米國の國家主義2022年10月06日 08:17

伊予の湯
  『對米國策論集』 國民對米會編 編者 葛生能久
 
 米國の帝國主義と其太平洋政策 大島 高精氏

 (四一二-四二一頁)
 第三 米國の國家主義

 此位で思想問題を片付けて置き、次は亞米利加の國家主義であります。併し乍ら時間もありませぬからなるべく省略して、唯其プロセスだけを述べて置うと思ひます御承知の如く國家主義は十八世紀の産業事命の時代に初めて呱々の聲を歐洲に揚げたのでありまして、國家主義が最も新しい所の気勢を歐洲に擧げましたのは十九世紀の事であります。即ち十九世紀に於て育てられ、二十世紀に爤熟して、遂に世界大戰亂の悲劇をなしたのであります。然るに十八世紀の末葉即ち産業革命後、或は更に十九世紀の初め頃は佛蘭西ではナポレオンの時代が過ぎ、歐洲に於ては墺太利のメツテルニヒの全盛時代でありましたが、當時の歐洲各國は漸く國家主義思想なるものに目醒めた位でありました。然るに國家主義とは全く兩立する事の出來ない自由主義の國と思惟せられた所の米國が、既に十八世紀の末葉又は十九世紀の劈頭に於て進歩し國家主義を抱懐して居つたと云ふ事は、決して私共の閑却してならない所の事實であります。而かも又米國史乃至歐米史を論ずる歴史家の見捨てゝ居る所でありまするが故に、是非共私共が十二分に研究して置く必要があります。然らば米國に於ける國家主義の第一期を成したのは何時かと云ふと、是は云ふ迄もなく對英獨立戰爭の時であります。茲で一寸申して置きますが、歐洲戰爭後講和會議に當つてウイルソンの絶叫した所謂十四ヶ條の第一に擧げられて居るのが秘密外交を禁ずと云ふのであります。之をウイルソンは説明して、今日世界の平和が蹂躙せられて居るのは、全く各國の秘密外交に因るので、これは世界各國の外交的信條の觀をなしてゐる。しかし獨り之に經驗を有たない國は米國のみだと云ふ事を聲明して居りますが、焉んぞ知らん米國は彼の獨立戰爭の當時、此秘密外交に因つて國を立てたのであると云ふ事を歴史には書いてある。そこで何故ウイルソンが斯くの如き詭辯を弄したかと云ふ事を檢討して見るのは興味ある事で、彼れの言明によりますと歴史論と政治論とは違ふと云ふのであります。然らば米國の秘密外交と云ふのは何かと申しますと、米國獨立當時の佛蘭西は御承知の通り百年戰爭以來英吉利とは殆んど傳統的の仇敵であります。故に右英佛二國は植民地關係に於ても氷炭相容れる事の出來ない軋轢を致して居つたのでありますが、其軋轢は新大陸の米國に於ても亦發溂たる勢を以て行はれて居つたのであります然るに其植民地戰爭の結果は、佛蘭西が敗北して、新大陸は英吉利勢力の黄金時代を成したから、佛蘭西はどうかして復讐したい、どうかして子々孫々忘るゝ事の出來ない壓迫を過去三百年の間感じて居る英吉利に對して復讐したいと云ふ所の一念が燃えて居つたのであります。時會々英國の對米課税政策が樹立したのでありますが、米國は一人の代議士すら送らない本國に義務はないと云ひ其政策に服從せなかつたのであります。由来英國の對米政策は次第に之を壓迫する事に出で、結果遂に獨立戰爭を見るに至つたのであります。
