新ヨーロッパ戰線の構築 他2022年11月26日 11:40

雅邦集
  『ヒトラー總統の對米宣戰布告の大演説 一千年の歴史を作らん』 ヒトラー 〔述〕

  「戰爭の責任はル—ズヴエルトにあり!」
  ヒトラー總統の對米宣戰布告大演説 
  (一九四一年十二月十一日獨逸國會に於て)


 (3-4頁)
 新ヨーロッパ戰線の構築            2022.11.26

 ノルウエー戰終了直後既に西部に於ては停戰の可能性が生じたのでドイツ國の指導部は先づ第一に政治的、戰略的及び經濟的に重要な占領地區を取り敢へず軍事上確保するの止むなきに至つた。それが爲當時占領された諸國の抵抗力の方向は爾來一變したのである。大規模な基地及び要塞地帶は今やキルケネスからスペインの國境迄に及んでゐる。無數の飛行場は新設された。然もこれは遠く北部に於ては或るものは花崗岩の原石爆破により造られたのである。海軍には海上からも空中からも實際上難攻不落な規模を有する潜水艇基地が建設された。又千五百餘の砲臺は防備の衝に當つてゐて、その陣地は調査され計畫されて構築されたものある。尚は道路及び鐵道網が建設され、現今はスペイン國境とベツアモ間の連絡が海上とは無關係に確保されてゐる。海陸空軍の工兵隊及び建設大隊はトッド部隊と提携して茲にジ—グフリード線に毫も遜色なき施設を構築したのである。然も毅然としてその擴大強化に寧日なき有樣である。
 このヨーロッパの正面を如何なる敵の攻撃に對しても不可侵たらしむること、これ余の斷乎たる決意である。昨冬中も繼續された防禦的性質を有するこの事業はそれ迄は季節の關係に制限されてゐた攻撃的戰爭が遂行されるに及んで完成されたのである。ドイツの海上並に海中戰闘力はイギリスの艦船並にその任務に服する艦船に對して不斷の殲滅戰を續けた。ドイツ空軍は偵察並に攻擊により敵艦破壊を援助し、英本土に對する無數の報復爆撃により所謂「魅惑的戰爭」とは如何なるものであるかを、より明かにイギリス人に示したのであるが、何ぞ計らんこの「魅惑的戰爭」の元祖たるや第一に現イギリス首相その人に指を屈せねばならぬ。

 (4-6頁)
 北阿戰線の戰果

 今次の戰爭に於いて昨年の半ばドイツは、特にその盟邦イタリーの援助を受けた。數箇月に亘つてイギリス努力の一大部分が盟邦イタリーの双肩に重く被さつてゐたのである。英軍は單に重戰車の極めて優勢なお蔭で北阿に於ては一時危機を招來するに成功したが、昨年三月二十四日には早くもロメル將軍指揮下の少數部隊より成る獨伊聯合軍が反擊を開始したのである。四月二日にはアゲダビアが陷落し、四日には聯合軍はベンガジに到達、八日にはデルナに入城し、十一日にはトブルクを包圍し、十二日にはバルディアを占領した。ドイツのアフリカ遠征部隊は、戰場の氣候が全く相違し、ドイツ人には不慣れであつたにも拘らず愈々以て赫々たる戰果を收めたのである。嘗てスペインに於ける如く今や獨伊兩國は北アフリカの野に於いて同一の敵に對し手に手を携へて戰つてゐる。
 斯くの如き果敢な行動により北阿戰線が獨伊兵士の血を犠牲にして再び確保されてゐる間に歐洲は既に恐るべき不吉の影に覆はれたのである。余は一九三九年秋緊急已むを得ざる必要に迫られ獨ソ間の焦眉の不和を芟除して全而的平和の前提を確立せんと決心した。元來ドイツ國民、特にナチス黨の堅持するポルシェヴイズムに對する立場が全然反對なためこれは余に取つて精神的には苦痛であつた。然し乍ら實際上は困難では無かつたのである。何故かといふとイギリスがドイツより脅威されてゐると稱し援助條約を口實にして侵略した凡ゆる國々に對してはドイツは事實常に經濟的利害のみを目標としてゐたからである。
 ドイツ國會議員諸君!余は又その理由として諸君に回想して戴さ度いのはイギリスが一九三九年初夏及び盛夏に又もや多數の國々に對してドイツが之に侵入しその自由を剝奪する意向を有してゐるかの如く主張して、之等諸國に援助を申し出た事である。随つてドイツ國及びドイツ政府はこれは毫も事實に卽せざる單なる想像に過ぎないものであると確信を以て斷言し得たのである。

