【桃源閑話】NATO拡大とロシアの反応2025年02月09日 15:13

Ainovaで作成
【桃源閑話】NATO拡大とロシアの反応

【概要】

 ロシアのウクライナ侵攻を理解するために必要な歴史的文書や研究をまとめたものだ。特にNATO拡大、プーチンの台頭、ロシアのサイバー戦術に焦点を当てている。以下に重要なポイントを整理する。

 1. NATO拡大とロシアの反応

 ソ連崩壊後、西側が旧ソ連諸国やワルシャワ条約機構の加盟国をNATOに迎え入れる動きを見せたことが、ロシアの強い反発を招いた。

 国家安全保障アーカイブ(National Security Archive)が公開した文書によれば、ミハイル・ゴルバチョフとボリス・エリツィンは、NATO拡大に対する懸念を繰り返し表明していた。

 1994年の「ブダペスト覚書」では、ウクライナが核兵器を放棄する見返りとして、ロシア、米国、英国から安全保障の保証を受けたが、2014年のクリミア併合でロシアがこれを無視した。

 2. プーチンの台頭

 1999年の年末、エリツィンは突然辞任し、ウラジーミル・プーチンを暫定大統領に指名した。
 当時の米大統領ビル・クリントンとのやり取りの記録から、米国はプーチンの政治手法を懸念しつつも、当初は彼との協力を模索していたことがわかる。
 
 第二次チェチェン戦争(1999–2000年)やロシア国内での爆破事件が、プーチンの権力掌握を強化する要因となった。

 3. ロシアのサイバー戦術

 2008年のグルジア紛争では、ロシアは軍事攻撃と並行してサイバー攻撃を実施し、グルジア政府のウェブサイトを麻痺させた。

 2015年と2016年には、ロシアのハッカーがウクライナの電力網を標的にし、停電を引き起こした。

 NATOは2016年の「サイバー防衛誓約」によって、ロシアのサイバー脅威への対応を強化した。

 まとめ

 この資料は、ウクライナ侵攻の背景を歴史的・戦略的に理解するために重要な情報を提供している。NATO拡大とロシアの反発、プーチンの権力掌握、サイバー戦争の進化といった要素が、現在の戦争の根底にあることがわかる。

【詳細】

 この資料は、ロシアによるウクライナ侵攻の歴史的背景や関連する重要文書を収集し、分析することを目的としたものである。特に、NATOの拡大に関する外交文書、ウラジーミル・プーチンの台頭、ロシアのサイバー戦術に関する資料が含まれている。

 ロシアのウクライナ侵攻の背景

 2022年2月24日、ロシア軍はウクライナへの全面侵攻を開始した。これは数か月にわたる国境付近での軍備増強と、ロシアとウクライナ、またロシアと西側諸国との間での交渉の失敗を経て実行されたものである。本資料は、こうした状況を理解するための重要な歴史資料を提供している。

 主要な資料

 1. NATO拡大とロシアの対応

 ロシア政府は、NATOが東方に拡大しないという約束を西側諸国が破ったと主張している。この主張の真偽を検証するため、国家安全保障アーカイブは、米国やロシアで機密解除された外交文書を分析している。

 ・「NATO拡大: ゴルバチョフが聞いたこと」(2017年12月12日公開)
 ・「NATO拡大: エリツィンが聞いたこと」(2018年3月16日公開)
 ・「NATO拡大: 1994年のブダペスト会議」(2021年11月24日公開)

 これらの文書によれば、NATO側の指導者は口頭で「NATOを東方に拡大しない」と発言していたが、正式な条約や合意としては明文化されていなかった。

 2. プーチンの台頭と権力掌握

 ウラジーミル・プーチンは1999年に首相に就任し、同年末にエリツィン大統領が辞任したことで大統領代行となった。国家安全保障アーカイブの資料によれば、エリツィンはプーチンを意図的に後継者として選び、国民が彼に慣れるように戦略的に動いたとされる。

 「プーチン、クリントン、そして大統領交代」(2020年11月2日公開)

 クリントン大統領とエリツィンの会話記録には、エリツィンがプーチンを次期大統領にする意向を明確に示していたことが記されている。

 また、プーチンが権力を強固なものとした要因の一つとして、第二次チェチェン戦争が挙げられる。1999年にロシア国内で発生した連続アパート爆破事件がチェチェン武装勢力によるものとされ、それを口実にロシア軍がチェチェンへの軍事介入を強化した。この戦争により、プーチンの「強い指導者」としてのイメージが確立された。

 3. ロシアのサイバー戦術とハイブリッド戦

 ロシアは過去に複数の国々に対してサイバー攻撃を仕掛けてきた。特に、2008年のロシア・ジョージア戦争におけるサイバー攻撃は、軍事作戦と連携した初の大規模なサイバー攻撃とされている。

