久米邦武翁の慷慨2023年01月25日 17:09

近江蕪村九老画譜
 『最近社會百放談』 編輯兼發行者 長谷川善作    

 (一八〇-一八三頁)
 ▲久米邦武翁の慷慨            2023.01.25
 
 「神道は祭天の古俗」と題する一論文の爲に、大學教授を棒にふつた、久米邦武翁は、近來大森在に間居し、讀書を友として居らるゝが、當り難い氣燄は例乍ら盛の事だ。曰く。學説の自由は未だ日本では認めて居られぬ。新聞社會で云へばつまり言論の自由。此自由なるものが、一般言論の上に許されずては、新聞雜誌の發達も亦到底期せられぬと同じく、如何に新なる材料を得、明確なる考證が遂げられても、苟にも學説發表の自由が不拘束でない以上は、學問の進歩は到底望み得るべきものではない。然るに世間の人の、之に對する考えが、大變違つてるには殆んど困却するので、早い話が新聞紙が何か忌諱に觸れた事でもかくと、發行禁止とか何とか、法律の制裁を受くるものゝ、之れと同時に、社會の同情を博して、新聞の賣れ方が却つて増しても來る。つまりはお上の御咎を蒙つても、他の方にそれ丈け人氣を引くから、言論の不自由亦強ち苦にするに足らぬではないか。處で我々の方になると、何か一の新説を樹て異論でも唱へるが最後、獨り法律の制裁を被る計りでなく、社會が寄つてたかつて、苛める、擯斥する、激烈な迫害を加へる、地位もすてねばらぬ、職業も失はねばならぬ、果ては全く身の措き處を求めやうとしても得られぬと云ふ、之は愚痴らしいが、實に憐な境遇に陥つて了ふので。
もし學問上の見地あら、君の議論は、此通り誤つて居る、此處が間違つて居ると、堂々と遣り込めるのなら、何の樣な駁論でも、攻撃でも潔く受けやうが、唯習慣と云ふ、あつてない樣な杓子定規の俗見を土臺にした、似而非愛國者の口吻で、理も非もなく壓迫せられるには、馬鹿々々しくつて腹の立ちやうもない。此頃も大學出の若手が二三人やつて來て、どうか學説の自由を主張したいと云ふから、君方が一生ねて居て食ふ錢があらば格外、左もなくて下手にソンな事を行ると、乞食になるぞと注意してやつた。社會がこんな風ぢやもの、學者の曲學阿世になるのも、無理はないのさ。

引用・参照・底本

『最近社會百放談』 編輯兼發行者 長谷川善作 明治三十五年二月十三日發行 駸々堂

(国立国会図書館デジタルコレクション)