 (6-9頁)
 バルチック諸國の迷蒙

 加之英外交に乘ぜられて一の戰爭がドイツ國民に強制せらるる樣な場合にはドイツはその戰を極めて高價な犠牲を拂つてのみ遂行可能な所謂二面作戰より敢行するより他はないといふ冷靜な軍事上の認識を得たのである。更にバルチック諸國、ルーマニア其他がイギリスの援助條約採決に傾き又これによつて彼等諸國も亦斯く の如き脅威を信ずる旨を暗示したので自國の利害關係の境界を決定することはドイツ政府にとり單に權利のみならす同時に義務であつたのである。
 之等の諸國は其の後間もなく東部の脅咸に對する最も強力な保證となり得た唯一の要素は獨りドイツ國のみであつたといふことを認めざるを得なかつた。之等の國が斯く後になつて始めて認識したのはドイツとしても遺憾とするところである。兎に角彼等の滅亡したのはその自己の政策を通じドイツとの連繫を遮斷し、その代りに他國の援助を信頼した結果に他ならないのであつてこの他國たるや數世紀來文字通りの自己主義に堕し未だ嘗て援助を與へず寧ろ常に救援を要求した國である。
 然し乍らドイツは之等の國々の運命に就いて同情の念を禁じ得なかつた。フィンランド人の冬季戰は吾人に苦惱と驚歎との混同せる一種の感情を抱かしめた。驚欺したのは吾人自身が尚武の國民として英雄的行爲や犠牲心に對し感じ易い情操を有るが爲であり、又心苦しく感じたのは吾人が西部の脅威的敵と東部に於ける危機とを空しく目前に見乍ら當時はこれらの國を武力を以て援助し得ぬ立場にあつた爲である。而してソ聯がドイツの政治的影響圈を眼定してこれによりその圏外にある諸國を事實上撲滅するの權利を捻出せんとすることが明かとなつた後獨ソ關係は、只單に各自の目的を迫求する爲に續けられたに過ぎなかつたのであつてこれは凡そ理性と感情との全く許さゞるところであつた。
 ドイツは其の後數箇月を經て一九四〇年には早くもクレムリンの一味こそヨーロッパを支配し、以て全歐を破壊せんと意識的に計畫する者であると認定するに至つた。余はドイツがソ聯の國境に隣接せる外に僅か數個師團の兵力を配備するに止めた當時既にソ聯の軍事力が東部に於て前進せる事實につき概貌を明かにしたのである。既に當時東部に於ては前古無比の大規模なソ聯軍の前進が實行されてゐたことは盲人と雖も看過し得なかつた。然も脅威されてゐないものを防禦せんとする日的ならばせめてもましであるが、然らずして寧ろ防禦力を最早有しない樣に見えたものを攻撃せんとのみしたのである。
 而して西部に於ける戰闘が電撃的に終結してモスカウの為政者達が當にしてゐたドイッの急速なな國力疲弊の可能性が消え失せたにも拘らず彼等の意嚮は毫も變らなかつたのであつて寧ろ彼等は攻撃の時期を單に遷延したに過ぎながつた。彼等は恐らくは一九四一年の夏こそ攻撃開始の爲にも最も好機であると思つたに違ひない。全歐は所謂蒙古人の新らしい襲來に依つて危く蹂躙されんとしたのであつた。

 (9-11頁)
 ヨ—ロツバの境界とは ?

 然しこれと時を同じうしてチャーチル氏は對獨戰を強化すると約言した。彼は今は一九四〇年英下院秘密會の席上、ソ聯の參戰を以て今次の戰爭を有利に繼續し終結せしむる最も重要な因子であると強調し又ソ聯の參戰は晚くとも一九四一年には實現し、次いで英國は自國も亦攻撃に移り得るであらうと自ら示唆した事實を卑怯にも否定してゐる。今年春、我々は随つて確固たる義務の爲人力及び物資を無盡藏に所有するかの如く見えた。一大國の進軍の跡を追ふたのである。斯くしてヨー   ロッパは愈々暗雲に閉ざさるるに至つた。
 議員諸君! 然らばヨーロッパとは何んであるかといふに、ヨーロッパ大陸については何等地理的定義が無い。只民族的及び文化的定義があるに過ぎない。ウラルはヨーロッパ大陸の境界ではなく、西方の生活樣式を東方のそれと隔絶するその線である。
 曾てはかういふ時代があつた。それはヨーロッパがギリシャの島嶼の様なものであつて、ここへ北方の民族が侵入して來て爾來徐々ながら不斷に人類の世界を明朗にした焰をここで初めて點したのであつた。このギリシャ人共はペルシャの征服者の侵入を防いた時にはその狭隘な故國を防護せず却つて現今ヨーロッパといふこの慨念を防いだのである。
 而して次いでヨーロッパの中心は古代ギリシャからローマに移つた。茲に於いてローマの思想及び政治がギリシャ精神並にギリシャ文化と合體したのであつてこれにり一大國が建設されたが現今も尚その意義が創造的力を發揮してゐないのである。況んや優勢ではないことは勿諭である。然しロ—マ軍のカルタゴ侵略に對抗し三 回も參戰してイタリーを防禦し且つ遂に勝利を博した時彼等の戰つたのは再びローマのためではなかつたのであつて、寧しろギリシャ、ローマ的世界を包含せるヨ— ロッパのためであつた。

