問うていう2023年04月13日 11:50

絵本西遊記全伝 初編 巻7,8
 - ChatGPT問いに答えて曰く-

(Q) 問うていう、「衆生と仏とは、真実そのものの自体はもともと同じです。それなのになぜ諸もろの仏、生ずることも滅することもなく、はかり知れない快楽を受け、自在であって碍りがないのでしょうか。われわれ世間の人びとは、生死の苦しみの世界に堕ちて、様ざまな苦しみを受けるのは、何故でしょうか。」

(A) この質問は、仏教の根本的な問いの一つである「生死の苦しみ」というテーマに関連しています。仏教の教えによれば、衆生(一般の人々)と仏(覚者、悟りを開いた存在)は本来的には同じ真実の自体を持っているとされていますが、なぜ衆生は生死の苦しみを経験し、様々な苦しみを受けるのか、仏は自在であり、碍りがなく、はかり知れない快楽を享受するのか、という疑問を投げかけています。

仏教の見解によれば、衆生が生死の苦しみを経験するのは、彼らが「無明」と呼ばれる無知によって、自らを苦しみの輪廻に巻き込むからです。無明は、真実を正しく認識せず、自己と他者、存在と非存在、善悪などの二元的な見解を持つことによって生じます。この無明によって、衆生は執着や煩悩を生じさせ、自らを苦しみの連鎖に縛り付けてしまうのです。

一方、仏は無明を超越し、真実を正しく認識して悟りを開いた存在であり、自己や他者、存在や非存在などの二元的な見解に縛られることがありません。そのため、仏は自在であり、碍りがなく、はかり知れない快楽を享受するとされています。

このように、仏教の教えによれば、衆生と仏の違いは、無明という無知の有無にあるとされています。無明を超越し、真実を認識することによって、衆生も仏になることができるとされています。仏教の修行は、無明を消し去り、真実を直接認識することを目指すものであり、それによって生死の苦しみを超越し、悟りを開くことができるとされています。

(Q) well done!

(A) Thank you! I'm glad I could provide a clear explanation of the question from a Buddhist perspective. If you have any more questions or need further clarification, feel free to ask!

【註:最初の問及び次の引用文は、『大乗仏典 中国・日本篇 11敦 煌Ⅱ』修心要論(44-45頁)からのものです。】

修心要論(44-45頁)

六 問うていう、「衆生と仏とは、真実そのものの自体はもともと同じです。〔それなのに〕なぜ諸もろの仏、生ずることも滅することもなく、はかり知れない快楽を受け、自在であって碍りがないのでしょうか。われわれ世間の人びとは、生死の苦しみの世界に堕ちて、様ざまな苦しみを受けるのは、何故でしょうか。」

 答えていう、「十方世界の諸もろの仏は、あらゆるものの本質を悟達っており、皆自分で本来的な心の根源を照らし尽くしていて、迷いの心が生ずることなく、正しい思いを失うことがない。我がものありとする心がなくなっているからして、生死の苦しみを受けないでいられるのである。生死の苦しみを受けないからして、それが究極の寂減なのである。寂滅であるからして、あらゆる快楽が、自然に集るのである。
 〔一方〕すべての世間の人びとは、真実なる仏の本質に迷い、本来的な心を知らず、様ざまな迷いの原因のために、正しい思いを修めない。正しい思いがないために、憎んだり愛着したりする心が起る。憎んだり愛着したりするために、心の器が破れてしまう。心〔の器〕が破れるために、生死の苦しみを受ける。生死の苦しみがあるために、諸もろの苦しみが自然に現われる。だから『心王経』にいう、<真実そのものとしての仏の本質が、思慮分別や六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六種の認識作用)による分別の海の中に没してしまうと、生死の苦しみの世界に堕ち込んで、解脱を得ることができない>と。努力せよ。もし真実そのものとしての心を守るなら、迷いの心は生ずることなく、我がものありとする心がなくなって、自然に仏と平等になるのである。」

引用・参照・底本

『大乗仏典 中国・日本篇 11敦 煌Ⅱ』田中良昭 沖本和己 他訳 一九八九年一〇月二〇日初版発行 中央公論社