【桃源閑話】 五 日本の歷史と天皇の地位 ― 2024年07月08日 08:37
以下の文は、『擾乱の日本 蜷川新評論集』蜷川 新著からの抜粋引用である。
五 日本の歷史と天皇の地位 (107-111頁)
明治二十三年以後の日本人は、正しい日本の歴史を教えられていない。そうして、天皇は、国初以来、終始一貫して、日本人民の崇敬し来つたもののように信ぜしめられている。それであるから、今日の民主日本においても、民主を軽侮したり、天皇制への復活を叫んだり、君ケ代の万歳を、全国学生に歌わしめたり、天皇へのあこがれを、公然として、公務員某が説いたりするのである。この事態は不合理の横行である。憎悪すべき一つの変態である。匡正を要する。あたかも、名人の名演奏会に馬鹿嚥しを飛込ませるような醜態といえる。排除を急務とする。
日本人の間に、現に生じているこの狂態は、種々の原因があって、発生したものである。その原因は明治以後における曲解日本史の全国普及や、人民欺瞞の幾多の勅語や、虚偽の維新史の謀略的な宣伝が、その主なるものであると私は見ている。
明治以前の学者は、正直に日本の歴史を説いた。林羅山、新井白石、僧円月、そのほか幾多の人がいる。林羅山は、天孫降臨を軽侮し、「もしも神が、天孫を日本に降すならば、国の中央に降すのが当然である」と嘲つている。羅山は神武を目して「呉か越から、日木に渡つた人であろう」と批判している。
神武は、外国から渡来し、 日本の先住者、長髄彦を、奇計を用いて暗殺し、その策略の結果として、日本の中央部を占領し、そこに、小さな都を建てた人と見ることは、相当の理由もある史論である。日本の建国者と見るのは「過ぎたり」というべきである。長髄彦は、ゴールの英雄ヴェルサンジェトリックスに似た人物であつたに相違ない。戦争では神武は長髄彦の軍に討たれて、敗北したことは明白である。神武の「即位日」も当てにならないものと、今日は学者からいわれている。
明治以後の歴史家は、正論を忌み唯だ天皇におもねることのみを書いていた。頗る卑怯の徒であつた。文部省編纂の「臣民の道」という官製の書物がある。昭和十六年八月の発行行である。その書などは、殆んど全部が、虛偽の宜伝であつきた。その中に、「我が国は、皇祖天照大神が、皇孫瓊瓊杵ノ尊に、神勅を授け、この豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給いしより、万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて、永遠にしろしめし給う。臣民は億兆心を一にして、忠孝の大道を履み、天業を翼賛し奉る。万古不易の我が国体は、ここに燦然として輝いている」との奇怪な文句が出ている。果して当時の文部大臣は、良心をもつていたものであろうか。このような嘘八百を竝べて、日本人を迷わしめていた罪は、到底、許さるべきものではないのである。終戦 直後、時の文相は、自殺して、その罪を天地に告げ、その責任をとつたのであつた。当然の帰結であつた。
官製の史書をもつて、明治以後の天皇政府は、人民を欺むき、人民を奴隷化し、終いには、全世界の人類に対して、挑戦し、世界の平和を乱した。そうして、天皇の政府は、敵国に降伏し、永遠の耻を、世界にさらすにいたつたのである。明治以後における直後の勅語は、何れも、天皇本位であり、人民を奴隷化し、人民をして、迷謬の徒とならしめたものである。しかも、そのなかで、もつとも人民の心に、迷信を植えつけたものは、実に「教育勅語」であつた。
全国の青少年はこれに感化された。明治二十三年以来五十年にわたり、この勅語は教育の経典とせられ、人民の精神は、それにより、育成せられたものである。同勅語は、天皇自ら皇室を自画自讃している。「徳を樹つること深厚なり」ととなえている。古来稀れなる自家宣伝の文句である。それは既に、謙譲の道徳の無視である。「我が臣民克く忠に克く孝に、億兆心を一にして、世々厥の美を済せるは」と書いてある。日本の歴史によれば、そんな事実は見られないのである。それは人民への欺瞞である。神武崩じて直後、皇子二人は相続争いをして、弟は夜中、兄を襲い暗殺している。なんの忠もなく、孝も見られないのである。中興の祖、天智天皇の崩後、天智の弟と天智の子とは、兵力を用いて相争い、天皇の皇子は戦いに敗れて自殺している。そこに人倫はない。忠孝全く亡び去つている。(西暦六七二年)日本歴史が明白になつたのは、仏教渡来以後と云われている。
