿』内山完造 著
(一〇四- 一一〇頁)
倫と落
〇場所 〇〇紗廠
〇時 工人交替時
〇人物
A 日本人監督
B 印度人門衛
C 支那人男工
男工のCが交替時間に歸る時に、棉を少し失敬して歸りかけるのを發見せられて、Bと云ふ印度人門衛に説諭されて居る。
B Cお前は此棉を何處から持つて來たか、物を倫むことはならんと云つてあるのになぜ倫むか。
C いえ私は決して倫みません。
B 馬鹿云へ、現に此處に棉を倫んで來て居るじやないか。
C いえ倫みません、私は盜人ではありません。
B それなら此棉はどうしたのか。
C 此棉は彼の工場から持つて來ました。
B それ見ろ、會社の棉を倫んでるではないか。貴様樣なかなか強情じやな。
C いえ盜んだのではありません。私は盜人じやないから盜みません。
B 馬鹿ッ、貴樣何んと云ふ強情な奴だ。現に工場から棉を盜んで來て、其の棉を此處に引き出され、自分も工場から持つて來たと云ひながら、倫まん、私は盜人じやないなんて、づうづうしくよくそんな事を言ふなあ。馬鹿野郞。
C 私に盜人だと、何時倫みました。私は倫みなんてしたことはない。さあ私が何時何を盜んだか言うて呉れ。
B 此のしぶとい強情者奴が。
門衛はとうとう激怒しきつて、ポカンポカンと遂に腕力に訴えてしまつた。同時に事が少々面倒になつて來た。
C 打つたな、あさあ打て、もつと打て、何の罰で私を打つのか、さあ打つて呉れ、殺ろして呉れ。
Cは大聲と泣聲とを一緖に振り立てゝ突進して來る、其勢は猛烈である。今まで遠卷きに事件の解決を待つて居つた工人連中が、此時から動搖して來た。何だかがやがやと騷ぎ出した、B君の目にも形勢頗るおだやかならざる狀況が感じられて來た。共處へ通知によつて飛んで來たのがA監督であつた。
A 何をそこで騷いで居るのか、八ケ間敷い。
一同ちよつと沈黙狀態となる。
B 此Cが又棉を盜んで歸る處を發見しましたので、説諭いたしましたところが、現に盜んだ棉を引ぱり出して、自分も工場から盜んで來たことを承認しながらいや盜まない、私は盜人じやないと云ふて強情を張るのです。
C Bは私を盜人だと罵つたばかりでなく、私は盜人じやないから、盜まないと云ふとBはいや盜んだ、盜人じやと云つて、私を打つのです。さあ打つて呉れ、もつと打つて呉れ、私を打ちさへすれば盜人が解るだらう。
多くの工人連中の動揺の色を自分へ味方をして呉れたと思つて、かさにかゝつて泣聲勇ましく喰つてかゝつて來た。
B 私が惡ふ御座りました。もう是からは盜みませんと、あやまりさへすれば、 將來をいましめて許してやるのですが、餘り強情を張るものですから、こらしめの爲めに一つやりましたが、今度はさあ打て、殺ろせと逆捻です。
A B君、此の工人は棉工場の工人だね 。
B そうです、操棉工です。
A Cお前はあの棉工場の工人だね 。
C はい、そうです。
A Cお前が持つて居つた棉は落綿だらう。
C そうです、落棉です。
A その落棉は、支那の紗廠では不要棉であるのだが、日本紗廠ではしてはならんことである。落棉も日本人工場では倫棉である。お前は支那流に落棉だと云ふ、 B君は日本流に倫棉だと云ふ。つまりCは日本工場の規則を知らなんだと云ふことでありB君は支那人の習慣を知らなんだからた。今日は特に許すが、今後若しも落棉すると、其時はすぐ警察へ引渡すからよく覺へて置くんだぞ、さあ歸れ歸れ。
A君が支那人に解る樣に裁いてやられたので、全體の工人連がそうだ、そうだ、 A先生はよく解つてる、Cは日本工場の規則を知らないのだ。Bは支那の習慣を知らないのだ。
沒法子だ、さあさあ歸らうと、まだ文句を云つて居るCを連れて歸つて行つた。