 (11-13頁)
 ヨーロッパ發達

 新しい人類文化のこの故國の土地へ次ぎに侵入したのは遠く、アジアより襲來しな民族であつた。非文化的漂白民の怖ろしい大群が奥アジアから現今のヨーロッパ大陸の中心地まで火を放ち殺戮を行ひつつ恰も神の懲罰の如く襲來した。次いでカタラニアの戰野でローマ人とゲルマン人が始めて協同し重大な運命戰を遂行しギリシャ人に源を發しローマ人を經て今やゲルマン人にも影響を與へた一の文化を擁護した。
 ヨーロツパは育成した古代ギリシャ及びローマから西洋が生れたた。而して西洋を擁護することは數世紀亘つてひとりローマ人の使命のみならす特にゲルマン人の使命であつたのである。然し乍ら西洋がキリシヤ文化の照明を浴びローマ帝國の力強い傳統を感受し且つゲルマン人の開發によつて擴大するに随つそれだけ一の觀念が地域的に擴がつたのであつてこの觀念を我々はヨーロツパと呼んでゐるのである。ドイツの皇帝がウンシユトルツス河畔や或はレツヒ河畔で戰つたのは東方民族の侵入を阻止する目的であつたかどうか、或はアフリカが長年戰つてスペインから獨立したかどうか、かう云ふことは枝葉な問題に過ぎない。要は、これらも皆常に成長せんとするヨーロツパが根本的に異つた世界に對して遂行した一の闘爭であつたのである。嘗てローマはヨーロツパ大陸の建設防護のため不朽の功績を樹てたが次いでゲルマン人も今や諸民族より成る一の所謂家族を防衛し守護するの任を引受けたのであつて、この家族内に於ては相互にその政治形態及び目標について尚ほ相違し相反するものがあるが、然し全體から見れば血統上及び文化上部分的には同じであり又部分的には統一を保つてゐる。而してこのヨーロッパからは地球の他の部分へ移住するものが出でた許りでなく同時にヨーロッパからは精神及び文化的果實が他の大陸へ移植されたのであつて、この果實は眞理を否定せすして追求する意志ある者のみの認識するところである。
 随つてヨーロッパはイギリスにより開化されたものではなく寧しろヨーロッパ大陸に於けるゲルマン民族の片われがアングロサクソン及びノルマン人としてこの島、即ちイギリスへ渡り、これを進歩せしめたもので、このシンポは但し長くは續かなかつたのである。而してこれと同様にアメリカがヨーロッパを發見したのではなく、ヨーロツパがアメリカを發見したのである。アメリカがヨーロッパからは翰入しなかつたものは凡てユダヤ化した一の混合民族にとつて嘆美すべきものと思はれるかも知れぬがヨーロツパは斯くの如きものは藝術及び文化生活を頽廃せしむるもの換言すればユダヤ人或は黑奴の血統の遺産としか思はないのである。

 (13-15頁)
 全ヨーロツパの運命の爲に !

 ドイツ國會議員諸君 ! 余が斯くの如く論及せざるを得ない理由は本年の初めより徐々に必然的になり、且つ第一にドイツ國が其の指導に當る義務ある今次の戰爭こそ同様にドイツ國及び國民の利害を超越するものであるからである。換言すれば嘗てギリシャ人がペルシャ人に對抗しギリシャ自國を防がすして寧しろヨーロツパを防禦しロ—マ人が力ルタゴ人に對しローマにあらずしてヨーロツパを、又ローマ人及びゲルマン人が匈奴に對し西洋にあらずしてヨーロツパを、ドイツの皇帝が蒙古人に對してドイツにあらすしてヨーロッパを、スペインの英雄がアフリカに對しスペインにあらずしてヨーロツパを、防護した如く、ドイツも亦目下自國の爲にあらずして全ヨーロツパの運命の爲に戰つてゐるのである。
 この認織が主なるヨーロッパ國民の根本意識に現今深く根を下ろしてゐる事は喜ぶべき徴候であつて、この現れが個人の赤裸々な意見の發露なると義勇兵の戰爭參加たるを問はないのである。
 ドイツ並にイタリーの軍隊が本年四月六日ユーゴースラヴイア及びギリシヤの攻擊を敢行した時が既に、目下我々が遂行中の大戰爭の序幕であつた。何故かといふにイギリスの主謀者共は、この戰爭勃發に關與してはゐたが、然し實はロシアがその主役を演じてゐたからである。余はモトロフ氏のベルリン訪問の際同氏に對し拒絶したことをスターリンは再び我々の意志に反し、革命的運動により所謂廻り道をして遂行し得るものと信じたのである。締結された諸條約等は毫も顧慮せずボルシエヴイキの主權者共は彼等の意向を強化したのである。この新しい革命的政權たるソ聯と友好條約を締結するに及んで忽然として脅威的危險の遍迫が明らかになつた。今次の戰爭に於けるドイツ國防軍の業積は一九四一年五月四日のドイツ國會で正しく評價された。然し當時余は我々が急速に或る國との衝突に驀進してゐたのを認識せる旨については殘念乍ら言明を避けねばならなかつた。この國はバルカン戰 の時はその進軍が未だ完遂せず又特にその當時の季節には雪溶けが始まつて滑走場の地質が弛んでゐた爲に飛行基地が利用出來なかつたといふ原因で當時は未だ攻整を開始しなかつたものである。