その渡来当時には、(五七〇年)、物部の大族と、蘇我の大族とがあつて、強烈に争闘し、天皇の意思は無視され、天皇には、権力は金くなかつた。二族は十七年の久しきに亘つて相争い、終に物部氏は亡ぼされた。「億兆心を一にし」などは、虚偽であることを、証明している。
蘇我氏は、一大族として、日本の主権を掌握し、天皇崇峻を殺した。(五九二年)蘇我氏は、王と称した。群臣ば蘇我氏に服従した。蘇我氏が主権者となつていたのは、西暦六四三年までも続いている。その統治は五十一年の長きに及んでいる。その事績は、仏教の上からいえば、頗る重大なるものがある。従来、この史実を、世人は注意していないのであつた。勤王諭の禍いである。
その間、勅語にいう忠も孝も行われていなかつた。即ち教育勅語は偽りである。大和朝は二百年に亘って、日本の主権者であつた。併し藤原氏が摂政の地位をもつて主権を掌握することとなり、天皇は藤原氏の無力の婿となるに至つた。そこには、忠はなかつた。
道長は「この世をば我が世ぞと思う」と歌つている。そこにも忠はなかつた。
その以後には平氏起り、天皇を院におしこめた。源氏はつぎに政府を鎌倉に設立した。次の北条氏は主権者となり、四人の天皇を反逆者として流刑に処した。時の人は、天皇を、反逆者と見ていた。
ついで足利氏は主権者となり、天皇を討伐し天皇を山中に追いこめた。天下は足利氏を礼讃した。
ついで織田信長は、足利を亡ぼし、一部的の権力者となつた。次いで豊臣氏が自立し織田氏を掃滅した。次いで徳川氏は 自力をもつて、主権者となり、日本の憲法を制定した。
それが二百七十年の主権者として日本を統御していた。
これらの史実は、後人として恣ままにこれを抹消し、改作することを許されない。
要するに、日本国の主権は、大和朝の二百年以外には、天皇にはなかつたのである。それが日本の主権継承史であり、それが習慣法であつたのである。
主権者の変更されるのを「革命」と称している。日本にも、古来、その革命は行われ来つた。支那にも西洋にも人類歴史上、どんな地域にも革命はあつた。教育勅語は虚偽を教えている。
孔子は「君が非道ならば、争わざる可からず」と、教えている。孝経第二十章に明記してある。山崎闇斎の如きは此の理を悟り得なかった腐儒である。「武家政治は、天皇の権力を盜んだ」と、伊藤博文はいつたが、かれは佞人たるを免れない。
六 維新史の歪曲宣傳
明治政府は、「王政維新」を礼讃し、人民に宣伝した。彼らは「尊王攘夷」を救世のシンボルだと誇称し来つた。しかしながら、維新は孝明天皇の勅命を矮める大不忠に始まり、同天皇を暗殺して、幼帝を立て、岩倉、三条、西郷、大久保、木戸などが、その立身出世の欲望をみたしたのに過ぎない一大怪奇の事件である。西郷の如きは、五百人の強盜を江戸に放ち、人民の財産五十万両を強掠せしめている。彼は人民の敵であつた。人間らしさを欠いている。
さらに大反逆を起して、日本民族に甚大な禍いを蒙らせている。長州人は京都の皇居に大砲をぶちこみ、皇太子を気絶せしめ、多くの民家を焼いている。忠もなく人道もそこにはなかつた。彼らの唱えた「尊王」は、虚偽であつた。また彼らの主張した「攘夷」は、亡国の道であつた。幕府方のおこなつた「開国」のみが文明であつた。愛国であつた。そして正判である。
〔改造〕昭和二十七年七月
【参考】
・ゴールの英雄ウェルキンゲトリクスについて
ヴェルキンゲトリクス(Vercingétorix)は、古代ローマのガリア侵略に対し、ガリア人(ケルト人)をまとめ上げ、抵抗した英雄である。フランス最初の英雄と称される人物で、その勇猛な姿は、現代においてもフランス人の誇りとなっている。
ウェルキンゲトリクスの生涯と活躍
出自: ガリアのアルウェルニ族出身。
若き日のリーダーシップ: 父のあとを継ぎ、若くして族長となる。