 併し獨立戰爭を起さんとする所の米國は到底母國…英國に對して空拳を以て戰ふのは不利であると知つたから、英國に對する復讐心に燃えて居る佛蘭西を利用する事を按出し斯くして密使を佛蘭西に送り、今や吾々は言語道斷な英國に向つて叛旗を飜さんとして居るが、米國が一たび英國に反抗して起つた時には、貴國は必ず來つて我國を援助するや否やと云ふ云ふ探りを入れたのであります。是は米國は佛蘭西の心中を十二分に知つての上の事であります。殊にジエフアソンの如き、アダムスの如き、佛蘭西思想の學徒でありますから、佛蘭西の氣ではよく分つて居る。而も當時は佛蘭西が最も熱烈に英國に對する反抗心を懐いて居つた時代でありまするが故に、彼は直ちに米國の希望に應じたのであります。時間の都合により獨立當時の經緯は之を略しまするが、佛蘭西から援軍として出掛ましたのはラフアイエツト伯爵の如き機略縱横の勇將が率ゐる十萬の兵隊があり、更に其密使は單に佛蘭西を訪れたのみならず、普魯西、波蘭、墺太利、西班牙にも赴いて非常な聲援を得て居るのであります。故に戰亂一度勃發するや、普魯西かからはストーベン、波蘭からはコシウシコの如き義士が來り米國を援助したのであります。蓋し米國は獨立戰爭のためには二十有五年の秘密外交に因つて準備を爲して居つたと云ふ事が獨逸の一史家によりて指摘されて居る。是に對して現に米國の某教授も亦駁論を草して居る事實があるのであります。然るにウイルソンの如き理想政治家を以て自ら任じ人も許す所の人物が、斯くの如き詭辯を弄すると云ふのであるから、其他は推して知るべしであります。(拍手起る)
 併し乍ら前にも申しました通り今日米國を語る者の多くは米國の前に幻覺を有してゐるのであるからたまらぬ。我國民は常にワシントンの偉大なる人格を稱へリンコルンの高邁なる理想を讃美するのでありまするが、此點に於ても亦其人物批評の餘りに皮相的にして如何に輕卒なるかに驚かざるを得ない。素より之等の人物は何れも偉大には相違はありませぬ。併し乍ら相互の立脚地から見て何處にワシントンが私共が有する偉大な人物に比して更に偉人としで尊敬を受くる資格があるか、同樣何處にリンコルンが人格者として我々の讃美を受くる資格があるか。これは今少し深刻に考案するの要があります。斯く申しますると唯だ亞米利加に對する反感の爲めの反抗論とのみ御聞きになる方があるかも知れませぬが、さうではない、其事實を申します。なる程ワシントンは米國人の眼より見れば功名に淡く私心無き國家主義者として、熱血を濺いで國事に盡瘁した人として確かに崇拝に價する人でもありませう。併し我國民がワシントンを偉大なりとする理由はワシントンが公正無私、實に人類愛の熱烈を有つて居たと云ふにある。しかし何所にワシントンに今日の日本人が見で居る樣な世界主義的な國際的な經綸があつたか。なる程米國を愛する情熟はあつたでありませう。併し乍ら所謂人類愛とか、平等博愛と云ふ樣なものはワシントンの思想其政治の中には斷じて無い事を斷言する事が出来ます。それは有名なるワシントンのモンロー主義策に基礎をなした告別演説を見ればすぐ明瞭になります。即ちワシントンは其告別演説に於て米國の孤立政策を論じ、米國は是だけ廣大なる國土を有し、有り餘る物資を産し、無限に埋藏せる寶庫を抱いで居るのであるから、何を苦しんで諸外國と腐れ緣を結ぶ必要があるか。吾々自身で之を開發して之を子孫の爲に殘すならば、米國は必ずや近き將來に於て世界に雄飛する事が出來ると云つて居る。是がワシントンの治世中に於ける最後の大雄辯である。しかも此間何處に人類愛があるか何所に平等博愛の所謂大精神があるか。換言すれは悉く亞米利加の利己主義である。故に彼を以て世界的の人格者とするは實に皮相極まる觀察であり、輕卒極まる批評であると云はなければなりませぬ。即ちワシントンには決して國家主義精神を他にしては謂ふ如き人格美を認むる事は出來ないと云ふ事を敢て私は斷言するのであります。(拍手喝采)