 ・「バルトの亡霊: NATOのサイバー空間支援」(2021年12月6日公開)
  ・・NATOのサイバー防衛演習やロシアによるウクライナの電力網攻撃(2015年、2016年)を分析。
 ・「ロシアのサイバー攻撃の影響」(2009年公開)
  ・・2008年のジョージア戦争時のサイバー攻撃を詳細に分析。ロシア政府がハッカー集団を利用し、政府機関やメディアを標的とした。

 ロシアのサイバー戦は、物理的な軍事攻撃と並行して情報戦や心理戦を仕掛ける「ハイブリッド戦」の一環と位置付けられている。

 結論

 本資料は、ロシアのウクライナ侵攻をより深く理解するために不可欠な歴史的背景を提供している。特に、NATOの拡大に関する外交記録、プーチンの台頭、ロシアのサイバー戦術に関する詳細な分析が含まれており、現在の国際情勢を理解するための貴重な資料である。

【要点】 

 ロシアのウクライナ侵攻の背景と関連資料
 
 1. NATO拡大とロシアの対応

 ・ロシアは「NATOが東方に拡大しない」という約束が破られたと主張。
 ・国家安全保障アーカイブの文書によると、NATO側は口頭で拡大しないと述べたが、正式な合意は存在せず。

 ・主要な外交文書

  ・・「NATO拡大: ゴルバチョフが聞いたこと」(2017年)
  ・・「NATO拡大: エリツィンが聞いたこと」(2018年)
  ・・「NATO拡大: 1994年のブダペスト会議」(2021年)
 
 2. プーチンの台頭と権力掌握

 ・1999年、プーチンは首相に就任し、エリツィンの辞任後に大統領代行となる。
 ・エリツィンが意図的にプーチンを後継者として選び、政権交代を戦略的に進めた。

 ・主要な外交文書

  ・・「プーチン、クリントン、そして大統領交代」(2020年)
   ・・・クリントン・エリツィンの会話記録に、エリツィンがプーチンを「ロシアの未来」と述べた記録あり。
 ・第二次チェチェン戦争(1999年~2000年)が、プーチンの「強い指導者」イメージを確立。

 3. ロシアのサイバー戦術とハイブリッド戦

 ・2008年のロシア・ジョージア戦争で、軍事攻撃と同時にサイバー攻撃を実施。
 ・ウクライナの電力網攻撃(2015年、2016年)など、ロシアのサイバー戦は情報戦と連動。
 ・主要な分析資料

  ・・「バルトの亡霊: NATOのサイバー空間支援」(2021年)
  ・・「ロシアのサイバー攻撃の影響」(2009年)

 4. 結論

 ・NATO拡大、プーチンの台頭、サイバー戦がロシアの戦略の重要要素。
 ・ウクライナ侵攻の背景を理解するための歴史的資料として価値がある。

【参考】

 ☞ ブダペスト覚書

 ブダペスト覚書(1994年)

 1. 概要
 
 ・1994年12月5日、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシが核兵器を放棄する見返りに、安全保障を提供する覚書。
 ・署名国: アメリカ、イギリス、ロシア、ウクライナ(カザフスタン、ベラルーシも同様の覚書に署名)。

 2. 主要内容

 署名国は、以下の原則をウクライナに対して保証すると明記。

 1.領土の保全と主権の尊重

 ・ウクライナの独立と既存国境を尊重すること。

 2.武力の不使用

 ・ウクライナに対して武力を使用、または威嚇しないこと。

 3.経済的強制の禁止

 ・ウクライナの政策決定に影響を与えるための経済制裁を行わないこと。

 4.国連安全保障理事会への対応

 ・ウクライナが核兵器放棄の結果、侵略を受けた場合、適切な対応を求めること。

 5.核兵器の不使用

 ・核兵器をウクライナに対して使用しないこと。

 3. 背景と意義

 ・冷戦後の核軍縮の一環として締結。
 ・ウクライナはソ連崩壊後、世界第3位の核兵器保有国(約1,700発)だったが、NPT(核拡散防止条約)加入のため核兵器を放棄。
 ・西側とロシアが安全保障を保証する形で合意が成立。

 4. ロシアの違反と影響
 
 ・2014年、ロシアはクリミア併合を強行し、覚書の領土保全原則を明確に違反。
 ・2022年、ウクライナへの全面侵攻により、武力不使用の誓約を完全に破棄。
 ・西側諸国は経済制裁や軍事支援を行っているが、ブダペスト覚書には具体的な「軍事的介入義務」がなく、法的拘束力も弱い。
 ・ウクライナ国内では「核を放棄すべきでなかった」という議論が再燃。