ガリア統一への動き: ローマ軍のガリア侵攻に対し、バラバラだったガリア諸部族を一つにまとめ、統一戦線を築いた。
ゲリラ戦とローマ軍への打撃: ローマ軍に対して、ゲリラ戦や兵站線の寸断など、巧みな戦術を用いて大きな打撃を与えた。
アレシアでの敗北: 最終的には、アレシアという都市に追い詰められ、ローマ軍に包囲されてしう。突破を試みるも失敗し、部下の命を守るために降伏した。
その後: ローマに連行され、凱旋パレードの後、処刑されたと伝えられている。
ウェルキンゲトリクスが英雄と呼ばれる理由
ガリア統一の試み: 分裂していたガリア諸部族を一つにまとめ、ローマ帝国に対抗しようとしたこと。
勇猛な戦いぶり: ローマ軍相手に巧みな戦術を用い、幾度も勝利を収めたこと。
民族の誇り: ガリア人の独立のために戦い、その命を捧げたこと。
ウェルキンゲトリクスの影響
ヴェルキンゲトリクスは、フランス人の民族意識の形成に大きな影響を与えた。彼の勇猛な姿は、フランスの歴史の中で繰り返し語り継がれ、フランス人の誇りとなっている。
ヴェルキンゲトリクスに関する更なる情報
アレシアの戦い: ウェルキンゲトリクスがローマ軍に敗れた最後の戦い。
ガリア戦争: カエサルがガリアを征服した戦争。ヴェルキンゲトリクスの活躍はこの戦争の中で描かれている。
画像
ヴェルキンゲトリクスの像: フランスのクレルモン=フェランにあるヴェルキンゲトリクスの像は、彼の偉業を象徴するものである。[画像: ヴェルキンゲトリクスの像]
ヴェルキンゲトリクスは、単なる軍事的な英雄にとどまらず、民族の独立のために戦い、その命を捧げた人物として、後世に語り継がれている。
・『臣民の道』,文部省教学局,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1039435で読める。
・昭和16年(1941年)当時の日本の文部大臣は、橋田邦彦である。1945年(昭和20年)9月14日服毒自殺。
【参考はブログ作成者が付記】
【引用・参照・底本】
『擾乱の日本 蜷川新評論集』蜷川 新著 昭和廿七年十一月一日初版発行 千代田書院
註:引用に際し、読み易さを考慮し原文にない段落を附した。
五 日本の歷史と天皇の地位 (107-111頁)
明治二十三年以後の日本人は、正しい日本の歴史を教えられていない。そうして、天皇は、国初以来、終始一貫して、日本人民の崇敬し来つたもののように信ぜしめられている。それであるから、今日の民主日本においても、民主を軽侮したり、天皇制への復活を叫んだり、君ケ代の万歳を、全国学生に歌わしめたり、天皇へのあこがれを、公然として、公務員某が説いたりするのである。この事態は不合理の横行である。憎悪すべき一つの変態である。匡正を要する。あたかも、名人の名演奏会に馬鹿嚥しを飛込ませるような醜態といえる。排除を急務とする。
日本人の間に、現に生じているこの狂態は、種々の原因があって、発生したものである。その原因は明治以後における曲解日本史の全国普及や、人民欺瞞の幾多の勅語や、虚偽の維新史の謀略的な宣伝が、その主なるものであると私は見ている。
明治以前の学者は、正直に日本の歴史を説いた。林羅山、新井白石、僧円月、そのほか幾多の人がいる。林羅山は、天孫降臨を軽侮し、「もしも神が、天孫を日本に降すならば、国の中央に降すのが当然である」と嘲つている。羅山は神武を目して「呉か越から、日木に渡つた人であろう」と批判している。
神武は、外国から渡来し、 日本の先住者、長髄彦を、奇計を用いて暗殺し、その策略の結果として、日本の中央部を占領し、そこに、小さな都を建てた人と見ることは、相当の理由もある史論である。日本の建国者と見るのは「過ぎたり」というべきである。長髄彦は、ゴールの英雄ヴェルサンジェトリックスに似た人物であつたに相違ない。戦争では神武は長髄彦の軍に討たれて、敗北したことは明白である。神武の「即位日」も当てにならないものと、今日は学者からいわれている。