 (15-19頁)
 余を見損ふもの

 ドイツ國會議員諸君 !
 余は英下院の報告を通じ又ドイツ國境にソ聯軍が移動せる事實を看取して東部に於ける危機勃發の可能性を確認したため新鋭な戰車、機械化及び歩兵部隊を配備すら樣直ちに命令を下した次第である。これが前提をなしたのはドイツが人的に又物 質的尚ほ充分能力を保有してゐる事であつた。議員諾君 ! 之は余が諸君並びに全ドイツ國民に向つて敢へて保證し得るところである。
 過去に於ては民主主義諸國に於ても吾人の容易に理解し得る如く軍備に就ては種々論議されてゐたが、その間に我國民社會主義ドイツは着々と軍備ぜ整へたのである。此の點は過去も現在も何んら變らない。我々は一度決定が下されれば、いつもより多い又より優秀な武器を得る事が出來る。
 如何なる場合も敵をして我心臟へ始めの一擊を與へしめざる事が緊要であると如何に確認してもこの場合ソ聯に對し決心をなすのは余にとつて極めて困聽であつた。民主主義的新聞記者は余がボルシエヴイキの力を精神に知つてゐたらならば恐らくソ聯に對し攻撃を開始し得なかつたであらうと現在往々論じてゐるが、これは當時の情勢と且余、個人を見損ふのも甚しいものと云はなければならぬ。余は戰爭を自ら求めた事はない。否余は反對に回避せんと凡ゆる努力を拂ったのである。若し余が戦争の不可避を認め乍らも唯一の可能な結論を引き出すことを躊躇したとすれば、恐らくは義務を忘れ良心を捨てて行動したことになつたであらう。余はソ聯こそ單にドイツ國のみならず全ヨーロツパにとり致命的危險因子であると考へたので、出來得れば衝突勃發の數日前に自ら敵に攻撃の目標を提供せんと決心したのである。ソ聯が攻撃せんとしてゐた事實については多數の確實な證據がある。同時に又、我々はソ聯が攻撃せんとした時期についても明確に知つてゐたのである。この危險が想像以上大規模であつたのを今や始めて知るに至つて余は神が我等のなさねばならなかつた事を遂行する力を時機を違へず余に與へられたに對し余は在天の神に感謝せざるを得ない。余の對ソ決斷に對してはひとり何千のドイツ將兵がその生命な感謝すべきのみではなく實に全ヨーロツパの存立はこの決斷によつて維持されたのである。
 若しソ聯の二萬以上の戰車、數百ケ師團の軍隊、數萬に達する大砲が數萬の飛行機に誘導され突如として怒濤の如くドイツを席捲して行動を起したとするならば、恐らくヨーロツパ人は滅亡して了つたであらう。運命は多數の國民をその血を犠牲に供してこれに先んじしめた。即ちボルシエヴイキの攻撃を阻止せしめたのである。若しフインランドが再び干戈を執る決心を直ちに下さなかつたならば北歐諸國の有する地味な堅實性は瓦解したであらう。若しもドイツがその將兵と武器を以て、この敵に封抗し立ち上らなかつたならば歐洲の均衡維持といふ笑ふべき英國思想を全く魂のない馬鹿げた傳統により實現せしめんとした一つの思潮が全歐洲を席捲したであらう。
 スロヴアキアア人、ハンガリア人及びルーマニア人がこのヨーロツパの世界を共に擁護しなかつたならばボルシエヴィキの漂泊民はアチラの匈奴群の如くドナウ諸州に荒れ狂ふたであらう。而してイオニア海沿岸の廣野で今日の時勢に韃靼人や蒙古人が、モントロー條約の改訂を強制するに至つたかも知れぬ。イタリー、スペイン、クロアチアが帥團を派遺しなかつたならば、新ヨーロツパの觀の宣言として凡ての他の國民へも同時に効力を投げ與へた一のヨーロツパ擁護戰線などは結成されなかつたのであらう。かかる認識を洞察して北部並びに西部ヨーロツパからノルウエー人、デンマ—ク人、オランダ人、フランダース人、ベルギー人更に又フランス人の義勇兵が馳せ參じたのである。これに依つて樞軸諸國の闘爭は眞に文字通りのヨー ロツパ十字軍たる性格れ有するに至つた。

