阿倍仲麻呂2021年12月28日 16:48

前賢故實 巻第二
 阿倍仲麻呂 2021.12.28

  ◇

 『志那小史 黄河の水』 (一二三-一二四頁)

 さて我が日本はこの唐と永く交際セして、遣唐使•留學生をやりましたが、そういう人の中には、 吉備眞備・阿倍仲麻呂のような學識文才にすぐれ 唐を驚かした人も少くありませんでした。眞備は在留二十餘年、經・史・制度などの研究をし、歸國の後には政治の上に大功を立てました。また詩文のオを謳われた仲麻呂は、玄宗に但任があつく、李白・杜甫•王維などとも交りがあった人。歸朝の途で難船して再び唐に戻り高官に任用されてついにそこで終りました。古今集におさめられてる「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」という歌は、故國を偲ぶ情を、月に寄せたものと傳えられて居ます。それから最澄(傅教大師)や空海 (弘法大師)の如き高僧も、いづれもみな留學僧で、しかもその學徳は唐の名僧知識からも尊敬ぶされた程の人でした。 

 こうした交通や、えらい學者や、名僧の留學によって、唐に栄えた學問でも美術でも音樂でも文學でも宗教でも工藝でも、そういうものの影響が、多く我が國に及び、奈良時代や平安時代の初めの日本の文明は、かなりそのおかげを受けました。それで宮中の年中行事や、婦人のお化粧などにも、その感化は現われ、中には後世までも残されたものもありました。元旦の
お屠蘇や、五月五日(端午)に菖蒲を軒にさすこと、年の暮の追儺など、みな唐の影響の日本かしたものであります。外國の文明を巧に取入れることができ、かつそれをよく消化して、我が國の實際に合うように、作りかえたことは、我が國民の一つの特質です。

  ◇

 『日本魂の研究』

 第二七 徳川光圀 安積澹泊 栗山潛鋒 三宅觀瀾

 二二 安倍仲麻呂を難ず(四六一、四六二頁)

 安倍仲麻呂は、奈良時代に留學生として唐國に遣されたものである。彼は青年にして漢詩漢文をよくし、漢才に富んでゐて、唐の文人間にもてはやされ、終に姓名をも、唐風に朝衡と改め、唐朝に仕へて相當高い地位まで上り、彼の歿した。ひたすら漢文化を崇拝した奈良時代に於ては、當人はもとより、我が國に於ても、寧ろ之を光榮とし、後世までも才名を彼の土に馳せたといふことを以て彼を稱美して居た。然るに安積澹泊は、大日本史論賛に於て
「學生を選んで之を唐に遣すは、之をして聖賢の道を學んで、而して人材を成就せしめんと欲すればなり。阿倍仲麻呂、唐の文物を慕ひ、留まつて歸らず。姓名を易へ官爵を受く。それ祖先を蔑にして、本を二つにする也。豈聖賢の道ならんや。」阿倍仲麻呂等傳贊
と云つて、之を漢土の聖賢の道から云つても誤つてゐるものとして、非難を加へた。之に關して澹泊の傳記に、
「諭賛を撰するに及んで、屡々鳩巣に示す。鳩巣曰く、安倍仲麻呂は羈旅の臣を以て、唐の諸名家と交遊し、名誉天下に擅なり。しかるに論の中に、一語も褒稱せることなきは何ぞやと。先生(澹泊)曰く、仲麻呂異朝の官爵を受く、大義闕くるあり、世人其の才に眩して其の罪を知らず。甚だ謂はれなしと。鳩巣深く慚ぢ服す。」甘雨亭叢書、澹泊安積先生傳
と傳へてある。室鳩巣は醇儒と稱せられた當代の大學者であつて、武士道思想の上にも、頗る見るべき説を立てたものである。又五倫五常を説いた學者であつた。けれども國體上の大義名分に於ては、研究の甚だ足らないものがあつたから、仲麻呂に就ても、其の意見の立て方は、此くの如きものがあつた。之に依て醇儒と稱せられるものが、如何なるものであつたかを知ることが出來ると共に、當時、水戸學が我が國民精神の上から、如何に尊ぶべき發展を爲しつヽあつたかと云ふことを察し得るのである。

  ◇

 『史話と文話』

 九、阿倍仲麻呂は叛臣なりや(一四八-一五一頁)
 
 奈良時代中心として、其前後に支那へ留學した人は、僧俗を通じて數百人に及ぶ、いずれも歸朝の後日本の文化に貢献したのであるから、其功績は認めねばなるまい。然るに阿倍仲麻呂一人は、生涯を支那で終へて遂に歸朝せぬのみならず、唐に仕へて唐の官位を受けたといふので江戸時代の學者間には之を叛臣として取扱はうといふ説があつた。
 仲麻呂は十六歳の少年時代に、遣唐留學生に選ばれて支那に入つた。其時は唐の玄宗皇帝の代で、支那の文化の最進んだ時で、古今の名人といはれる文學の大家の排出してゐる時であつた。仲麻呂は其中でも儲光義、王維、包佶、趙驊、李白などゝいふ人々を友人としてゐた程であつたから、彼國においても遂に立派な大家となつたのだ。
 仲麻呂は日本に歸る心得で一度歸りかけた。其時王維其他の人が寄せた送別の詩も傳はつてをり、又仲麻呂自身が留別の詩も遺つてゐる。そして彼は明州まで出て渡海しやうとした、其時の歌か百人一首にもある。「天の原ふりさけ見れば」といふ歌であるから、彼が常常本國を懐しみ故郷の三笠山むにあこがれてゐた事も知られる。但し此歌は土佐日記に「蒼海原ふりさけ見れば」とあるのを、古今集では「天の原ふりさけ見けば」と古今集時代の調子に直したらしい、蒼海原といふ方が却つて奈良時代の人の調子に叶つてゐると思はれる。
 さて明州の港を出帆はしたものゝ、大暴風に遭うて九死に一生で安南へ漂着した。唐の友人達は仲麻呂が溺死したと聞いて、李白などは之を哀んで、弔ひの詩を作つてゐる。然るに幸にも仲麻呂は無事に唐の都へ立歸つたので、時の皇帝肅宗は大に喜んで散騎常侍、安南都護といふ官位を授け、後に又北海郡開國公といふに進め、食邑三千戸といふ俸祿を輿へて優待した、しかし、安南都護といつても、實際は基地へ赴任したのではない、唯其地位を輿へた遥任官に過ぎない。
 仲麻呂は唐に在ること五十餘年常に日本へ歸りたがつてゐたが、其機會もなくして、年七十の時に唐で死去して、再故國の山水に對することを得ずに終つたのは、氣の毒の次第であつた。
 日本朝廷では之を聞いて光仁天皇は遺族の者に祭粢料を賜はり、後に仁明天皇は正二位を贈られて、御鄭重なる御褒めの詔勅を下されてゐる。
 然るに江戸時代になつてから、學者の間には仲麻呂が唐の朝廷に仕へて日本國の為に盡さなかつた事、又唐の官位を受けた事を以て、日本に叛いて外國の臣民となつたのであるから、日本からいへば叛臣であると論ずる人がある。
 徒慕李家文物盛。枉教皇國武威輕。入唐畢竟成何事。遺恨當年留學生。(家里松島の詩)といふ詩は一般の留學生を批難する者であるが、殊に仲麻呂は唐の官位を受けたといふので叛臣といはれるのである。しかし、之を辯護する人も多くあつて、次のやうな詩を作つた人もある。