明治以後の歴史家は、正論を忌み唯だ天皇におもねることのみを書いていた。頗る卑怯の徒であつた。文部省編纂の「臣民の道」という官製の書物がある。昭和十六年八月の発行行である。その書などは、殆んど全部が、虛偽の宜伝であつきた。その中に、「我が国は、皇祖天照大神が、皇孫瓊瓊杵ノ尊に、神勅を授け、この豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給いしより、万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて、永遠にしろしめし給う。臣民は億兆心を一にして、忠孝の大道を履み、天業を翼賛し奉る。万古不易の我が国体は、ここに燦然として輝いている」との奇怪な文句が出ている。果して当時の文部大臣は、良心をもつていたものであろうか。このような嘘八百を竝べて、日本人を迷わしめていた罪は、到底、許さるべきものではないのである。終戦 直後、時の文相は、自殺して、その罪を天地に告げ、その責任をとつたのであつた。当然の帰結であつた。
官製の史書をもつて、明治以後の天皇政府は、人民を欺むき、人民を奴隷化し、終いには、全世界の人類に対して、挑戦し、世界の平和を乱した。そうして、天皇の政府は、敵国に降伏し、永遠の耻を、世界にさらすにいたつたのである。明治以後における直後の勅語は、何れも、天皇本位であり、人民を奴隷化し、人民をして、迷謬の徒とならしめたものである。しかも、そのなかで、もつとも人民の心に、迷信を植えつけたものは、実に「教育勅語」であつた。
全国の青少年はこれに感化された。明治二十三年以来五十年にわたり、この勅語は教育の経典とせられ、人民の精神は、それにより、育成せられたものである。同勅語は、天皇自ら皇室を自画自讃している。「徳を樹つること深厚なり」ととなえている。古来稀れなる自家宣伝の文句である。それは既に、謙譲の道徳の無視である。「我が臣民克く忠に克く孝に、億兆心を一にして、世々厥の美を済せるは」と書いてある。日本の歴史によれば、そんな事実は見られないのである。それは人民への欺瞞である。神武崩じて直後、皇子二人は相続争いをして、弟は夜中、兄を襲い暗殺している。なんの忠もなく、孝も見られないのである。中興の祖、天智天皇の崩後、天智の弟と天智の子とは、兵力を用いて相争い、天皇の皇子は戦いに敗れて自殺している。そこに人倫はない。忠孝全く亡び去つている。(西暦六七二年)日本歴史が明白になつたのは、仏教渡来以後と云われている。
その渡来当時には、(五七〇年)、物部の大族と、蘇我の大族とがあつて、強烈に争闘し、天皇の意思は無視され、天皇には、権力は金くなかつた。二族は十七年の久しきに亘つて相争い、終に物部氏は亡ぼされた。「億兆心を一にし」などは、虚偽であることを、証明している。
蘇我氏は、一大族として、日本の主権を掌握し、天皇崇峻を殺した。(五九二年)蘇我氏は、王と称した。群臣ば蘇我氏に服従した。蘇我氏が主権者となつていたのは、西暦六四三年までも続いている。その統治は五十一年の長きに及んでいる。その事績は、仏教の上からいえば、頗る重大なるものがある。従来、この史実を、世人は注意していないのであつた。勤王諭の禍いである。
その間、勅語にいう忠も孝も行われていなかつた。即ち教育勅語は偽りである。大和朝は二百年に亘って、日本の主権者であつた。併し藤原氏が摂政の地位をもつて主権を掌握することとなり、天皇は藤原氏の無力の婿となるに至つた。そこには、忠はなかつた。
道長は「この世をば我が世ぞと思う」と歌つている。そこにも忠はなかつた。
その以後には平氏起り、天皇を院におしこめた。源氏はつぎに政府を鎌倉に設立した。次の北条氏は主権者となり、四人の天皇を反逆者として流刑に処した。時の人は、天皇を、反逆者と見ていた。
ついで足利氏は主権者となり、天皇を討伐し天皇を山中に追いこめた。天下は足利氏を礼讃した。
ついで織田信長は、足利を亡ぼし、一部的の権力者となつた。次いで豊臣氏が自立し織田氏を掃滅した。次いで徳川氏は 自力をもつて、主権者となり、日本の憲法を制定した。
それが二百七十年の主権者として日本を統御していた。
これらの史実は、後人として恣ままにこれを抹消し、改作することを許されない。
要するに、日本国の主権は、大和朝の二百年以外には、天皇にはなかつたのである。それが日本の主権継承史であり、それが習慣法であつたのである。
