鳥羽伏見の變と開戰の責任者2023年04月09日 09:24

安政大地震繪(国立国会図書館デジタルコレクション)
 『鳥羽伏見の變と維新史の訂正』 法學博士 蜷川 新 著

 (一-八頁)
 一、鳥羽伏見の變と開戰の責任者

 一

 鳥羽伏見の變は、其當時に、事變に與つた人々の言論、口述又は文章に依りて、研究するのが大切である。後年に至りて、勝者辯護の爲めに、故意又は錯覺を以て、書かれた歷史などでは、眞相が判る筈のものではない、總ての誤りは、訂正せざる可らず、之れ國史の爲め也。
 當時の人の遺せる文章を左に摘錄して、今日の新しさ若さ國民の参考に資する。

 (一) 舊夢會津白虎隊(永岡清治著)の一節

 「慶應四年正月朔日、尾越京師に復命す、(註 岩倉の命により十二月二十八日尾州及越前兩藩の代表は、上洛を慶喜に勸むる爲めに大阪に來れり)、大阪城の將佐説て日く、尾越の言信ずべからずと雖、君側を清むるには好機なり、臣等死を以て從ひ、以て衡らんと、慶喜公之を首肯し、即刻行装を理す、會藩は其前驅を命ぜられ、乃ち一部隊を大阪に留め、正月二日淀川を溯る、夜半淀に上り、余等は寺院に投じ、翌三日朝、林佐川等の諸隊は、伏水に、白井其他の部隊は鳥羽に、各先著し、田中玄清は正午淀を發し、伏水に向ふ、此行は從軍とは思はす、警衛の心得なり、余等伏水驛端の街路に憩ひし時、商賣兩三人來り、桃山の中腹を指點し、此處には大砲―門、彼處には二門と、兵兒三四百人戎裝して備へりと、(薩軍は待伏せしつゝありし也)一々之を説示し、且つ云ふ、伏水奉行所には、會兵、肥後橋にも會兵、奉行所の北及御香宮等には、薩長固め、大砲を並べ、壘を積み、關門を設け、行人は譏して而して之を許否す、竹田街道には土州之を警衛すと告げ、尋で雪空となり、夕陽春く頃、西北鳥羽に當り、大砲二發聞ゆるや否、伏水鳥羽共に天地震撼する計也」(第百三十六頁)

 右は當時其儘の記事にて僞りある筈なきもの也、岩倉及薩長方は、豫め深く計晝して、慶喜に上洛を命じ德川方の上京するを鳥羽伏見に襲撃せし也、當時の人々は皆な斯く信ぜり、余が幼時に、當年の正直なる古老より聞ける所も皆同じであつた。 

 (二)會津藩家老より上野法親王並に加賀尾張紀井等二十餘に由る謝罪上奏文

 前文畧す
 「伏見戰爭の義は、徳川内府上洛、先供、一同登京の途中、發砲被致、武門の習不得止、應兵及一戰候義にて、敢て闕下を犯候儀毛頭無之は、萬人共に知る處に御座候」(後畧)

  松平若狭守家老
  田  中  土 佐
  神 保 内 藏 助
  梶  原  平 馬
  上 田 學 太 輔
  内 藤 介 右 衛 門
  諏  訪  伊 助

 右文獻の示す事實を、維新史家井野邊氏は、「取り合わず」と輕く排けらるゝ(奉公十二月號)事實を無視して何の歷史があるのか、或は此等の文獻は、事實にあらずして、虚僞也と云ふなりや、然らば、虚僞也との反證を國民に示す可きである、故山川健次郞男は、右事實を正しと余に證言せられたのであつた、余は絶對に同男の確言を信する。

