【桃源閑話】 尊王主義とその禍2024年06月23日 15:01

 以下の文は、『擾乱の日本 蜷川新評論集』蜷川 新著からの抜粋引用である。

 尊王主義とその禍 (178-182頁)

 明治以来の日本人は、尊王主義者により天皇家は、「日本民族の宗家」だと教えられて来た。その主なるものを、左に掲げてみる。

 一、荻野由之著「王政復古の歴史」この著書は、明治時代には、名著として知られていた史書である。その総論の中に、「国民の信念」と題する一節があるが、左の文句がある。

 「日本国民が、悠久知るべからざる太古時代から伝えている信念は、わが国民は同一種族であつて、その総本家たるところの皇室を君主といただき、別家分家が数多に別れて繁盛した」云々。
 
 荻野氏の説によれば、日本人は、一人の人間から、または二人の人間から、二千年にして八千万人の大民族となつたというのである。そうして、日本民族は、血族結婚によつて、人口が増加したと説くのである。無責任にも、あえてこのような非科学的な奇怪な説を、平気で日本人にむかつて述べたものである。それをそのままに、承認していた人間もまた、はなはだ無責任であつた。明治時代の教育とは、うそを人民に教えることであつたのである。

 二、澁沢榮一著「徳川慶喜公政権奉還の意義」この著書は、日本文と、英文とで書かれている。実業家の澁沢氏が、売名のために、著わしたものであろう。その冒頭に、「皇室と国民との関係」という一節かあるが、その中に、左の文句がある。

 「日本国民の悠久知るべからざる太古時代より相伝えたる信念は、わが国民は同一種族にして、その総本家たる皇室をもつて、君主といただき、別家分家、数多に分かれて、各一部族をなし、その族長を奉ずるも、各族長は、共に皇室を中心として君臣の義を守るがゆえに、その関係はきわめて濃厚なり」云々。

 右は荻野由之の説を、そのままに、書きしるしたものである。澁沢榮一氏は、これを英文に訳して、出版している。この一書を受け取つた外国人は、さだめし失笑して、それを読んだことであろう。永遠の恥辱である。

 三、広池千九郎著「皇室野史」この書は、明治廿六年に刊行されたものであるが、その中で、広池氏は、左の如く述べている。

 「じつに皇室は、日本人民の宗家にして、日本人民は、かたじけなくも、皇室の分家たる一大因縁あるによりて、」以下略

 広池の説によれば、日本人は、だれでもみな、万世一系ということになるのである。天皇のみが、万世一系ではないということになる。「万世一系の皇室をいただいている国」として、多年、大いに自慢していた人びとは、それをどう考えたのであろうか。

 天皇家は、父子が直系をもつて順序正しく、古来から相次いで、皇位に即いて、今日に及んだという事実はない。皇室から離れていた人を、養子にしているのが、幾多の事実である。それを「一系」というのも、一般人民の通念と慣習からいえば、通らない話であるけれども、従来は、それを、一系と呼んでいたのであつた。

 広池の説のごときものとすれば、日本人は、八千万人が、「みんな一系である」ということになる。したがつて、皇室は、一系に相違ないけれども、そのかわりに、「なんらの特長はないもの」となるのである。広池は、いわゆるその一味の唱えている「特殊の国体」を抹殺した人である。

 広池の著書には、「わが国史を読みて、ここにいたるもの、たれか皇室の栄えたる時、人民は楽しみ、皇室の衰えし時、人民苦しみたりとの通理を、発見せざるものあらんや。なおこれを詳言すれば、上古より平安朝の初めまでは、皇室のもつとも繁栄せし時代なれば、たとえ多少の差異あるも、まず人民は、がいして、その堵に安んじたりというも不可なきなり」と記戴し、天皇のために、讃辞をささげている。

 この説は、事実と合つていない。それらの時代は、けつして、太平無事ではなかつた。度々反逆した東夷も、熊襲も、外国人ではなかつた。日本人である。大小の戦乱は、つぎつぎに、相次いで生じている。その間に、人民の死し傷つき、その他苦難に陥つたものが沢山あるのは、明らかに知りうることである。そうして、その間には、非倫の天皇や皇子や、暴虐無道の天皇も出ている。武烈天皇が、そのもつとも残虐の人とされている。