 禮樂傳來啓我民。當年最 重 入唐人。西風不爲歸帆便莫説晁卿是叛臣。(廣瀬淡窓の詩)
 其奈唐賢苦死留。月明滄海恨悠々。西風若借一帆便。歸臥故山三笠秋。(大沼枕山の詩)
 三笠山頭一輪月。孤舟海上欲歸人。千秋只有清輝在。應識晁卿非叛臣。(村上佛山の詩)

晁卿といふのは、仲麻呂が唐に滯在中の名である。此詩には皆仲麻呂が、一度歸朝しかけたが、暴風の爲に志を果たさなかつたのを證として、歸朝の志あつた事、唐に仕へたのは不本意ながら已を得ぬのであつた事等、其心情を察して辯護してゐるが、彼が故國を忘れざる心中は、新羅の使が唐から歸る時に、郷里の父母に寄せる書狀を託し、新羅から態々其書を日本へ届けて來た事もあるので分る。今の交通の便利な世から、昔の不便な時代を論ずるには多くの斟酌を加へねばならぬ。
 元來仲麻呂が叛臣だといふのは、狭い論である、又叛臣でないと駁する論も、淺い論だと思ふ、彼が無事に歸朝して、朝廷の御用を務めた所が、先づ吉備眞備位の働しか出來まい、上に称徳天皇ましまし、下に僧道鏡あり、大文學者たる仲麻呂も手腕を振ふ餘地はなからう、夫よりも余は仲麻呂が唐に於て多年文學上の力量を振ひ、日本人にも王維や李白に劣らない大詩人のあることを知らせた事が、むしろ日本帝國の光だと思ふものである。
 因て余も其意味を詩に詠じた事があつた。

 日本晁卿留李唐吐葩摛藻國光揚。安南都護印如斗。猶勝儒冠拜法王。

詩はまづくとも、仲麻呂問題に一解決を與へた積りである。

  ◇

 『日本史伝文選.上巻』

 阿部仲麻呂(一〇八~一一二頁)

 靈龜二年遣唐使留學生となり。唐に在つて秘書監となり。衛尉卿を兼ぬ。勝寶年中歸朝せむと欲し。颱風に邁ひて安南に漂泊し。再び唐に還りて。安南都護に任ず。寶龜元年卒す。

