秋山參謀の名文2023年02月23日 22:15

近江蕪村九老画譜
 『海軍夜話』 久住幸作 著

 (138 - 145頁)
 秋山參謀の名文

 『皇國の興廢此の一戰 に在り、各員一層奮勵努力せよ』
 明治三十八年五月二十七日午後一時五十五分――聯合艦隊司令長官東郷平八郎大將は、その旗艦三笠の檣頭高く『Z旗』を揭揚して右の名信號を全鑑隊の將士に傳へたのであつた。帝國海軍が敵ロシアのバルチック艦隊を日本海の對馬海峡に迎へて、まさに乾坤一擲の大海戰の砲火を交へんとする瞬間である。しかし開戰當初全艦隊の將士に決死決勝大決心を固めさせ、後世の全國民にも感奮興起せしめずには措かないこの名信號は、もとより開戰のその時に考へたものではなく東郷長官の命により秋山參謀が、前から準備してあつたのであつた。
 わが聯合艦隊の首腦部では、沈着巖の如き東郷司令長官をはじめ、冷靜水の如き加藤參謀長や、智謀神の如き秋山參謀などが、上村、片岡、出羽、三須、瓜生、島村、東郷(正路)、武富、山田、小倉をどの名將とともに、寄り寄り軍議を凝らされ、彼の有名な七段備への戰法をもつて嚴密なる配備のもとに、對馬海峡を扼してゐたのであつた。
 この世界海戰史上空前の大海戰の起つた日の早曉、東方の水平線上に一抹の彩雲が淡く黎明の曙光を投げかけ初めた午前四時十五分、突如無電一閃、哨艦信濃丸は『敵艦見ゆ』との警報を全艦隊に送つた。東郷長官は直ちに、
 『敵艦見ゆとの警報に接し、 聯合艦隊は直ちに出動、之れを擊滅せむとす。本日天氣晴朗な                                             れども波高し』
 全國民の血を沸かせた彼の第一報を大本營に打電しつゝ、第ー、第二艦隊を率ゐ沖の島の北方を指して鎭海灣を出動したのだつた。この「敵艦見ゆとの警報に接し…… 」の千古の名文こそ名 參謀秋山眞之中佐の執筆によるものであるといふ。もつとも、聯合艦隊は直ちに出動、之れを『邀撃」せむとすとあつたのを、東郷長官は『撃滅』せむとすと 直されたものであるといふことである。――この『撃滅』といふ言葉は現今では盛んに使はれてゐるけれど、なかなか無暗に使へるものではないのだ。殊に聯合艦隊司令官が、大本營即ち大元帥陛下に 對し奉り 『これを撃滅せむとす』と、戰爭の事前に思ひ切つて使へる言葉ではないやうである。ところが東郷司令長官は、自分の統率する聯合艦隊の強力なこと、部下の最善の努力といふことに絶對の自信を持つてゐるので『撃滅』といふ電報を大本營に打つたのであつた。
 それが日本海大海戰に見事に大捷して、それを大本營に報告したときは、
 『天祐と神助に依り、我が聯合艦隊は五月二十七•八日敵の緩隊と日本海に戰ひ、殆んどこれを撃滅することを得たり。』
 とある。前には『撃滅せむとす』といふ豫報があり、景後に『殆んどこれを撃滅するを得たり』といふ報告があつて、前後これでもつて照應するのである。
 事實、日本海大海戰の戰果は、三十八隻の敵艦艇中十九隻は撃沈せられ、五隻は捕獲、二隻は抑留その他はあるひは中立國に遁走して武裝を解き、あるひは擱座、破壊、沈沒し、浦鹽に入つたのは僅かに巡洋艦ー隻と駆逐艦二隻だけだつた。また敵艦隊司令長官ロヂエストウェンスキー提督以下六千百餘名の將兵は捕虜となり、死傷は四千五百餘名に達したのであつた。これをわか戰死傷七百餘名と、水雷艇三隻の沈沒と對比すると、わが艦隊は實に千古無比の海戰上の大勝を博し、世界のあらゆる人々が空前の讃辭を惜まなかつたのである。

