雲井龍雄の歸順部曲點檢所に犬2022年11月10日 08:52

明治密偵史
 『明治密偵史』宮武外骨 著

 (一-二頁)
 自 序            2022.11.10

 明治十五年一月一日より實施された我國の「刑法」第百二十六條に
 「内亂ノ豫備又ハ陰謀ヲ爲スト雖モ未タ其事ヲ行ハサル前ニ於テ官ニ自首シタル者ハ本刑ヲ免シ六月以上三年以下ノ監視に付ス」
 現行の新刑法第八十條には單に「其刑ヲ免除ス」とある
 これは政府の密偵政策を露骨に表示した法文である、外の大罪大逆事に就て此自首免罪の事なく、單に内亂罪のみに此特例があるのは、政府の寛大を示したやうであるが、其實は叛逆者と行動を共にせしめて、時に過激の言を放ち不穏の擧に與した密偵の罪を免れしむる爲めの法文である、自首減刑例は本刑に一等(四分一)を減ずるの制定であるに、豫備行爲又は陰謀内談をも罰して餘さない内亂罪に此特例を設けたのは、政府者が自家防衛の爲めに密偵政策を行ふ事の明證である
 斯くの如き政府者、シカモ専制時代の政府者が悪辣の密偵者を使用した事は想像に難からずであらう、明治十年警視局出版の『警察一斑』に「秘密警察の分野ハ、自由政府ノ國ニ狹クシテ専制政府ノ國ニ大ナリ、何ゾヤ、葢シ自由ノ國ハ言路開ケテ法律苛ナラズ、是ヲ以テ各人其思フ所ヲ直筆シ公ニ新聞紙ニ掲ゲテ之ヲ密ニセズ、故ニ秘密警察ニ因テ偵知スルヲ須ンヤ、専制政治ノ國ハ人々法網ノ嚴酷ナルニ怖レ各々口ヲ閉ヂテ其所思ヲ公ニセズ、事ヲ議スル皆之ヲ冥々裡ニ於テス、故ニ間諜ヲ編ミテ證告ヲ得ルノ方法ヲ執ラザル可ラズ」とある、時の警視局長大警視川路利良は之を玉條として間諜を使つた、自由政府に改むることを欲しない當路者は、法制上にまでも密偵政策を公にして民衆を敵視した、其専制政府の罪悪を網羅して、こゝに本書の編成を告げたのである

 (三-四頁)
 例 言            2022.11.10

 〇本書は明治の初期より二十二年までの間、専制政府の閣臣共が自家防衛のために使つた犬の事を歴叙するのが主旨である、故に常事犯者偵察の事は少しも採らない、車夫に化けて強盗犯人を捕へたとか、紙屑買になつて紙幣贋造犯の端緒を探り得たと云ふが如き例には、興味ある奇談も少くないようであるが、それ等は世間に多くある所謂「探偵物」に盡きて居る、本書は暴虐を極めた明治の専制政府を痛撃すべき資料の蒐集として、古い新聞雑誌を披閲中に發見した政府の犬に關する事實を列擧したもので、裏面政治史の一部として公刊するのである
〇本書の取材は密偵の事實談と密偵の評論文との二であつて、それを混記してある、評論文を史實に加へる事は失當であるとの非難を受けるかる知れないが、編者は其評論文が新聞雜誌に現はれたのは、當時の政府者が犬を使ふことの事實多きを見て、其政策の誤れる事を痛諭して政府に警告したものが主要であるから、此慷慨的論客のあつたことも史實として採用しなければならぬと信じたからである、啻に評論文の現はれたのが事實であるのみならず、事實根據とした評論文であるから、事實採取の上よ り見通す可らざるものではないか
〇本書は上篇正篇下篇の三に區分して、正篇を本書の眼目とする、上篇は密偵に就ての概説などで、正篇通讀の参照とし、下篇は雜記として正篇の附錄である
これだけの材料を蒐集したのは容易の業でなかつた、一日の晝夜を費して數百枚の新聞紙を披き、或は數十冊の雜誌を閲して、何等の得る所がなかつた事もある、其漸く得たる所の材料を取捨整理して一冊の本書を作り上げる迄にも二ケ月以上を費した、人生讀者となるとも著者となる勿れと云ひたい程のグチも出た 
 次は『明治演説史』と同樣の例言二節を左に記して置く
〇本書は根據ある事實の採集が著者の特色であるから、ウルサイやうだが、一々原新面雜誌の名と發行月日を記入して置く、節約の記述でも大慨は古い新聞雜誌に據つたのである
〇明治二十三年迄を叙述の限りとしたのは、憲法發布までが政界の一期限であるのと、又著者がやつて居る明治文化の研究範圍も同年著者が初めて入獄した三月迄を限 りとし・古い新聞雜誌の蒐集も同月を限りとして居るからである、國會開設後の密偵史は、後生に委して置く
 大正十五年六月十五日

 (一- 一頁)
 緒 言             2022.11.10

 敵情視察が密偵の本旨である、政治的密偵、これを「政府の犬」と稱す、明治の専制政府は其犬を全國に徘徊せしめて辛辣の檢挙を敢行した、これ政府が國民を敵視し、國民が政府を敵視して居た確證であらう、上下融和の國に密偵の必要はない、政治の擅恣横暴の度と密偵行使の數とは正比例する、明治の専制時代と後の立憲時代とは密偵行使の數が大相違で、立憲時代には専制時代の十分一に過ぎなかつた、同じ専制時代にも縣治に苛虐を極めた福島縣令三島通庸などは、他縣に十倍する悪犬を使つた
本書は専制政治家が如何に自己防衛にアセツタか、義憤若しくは不平の國民が如何に虐遇されたかを知らしめるもので、明治文化裏面史の一として無類且有用であらうと信ずる

 (二三-二三頁)
 雲井龍雄の歸順部曲點檢所に犬  2022.11.10

明治の新政府が目上の瘤として苦にして居たのは、不平士族の徒である、それで各藩へ密偵の犬を入れた事は前記の如くであるが、當時米澤藩士雲井龍雄をして「今時の政體を察するに、上、王を尊ぶにあらず、下、人民を撫するにあらず、只奸臣賊吏の専恣を滿足せしむるにあるのみ」と叫ばしめ、又尊王攘夷を名としで幕府を倒せし者が直ちに開港主義に變ぜしを憤慨せしめ、其奸臣賊吏を鏖殺し、明治政府を顚覆せんと畫策した雲井龍雄が、表面は諸藩脱籍の不平士族鎮撫と稱し、東京芝二本榎町の寺院に「歸順部曲點檢所」といふ看板を掲げ、諸藩の不平士族を招いたので、集る者四十餘名あつたと云ふが、政府は豫ねて龍雄の叛逆心を察知して疾くに密偵を附けて居た位であるから、右の擧を怪しき事と見、數名の密偵を不平士族の群に粉れ込ましめて居たのである、それで龍碓が諸軍の部暑長と成り、原直鐵が日光方面の主將、大忍坊が庚申山方面の主將、奥羽方面は北村正機、甲州方面は城野至、東海道方面は三木勝が主將と成つて、新政府討伐の軍を起すといふ事が、事前に漏れなく政府へ知れたのである、龍雄は其徒と共に明治三年十二月二十八日、千住小塚原に於て斬首の刑に處せられた

引用・参照・底本

『明治密偵史』宮武外骨 著 大正十五年八月五日 文武堂

(国立国会図書館デジタルコレクション)