 傅 ……… 林 羅山

 阿部仲麻呂は中務大輔正五位上船守が子なり。一の名は仲滿。麻呂と滿と。蓋し音の轉ずるなり。靈龜二年八月多治比縣守遣唐押使たり。時に仲麻呂留學生と爲りて從ひ行く。年十六。是より先從八位を授けらる。稟性聰敏。好みて書を讀む。既にして縣守本邦に歸る。仲麻呂中國の風を慕ひ。留り學びて歸らず。姓名を易へて朝衡と曰ふ。朝或は晁に作る。唐玄宗皇帝其の才を愛して厚く之を遇す。官秘書監に至り。累りに檢校に遷る。左補闕陶を歴たり。該議する所多し。唐人或は晁監と稱し。或は晁卿と稱し。或は晁校書と稱し。又晁巨卿と稱し。又或は日本聘賀使と呼ぶ。天平六年平群廣政將に唐より還らんとす。時に船蘇州を發す。海風忽ち惡く。崑崙國に漂ふ。
賊之を圍み纔に解くことを得たり。唐國に歸り。仲麻呂に遇ひて便ち奏して入朝し。渤海の道を取りて歸んと謂ふ。天子之を許す。仲麻呂嘗て布裘を以て王屋山人魏萬に贈る。日本の布もて之を爲れり。翰林李太白魏萬に送る詩に云く。自著日本裘。昂藏出風塵。と是なり。一日儲光義詩を朝衡に貽りて曰く。萬國朝天中。東隅道最長。朝生美無度。高駕仕春坊。出入鳥山裏。逍遥伊水傍。伯鸞遊大學。中夜一相望。落日懸高殿。秋風入洞房。屡言相去遠。不覺生朝光一と。其の後天賓十二年。仲麻呂遣唐大使藤原清河と。舟を同くして歸朝す。是に於て右丞王維朝衡を送るに詩幷に序を以てす。其の序に云く。舜群后を觀す。有苗格らず。禹諸侯を會す。防風後れて至る。干戚の舞を動かし斧鍼の誅を興す。乃ち九牧の金を貢し始めて五瑞の玉を頒つ。惟れ我が皇上。大道の行はるゝ。天に先ちて化を布き。乾元運を廣め。涵育垠り無し。若華東道の標たり。戴勝西門の侯たり。豈に邛杖に甘心せんや。貢を苞芽に徴するに非ず。亦呼韓來朝して蒲萄の館に舎り。昆彌使を遣してして報ずるに蛟龍の錦を以でするに由る。犠牲玉帛。以て厚意を將し。服食器用。遠物を寶とせず。百神職を受け。五老期を告ぐ。況や髪き齒を含む。預を稽し膝を屈せざるを得んや。海東の諸國日本を大なりとなす。聖人の訓に服して君子の風あり。正朔夏時に本づき。衣装漢正に同じ。歴歳方に達す。舊好を行人に繼ぐ。滔天涯無し。方物を天子に貢す。同儀等加ふ。位王侯の先に在り。掌次觀を改め。蠻夷の邸に次せず。我爾を詐ること無く。爾我を虞ること無し。彼好を以て來り。關を癈て禁を弛め。上文教を敷いて。虚く至りて實ちて歸る。故に人民雜り居り。往來市の如し。朝司馬髪を結んで聖に遊び。笈を負ひて親を辭す。禮を老聃に問ひ。詩を子夏に學ぶ。魯車馬を借す。孔丘遂に宗周に適く。鄭縞衣を獻す。季札始めて上國に通す。名大學に成り。官客卿に至る。必ず齊の姜。高國に歸娶せず。楚に在りて猶ほ晉。亦何ぞ由余に獨する。游宦三年。君の羮を以て母に遣らんと願ふ。一國に居らず。其の畫錦して郷に還らんことを欲す。莊舃既に顯れて歸を思ひ。關羽恩を報じて終に去る。是に於て北闕に稽首し東轅に裏足す。命賜の衣を篋にし。敬間の詔を懐にす。金簡玉字。道經を絶域の人に傳ふ。方鼎彝樽。分器を異姓の國に致す。瑯邪臺龍門を迥望し。碣石館前夐然鳥の如くに逝く。鯨魚浪を噴けば萬里倒に廻つて。鷁首雲に乘れば八風卻き走る。扶桑薺の如く。鬱島萍の如し。白日を沃いて三山を簸ひ。蒼天を浮べて九域を呑む。黄雀の風を動し。黑誉の氣雲を成す。淼として其の之く所を知らず。何ぞ相思の寄す可き。噫帝郷の故舊を去りて本朝の君臣に謁す。七子の詩を詠じ兩國の印を佩。我が王席を恢にし。彼の藩臣に諭す。三寸猶在り。樂毅燕を辭して未だ老いず。十年外に在り。信陵魏に歸りて愈々高し。其の詩に云く。積水不可極云々。秘書包信も亦詩を以て之れを送りて曰く。上方生下國云々。陸海も亦送るに詩を以てして曰く。西掖至沐澣。東隅返故林。來稱郯子學。歸是越人吟。馬上秋秋郊遠。舟中曙海陰。知君懐魏闕。萬里獨搖心。此の詩域は以て趙驊が作と爲す。其の餘當時の名輩皆詩序を以て朝衝を送る。既に明州の海畔に至りて將に舟に上らんとす。唐人餞贐すろこと甚だ多し。洒を飲み別を惜む。夜に及びて仲麻呂明月を仰ぎ見。我國の三笠山を思ふて倭歌を詠ず。人之を問ふ。仲麻呂寫すに唐字を以てし。其の故を告ぐ。衆大に歡び笑ふ。其の歌飼古今倭歌集及び紀貫之土佐日記の中に在り。既にして仲麻呂。海路風に逢ひて藤原清河と安南に漂拍し。備に艱難を嘗む。人或は謂ふ既に歿すと。李太白詩を作り之を哭して曰く。日本晁卿辭帝都。征帆一片繞蓬壺明月不歸碧海。白雲愁色滿蒼梧と。幾ならすして仲麻呂安南より脱し。復大唐に人りて衝尉少卿を授けらる。肅宗帝上元中左散騎常侍安南都護に擢でられ。累りに北海郡開國公に遷る。舎邑三千戸。爾後仲麻呂新羅宿衛王子金隠居が郷に歸るに屬し。書を附して卿親に送る。景雲四年。新羅使金初正其の書に持し。本朝に達し送る。仲麻呂前後中華に留ること五十年。専ら書籍を好む。其の郷に還るを欲せども逗留して去らず。然も本邦を忘るゝこと能はす。郷國を言ふ毎に。心魂悵然たり。大暦五年正月を以て。遂に唐國に卒す。年七十。代宗皇帝之を悼みて。潞州大都督を贈る。實に光仁帝の寶龜元年なり。或は曰ふ。仲麻呂年七十三。寶龜十年勅すらく。前學生阿部朝臣仲麻呂唐に在り亡す。家口偏乏に。葬儀禮闕く有り。東絁百疋。白綿三百屯を賜ふ。仁明天皇承和三年詔詞に曰く。故の留學生贈從二品安倍朝臣仲滿。大唐光祿大夫右散騎常侍兼御史中丞北海郡開國公贈潞州大都督朝衡に正二品を贈るべし、身鯨波を渉り。業麟角を成す。詞峯峻を聳し。學海漪を揚ぐ。顯位斯に昇り。英聲已に播す。如何ぞ愍まざらん。言に歸ることを遂ぐること莫く。唯天に掞ぶるの章有り。長く地に擲つの響を傅ふ。追ひて幽壤に賁り。既に前命に隆なり。重ねて崇班に敍して。詔命に洽からしむと。(羅山文集)

  ◇

 『小学国史物語.1(大和・奈良の巻)』

 十八、阿部仲麻呂(百四十九~一六四頁)

  (一)

 支那の文明が我が國に傳はり始めてから、世の中の有樣は急に進歩して來ました。大化の新政も、大寶律令も、奈良の奠都も皆、支那のお蔭をうけて出來上つたものであります。元來、支那の學問や美術工藝などはみんな通つて、我國へ輸入せられて居たものでありましたが、推古天皇の十五年紀元一千二百六十七年七月、小野妹子が使いとなつて、初めて隋の國へ行つてから、我國と支那との間に直接の交通が開けるやうになりました。
 其の後引續いて交通をして居りましたが、奈良朝になつてから、やはり多くの留學生が勉強に出かけました。學問僧とか遣唐使とか云ふのも皆、此の時分、支那に渡つた人のことを云ふのであります。遣唐使と云ふのは、其の頃、支那では既に隋の國が亡びて、唐の世となつて居たからであります。
 初めは、支那へ行く舟の數はきまつては居りませんでしたが、この頃になつて、四艘づゝ出かけることになりました。それで遣唐使の船の事を、四つの船むとも申しました。
 何しろ未だ造船業も航海術もまるで進んで居りませんでしたから、今と違つて、支那へ渡るのは命がけの仕事でありました。航海の途中、難船して行方の知れなくなった人々も澤山ありました。其れゆゑ、朝廷でも、支那へ渡る人々の爲にはお別れの宴會を催されたり、御製の詩や歌を賜はつたり、伊勢神宮をはじめ都近くの神々には、どうぞ無事で歸國が出來るやうにとお祈りして
下さいました。