 「天祐と神助」

 三笠艦上に揭げられた名信號『皇國の興廢』の、この皇國といふ言葉に就て、東郷長官は、なぜ日本帝國とも言はれなかつたか。また『天祐と神助に依り敵艦隊を撃滅することを得たり』とあるが 、天祐と神助といふ 言葉に就ては、單な形式的なものではなく、東郷長官はそれらの言葉に就ては深い考慮から用ひられたものであつた。そしてそれらの言葉は、東郷長官の幕僚たる秋山參謀中佐の名文によつて表現され、千古に傳へることが出來たのであつた。
 秋山參謀は、大正四年五月二十七日の海軍記念日當日(當時少將)畏くも.御前講演を行ふたが、その『日本海海戰』と題する一文には『皇國』『天祐と神助』といふことが、單なる説明でなく尊くも自然に表明されてゐる。その原稿によると、冒頭には 
 『明治天皇陛下の御稜威の發現の一つに稱へらるゝ日本海海戰は、古今未曽有の大海戰にして、其の未曽有なる所以は其の戰場の頗る廣大なりしこと、其の交戰時間の甚だ長かりしこと、對抗兩軍鑑隊の兵力の多大なりしことの外に、其の勝敗の差隔が著しく懸絶して敵の艦隊が殆んど全滅したるに反し、皇軍の損害が眞に僅少なりしこと是れなり。』
 と叙し、皇軍作戰計畫の要領から、激烈慘憺たる初期の決戰、決戰の終りたる後の迫撃戰を詳述してある、そして、
 『―—各艦の砲火は益々顯著なる效力を發揮し、勝敗は實に此の三十分間に決定せり。即ち日本海海戰の大勝は第一合戰の決勝より起り、其の第一合戰の決勝は實に當初の三十分 間に定りたるものにして、皇國の興敗安危は此三十分間の勝敗にかゝりしものと謂ふべなり。』
 『熟々稽ふるに此の海戰に於ける彼我艦隊の主力は殆んど對當の兵力にて、我が軍の戰艦四隻装甲巡洋艦八隻に對して、敵は戰艦八斐、裝甲巡洋艦一隻、装甲海防艦三隻を存し、各十二隻を以て主力を成せり。而かも皇軍が僅々三十分間に此決勝を贏ち得たるは素より其の當時に於ける種々なる 天祐神助の然らしめしものなれども、抑々、此の十ニ隻の主力艦隊が此の戰 場に立つを得たることが、先帝陛下(明治天皇)の卸威徳に基ける皇軍天祐神助の最大なるものと信ぜざるを得ず。實に此の十二斐の堅艦中、春日、日進の如きは日露戰役の際、伊太利より遽に購入せられ、開戰後に我が國に到著したるものにて、若し此のニ艦無かりせば日本海の戰勝は彼の如く偉大ならざりしならん。 獨り春日、日進のみならず、三笠、敷島、朝日・富士或は出雲、磐手、淺間、常磐の如きも 、先帝陛下の聖代に於て、皆多年の慘憺たる建營に成り、初めて此の戰場に參加したるものにして、此等の艦艇を整備し、其の乘員を訓練して戰揚に立つを得しむる迄には約十ヶ年を要せり。されば海戰の決勝は前記の如く僅に三十分間にて獲得さるるも、此に至らしむるには十年の戰備を要せしものにて、即ち取りも直さす連綿十年の戰爭と謂ふべきなり。此の十年の經營の大戰爭に於て、皇軍が海に陸に連戰連勝し得たること、皆是れ先帝陛下の卸成徳の致す所なり。』
   ☆
 右の文中、其の當時に於ける種々なる天祐神助——に就ては『天氣晴朗なれども浪高し』と大本營へ報告された通り、空は碧く冴えてゐたが、海上はボーッと霞がかゝつてゐて遠方がよく見えなかつた。それが非常な天祐であつたといふ。即ち 日本晴の好天氣だと、敵もいろいろ策戰を變更したであらうが、波高く海上は霞んでゐたので、敵はわが艦隊を發見するのが遅れてゐた。お互ひが見えないながらも、わが艦隊は待機してゐたのだから、分がよい譯だ。そして海上が相當に荒れてゐたので、わが勇猛な艦隊將士は、却つて思ひ切つた激戰を展開することが出來たのであつた。
 日本海海戰には七不思議といはれるいろいろな天祐があつたといふ。そして東郷長官は平素から、
 『至誠をもつて事に當れば、至誠神に通じて必ず天祐神助がある』
 と確信して居られたといふことである。
 斯うして御稜威と天祐神助により、わが海軍は敵ロシアの 東洋艦隊も撃滅し、わが近海の海上權を完全に手中におさめ、遂に日露戰爭を終結せしむるに至つたのであつた。日本海々戰大捷後の五月三十日、
 畏くも明治天皇より
聯合艦隊ハ敵艦隊ヲ朝鮮海峡ニ邀撃シ、奮戰數日、遂ニ之ヲ殲滅シテ空前ノ 偉功ヲ奏シタリ。朕ハ汝等ノ忠烈ニ依リ、祖宗ノ神靈ニ對フルヲ得ルヲ擇フ。惟フ二前途ハ尚遼遠ナリ、汝等愈々奮勵シテ、以テ戰果ヲ全フセヨ。
 との、畏れ多き勅語を賜はり、全海軍將兵はもとより、國民みな感泣するのみであつた。

引用・参照・底本

『海軍夜話』 久住幸作 著 昭和十八年四月五日初版發行 海國社

(国立国会図書館デジタルコレクション)