 5. 結論

 ・ブダペスト覚書は冷戦後の国際秩序を支える枠組みの一つだったが、ロシアによる違反により機能不全に陥った。
 ・法的拘束力が弱かったため、ウクライナの安全保障を実際には保証できなかった。
 ・ウクライナ侵攻を受け、国際社会は「安全保障の保証」に対する信頼性を再考する必要に迫られている。

 ☞ 第二次チェチェン戦争(1999年 – 2009年)

 1. 概要

 ・発生時期: 1999年8月 – 2009年4月
 ・戦争の当事者

  ・・ロシア連邦(ロシア軍、親ロシア派チェチェン政府)
  ・・チェチェン独立派(チェチェン武装勢力、イスラム過激派)

 ・結果

  ・・ロシアの勝利、チェチェン共和国の親ロシア派政府樹立。
  ・・武装勢力の散発的な抵抗は続くが、大規模な戦闘は終結。

 2. 戦争の経緯

 ① 発端(1999年)

 ・第一次チェチェン戦争(1994-1996年)でロシアが敗北し、チェチェンは実質的な独立状態に。
 ・チェチェン内部で治安が悪化し、武装勢力や犯罪組織が横行。
 ・1999年8月、イスラム武装勢力が隣接するダゲスタン共和国に侵攻し、ロシア政府は軍事介入を決定。
 ・同年9月、モスクワなどロシア国内で爆弾テロが発生し、ロシア政府はチェチェン武装勢力を犯人と断定。
 ・当時の首相ウラジーミル・プーチンが強硬姿勢を取り、ロシア軍がチェチェンへ本格的な攻撃を開始。

 ② 主要な戦闘(1999年 – 2000年)

 ・1999年10月、ロシア軍がチェチェンの首都グロズヌイを包囲。
 ・2000年2月、ロシア軍がグロズヌイを制圧し、独立派政府が崩壊。
 ・その後、山岳地帯や村々で武装勢力との戦闘が続く。

 ③ ゲリラ戦とテロ(2000年 – 2009年)

 独立派武装勢力はゲリラ戦や自爆テロを展開し、ロシア軍や親ロシア派政府を攻撃。
 ・2002年10月、モスクワ劇場占拠事件が発生(ロシア特殊部隊が強行突入し、130人以上の人質が死亡)。
 ・2004年9月、北オセチアのベスラン学校占拠事件が発生(300人以上の死者を出す大惨事)。
 ・ロシア政府は徹底的な掃討作戦を実施し、独立派の指導者を次々と殺害。
 ・2005年、主要指導者アスラン・マスハドフがロシア軍により殺害される。
 ・2006年、後継指導者シャミル・バサエフもロシア軍の作戦で死亡。

 ④ 終結(2009年)

 ・2007年、親ロシア派のラムザン・カディロフがチェチェン共和国首長に就任し、武装勢力の鎮圧を強化。
 ・2009年4月、ロシア政府は「対テロ作戦の終了」を宣言し、戦争終結を正式に発表。

 3. 影響と結果

 ロシア国内への影響

 ・プーチンの権力基盤が強化され、「強いロシア」を掲げる政策が加速。
 ・治安当局(FSBなど)の権限が拡大し、反体制派への弾圧が強化。
 ・チェチェン紛争を背景に、ロシア国内のイスラム過激派の台頭。

 チェチェン地域への影響

 ・親ロシア派のカディロフ政権が成立し、ロシアの統制が強まる。
 ・グロズヌイなど都市部は再建されたが、弾圧と汚職が横行。
 ・反ロシア勢力は北コーカサス全域で武装活動を継続し、不安定な状態が続く。

 4. 結論

 ・第二次チェチェン戦争はロシアの軍事的勝利に終わったが、武装勢力の抵抗は根絶されなかった。
 ・戦争の影響でロシアの権威主義化が進み、プーチン政権の強権的な統治が確立された。
 ・チェチェンはロシアの支配下に戻ったが、カディロフ政権の強権支配と治安部隊の弾圧により、依然として緊張が続いている。

 ☞ ロシア・ジョージア戦争(2008年)

 1. 概要

 ・発生時期: 2008年8月7日 – 8月12日(5日間)
 ・戦争の当事者

  ・・ロシア連邦(ロシア軍、南オセチア・アブハジアの分離派勢力)
  ・・ジョージア(グルジア)(ジョージア軍)

 ・戦争の要因:

  ・・南オセチアとアブハジアの分離独立問題(両地域はジョージア領と国際的に認識されていたが、親ロシア派が独立を主張)
  ・・ジョージアのNATO加盟志向(ロシアはジョージアの西側接近を警戒)
  ・・2008年8月7日、ジョージア軍が南オセチアの州都ツヒンバリへ攻撃を開始(ロシアがこれを口実に軍事介入)

 ・結果

  ・・ロシアの圧倒的勝利、ジョージア軍の撤退
  ・・ロシアは南オセチアとアブハジアの独立を承認(国際的には承認国は限られる)