  (二)

 さて奈良朝時代數多ある留學生の中で最も名高いのは、阿倍仲麻呂と吉備眞備とであります。
 元正天皇靈龜二年八月、多治比縣守が遣唐使、阿倍仲麻呂と吉備眞備とが留學生として、支那へ向つて出發することになりました。此の時、仲麻呂は十七歳、眞備は二十五歳でありました。
 奈良の都で送別の宴すむと、なつかしい故郷の人々に送られて、難波の港から四つの船に乘込みました。行く人と送る人とは、船と陸とに別れて暫くは別れの涙に暮れて居ました。出發の時が來ると、遠慮のない船はもうともづなを解いて、泣き叫ぶ親戚同胞を陸に殘しながら、沖へ沖へと濱邉をはなれて行きました。暫くすると、船はいさの間にか瀬戸内海の島々の間を走つてゐるので、今までかすかに見えて居た故郷の山々も、海の中に呑み込まれて終つたかの樣に、方角さへも分らなくなりました。船は西へ西へと走りました。幾日かたつて、船は九州の博多に着きました。こゝで米だの水だの薪だのと、これから航海して行く間になくてはならぬ品物をいろいろと積込んで、風向のよい日を待つて居りました。
 愈々出發の日が來ました。博多をはなれると、船は其のまゝ支那をめざして進むのでありますから、日本の本國とはこれでお別れになります。乘組の人々は誰れも彼れも皆船の上に出て、次第々々に遠ざかつて行く祖國の方を見送つて居りました。ある者は帆柱にもたれて、奈良の方の空を望みながら、都に殘つてゐる父母兄弟の身の上をきづかつて居りました。空飛ぶ鳥をながめては、自分は丈夫でゐるから安心するやうにと、都の友に言ひ傳へてくれと頼む者もあれば、かなしみの餘り船底に打伏して泣いてゐる人もありました。
 やがて日が暮れて夜が明けると、何處を見ても水と空ばかりの大海原に出て居りました。荒れ狂ふ波の上に、木の葉の漂ふ如くもてあそばれながら、何十遍かの日の出を迎へたり、日の入りを送つたりして、船はやつとのことで、揚子江の河口にあたる或る港に着くことが出來ました。
 上陸すると、見るものむも聞くものも皆目新しいので、人々は、まるでお伽噺の國へでも來たのではあるまいかと思ひました。この港の町に留つて居るのも僅の間で、間もなく一行の人々は、唐の都である長安をさしてはるばる陸路をたどつて行きました。それから幾日の後でせう、はるか雲の間に繪の樣な長安の都を見出したのは。
 早速、唐の宮殿に招かれて、遣唐使多治比縣守は、國書と進物とを皇帝に獻上いたしました。これで遣唐使の役目は終りましたが、終らないのは仲麻呂と眞備とです。留學生である二人は、これから幾年かの歳月を此の地に留つて學問をすべき目的を持つてゐるからであります。使命を果したので、いよいよ縣守は二人に先立つて、長安を發足することになりました。遠く祖國をはなれて異郷の土を踏むとなると、なほさら別れがつらくなるのは無理もないことなのであります。縣守も上べでは、「君達も立派に勉強を仕上げたら、いずれ日本へ歸るのだから、再び逢へる時も來るのだ。あまりなげくと却つて別れがつらくなる。さあキッパリと思ひ切つて、男らしく別れよう。」と云つて、二人をなぐさめてやりましたが、やはり心の中では、せつない涙をこらへて居りました。二人から故郷の人々に傳ふべき澤山な手紙をたのまれて、縣守は、名殘惜しい唐の都を去りました。仲麻呂と眞備とは白い衣の袖を振つて、これを見送りました。

  (三)

 それから眞備と仲麻呂とはどうなりましたでせうか。二人は、天文・音樂・兵法などいろいろ新しい學問について、一生懸命むに勉強をしたので、、間もなく唐の學者の間にも、其の名を知られる樣になりました。
 「こんど日本から來た二人の學生、なかなかよく出來る男だ。今にえらい學者になるだろう。」と云ふ噂は、廣い支那の隅々にまでも行き渡りました。ところが此處に悲しいことには、眞備は、仲麻呂より一足先に、日本へ歸らなければならないことになりました。そして聖武天皇の御代、四十三歳で、再び奈良の都へ歸つて來ました。
 歸朝した眞備は、それから朝廷に重く用ゐられまして、孝謙天皇の御時には右大臣の位にまで上りました。殊に支那の學問や技藝ほ傳へた手柄は大したものでありますが、今日でも便利に使用してゐる片假名は、眞備が漢字から作り出したものだと言ひ傳ひられて居ります。
 仲麻呂はひとりぼつちで長安に殘りました。それでも必死になつて學問をはげみましたので、其の進み方と云つては非常なものでありましたで、とうとう玄宗皇帝に用ゐられて、名も朝衡と改められました。皇帝は朝衡を大そう可愛がられて、だんだん出世の道を開いてやりましたので、たちまち朝衡と云ふ名は、長安の子供でも知らない者はないほどになりました。けれども。仲麻呂は其の間にも、決して日本の事を忘れはいたしませんでした。「奈良の都はどうしたであらう。親兄弟はどうして居るだろう。」と、故郷の空をながめては、涙ぐまない日はありませんでしたが、その内に月日は水の樣に流れて、仲麻呂もとうとう五十三歳と云ふ老人になつて終ひました。奈良の都を立つた時には、未だ血色のよい美しい青年でありましたが、今では、其の顔にも皺がよつて、髪は胡麻鹽あたまになつてしまひました。
 この年、我國では孝謙天皇の御代でありましたが、遣唐使として藤原清河と云ふ人が、長安の都に着きました。仲麻呂は玄宗皇帝のおいつけで、接待役となつて、この遠來の客を手あつくもてなしました。何しろ、久しぶりで日本の人に逢つたのでありますから、仲麻呂のよろこびは一通りではありません。清河がなつかしい祖國の話をすると、仲麻呂は一々涙を流して聞いて居りました。やがて皇帝に國書と進物とを獻上して、遣唐使の役目を終りましたから、いよいよ清河は本國に歸ることになりました。さすが仲麻呂も日本をはなれて來て、長い長い年月を異國で過して來たものでありますから、今、目の前に清河が日本へ歸らうとするのを見ては、もう是れ以上長く支那に留らうなどゝは、どうしても考へられませんでした。「とりわけかう年を取つてしまつては、今の機會に歸らなければ、再び自分の生まれ故郷の土を踏むことなどは、一生出來ないかも知れない。」と思ふと、仲麻呂は居ても立つても居られなくなりました。永年つき合つてゐた長安の人々は、いろいろ言葉を盡して、これを引き留めようといたしましたが、とうとう仲麻呂の決心を動かすことは出來ませんでした。仲麻呂も、外國人である自分を長い間、深切に世話してくれた恩人に別れるのですもの、きつと心の中では、何とも云へぬ苦しい思ひをして居たにちがひはありません。盛大な送別會の後、仲麻呂は清河と一緒に長安を去りました。見送る人々は、いつまでも二人の姿を見失つてはならないと、山の上や高樓の上に登つて、日の暮れるまで立ちつくして居りました。
 幾日か歩いて、二人は明州と云ふ所に着きました。此處から船に乘つて、いよいよ日本に渡るはずになつております。出發の前の夜は、ちやうど良いお月夜で、東の空には、海水に洗ひ清められた樣なお月樣が、皎々とかゞやいて居りました。
 「あのお月樣も、きつと日本の土を照らしてゐるにちがひない。同じお月樣の光を浴びながらも、自分は今、唐と云ふ幾百里の外にゐる。」と思ふと、仲麻呂の胸は、なつかしい樣な、かなしい樣な何とも言へぬ感情で、一ぱいになりました。暫くの間、仲麻呂は月ばかり見つめて居りましたが、やがて筆をとつて一首の和歌を詠みました。其れが、あの有名なる、