 次にアブラハム・リンコルンであります。彼は世界の偉人として諸君も亦必ずや幾多の人から傳へられた事でありませう。否諸君自身が斯く信じてゐるか知れませぬ。而して傳へる人も傳へらるゝ人もアブラハム・リンコルンを以て偉大なる人物である人道主義の權化であると考へて居るでありませう。即ち當時共和民主兩黨の軋轢が盛んなる時に、黒奴開放令を出して人道問題としての積年の懸案であつた奴隷問題を解快したと云ふ事を以て、彼を人類愛の本家本元の如くに讃美するのでありますが、是も亦甚だ淺見であります。其の事實は當時の共和黨對民主黨の還境を究むれば自ら明かなのであります。即ち時の共和黨は北部の商工業者を代表した政黨であり、之に對する民主黨は主として南部の農民を代表した政黨であります、そしてリンコルン彼は實に北部の商工業者を代表する共和黨の領袖であつた。と云ふ事を先づ考索せねばなりませぬ。而して當時奴隷を使役したのは南部の農民であつて、農民が黒奴を開放すると云ふ事は農業經營上非常なる大打撃であつた。併しリンコルンは商工派なる共和黨の出なるが故に、奴隷開放に因つて苦しき影響を受くる南部農民の立場を、對岸の 火災視するが如き態度を執る事が出來たと云ふ事と、奴隷開放なるものが此間に斷行されたと云ふ事を知つて置かねばなりませぬ。是だけ申しまするならば.奴隷開放問題の背景には絶えずず政黨的軋轢の事實があつた事を認むる事が出來ると共に、其後兩黨の間に排日問題が尚且同じ樣な運命に因つて取扱はれて居る事を目撃する事が出來る。成程リンコルンが奴隷を開放したのは英斷であるが、之を經濟的に觀察すれば己れの統率する共和黨には何等痛痒を感ぜずして、反對黨なる民主黨には之に因つて非常なる打撃を與へる事が出來たのである。而も黒人は此解放に因つて或は市民權を得之を通じて淸き一票を投ずる事が出來る樣になつたでありませう。併し乍ら大正十三年八月八日即ち今月今日私が諸君の前に立つてゐる此瞬間に至る迄、黒人は開放されたと申しながら被選擧權は有たぬのであります。而も又常に之に壓迫を加へて居る斯くの如き有樣で何處に奴隷解放の眞の意義がありますか。(拍手起る)又我國が過去三千年の間に出した多くの偉大なる人物に比して、リンコルンが尚且偉大なりとする點が何處にありますか。それを唯だ……甚だ下卑な言ではございますが――馬鹿な日本人の中には、唯だ西洋の名でありさへすれば喜ぶ。日本人は日本に幾多の聖人があり、高潔なる高士があり、人才があり、人格者があり、英雄豪傑があり、學者があるに拘らず、西洋人であれば、殊に假名字で書いた名前であれば歴史の頁一層光輝あらしめるかの如きイリユージヨンを持つ者が甚だ少なくないのであります。(拍手起る)私は此點を諸君と共に考へて然る後にワシントンの如き、リンコルンの如き人物を評したいと思ふのであります。(拍手起る)
 次に國家主義に第二期を失したのは米西戰爭の當時で南北戰爭直後の米國は此對外戰によりて著るしく國家的結合の上に新勢力を發揮する事が出來たのであります。斯くして米國の國家主義の第三期は何時であるかと云ふに、夫れは歐洲大戰亂の當時であります。此國家主義から遂に今囘の移民問題も起つて來たのでありますが、此點に就ては時間もありませぬから詳細の論評を省略して、諸君の推斷に委せます。

引用・参照・底本

『對米國策論集』 國民對米會編 編者 葛生能久 大正十三年十二月二十五日發行 發行所 讀賣新聞社

(国立国会図書館デジタルコレクション)

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