主権者の変更されるのを「革命」と称している。日本にも、古来、その革命は行われ来つた。支那にも西洋にも人類歴史上、どんな地域にも革命はあつた。教育勅語は虚偽を教えている。
孔子は「君が非道ならば、争わざる可からず」と、教えている。孝経第二十章に明記してある。山崎闇斎の如きは此の理を悟り得なかった腐儒である。「武家政治は、天皇の権力を盜んだ」と、伊藤博文はいつたが、かれは佞人たるを免れない。
六 維新史の歪曲宣傳
明治政府は、「王政維新」を礼讃し、人民に宣伝した。彼らは「尊王攘夷」を救世のシンボルだと誇称し来つた。しかしながら、維新は孝明天皇の勅命を矮める大不忠に始まり、同天皇を暗殺して、幼帝を立て、岩倉、三条、西郷、大久保、木戸などが、その立身出世の欲望をみたしたのに過ぎない一大怪奇の事件である。西郷の如きは、五百人の強盜を江戸に放ち、人民の財産五十万両を強掠せしめている。彼は人民の敵であつた。人間らしさを欠いている。
さらに大反逆を起して、日本民族に甚大な禍いを蒙らせている。長州人は京都の皇居に大砲をぶちこみ、皇太子を気絶せしめ、多くの民家を焼いている。忠もなく人道もそこにはなかつた。彼らの唱えた「尊王」は、虚偽であつた。また彼らの主張した「攘夷」は、亡国の道であつた。幕府方のおこなつた「開国」のみが文明であつた。愛国であつた。そして正判である。
〔改造〕昭和二十七年七月
【参考】
・ゴールの英雄ウェルキンゲトリクスについて
ヴェルキンゲトリクス(Vercingétorix)は、古代ローマのガリア侵略に対し、ガリア人(ケルト人)をまとめ上げ、抵抗した英雄である。フランス最初の英雄と称される人物で、その勇猛な姿は、現代においてもフランス人の誇りとなっている。
ウェルキンゲトリクスの生涯と活躍
出自: ガリアのアルウェルニ族出身。
若き日のリーダーシップ: 父のあとを継ぎ、若くして族長となる。
ガリア統一への動き: ローマ軍のガリア侵攻に対し、バラバラだったガリア諸部族を一つにまとめ、統一戦線を築いた。
ゲリラ戦とローマ軍への打撃: ローマ軍に対して、ゲリラ戦や兵站線の寸断など、巧みな戦術を用いて大きな打撃を与えた。
アレシアでの敗北: 最終的には、アレシアという都市に追い詰められ、ローマ軍に包囲されてしう。突破を試みるも失敗し、部下の命を守るために降伏した。
その後: ローマに連行され、凱旋パレードの後、処刑されたと伝えられている。
ウェルキンゲトリクスが英雄と呼ばれる理由
ガリア統一の試み: 分裂していたガリア諸部族を一つにまとめ、ローマ帝国に対抗しようとしたこと。
勇猛な戦いぶり: ローマ軍相手に巧みな戦術を用い、幾度も勝利を収めたこと。
民族の誇り: ガリア人の独立のために戦い、その命を捧げたこと。
ウェルキンゲトリクスの影響
ヴェルキンゲトリクスは、フランス人の民族意識の形成に大きな影響を与えた。彼の勇猛な姿は、フランスの歴史の中で繰り返し語り継がれ、フランス人の誇りとなっている。
ヴェルキンゲトリクスに関する更なる情報
アレシアの戦い: ウェルキンゲトリクスがローマ軍に敗れた最後の戦い。
ガリア戦争: カエサルがガリアを征服した戦争。ヴェルキンゲトリクスの活躍はこの戦争の中で描かれている。
画像
ヴェルキンゲトリクスの像: フランスのクレルモン=フェランにあるヴェルキンゲトリクスの像は、彼の偉業を象徴するものである。[画像: ヴェルキンゲトリクスの像]
ヴェルキンゲトリクスは、単なる軍事的な英雄にとどまらず、民族の独立のために戦い、その命を捧げた人物として、後世に語り継がれている。
・『臣民の道』,文部省教学局,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1039435で読める。
・昭和16年(1941年)当時の日本の文部大臣は、橋田邦彦である。1945年(昭和20年)9月14日服毒自殺。
【参考はブログ作成者が付記】
【引用・参照・底本】
『擾乱の日本 蜷川新評論集』蜷川 新著 昭和廿七年十一月一日初版発行 千代田書院
註:引用に際し、読み易さを考慮し原文にない段落を附した。