滔々たる軍擴の大浪2022年10月05日 10:29

伊予の湯
 『危機に立つ歐洲・朝日時局讀本第四卷』東京朝日新聞歐米部編

 (8-8頁)
 2 滔々たる軍擴の大浪            2022.10.05

 過般の歐洲大戰を始末したヴエルサイユ條約は、歐洲を分つて現狀維持派と現狀打破派の二つの分野に區別してしまつた。共同保障主義と列國協力の原則に立脚した國際聯盟も、この大勢に對しては結局無力を暴露した。否、ヴエルサイユ條約によつて生れた國際聯盟には、戰勝國の優越的地位を維持せんとする使命が當然の歸結として宿命づけられてゐた。聯盟は法の尊重の美名の下に、結局現狀維持の機閲としてしか活動し得なかつた。茲に聯盟の弱點が潜存し、これによって、現在の聯盟はその權威と信用を失墜した。滿洲事變が聯盟のこの本質的缺陥暴露の機會となつたのは奇縁である。一旦無力を表面化した聯盟は遂にイタリ—のエチオピヤ侵略に於て完全失敗し、スペイン内亂に於て、無視されてしまつた。
 現狀打破派の頭目はドイツ及びイタリーの兩國である。兩國とも獨裁主義を奉じ、政治も經濟も總て嚴格なる統制の下に擧國一致、全體主義をを強行してゐる。一は戰敗國であり、一は戰勝國でありながら、國土の狭小と人口の過剰、國富の貧困と民力の旺盛なる點に於て相通じ、鬱勃として沸膳する國力を驅つて國土擴張と國富増大の機をねらつてゐる。ドイツはヨーロッパにおける失地の回復と植民地の奪還によつて、ドイツ民族を統一して大ドイツ主義の實現を期し、イタリーはエチオピアを征服してローマ帝國の再建に邁進し、更に地申海の支配を企圖して、いづれも歐洲に於ける主導的役割を演じようと欲してゐる。そのあらはれは即ちスペイン内亂における獨伊の積極的な反政府軍援助である。
 この高潮する現狀打破の大勢に對抗して、同じく帝國主義の範疇にありながら、獨裁主義と全體主義に反對して、民主衆議制を奉じて、國際機構の現狀維持に腐心しつゝあるものは、戰勝國側、特に英佛兩大國である。然るに何たる運命の皮肉ぞや、英佛兩國は恰も性の合はない夫婦關係の如く、所詮戰爭となれば一心同體の間柄でありながら、平常は事毎に意見を異にし、主張は掛け離れ、歐洲平和の對策に於て根本的不一致を續けて來た。フランスは抜き難い恐獨病にとりつかれて、専ら對獨防禦同盟の城壁を以てドイツを包圍壓迫して却つてドイツ側の反動的氣勢をあふり、爆發の危險を増大してゐる。他方イギリスはヨーロツパをドイツと反獨の兩陣野に截然分つて對抗せしめることの危險を憂慮し、ドイツの立場と要求に對しても、充分耳を藉し、ドイツを歐洲安全工作の不可缺の要素として仲間に誘ひ込まうとしてゐる。フランスがヴエルサイユ條約を金科玉条として、ドイツの擡頭を壓へんとするに對して、イギリスは常に實際的見地より、條約の改訂を默認し、時に援護の擧にすら出てゐる。フランスが中歐東歐諸國と堅く組んで、ドイツの進出を塞ぎ、フランスの歐洲覇権確立に專念するに對して、イギリスは暗默裡にドイツの東部及び南方國境の不公平、不合理を諒承して、その東進南下の欲求に理解ある態度を失はず、ドイツをして、平和的打通の途を發見て、歐洲安全の要石たる地位を獲得せしむることを念じつゝ行動してゐるのである。從つて、立國の根本方針を安全とドイツの侵略豫防に置くフランスは、イギリスの援助を最大の念願としながら、なほこれに信頼する能はず、斷えず他に味方を求めねば安心出來ぬ矛盾の境地にあり、多少の節操は枉げても、ドイツの侵略に對する味方の獲得に奔走せねばならない羽目にある。 かくしてフランスは一面、聯盟擁護を看板にしながら、他面イタリーの對獨共同戰線政策の手前、イタリーのエチオピア征伐をも默過せねばならず、反對にイギリスは從來聯盟の制裁規定適用に反對して來ながら、逆に聯盟の制裁發動に全力を傾倒し、極力イタリーの地中海に於ける勢力増大を食ひ止めることに努めた