Bにはどう云ふ理由か一寸合點が行かない。
B A先生、一體落棉と倫棉とはどんなに違うのですか。
A よしよし一つ説明して上げやう。支那の習償では、棉を扱つて居る工人が棉を、糸を扱ふて居る工人が糸を、布を扱つて居る工人が布を、少しづつ失敬して歸ることを落と云ふのだ。
詰まり、自分の扱つて居る仕事の材料とか、製品とかを少し失敬することを落と云ふので、丁度日本の機業地たとへば京都あたりでは生糸を賃繰りに出すと、賃繰屋が佛三匁と云つて、佛樣の樣な人でも、三匁は失敬する、それは公然の秘密とされて居つて少しもとがめない。
それと同じことである。お役所とか會社とかに勤めて居る人が、公用の用箋封筒などを私用に使ふ位いの程度に考へて居るのである。であるから、支那では、落棉でも、落糸でも、落布でもとがめないのである。そうでなくて、自分の扱つて居らん他の仕事の材料とか製品を失敬すると、それが倫となるのである。倫は卽ち盜人である。阿媽や阿仁がお使ひに行つて少し下駄を穿くのなどは落銅銭である。上海で一般に拭油と呼ばれて居るのがそれである。
B な一る程、いやよく解りました。
A B君序でだから云ふが、叱るのはどんなに叱つてもよいが、打つてはならん。支那では打つたとなると、どんな理由も理由にはならん習慣であるから、どうか、今後は向ふから打たれる迄は、断じて打つてはならん、處が向ふからはめつたに打たない、なぜなら、打つたら敗けと云ふ事を知つて居るからね。どうか氣をつけて呉れ給へ。
B いやよく解りました、充分注意いたします。
習慣を知ると云ふことは實に大切である。
引用・参照・底本
『鄥其山漫文 生ける支那の姿』内山完造 著 昭和十一年六月五日第三版 學藝書院
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(一〇四- 一一〇頁)
倫と落
〇場所 〇〇紗廠
〇時 工人交替時
〇人物
A 日本人監督
B 印度人門衛
C 支那人男工
男工のCが交替時間に歸る時に、棉を少し失敬して歸りかけるのを發見せられて、Bと云ふ印度人門衛に説諭されて居る。
B Cお前は此棉を何處から持つて來たか、物を倫むことはならんと云つてあるのになぜ倫むか。
C いえ私は決して倫みません。
B 馬鹿云へ、現に此處に棉を倫んで來て居るじやないか。
C いえ倫みません、私は盜人ではありません。
B それなら此棉はどうしたのか。
C 此棉は彼の工場から持つて來ました。
B それ見ろ、會社の棉を倫んでるではないか。貴様樣なかなか強情じやな。
C いえ盜んだのではありません。私は盜人じやないから盜みません。
B 馬鹿ッ、貴樣何んと云ふ強情な奴だ。現に工場から棉を盜んで來て、其の棉を此處に引き出され、自分も工場から持つて來たと云ひながら、倫まん、私は盜人じやないなんて、づうづうしくよくそんな事を言ふなあ。馬鹿野郞。
C 私に盜人だと、何時倫みました。私は倫みなんてしたことはない。さあ私が何時何を盜んだか言うて呉れ。
B 此のしぶとい強情者奴が。
門衛はとうとう激怒しきつて、ポカンポカンと遂に腕力に訴えてしまつた。同時に事が少々面倒になつて來た。
C 打つたな、あさあ打て、もつと打て、何の罰で私を打つのか、さあ打つて呉れ、殺ろして呉れ。
Cは大聲と泣聲とを一緖に振り立てゝ突進して來る、其勢は猛烈である。今まで遠卷きに事件の解決を待つて居つた工人連中が、此時から動搖して來た。何だかがやがやと騷ぎ出した、B君の目にも形勢頗るおだやかならざる狀況が感じられて來た。共處へ通知によつて飛んで來たのがA監督であつた。
