大政翼賛運動の合憲法性2022年12月15日 14:26

雅邦集
 『國防國家の理論』 黑田 覺 著

 (1-5頁)
 はしがき

 本書に収錄した諸論文は、いづれも第一次近衛内閣から平沼・阿部・米内の諸内閣を經、その次に成立を見た第二次近衛内閣の現在にいたるまでの間に、執筆したものである。その大部分は、それぞれの機會に改造・中央公論•日本評論・文藝春秋などの綜合雜誌に發表したものであつて、憲法・政治・思想などの各部門における主張及び評諭を内容としてゐる。 
 いふまでもなくこの期間は、日本史及び世界史の展開過程において、ほとんどその類例を見ない轉換期であり、激動期である。すべてのものがあわただしい流轉のなかにある。昨日までなんらの疑ひをもたれなかつた事柄も、今日は否定される。また昨日それを主張るために決斷と勇氣とを必要とした事柄も、今日なにびとも自明のこととしてゐる。かういふ時期に、數年間にわたる諸論文をまとめることは、非常に危險な仕事である。その時々においては、或ひはなんらかの清新さ・獨創性を主張しえたものも、今日では全然陳腐なものとして受けとられるかも知れないからである。また別の危險も存する。
 この激動期の流れは、沃野をつらぬく坦々たる流れではない。𦾔い秩序への執著と新しい秩序の要請との間に醸しだされる摩擦・相剋・矛盾は、いたるところに斷崖・暗礁をつくり、渦卷を生ぜしめてゐる。ともすればわれわれは流れの方向を見定めることができない。向ふべき流れの進路を指示することにいたっては、なほさらである。かやうな激流のなかで、しかも數年間にわたつて、その方向を完全に謬らなかつたと主張することは困難だからである。
 かやうな危險を意しながら、敢へてこの著書を公刊することとした。それはこの著書が今日その清新さ・獨創性において誇りうると、自負してゐるためではなく、これらの論文を通じて、ただ一筋の方向を步んできたことにおいて、みづから慰めうるものをもつてゐるからである。
 これらの諭文を執筆した機緣は各々異なつてゐるが、讀んで頂けば判るやうに、いづれもその時々における現象的な主流傾向に對するポレミークとしてものしたものが多い。これらの傾向に對立して、私は底を流れる本質的なものを取り出さうと試みたのである。この危險の多い作業にもかかはらず、部分的には兎に角、大體においては方向を見失はなかつたと今日いふことができると信じてゐる。
 私はこれらの論文によつて、いはゆる革新政治の必然性をその政治的及び思想的側面において、明らかにすることを試みた。またこれに關聯する憲法上の諸問題についても、新しい理論的構成を示した。もし個々の點に言及することが許されるならば、私は最初からこの革新政治を、對外的危機に對應するための國内政治として、しかも恒久的なものとして性格づけてきた。そしてかやうな革新政治の方向を、「國防國家」への方向として 規定し、「國防國家」の概念構成を試みたのは、昨年「國防國家」のスローガンが喧傳されはじめたそのほとんど一年前の、一昨年の四月のことである。また從來から考へられてきたいはゆるー國一 黨の工作によつては、政治の多元性の克服を期待しがたいことを主張したのは、新體制運動の成立以前の昨年の三月のことである。現在の興亞諸團體について問題とされてゐる諸難點についても、私は既にこれを二年以前に指摘し、つくられた東亞新秩序の擔當者とこれからつくりだされるべき東亞新秩序の建設の擔當者とを區別することによつて、その解決の方法を指示してゐる。更にまた現在の問題としては、大政翼賛運動についての憲法的解明を試み、その合憲法性を主張してゐる。なほこれらの主張一般において、私は從來の自由主義的な考へ方の社會的限界性を示すことによつて、――時代超越的か自由主義排撃の説教によつてではなく、――この思想の現在における無力性・時代錯誤性を指摘してゐる。かやうな諸點において、今日においてもなほ「國防國家」の建設の理論づけとして、この著書は若干の存在を主張することが許されるであらう。
 最後にこの著書の篇別についていへば、第一篇は現在の第二次近衛内閣における諸問題を内容としてゐる。第二篇は、第一次近衛内閣から第二次近衛内閣にいたるまでの期間における、政治評論的なものをまとめたものである。第三篇は主として政治思想的な諸問題を中心としたものである。なはこれらの論文には同じ内容が反復されてゐる點もあるが、これは諭文の性質上繰りかへしを必要とするものが多かつたからである。この點は讀者の御諒承を願つて置く。