 (19-22頁)
 ヨーロツパ十字軍

 このヨーロツパ十字軍征戰の企劃及び指導を語るには今は時期尚早である。然し乍ら戰闘地域が餘り厖大であり、又事件が餘りに複雜重大である爲、個❖の印象が打ち消され、又記憶に留め得難い前古未曾有の今次の戰爭について既成の事實を二、三指摘する事は余は既に今ても差支へないと考へる。
 對ソ攻撃が開始されたのは實に六月二十二日の黎明であつた。我軍はソ聯の對獨進駐を驚異的に支持せんとして設けられたソ聯の國境陣地を抵抗不可能な猛烈さを以て瞬く間に占據したのである。六月二十三日には早くもグロドノを占領し、二十四日にはプレスト•リトヴイスクの陥落後敵の城砦を奪取して ヴイルナ及びコウノを攻撃した。かくして六月二十六日にはデユーナブルグが我軍の手に入つた。越えて七月十日には、プリマンスクとミンスクの最初の二大包圍殲滅戰が完了したのであつて當時我軍は三十二萬四千人の捕虜を獲得し三千三百三十二臺の戰車と千八百九門の砲を捕獲した。七月十三日には既に殆ど凡ての重要な地點に於てスターリン線が突破され又ドニエブル河の渡河も強行された。八月六日にはスモンレスクの戰闘が終末し捕虜三十六萬を算し我軍は三千二百五臺の戰車と砲三千百二十門を撃破又は捕獲した。その後三日を經て早くも其他のソ聯軍の運命を決したのである。即ち八月五日ウマンの戰闘に於て再び十萬三千名を捕虜とし、戰車三百十七臺、砲一千百門を破壊又は鹵獲したのである。八月十七日にはニコラエフが陥落し、二十一 日にはチエルソンがか占領された。又同日ゴメル方面の戰闘が完了したが其際我軍は捕虜八百四十を得、戰車百四十四臺、砲八百四十八門を破壊又は鹵獲した。八月二十一日にイルメン湖とベイブス湖間のソ聯軍諸陣地は我軍の突破する所となり、二十六日にはドニエールペトロウスクの橋頭堡が我軍の手に歸した。
 同月二十八日には既にドイツ軍は激戰の後レバル及びバルチック港に進出し又フインランド軍は三十日ヴィブリーを占據したのである。九月八日シュリユッセルブルグが占領されるに至つてレニングラ—ドは南方との連絡を完全に遮斷された。十六日にはドニエブル河の橋頭堡を占據して既に十八日にはボルトンが我軍の手に落ちた。十九日には我軍は怒涛の如くキエフの城皆に迫り同市を占領し二十一日にはエノゼル河を渡河したのである。斯くの如さ大成功によつて始めて大作戰の實が熟し たのである。二十七日にはキエフ方面の戰闘が終了したがこの戰闘に於ては捕虜數 六十五萬五千に達した。彼等は蜿蜒長蛇をなして西部へと護送されたのである。同時にこの戰闘に於ては戰車八百八十四臺、砲三千七十八門が包圍された敵陣地で我が手に歸した。十月二日には既に東部戰線の中央部に於て突破戰が開始され十一日にはアゾフ海沿岸の戰闘は赫々たる戰果に飾られて終つたのである。その際再び捕虜十萬七千名、戰車二百十二臺、砲六百七十二門を鹵獲した。十月十六日には獨羅
聯合軍は激戰の後オデツサに入城、同十八日には十月二日に開始された東部戰線中央に於ける突破戰が世界戰史上稀有な大勝利の裡に完了した。同戰闘に於ては六十六萬三千名を捕虜とし、戰車千二百四十二臺及び砲五百五十二門を破壊又は鹵獲したのである。又十月二十一日にはダゴが占領され同月二十四日にはハリコフの工業中心地を占領した。更に二十八日にはクリミヤ半島への通路を激戰後確保し既に十一月二日には首都シンフエロボールに殺到し、十六日にはケルチに至るまでクリミヤ半島を席捲したのである。十二月一日にはソ聯軍の捕膚數は三百八十萬六千八百六十五名に達した。また擊破或ひは鹵獲せる戰車の総敷は二萬一千三百十一臺、砲三萬二千五百四十一門、飛行機一千七百三十二機に上つた。又同期間内に英機二千百九十一臺をも撃墜したのである。尚ほ海軍によつては四百十七萬六百十一頓の艦船が、空軍によつては二百三十四萬六千六百八十頓が撃沈された。其の際撃沈頓數は六百五十萬六千七百九十一頓に達した。