 二

 維新史研究家、井野邊氏が、奉公十二月號に於て、余を嘲りつゝ説かれた所によれば、「一万五千の大兵が、戰闘準備を整へて鳥羽伏見の兩道から、京都に攻め上つた云々」とある、同氏の説く所は、右當時の人々の書き遺せる所とは、全く違つて居る、今の日本人は、何れを採るべきであらうか。
 同氏の云ふ、「一万五千」も正確とは到底云ひ得まい、正數的に一万五千であつた筈はなし、之れに關して先づ證據の提出を要求せざるを得ない。一大擧兵の如くに宣傳せるは正確ならざるべし、「一萬五千と號す」ならば、そは支那式筆法也。
 同氏の云ふ「戰闘準備」とは何を云ふのであらうか、戰闘準備と云ふが如き大袈裟なる事が果してありしかを、證據によりて説明せらる可きである、武士が大小を腰に差して歩いた所で、其れは、戰闘準備なぞと大袈裟に形容して云ふ可きものではない、大砲小銃を準備し、歩騎砲兵を整へ尖兵を前進せしめ、輜重を配備して、前進した事なぞは、未だ曾て聞ける事なし、「戰闘準備」、何の事かを我等は知りたい、若しも其れが形容詞であるならば、そは不謹愼也。
 同氏の云ふ「京都に攻め上つた云々」はね何事を指して云ふのであらうか、何を攻めたのであるか、明白にすべし、大袈裟な此の文句は、如何にも、小説的であるけれども、歴史としては、事實なしには、意義をなさないことになる、井野邊氏には一々事實を示す責任がある。
 井野邊氏は曰く、「鳥羽伏見の變は、大局の上から見れば、薩長側から仕かけて、徳川方はこれに應戰したのである云々」と、然り、明に茲に初めて氏の告白せらるゝは好し。此の事變は、薩長方より開かれた戰爭」なのである。井野邊氏は、此點に付て前論を自ら抹殺せられたのである、上京する武士に向つて、突如として發砲したりし以上は、發砲者が開戰たるは云ふ迄もなし、開戰の責任は、無論薩長側に在る、一點の疑なし、然るに、井野邊氏は、「發砲の前後などは、はじめから問題にならない」と論じ、余を嘲つて、「辯護曲解も、かうまでになると大分徹底してゐる」と嘲つて居られる(奉公十二月號)、忌はしき非禮不遜に見へるけれども、斯る言説は學者と自稱する人の正しき論述と云ひ得るものであらうか。

 三

 井野邊氏は曰く、「薩藩の關東攪亂策」は(註して曰く、西郷の放てる強盗團の事を云ふ也)、幕府をして兵端を開かしめるのが、唯一の目的であつた、然るに、幕府は其策に乘せられて、自ら進んで兵端を開いた云々」と、錯覺甚し。斯る事實なし。
 井野邊氏のみならず、從來の歴史家に見逃す可らざる一大誤謬のある事は、「慶應四年にも未だ幕府存在しつゝあり」と説いてゐる事である、薩長方は、「徳川幕府を武力を以て亡し、王政維新初めて茲に成れり」と宣傳し、即ち「維新回天の業は、薩長方の大事業也」と、從來一般の史家は國民に向つて強いて教へてゐのである、歴史家としては、此の一大錯覺より、先づ醒める事が、肝要であることを御注意申さゞるを得ない、幕府は前年十月大政を奉還して自ら消え失せた、法令全書でも、御參考に御覧なさるを望む、王政維新は、即ち幕府方の爲せる一大事業である也。「幕府が策に乘せられて兵端を開いた」なぞは、全然虚僞である、慶應四年一月の當時幕府なし、歴史家としては、斯る誤は、向後御愼みなさるを要する。
 歴史家が、錯覺に因り史を説かれては、國史は汚れざるを得ない、余は之を慨す、「極言」と井野邊氏は余に對して云はれるけれども、果して世人は、余の正しき言を以て「極言」と見るであらうか。歴史は、事實其者でなければならぬ、史論は事實を基礎として理論の正しいものでなければならぬ。余の希ふ所は、此事であて、特に一人の歴史家を對者にせんとするのでは決してない、其の論を籍りて、史論の一新を志すに過ぎないのである。

引用・参照・底本

『鳥羽伏見の變と維新史の訂正』 法學博士 蜷川 新 著 昭和七年六月一日發行 奉公會

(国立国会図書館デジタルコレクション)