     天の原ふりさけ見れば春日なる
           三笠の山に出でし月かも
と云ふ歌であります。

  (四)

 船は明州を出ました。ひろびろとした東支那海に出ると、人々はたゞ日本へ日本へとあこがれて居ました。初めのうちは、船は順風に送られて都合よく航海を續けて居りましたが、ニ三日たつたかと思ふ頃、その日は朝から大そう雲行が悪く、船頭もこれでは今にどうなることかと心配して居りました。すると、やがて恐ろしい暴風が吹き
おこつて來て、今までおだやかであつた海は、俄に猛獸の樣に荒れはじめました。かうなると、何しろ不完全な昔の船のことでありますから、帆でも楫でも一こうに役に立ちません。清河や仲麻呂をはじめ乘組の人たちは皆、運を天にまかせて、風の吹くまゝに南へ南へと漂流して行きました。幾日かたつて漸く風は和ぎましたが、船は、日本どころか夢にも見たことのない安南と云ふ所に吹きつけられて、とにかく幸にも九死に一生を得ることが出來ました。それから仲麻呂は清河と一緒に再び唐の國に送られましたが、唐の人たちは、暴風の爲めに難船して二人は
死んだものと、信じて居た矢先でありますから、今、眼の前に二人の無事な姿を見た時には、夢かとばかりおどろきました。再び出船の用意を急いでゐる中に、突然、仲麻呂は病を得て、日本に歸りたい歸りたいと云ふ希望を抱いたまゝ、死んでいつて終ひました。よしや遺骸は唐の土に葬られたとは云へ、今一度、櫻花さく奈良の都に歸り着いて、昔のよしみある人々に逢ひ、互に長い間の出來事を語り合ひ度いものと、寝ても覺めても考へてゐた仲麻呂の魂は、定めてあの廣い大海原をもこえて、はるばる奈良の都の空までもさまよつて來たかも知れません。時は光仁天皇の寶龜元年正月、唐にあること實に五十有餘年、七十歳を一期としてなくなられたのであります。
 かの有名なる唐の詩人、李太白は、仲麻呂のために詩を作つて、彼の死を悼んで居ります。

  ◇

 『歴代秀吟百種』

 安倍仲麻呂(三三、三四頁)

 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

 古今集には「もろこしにて月を見てよみける」と題詞し、なほ左註に、遣唐使藤原清河の帰國に同伴して歸朝せんとし、明州の海濱にての作なる由記してゐる。但、この左註は後人書入で信ず可らずとする學者が多い。やはり、長安にて、月前郷愁の作と解するのがよかろう。作者は十六歳にて入唐し、その儘彼國に仕へ、光錄大夫兼御史中丞北海郡開國公に榮進して世を終つた。留學生として渡唐しながら、故國を忘れて歸らなかつたのは不都合だと批難する説も多い。けれども、一方には又、當時、世界帝國の如き觀を成した唐の朝廷に留まり、李白王維等と平等に交際し、大和民族の天才を承認せしめた功勞も没却する事は出來ないとする説もある。史家に非ざる私は、ここに仲麻呂論をしようと云ふのでは無い。ともかく、天の原云々の一首は、格調雄渾、感慨無量の傑作なる故、取り上げざるを得ない。一部の批難に値する仲麻呂であつても、此の倭歌を長安にて詠じた瞬間は、心魂故國の天に飛び、畢竟日木人なること、寧樂京人なる事を痛感して、涙滂沱としたに相違ない。郷愁にまじつて懺悔もあつたので無いか。○初句、土佐日記には青海原として出てゐる。

  ◇

 『皇國百人一首』
 
 安倍仲麻呂(56-57頁)

 天の原ふりさけ見れば春日なる
 三笠の山に出でし月かも

 作者は少年の頃遣唐留學生として支那に渡り、居ること五十年に及んで歸朝しようとして明州から舟で立たうとした時、折柄の月明でこの歌をえたといはれる。大空を仰ぎ見ると、あの澄み渡つてゐる月は、故郷の日本の春日なる三笠山に出た月なのだと望郷の念やみかたく、歸心矢の如きものかあつたであらうと思ふ。三・四句を「春日なる三笠の山に」といつて、「春日」と「三笠」をかさね、「ふるさとの三笠」といはなかつたのにも、郷土に對するその地名の實感が直露されてゐる。
 場所が場所で、時か時であるだけに作者の感懐の切なるに、ふかく同感される。「天の原ふりさけ見れば」といふのが、いかにも支那大陸の空らしく、廣々としてゐる。
 作者は歸途颱風にあつて、安南に漂着し、再び支那にもどつて晩年を終り、つひにあこかれてゐた日本に歸ることか出來ず、寶龜元乍正月、七十歳で逝つた。