 (22-27頁)
 世界に誇る歩兵部隊

 議員諸君 ! 國民諸君 !
 これは全くありのまゝの 事實であるが、恐らく諸君にとつては無味乾燥な數字であらう。然し乍ら諸君は我々ドイツ國民の歷史、更に意識並に記憶からこれを搔き消さない樣にと余は祈るものである。何故かと云ふにこの數字の蔭には業績と犠牲と苦困が隠されてゐる。ドイツ國民及びその盟邦の數百萬の最良の男子が抱く決死的な魂、滅死奉公の精神が宿つてゐるのである。
 これは凡て生命と生活を全部投げ盡し故國では殆んど想像の及ばぬ努力を拂つて獲得されたものである。遠く無限の境に進軍し、酷暑と渴に苦惱し、果てしなき泥濘の道に阻止されて殆んど絶望の淵に陥り、七、八月の酷熱、十―、十二月の冬の暴風と闘ひつつ白海から黑海に至る不慣れな惡氣候に曝され、虫に惱み、汚物や害虫に苦勞し、雪や氷に凍えてドイツ人、フィンランド人、イタリー人、スロヴァキア人、ハンガリー人、ルーマニア人、クロアチア人、北部及び西部ヨーロツパ諸島よりの義勇兵は戰つたのである。ここに余は特に東部戰線の兵士を擧げたい。然し冬季に入るに及んで今やこの戰闘行動は自然的に停止され、夏季の到來と同時に進軍は再び續行された。
 余は本日は軍隊の名を一々擧げたり、または司令部の功績を稱揚したりしようとは思はない。彼等は擧つてその最善を盡したのである。然し乍ら、或る一事だけはこれを何度でも確認するのが、理解ある専であり又正當であると考へる。即ち、凡ゆるドイツ將兵の中で、最も困難な戰闘任務に服してゐるのは、今も昔と變らず、我等が世界に跨る步兵部隊だといふことである。
 六月二十二日から十二月一日までの間にドイツ軍が今次の英雄的戰闘に於いて失たのは、戰死者十五萬八干七百七十三名、負傷者五十六萬三千八十二名、及び行方不明者三萬一千一百九十一名であり、空軍にあつては、戰死者三千二百三十一名、負傷者八千四百五十三名、行方不明者二百八名であり、又海軍では、戰死者三百十名、負傷者二百三十二名、及び行方不明者百十五名である。随つてドイツ國防軍は全部で戰死者十六萬二千三百十四名、負傷者五十七萬一千七百六十七名、行方不明者三萬三千三百三十四名を喪失した。かくて、戰死傷者の數は前大戰のソンム戰の戰死傷者數の約二倍強で、行方不明者の方は當時の數の半數に達しない。然し凡てがこれ皆我が國民の父であり息子である。而して諸君、余は次にかの一の他の世界に對して意見を披歴してみよう。その世界は數多の國民と將兵が氷雪の中で戰つてゐる時に、いい氣になつて爐邊で閑談など耽る癖のある男に代表され而もその男といふのが今次の大戰の抑々張本人たる世界である。一九三九年に當時のポーランド国に於ける諸民族の狀態が愈々堪え難きものとなつた時に、余は公正なる妥協によつて滿足すべき解決に達せんものと努力する處があつた。暫くの間は恰もポーランド政府自身が理性的な解決に同意すべく、眞面目な考慮を拂つてゐる樣に見えた。余が茲で尚附言し得る事は、これら總ベての提案に際してドイツ側は、以前にドイツ領であつたもの以外の何物も要求しなかつたといふことである。
 否それどころか、寧ろ反對に我々は、前大戰以前にドイツに所屬してゐたものをも少なからず斷念した程である。諸君は今比の當時の劇的發展過程や、益々增大したドイツ系民族の犠牲を想起されるであらう。議員諸君 ! 諸君はこれらの血の犠牲を今次の戰爭の犠牲と比較してみるならば、當時の犠牲が如何に甚大であつたかを最もよく測り知ることが出來るのである。東部戰線に於ては之迄にドイツ國防軍は總數十六萬の戰死者を犠牲に供した。然るに、當時を見るに、極めて平和な時代であつたに拘らず數ケ月間にポーランドは六萬一千名を超えるドイツ人が殺害され、而もその一部は殘虐極まる拷間を受けたのであつた。我ドイツ國が接壌地に於ける斯かる狀態に異議を申立て、而してこの狀態の打開を嚴重に要求し、旦つ總じて自國の安全についても考慮を拂ふべき權利を有してゐたといふことは、他の諸國が他の諸大臣に於いてさへその安全のため基地を追求する如き現在の時代にあつては、極めて當然な事である。解決せらるべきであつた問題は、領土的に見れば些細なものであつた。本質的には、ダンチツヒ及び東部プロシャの切斷されたる地方と爾餘のドイツ國領との連繫といふ問題であつた。他ならぬこのポーランドに於いて當時ドイツ人に加へられたあの殘酷な數々の迫害は、思ひみるだに胸を締めつけざを得ないものがある。尚ほポーランドは他の少數民族等も亦これに劣らぬ悲痛な運命を忍ばねばならなかつたのである。同年八月に入つてから、全權委任の形式で與へられたイギリスの保證のために、ポーランドの態度が益々強硬となつて來たのに鑑み、ドイツ國政府は、これを最後の機會として、一個の提案を行ふことに決し、この捉案に基いて、ポーランドと交涉に入る用意を有し且つその旨を當時のイギリス大使に口頭で通告したのであつた。余はこれらの提案を今日こゝで記憶から呼び起し、再び諸君の注意を喚起したい。