  昭和十六年二月一日
                 著 者   

 第一篇

 大政翼賛運動の合憲法性

 (15-20)
 四            2022.12.15

 ここにはまづ大政賛運動の窮極の目標である國防國家體制において、憲法第二章の個個の條文の規定する國民の權利・自由の保障はどうなるかを考察しよう。さきにも述べた通り、一般的な憲法的疑惑の感情は、この點に一番深く根を下してゐるから。
 國防國家體制は自由主義體制に對立するものである。國防國家體制は自由主義體制のやうに個々の國民の自由な活動、個人相互間の自由競爭のなかに、國家の發展を期待しようとするものではない。むしろ明確に規定された廣義國防の觀念によつて、一切を規整しようとするのである。ここでは個々の國民や特定集團の自由及び權利の保護や仲長に重點が置かれるのでなく、これらのものをあげて全體的利益に奉仕せしめること――いはゆる公益優先――が要求されるのである。
 したがつて國防國家體制においては、自由主義體制におけるよりも遙かに大なる國民の權利・自由に對する制限が行はれることは豫想しなければならない。この制限は質的にも量的にも強化される。單に從來の仕方ににおける制限が強化されるだけでなく、制限を受ける物的領域の範圍も擴大されるものと見なければならない。これが法第二章の權利・自由の保障の規定に矛盾しないだらうかは、もちろん制限の仕方にもよる問題である。しかしそれを憲法第二章に規定した個々の權利・自由の多くは法律によつてのみ制限することが許されてゐるから、法律によつてすれば可能ではないかといふやうな形式論理を弄しようとするのではない。
 私は憲法第二章の權利・自由にする諸規定が「法律依ル非スシテ」「法律ニ定メタル場合ノ外」「法律の範圍内ニ於テ」などと規定してゐるのは、法律によればいかなる制限も可能であることを意味してゐると考へようとするのではない。もしさうであるとすれば、それこそ大政翼運動に對する批判の武器としてよく用ひられるところの「憲法の精神」に反する考へ方である。憲法がかやうな規定を設けたのは單に權利・自由の制限を法律に授權するといふ意味をもつのでなく、同時にこの權利・自由を尊重する意味のあることは、憲法上論中に「我カ臣民ノ權利及財産ノ安全ヲ貴重シ」と宣言されてゐるによつても明らかである。
 しからばどの程度までの制限が可能なのか。すでに述べたところの「公益ノ爲必要ナル處分」の範圍が、時代々々客觀的要請によつて左右される。したがつて自由主義體制においては憲法違反だと考へられるやうな制限も、國防國家體制においては可能とされる場合が存するのである。これは憲法解釋論でなく政治論だといふ非難も承知してゐる。しかし私はこれこそ生きた憲法解釋論だと固く信じてゐる。
 このことは國防國家的體制における權利・自由の制限に限界がないといふのではない。以下これについて述べよう。國防國家體制は、平時體制そのものを戰時體制化するものである。そしてそれは一時的經過的のものでなく、恒久的性格のものである。かういふ設明を私は從來からしてきた。この設明を變更する必要は認めない。しかし憲法第二章との關聯において國防國家體制の性格を考察するためには、若干の補足的説明を附加する必要がある。
 すなはち憲法二章との關聯において見た國防國家體制は、やはり現在におけると同樣に、二重の法體系をもつのである。その一つは國家總動員法體系であり、他の一つは、これに對立する意味での平時法體系である。國家總動員法の制定のもつ憲法的意味は、憲法上の「非常的狀態」として、特に憲法策三一絛の非常大權の規定にもとづくところの戰爭等による國家的危機を克服するための具體的處置として、戰時法體が確立せられたのではなく、憲法上の「正常的狀態」における平時法體系そのもののなかに、戰時法體系が挿入された點に存するのである。この法律は從來のあらゆる法律に比較して、遙かにまた徹底的に國民の權利・自由を制限してをり、これを從來からの憲法の自由主義的把握によつては、説明しえなない點を多くもつてゐた。この法案が昭和十三年に議會で審議された際に、多くの憲法的疑惑の論議が生じたのはそのためである。私は當時その憲法違反に非ざる所以を主張したのであるが、今日では憲法違反論を耳にしないから、これに觸れることを省略する。
 この國家總動員法は平戰時を通じて發動すべき諸規定と、「戰時二際シテ」のみ發動すべき規定とを含んでゐる。國民の權利・自由に對する重大な制限を規定してゐるのは、この後者の方である。故に國家總動員法による權利・自由の制限の主なるものは、戰時に際しての一時的經過的のものであといふ一面をもつてゐるのである。
 將來の國防國家體制においても、この國家總動員法體系が存續し、ますます強化されることは明らかである。この意味では國家總動員法を通じて見た國防國家的體制は、或る一面一時的經過的といふ意味をもつのである。しかし同時に國防國家的體制は恒久的一面をもつ。それは平時法體系そのものにおいて、憲法の自由主義的機能の時代と異なり、遙かに重大な權利・自由の制限がなされるからである。けれどもこの制限は決して限界のないものではない。なぜならこの制限が限界なしに行はれるならば、それは結局一面において一時的經過的な國家總動員法の存在を無意味ならしめるからである。換言すれば、「戰時二際シテ」といふ限定のない國家總動員法の存在と同じことになり、國家總動員法と平時法體系との二元性を克服することとなるからである。
 この意味では國防國家體制における國家總動員法と平時法體系との關聯を考察するならば、平時法體系における權利・自由の制限は、國家總動員法におけるそれほどには強大なものではありえず、それより温和的のものであらねばならないことは明らかである。この意味において憲法的疑惑の生れる餘地がないのである。

引用・参照・底本

『國防國家の理論』 黑田 覺 著 昭和十六年二月十一日發行 弘文堂書房

(国立国会図書館デジタルコレクション)