  ◇

 『國史八面觀』奈良朝 文學博士 久米邦武著

 唐の玄宗と阿部仲麻呂

 ▽古代よりの唐との航路(二三〇-二三一頁)

 日本より唐國に渡るには、古代は韓地へ渡り、彼の西部の港より三東半島の膠州灣を經て、淮口江口に至り呉地(南京)に入たものであつたが、隋唐の頃から直航の道が開けて肥前松浦郡平戸より呉地に直航する事になつた。然るに唐の開元二十一年、即ち我が天平五年に、浙江の錢塘江の口に明州の津を外國と交通の湊に開かれ、是からは今の寧波にある天台山への往來として、我國の船は多く此津に着けらるゝ事となつた。
 
 ▽玄宗仲麿に送別の詩を賜ふ。及び王維の詩(二三三-二三六頁)

 安倍の仲麿は留ること四十年に及び懐郷の情に堪へやらず、此使節と共に歸省したき由を奏請したりしに、玄宗もその情を思ひ留め兼ねて、唐より彼を此一行の送使として日本に遣はさるゝ名目の下に歸國を許された。その時玄宗より仲麿を送る詩を賜はつた。

 日下非殊族 天中嘉會期 念余懐義遠 矜爾畏途遥
 漲海寛秋月 歸帆駛夕飇 依驚彼君子、王化遠昭々

 是は月並にすぎざれど、共に交友したる有名の詩人王維、儲光義、包佶等の應酬には名詩が多い。其中にも王維は尚書右丞の顯官に居り、當時第一の詩人と推された人であるが、其送別の作に

  送秘書晁監還日本

 積水不可極、安知滄海東、九州何處還、滿里若乘空、
 向國惟看日、歸帆但信風、驚身映天黑、魚眼射波紅、
 郷國扶桑外、主人孤島中、別離方異域、音信若爲通、

 是は李干麟の唐詩選にも選ばれて古今に傳誦されたる名詩である。

 ▽仲麿の送別詩と三笠山の歌(二三五-二三七頁)

 仲麿も送使となつて長安の都を發する時、平生交友の人に左の詩を送つて別れた。
 
 銜命將辭國 非才忝侍臣、天中戀盟主、海外憶慈親、
 伏奏違金闕、騑驂去玉津、蓬莱郷路遠、若木故國鄰、
 西望憶恩日、東歸感義辰、平生一實劒、留贈結交人、

 前の王維の詩と聯誦して雙美となし、優るとも劣りはせぬ名詩である。
 かくて親交の官人詩客は多く揚州まで遠く送り來り、まさに船に乘んとするとき仲麿は東の海際を眺めやりて、彼の世に隠れなき

  天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも

の歌を詠じ、之を漢辭に寫して見送りの唐人たちに示せしに、みな仲麿の才情文華を感嘆し、之を激賞したといふ。
 大使の清河は、揚州にて、僧鑑眞に面會し、奏請は許すされざりしも、渡海せらるるならば如何なる方便も取計をなさんと云ひしに、鑑眞は希望なれば、悦んで一緒に乘船する事になり、鑑眞は古麿の船に同乘し、普照は眞備の船に同乘し、清河は仲麿と同乘して揚州を發船したのである。

 ▽李白の仲麿を悼むの詩

 四艘の船は皆纜を解いて發船の後に大暴風雨に逢つて散々になり、古麿と眞備と兩副使の船は薩摩と紀州とに漂着し、第四船も翌年になつて薩摩に着したが、大使の清河と、送使仲麿の船は薩摩の奄美島邊に吹流されたが、所は不明であつた。唐朝では之を聞いて、清河も仲麿も難船によつて覆沒したものと信じ、仲麿を痛く惜み歡かれた。その時かの大詩人の李白は翰林の供奉であつたが、左の詩を賦して哀傷した。
 
 日本晁卿辭帝都、征帆一片繞蓬壺、
 明月不歸沈碧海、白雲愁色滿蒼梧

 然るに翌年に至り、其の船は流れ流れて安南に漂着した報があつて、軅兩人は唐に送り還され、再び長安の都に滯留する事になつた。

  ◇

 『類聚 傳記大日本史 第一卷 公卿篇』
 
 阿部仲麻呂

 二 唐文化の眩惑(五九-六〇頁)

 當時の支那は盛唐文化の絢爛期であつて、唐の勢力は八百餘州を掩ふて海外に及び、唐文化は東洋文化の中心勢力をなしてゐた。日本を始めとして各國は使節や留學生を相纘いで派遣して絢爛たる唐文化の吸収に務めてゐた。唐の都長安は唐文化の中心として各國使節が輻輳し、各國留學生留學僧が集つて殷賑を極め繁華を誇つてゐた。此の盛唐文化の華美は青年仲麻呂の燃え易き心に如何に映じたであらうか。彼等は徒に絢爛華美の文化に驚嘆し、眩惑され心酔してゐるときではなかつた。唐文化の隆盛に直面すればする程自分達留學生に與へられた任務の重大さを犇々と痛感するのであつた。仲麻呂は孜々として勉學した。彼の在唐數年の力學はその目的である學業を成就する事が出來たが、仲麻呂は唐文化に深く喰人れば喰人る程それから離れられないものとなつていつた。彼の唐文化に對する敬慕と、唐文化の眩惑とは仲麻呂の心を深く吸引してしまつた。共に故國を出て共に目的に邁進した眞備等は目的を終へ新しき理想を抱いて母國文化の建設のために歸國したが、唐の文化に魅惑しつくされた仲麻呂は獨り異郷に踏み止つて唐朝に仕へた。舊唐書東夷傅には次の如く記してゐる。