 (27-34頁)
 ポーランド問題に對する獨逸の提案とその眞相

 その時の提案といふのは、ダンチツヒ廻廊問題並びに獨波に於ける少數民族問題の調整に關するものであつた。當時ドイツ、ボ—ランド間の情勢は頓る緊迫してゐて、正に一觸即發の狀態にあつたものといふことが出來る。そこで、如何なる平和的解決と雖も、それがすぐ次の機會に斯かる狀態の原因となるが如き諸事態を發生せしめないやうに、またそれによつて單に東部ヨーロッパのみならず、他の諸地方までも同樣の緊迫狀態に陷ることのないやうに、達成せられねばならないのであつた。
 事態がかくなつた原因は、第一には、ヴユルザイユの所謂獨裁條約によつて定められた實行不可能なな國境劃定法にある。第二には分離された諸地方に於ける少數民族に對する不當な取扱ひが原因である。そこでドイツ國政府は、これらの提案に際して、國境劃定を清算して双方にその存立上必要な連格路を建設し、少數民族問題も出來得れば解決せんとする考慮及び、若しもこれが不可能の時は少數諸民族の運命を、彼等の權利の完全なる保證によつて堪え易いものにしようといふ意圖から出發したものである。ドイツ國政府の確信せるところでは、その場合一九一八年以來行はれて來た經濟的及び肉體的損害を明かにし、且つそれを全而的に補償ずることが絶對に必要であつた。ドイツ國政府は、この種の義務行爲を以て、當然双方を拘束し得るものと看做した。即ち、かかる考慮に基いて次の如き實際的、諸提案が提出されたのである。
 第一、自由都市ダンチッヒは、同市の純然たるドイツ的性格並びに同市居住民の 一致せる意志に基いて、直ちにドイツ國に復歸すべきこと。
 第二、バルチック海からマリエンヴエルダー、グラウデンツ、クルム、ブロムベ ルグを繋ぐ線(これらの都市を含む)に至るまで及びそれから稍々西の方シエーンランデに至る所謂廻廊地帶は、そのドイツ又はポーランドへの歸屬に關して各自により決定せらるべきこと。
 第三、かかる目的の爲に此の地方は票決を行ふこと。その票決權を有する者とは、一九一八年一月一日現在同地方に居住してゐたか、又は同日までに同地方に生 れたる總てのドイツ人及び同様に同日同地方に居住してるゐたか、又は同日までに同地方に出生せるすべてのボーランド人、カシューブ人等々である。而して同地方より放逐されたドイツ人等は彼等の票決を行ふ爲に歸還すること。
 公正なる票決を確保するため並びにそのために必要な廣汎なる豫備工作を保證するために、前述の地方はザール地方に於けると同時に、直に構成さるべき國際委員會に從屬せられること。同委貝會はイタリー、ソヴェト聯邦、イギリス、フラン スの四大國により構成せらる可きもの。同委員會は同地方に於ける一切の主權を行使する。その為には意見の一致し得る限りの景短期間中だけ、同地方からポーランドの軍隊、警官及び官吏が退去せしめられることを要する。
 第四、本地方から除外されるのはポーランドの海港グヂニャてある。同港は、領土的に見てポーランドの植民地に限定せられてゐる眼リ、原則はポーンドの主權下にある地域である。
 本ポ—ランド港灣都市の一層細目に亘る境界はドイツ、ポーランド兩國間に於て確認せらるべく、また必要な場合にはそのための國際仲裁裁判所を設けて確定すべきものとす。
 第五、正當なる票決を遂行するに必要な廣汎なる準備に要する時問を保留するため、本票決は十二ケ月を經て始めて施行せらるべきものとす。
 第六、この期間ドイツ國に對しては同國東部プロシャとの連絡を及びポーランドに對してはその國の海洋との連絡を、夫々無制限に保證するため、自由なる通過交通を可能ならしむべき道路及び鐵道が建設せらるべきこと。この場合、當該交通路の維持乃至倫送の遂行に必要なる如き關税の徴收に限り施行せらるること。
 第七、本地方の所屬は専ら投票の多數決により確定せらるべきものとする。