A 何をそこで騷いで居るのか、八ケ間敷い。
一同ちよつと沈黙狀態となる。
B 此Cが又棉を盜んで歸る處を發見しましたので、説諭いたしましたところが、現に盜んだ棉を引ぱり出して、自分も工場から盜んで來たことを承認しながらいや盜まない、私は盜人じやないと云ふて強情を張るのです。
C Bは私を盜人だと罵つたばかりでなく、私は盜人じやないから、盜まないと云ふとBはいや盜んだ、盜人じやと云つて、私を打つのです。さあ打つて呉れ、もつと打つて呉れ、私を打ちさへすれば盜人が解るだらう。
多くの工人連中の動揺の色を自分へ味方をして呉れたと思つて、かさにかゝつて泣聲勇ましく喰つてかゝつて來た。
B 私が惡ふ御座りました。もう是からは盜みませんと、あやまりさへすれば、 將來をいましめて許してやるのですが、餘り強情を張るものですから、こらしめの爲めに一つやりましたが、今度はさあ打て、殺ろせと逆捻です。
A B君、此の工人は棉工場の工人だね 。
B そうです、操棉工です。
A Cお前はあの棉工場の工人だね 。
C はい、そうです。
A Cお前が持つて居つた棉は落綿だらう。
C そうです、落棉です。
A その落棉は、支那の紗廠では不要棉であるのだが、日本紗廠ではしてはならんことである。落棉も日本人工場では倫棉である。お前は支那流に落棉だと云ふ、 B君は日本流に倫棉だと云ふ。つまりCは日本工場の規則を知らなんだと云ふことでありB君は支那人の習慣を知らなんだからた。今日は特に許すが、今後若しも落棉すると、其時はすぐ警察へ引渡すからよく覺へて置くんだぞ、さあ歸れ歸れ。
A君が支那人に解る樣に裁いてやられたので、全體の工人連がそうだ、そうだ、 A先生はよく解つてる、Cは日本工場の規則を知らないのだ。Bは支那の習慣を知らないのだ。
沒法子だ、さあさあ歸らうと、まだ文句を云つて居るCを連れて歸つて行つた。
Bにはどう云ふ理由か一寸合點が行かない。
B A先生、一體落棉と倫棉とはどんなに違うのですか。
A よしよし一つ説明して上げやう。支那の習償では、棉を扱つて居る工人が棉を、糸を扱ふて居る工人が糸を、布を扱つて居る工人が布を、少しづつ失敬して歸ることを落と云ふのだ。
詰まり、自分の扱つて居る仕事の材料とか、製品とかを少し失敬することを落と云ふので、丁度日本の機業地たとへば京都あたりでは生糸を賃繰りに出すと、賃繰屋が佛三匁と云つて、佛樣の樣な人でも、三匁は失敬する、それは公然の秘密とされて居つて少しもとがめない。
それと同じことである。お役所とか會社とかに勤めて居る人が、公用の用箋封筒などを私用に使ふ位いの程度に考へて居るのである。であるから、支那では、落棉でも、落糸でも、落布でもとがめないのである。そうでなくて、自分の扱つて居らん他の仕事の材料とか製品を失敬すると、それが倫となるのである。倫は卽ち盜人である。阿媽や阿仁がお使ひに行つて少し下駄を穿くのなどは落銅銭である。上海で一般に拭油と呼ばれて居るのがそれである。
B な一る程、いやよく解りました。
A B君序でだから云ふが、叱るのはどんなに叱つてもよいが、打つてはならん。支那では打つたとなると、どんな理由も理由にはならん習慣であるから、どうか、今後は向ふから打たれる迄は、断じて打つてはならん、處が向ふからはめつたに打たない、なぜなら、打つたら敗けと云ふ事を知つて居るからね。どうか氣をつけて呉れ給へ。
B いやよく解りました、充分注意いたします。
習慣を知ると云ふことは實に大切である。
引用・参照・底本
『鄥其山漫文 生ける支那の姿』内山完造 著 昭和十一年六月五日第三版 學藝書院
(国立国会図書館デジタルコレクション)