 其偏使仲滿、慕中國之風 因留不去、改姓名爲朝衡、仕歴左補闕、儀王友衡、留七十年、好書籍、放歸郷、逗留不去、云々

此の一文に依っても如何に仲麻呂が唐文化を慕つてゐるかが窺ひ知られる。唐文化に心酔しきつた仲麻呂は唐風に名を改へて朝(又は晁)衡となつて玄宗皇帝から左補閥を授けられ儀王の友となつて、後には秘書に任ぜられ更に秘書監にまで進んで衛尉卿を兼任した。仲麻呂は唐朝からかく重用せられて、名利に甘んじ全く脳裡から故國を忘却してしまつたのであらうか、我が朝廷が幾多の困難を押切つて、莫大の費用と巨多の賜暇を與へて留學生をはるばる唐土へ派遣したのは異國の長を採り我が短を補つて文化向上に貢献せしめ、國事に参與せしめる目的にあつた。仲麻呂も又その目的のために遺唐留學を命ぜられたのである。我が朝廷としても彼が唐土に踏み止つて唐朝に仕へるのを望んではゐなかつたのである。
 仲麻呂は初志の目的を忘れ、故國の屬望を裏切つて唐の祿を食み、故國を忘れた觀があるが、決して心底から故國を忘却し去つたのではなかつた。天平四年新たに遣唐使多治比廣成、中臣名代等が人唐した時も仲麻呂は依然として唐土にとどまつて歸志はなかつたが。此等遣唐使にそれぞれ幹旋の勞をとり、種々便宜を致してゐる。異邦人として仲麻呂は唐朝に歴仕しながらも裏面に於ては日漢文化の交流に相當の貢献をつくしてゐたのである。仲麻呂の行動や言辭には忘恩背信の徒と狭心の道學者からは非難される點も多々あるが、彼が唐朝にあつて日木のために盡した種々の貢献を蔑しろには出來ないであらう。

  ◇

 『川柳日本俗説史』

 著者曰く。「世道人心を裨益せうといふ修養的のものでもなし、又、研究發表の學術的のものでも無い。著者は、世に笑を提供するのみであつて、人々に笑つて貰へばそれでよい。現代に欠乏せるは笑である」と。

 阿倍仲麻呂(七九-八〇頁)

 〇 其の山に豚も居るかと阿部に聞き。
    奇才仲麻呂も困つたろう。『豚は居らぬが、鹿が居る。麓には狐が居て鍛冶屋の手間もやる!』と云つたか如何か。

 〇 月一つ異國へ殘す和歌の徳。
    メードインジャパンの月。
 〇 月を詠み故郷の山を輝かせ。
    日本國有名山三笠山矣。と唐人共皆知つた。
 〇 月の歌ばかり歸朝を奏聞し。
    これぢゃ、遣唐使で無くて遺唐使だ。

  ◇

 「中国 日中観光文化交流団訪中に際しての習近平演説」抜粋

 「隋唐時代、西安は中日友好交流の重要な門戸でもあり、当時日本から多くの使節、留学生、僧侶がそこに来て学び生活していました。その中の代表的な人物、阿倍仲麻呂は、中国唐代の大詩人である李白や王維と深い友情を結び、感動的な逸話を残しました。」

  ◇

 以下、各阿倍仲麻呂該当国会議事録から抜粋。

 第197回国会 衆議院 外務委員会 第3号 平成30年11月21日

 ○杉本委員 維新の杉本和巳です。

 それで、私は、中国という国、何度かお邪魔させていただいて、その力の勢いが増していく状況であったり、逆に最近は高齢化とか、そういった我が国が先進的に抱えている問題にまた直面されつつある国であって、非常に我が国にとってマーケットとして、あるいは高齢化の、例えばスマートシティーみたいなところで中国に非常に大きなビジネスチャンス、まず我が国の中でスマートシティーを成功させなきゃいけないんですけれども、その上で、中国の各そういった地方公共団体でのスマートシティー化なんかで非常にビジネスチャンスがあるというふうに私は考えています。
 そんな意味から、ちょっと昔の話をして恐縮ですけれども、たしか民主党政権が誕生する前に、鳩山由紀夫元総理が中国に行かれたときに、一緒に随行された方のお話がありました。おい、杉本、何か阿倍仲麻呂だったらしいぞという言葉があって、どんな意味かなというふうに思ったんですけれども、要は、やはり中国、大臣はそういう経験は何度もされているかと思うんですけれども、遣隋使があって、遣唐使があって、唐の時代に遣唐使として行かれたのが阿倍仲麻呂であって、その阿倍仲麻呂から歴史をひもといて中国は話をしてきた、こんなようなお話であったやに聞いています。
 そんな意味で、やはり隣国であって、古い、長い歴史を我が国は中国と持っているわけであります。
 そして、一帯一路といって、アメリカは、国力と借財のバランスなんかを考えましょうみたいなことをペンス副大統領が言われたりということで、我が国は、当然日米関係が基軸であって、パクス・アメリカーナの今の世の中で、アメリカとはきちっと、当然、大事に大事に、一番大事につき合っていかなきゃいけませんけれども、やはり世界全体を見れば中国との関係も、改善方向にあって望ましいと思いますけれども、常に両にらみで我々は我が国の立ち位置を考えていかなきゃいけないということも私は感じております。 

 ○河野国務大臣
 
 ここのところ、何か毎日杉本さんの質問に答えているような気がいたしまして、まことにありがとうございます。
 ことし、四十周年という節目の年でございますが、阿倍仲麻呂から考えれば、四十年というのは本当に短い時間なんだろうな。これから先の十年、五十年、百年ということを考えますと、この改革・開放からの四十年、日本は、ODAやら日本企業の投資やらで随分中国の改革・開放を助け、経済発展にも随分寄与してきたという気がしております。
 ここで、ODAをやめて、イコールパートナーとしてこれからやっていこうと。今のところ世界第二、第三の経済国ですから、その二つの国がやはり北朝鮮を始めとしてアジアでさまざまな責任を負っておりますし、地球全体から見れば、気候変動を始めとする地球規模課題にやはり日中がともに責任を持って、肩を並べていろいろなことをやっていくというのが非常に大事なんだろうと思います。