 この英佛關係の疎隔こそは誠に歐洲安全平和工作が戰後二十年を閲する今日、尚目鼻がつかず行き惱んでゐる一大原因に外ならない。國際聯盟の不振も、歐洲政情の不統一も元を正せば、英佛の疎隔に歸因する。結局は提携協力すべき兩大國が大局の見透しを缺いで、眼前の細事に煩はされ、徒らにドイツの野望に名を爲さしめ、延てドイツの正當な發展と歐洲安全の確立をも阻みつゝあることは、歐洲平和の爲に痛嘆すべき事柄である。次の歐洲大戰を未前に防止するためには、如何にしても、先づ英佛政治家の充分なる協力協調を基礎として、ドイツ及びイタリーの對内的並に對外的要求を吟味し、これが公平待遇の新方法を發見し、實することが絶對の要件と思はれる。
 一九三七年初頭、イーデン英外相は、ロンドンに於ける外國新聞代表者の招宴に臨んで一場の演説を試み、一九三七年が歐洲政局の晴雨を決すべき重大時機であると豫斷した。戰爭か平和か、快晴か暴風雨か、それは來るべき數ケ月が決定するであらうと云ふのである。
 執政四年、ヴエルサイユ條約の鐵鎖を次々に斷ち切つて、國權恢復の横車を押し通したヒトラーは、今や所謂抜き打ち外交の時期終れりと觀て、一月三十日のナチス政權樹立四周年記念祭に臨み、今後ドイツ政府は列國と忠實に協調商議して、刻下の重大諸懸案の解決に努力すると聲明した。特に獨佛兩國關係に言及して、兩國には最早や何ら紛爭が存在せざることを茲に嚴粛に宣言すると叫んだ。他方その懐刀と目されるリツベントロツプを英国大使としてロンドンに特派し、英獨接近工作に腐心しつゝ、頻りに英佛の植民地再分割や原料資産の公平分配問題に對する色よい返事を引き出さうとしてゐる。ヒトラーの後繼者と目されるゲーリング將軍は、東歐、中歐の諸國を歴訪して畫策し、本年匆々ローマにムツソリニと會談して獨伊政治協定最後の畫龍點睛を行つた。ドイツは今や國内經濟の重大危機に直面し、六千六百萬のドイツ民衆は飢餓の一歩手前に立たされ、「牛馬にも劣る生活狀態に甘んじ」つゝ、ゲーリング將軍の主宰する戰爭目あての四ヶ年經濟計晝を強行してゐる。從つてドイツはそ國力も、軍備も未だ戰爭の用意が整つてゐないのみか、重大なる國内的危機を通り抜けている最中である。無事に通り抜ければ有望な將來があるけれども、今にして一歩を誤れば、その結果はナチス政權の崩壊をも導く可能性がある。最近に到り、ドイッ當局の穏健平和的諸聲明は、この邊の事情と併せ考へれば意味深いものである。從つてイギリスもフランスも、片手に平和の鳩を抱き、他方に軍刀を磨くことを怠らない。フランス政府は新に百九十億フランに上る大規模の四ヶ年軍備擴充計畫を樹て、イギリス政府は二十億ポンドに上る軍擴計畫の第三年目に入るや、今年匆々再び次の語ヶ年をめざして十五億ポンドの新國防計畫を發表した。チエンバレン藏相は、多年苦心の赤字豫算克服を一擲してまで、三軍軍備の整備に懸命である。更にソヴエト・ロシアもイタリーも着々戰爭準備を怠らない。爾餘の歐洲諸國は唯滔々たる軍擴の大浪に辛じて首を現はしつゝ、殆んど背に腹を代へての軍備擴張に日もこれ足らざる有樣である。平和を欲して、ひたすらに軍備を進め、軍備の擴大によつてお互に脅え且つ疑ひつつ不安を増大して行く果は何處に落着くのであらうか?ヒトラーの眞意が果して列國との協調にあるのか?この判斷の如何によつて英、佛、伊の動向も自ら決し、危機に立つ歐洲の將來も亦一定の形をとることゝなるであらう。

引用・参照・底本

『危機に立つ歐洲・朝日時局讀本第四卷』東京朝日新聞歐米部編 昭和十二年三月廿日發行 朝日新聞社

(国立国会図書館デジタルコレクション)

コメント

トラックバック