 広池は、「かたひさし」の一句を引用して、天皇武烈を弁護し、「それは、百済王の無道暴虐を書いた百済記が、あやまつて日本の歴史となつたのである」と書いている。この一事は、甚だしく奇怪である。古来の日本人は、他国の記事を、日本天皇の記事として、日本人に伝え、武烈天皇をもつて、残虐無道の人と断じていたものである。それであるから、この一事のみにても、日本人は、天皇を崇拝する考えなどは、昔から少しもなかつたということの証明となるのである。この広他の弁護は、かえつて、「天皇不信の立証」となることを、広池は悟らなかつたものであろう。

 広池は、武烈天皇は、君子であり、聖人であつたとの証明はなしてはいない。ふつうの人であつたとの詳述をもなしていない。ただ遠州の人、内山真竜の、書紀類聰解巻一、神系部に曰く、「二年より八年まで、無道奇偉の戯を記するは、百済王の無道暴虐を奏上せし百済記の、転じて本文となれるなり。この本文、上代より語り伝えて、武烈の謚(追号)を奉りしなり、云々」との文句を、絶対に信用して、述べているにすぎない。その遠州人は、はたして研究家であるかどうか分からない。その一人の書いたことを、絶対に信用して、上代から永く、日本人のすべてが、信じ切つていた史書を抹殺しようとする広池の心事と行為とは、学者として、甚だしく軽率であることは、いうまでもない。またそれは、久しいあいだの、その史実を信じていた全日本人を、侮辱する言ともなるのである。取るにたらない。

 広池氏は、元明、仁明、白河の三天皇が、奢侈を好まれたことを、その著書で認めている。そうして、「道長とは同一ならんや」と、弁護している。また陽成天皇が、狂人であつたことも認めている。また、後水尾天皇八十才の賀に、中院内大臣が、「おとろきていく千代か経ん 洞の中に憂きこと知らぬ命長さは」と歌つたのを、天皇が怒られ、「下万民の憂きことを知らぬことやある」と言われたのを賞めているけれども、天皇自身は、院内に、安楽にくらされたのである。公卿はそれを謡つたのである。天皇は、茶道にその日をすごすべき人でない。広池は、なんのために、恐縮しているのであるか、分らない。ただ単に感傷的の文字であるのを、私としては見受けるのみである。

 史家の言論は、厳正であるを要する。もしも、忠を基本として論ずるならば、孔子の教えた忠であるを要する。屈従や、奴隷式の忠は、虚偽であつて、「忠」ではない。

 四、文部省編纂「臣民の道」 これは昭和十六年に朝日新聞社から出版された書物であつて、今の人も、まだその記憶から去つていないはずのものである。その中に左の文句がある。
 「国民は、天皇を、大御親と仰ぎ奉り、ひたすら、随順の誠を致すのである。云々」  はたして、八千万人は、天皇を、大御親として、したしんでいたであろうか。したしむ方法もなかつた。以上のような奇怪な文句にたいして、今日の日本人は、どう考えるであろうか。

 日本の学者、日本の政府は、明治以来、日本人民を欺き、信ずべからざることを、強いて信ぜしめていたのである。その罪は深い。
 日本民族が、雑種の民族であることは、私としては、古くから、外国人から話され、また朝鮮、シナ、印度シナ、マレー、タイなどを旅行して、しぜんに、私には分つていた。生活している人には、比較ということがなく、お国自慢の俗習にまきこまれ、単一の民族のように思いこんでいた人もあるであろう。しかしながら、林羅山の「神武天皇論」を一編を読んだ人であるならば、神武は、外国から来た人であることを、考えるに至るべきは必然である。

 最近には、幾多の研究書が出版されている。いずれも深い研究の後に、発表された説である。「天孫降臨」などの神秘説は、古人の小説と見るよりほかない。昔の人といえども、人間が雲に乗つて、空中から、無難に降りてくるなどとは、信じなかつたに相違ない。明治以前には、ただ単に、「一つの神話」として、取りあつかつていたのである。水戸公園にある「弘道館記」のごときは、水戸の烈公と称する一種の頑迷人が、「恭しく惟みるに、上古、神聖」などと、書かせたものであるが、本人にも、分つてはいなかつたものであろう。

引用・参照・底本

『擾乱の日本 蜷川新評論集』蜷川 新著 昭和廿七年十一月一日初版発行 千代田書院

註:読み易さを考慮し原文にない段落(文章間隔)を附した。

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