 第166回国会 参議院 政府開発援助等に関する特別委員会 第7号 平成19年5月16日

 ○高野博師君

 ハノイには安南都護府というのがありました。その遺跡の今発掘をやっていると思うんですが、あの安南都護府にはかつて阿倍仲麻呂が安南都護使として赴任をしていたと。あの有名な「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」というあの歌はハノイで歌ったんではないかという説があるぐらいなんですね。
 その安南都護府の遺跡の中に阿倍仲麻呂に関するものが出てくるかもしらぬとも言われているんですが、僕は、文化的なODAとしてそういうところにやった方がベトナムの人からも、文化に対する誇り高いベトナム人も評価するんじゃないかという意見なんですね。そこはどういうふうに参考人はお考えかをお聞かせ願いたいと思います。

 ○参考人(山田康博君)

 それで、今の安南都護府の遺跡の開発、これも日本の協力で進んでいるというふうに私、理解をしておりますし、そうすることによって日本との昔からのつながりがベトナム人も分かってくる、阿倍仲麻呂という人がいたんだなと、そういうようなところ。
 それから文化面で申しますと、ここ二、三年、国際交流基金の方々が行かれているようでありますけれども、日本語教育ですね、

 第162回国会 衆議院 外務委員会 第11号 平成17年7月1日

 ○大谷委員

 今、ベトナムではタンロン遺跡というのがありまして、ハノイに新しい国会議事堂をつくろうと思ったら、そこが六世紀から七世紀、八世紀ぐらいの時代の遺跡だったということがわかったわけなんですよね。それで、これは何とかしなきゃと言っていて、聞いてみたら、何と阿倍仲麻呂が遣唐使として、七六一年から七六七年に、当時中国がベトナム、この地域を支配しておられましたから、中国のいわゆる科挙を通った官僚として、長官としてこの地域を六年間治めていた。もしかしたら提督といううわさもあるんですけれども。まさに中国に留学に行った人がそこで偉くなって、ベトナムの地域を日本人でありながら統治していたというような、そんな文化というか人の交流もあったようなところであります。
 これはぜひとも日本に調査を一緒にやりましょうやというようなことをベトナム政府が、カイ首相がこの前小泉さんと会ったときに話をしているわけなんですけれども、こういうことをやることが、私は、本当に長く響くような援助になるんじゃないのかなというふうに思っておるんですが、町村大臣はどのようにお考えなされますか。

 第20回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号 昭和29年12月6日

 ○谷本参考人

 ただいまのお答えに、これは少し笑い話に入るかもしれませんが、若干補足いたしますと、たとえば、われわれがあそこ残留いたしましたときに、まず考えたのは、昔、有名な阿倍仲麻呂ですか、例の「天の原ふりさけ見れば春日なる……」と歌われた人ですが、唐から帰る途中、その木造船があらしのために海陽付近に流され、帰れなかつた。われわれも帰るにはまず船をつくらなければいかぬ。
 しかしながら、船をつくるとなると、そこにおいて感じたのは、われわれの力がいかに微力であるかということであります。それではフランス語、英語でも覚えて外国の連合軍の手にすがつて帰らしてもろおうかと思いましたが、それも当時の交戦の状況としてはなかなかむずかしい。それかといつて、また中国ではずいぶん日本軍がむちやくちやなことをしております。中国をまわつて帰るということは、これもちよつと考えられない問題でありまして、その間どうなることかとわれわれも考えて、まつたく四面楚歌といいますか、まつ暗やみの中で手さぐりをするという状況でありましたが、とにかく、要するに残留の原因、動機というのは、当時の社会的な混乱と戦争の余波というものが一番の原因であつたと思います。
 
 第15回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第5号 昭和28年2月5日

 ○田中(稔)委員

 私の私見から言うと、帰りたくない人は帰さぬでもよい、むしろそういう人が中国に一人でも多くおる方が、日本と中国との今後百年の友好関係を促進する一つの結びの綱になると思います。昔阿倍仲麻呂なんという人は、帰ろうと思つたところが船が難破して、そのまま中国に残つたのですが、ああいう人が千年も前におつたということは、やはり悪くないのですから、現代における阿倍仲麻呂が千人も万人もおつて私は少しも悪くないと思います。帰つてもおもしろくないという場合の再渡航というような措置をお考えになるか。あるいは答弁は外務省関係かもしれませんが……。

  ◇

 推奨本

 『長安の月 寧楽の月 仲麻呂帰らず』松田鐡也著 昭和60年12月15日 時事通信社

引用・参照・底本

『日本魂の研究』亘理章三郎著 昭和十八年五月二十八日發行 中文館書店
『史話と文話』萩野由之著 大正七年六月七日發行 博文館
『日本史伝文選.上巻』幸田露伴 著 大正八年六月三十日發行 大鐙閣
『羅山林先生文集. 巻1』卷第三十七傳上「阿倍仲麻呂傳二篇」417頁 大正七年二月二十五日發行 平安考古學會
『小学国史物語.1(大和・奈良の巻)』菊池勝之助著 大正十二年四月十五日 目黑書店
『歴代秀吟百種』川田順著 昭和十四年十一月三十日發行 三省堂 三三-三四頁
『皇國百人一首』金子薫園編 昭和十七年八月十五日初版發行 文明社
『國史八面觀』奈良朝 文學博士 久米邦武著 大正六年二月十五日發行
『國史教科書中の主要人物傳』文學士岡繁太郎先生校閲 小田襄著 大正十四年十月五日發行 イリカワ出版 九一頁
『大日本史列傳訓解』谷口政徳著 明治三十四年十月六日發行 金松堂 三四-三十七頁
『類聚 傳記大日本史 第一卷 公卿篇』文學博士 櫻井秀(監修解説) 雄山閣版 昭和十年十月五日發行
『漢・韓史籍に顯はれたる日韓古代資料』太田亮著 昭和三年五月十五日發行 磯部甲陽堂 128頁
『天文博士 安倍晴明』述者 雪花山人 立川文明堂 大正三年八月十五日發行 一頁
『川柳日本俗説史』松村範三著 大正十五年九月十日發行 磯部甲陽堂 七六-八〇頁
「中国 日中観光文化交流団訪中に際しての習近平演説」
『前賢故實卷第二』仲麻呂画像
『志那小史 黄河の水』鳥山喜一 著 昭和二十四年七月二十日發行 清水書房 一二三-一二四頁

(国立国会図書館デジタルコレクション ・(国会会議録検索システム)

コメント

トラックバック