 第八、票決の行はれたる後――その成行如何に關係なく――ドイツ•領地たるダンチツヒ州や東プロシャとの自由なる交通を確保し、またポーランドに對してその海洋との連絡を保證せんがために、若しもその票決地方が・ボーランドのものとなつた場会には、大體aビユトフーダンチツヒ乃至デイルシャウの方面に於て、ドイツ國有自動車道路並びに復線による鐵道線路を敷設するために、一個の治外法權交通地帶が設置せらるべきこと。これらの道路及び鐵道の建設は、それによつてボーランドの交通路が妨害せられざる樣、即ちその交通路の上を超えるか又はその上を潜るかの方法で遂行せられること。この地帶の幅員は一粁に確定せられ且つドイツの主 權下にあること。
 若しも票決の結果がドイツ側に有利となつた場合には、ボーランドは、その所有する港灣たるグジンヤへの自由にして無制限なる交通のために、ドイツに許さるべきものと正に同樣の、治外法權的な、道路乃至鐵道交通の權利を享有し得ること。
 第九、廻廊地帶がドイツに歸屬せる場合には、同廻廊が適當とする範圍に於いて、ポ—ランドとの間に居住民の交換を行ふべきは自明なること。 
 第十、ポーランドの希望せるダンチッヒ港に於ける特權の如きはドイツのグヂニヤ港に於けると同樣の權利と、對等に取扱はれて然るべきものであらう。
 第十一、本地方に於ては脅威を與ふるが如き如何なる感情をも排除せんがために、ダンチツヒとグヂ二ヤとは純然たる商業都市としての性格を保有すべきこと。換言すれば、一切の軍事的施設及び軍事專的防禦工事を施さざること。
 第十二、投票の結果ドイツかポーランドの何れかに歸屬すべきへラ半島はいづれにしても軍備は徹廢すべきこと。
 第十三、ドイツ政府はポーランドの少數民族取扱に對して嚴重杭議を提出する要あり、又ポーランド政府亦ドイツに對して幾多不滿表明の必要を認めつつあるものの如くであるが故に、兩國は茲に這般の不満を國際調査委員會に廻附することに同意する。該委員會は經済的有形的損害並びにテロ行爲に關する一切の抗告を調査する任務を帶びるものとす。
 ドイツ及びポ—ランドは一九一八年以來發生を見た一切の經濟的其の他の、兩國少 數民族の蒙りし損害を賠償すると共に一切の徴収を廢止し又は、此の種及び其の他の經済生活への干涉に對して該當者に完全な賠償を行ふべき義務を負ふ可きものとす。
 第十四、ポーランドに殘留するドイツ人並びに、ドイツに殘留するポーランド人が有する國際法侵犯の感情を一掃し、旦つ彼らに國民的感情と相容れざる行動勤務に強制されざる安全感を與へるため、ドイサとポーランドは、廣汎旦つ義務的の協定を締結して兩國少數民族の權利を確保し、以てこれら少數民族にそれぞれの民族性を保持せしめ、これを任意發揚せしむると共に、これが目的達成のために彼らの必要と認むる組織を認容するに同意する事、兩國は少數民族所所屬者を兵役に徴集
せざる義務を負ふ事。
 第十五、上記諸提案に基き協定の成立を見る曉にはドイツ及びポ—ランドは直ちに                          兵力の動員解除を手配、實施するに同意する事。
 第十六、上記取極めの促進に必要な今後の措置については、ドイツ及びポーランドは、協力してこれが一致を計る事。
 扨てドイツの提案は以上の通りであつたが、當時のポーランド政府はこれらの提案に對して回答することさへも拒絶し來つたのである。これについては、かかる眇々たる一國家が、此のやうな提案を一蹴せるに止まらず、自国に一切の文化を賦與して來たドイツ人に對して、依然として殘忍なる行爲をなせるのみならず、總動員の態勢を採つたのは何故であらうかといふ疑問が起るのであるが、後日在ワルシャウ外務省の公文書を閲覧するに及んで我々は驚くべき事實を知るに至つた。即ちこゝにポーランドの抗戰力を強化し、事態を和解に導く一切の可能性を打破する目的を抱いて、無責任にもその全勢力を注ぎ込む一人物があつたのである。 

引用・参照・底本

『ヒトラー總統の對米宣戰布告の大演説 一千年の歴史を作らん』 ヒトラー 〔述〕日獨旬刊社出版局 昭和十六年十二月三十日發行

(国立国会図書館デジタルコレクション)