 2. 戦争の経緯

 ① 背景

 ・ソ連崩壊後(1991年)、ジョージアは独立を宣言したが、南オセチアとアブハジアは分離独立を主張。
 ・1992年–1993年、南オセチア紛争・アブハジア紛争が発生し、両地域は事実上ジョージア政府の統治下から離脱。
 ・ロシアは分離派を支援し、平和維持軍を派遣。
 ・2003年、ジョージアで「バラ革命」が発生し、親欧米派のミヘイル・サーカシビリ政権が誕生。ジョージアはNATO加盟を推進。
 ・ロシアはジョージアの西側接近に反発し、南オセチアとアブハジアの分離派への支援を強化。

 ② 開戦(2008年8月7日 – 8月8日)

 ・2008年8月7日夜、ジョージア軍が南オセチアの州都ツヒンバリへの攻撃を開始。
 ・ジョージア政府は「憲法秩序の回復」と主張し、砲撃と地上戦を実施。
 ・8月8日未明、ロシアが「自国民(ロシア国籍を持つ南オセチア住民)の保護」を理由に軍事介入を宣言。
 ・ロシア軍が南オセチアへ侵攻し、ジョージア軍と交戦開始。

 ③ ロシア軍の反撃(8月8日 – 8月10日)

 ・ロシア軍が大規模な空爆と砲撃を実施し、ツヒンバリのジョージア軍を攻撃。
 ・8月9日、アブハジアでも親ロシア派がジョージア軍と交戦し、ロシア軍が支援。
 ・ロシア軍がジョージア本土に侵攻し、ゴリ市(ジョージア中部)に進撃。

 ④ ジョージア軍の撤退と停戦(8月11日 – 8月12日)

 ・ロシア軍がジョージア本土を攻撃し、ジョージア軍は南オセチアから撤退。
 ・8月12日、フランスの仲介で停戦合意(メドベージェフ=サルコジ合意)が成立。

 3. 戦争の影響

 ロシアへの影響

 ・ロシアは南オセチア・アブハジアの独立を承認し、軍を駐留。
 ・西側諸国との関係が悪化し、NATOとロシアの対立が深まる。
 ・ロシア軍の近代化が加速し、その後の軍事行動(クリミア併合・ウクライナ侵攻)への布石となる。

 ジョージアへの影響

 ・ジョージアのNATO加盟はさらに困難になり、国内の政局が不安定化。
 ・親欧米路線は継続されるが、軍事的にロシアに対抗する手段を失う。
 ・南オセチア・アブハジアの実効支配を完全に喪失。

 4. 結論

 ・戦争はロシアの軍事的勝利に終わり、南オセチアとアブハジアはロシアの影響下に入った。
 ・ジョージアのNATO加盟は遠のき、ロシアは旧ソ連圏への影響力を強化。
 ・欧米諸国はロシアを非難したが、実質的な軍事介入は行わず、ロシアの行動を阻止できなかった。
 ・この戦争は、後のロシアのウクライナ侵攻(2014年クリミア併合・2022年ウクライナ戦争)にもつながる重要な転換点となった。

【参考はブログ作成者が付記】

【引用・参照・底本】

Weekend Read: Critical Resources on Russia’s War in Ukraine: Documents on NATO Expansion, Putin’s Rise to Power, and Russian Cyber Tactics
https://unredacted.com/2022/03/04/weekend-read-critical-resources-on-russias-war-in-ukraine-documents-on-nato-expansion-putins-rise-to-power-and-russian-cyber-tactics/

【桃源閑話】NATO拡大: エリツィンが聞いたこと2025年02月09日 16:46

Ainovaで作成
【桃源閑話】NATO拡大: エリツィンが聞いたこと

【概要】

 この機密解除された記録は、1990年代初頭、特に1993年から1996年にかけてのアメリカとロシアの間で行われたNATO拡張に関する複雑な交渉を詳細に描いている。この文書は、ロシア、特にエリツィン大統領との間で交わされた議論に焦点を当て、NATOの役割と欧州安全保障に関する計画が、アメリカ政府内部で進行中であったものと、ロシア側に伝えられたメッセージとの間に大きな乖離があったことを明らかにしている。

 1993年、アメリカのウォーレン・クリストファー国務長官をはじめとするアメリカ政府関係者は、PFP(平和のためのパートナーシップ)イニシアティブがロシアを含むすべての欧州諸国に開かれたものであり、NATO拡張に代わるものとして位置付けられているとエリツィンに保証した。しかし、アメリカ政府内部の文書は、1996年のエリツィン再選後にNATO拡張を進める計画が既に立てられていたことを示している。この二重のメッセージは、ロシア側に誤解を与える結果となり、エリツィンやその他のロシアの高官は、NATO拡張が当面の懸念ではないと誤って信じ込むこととなった。一方、アメリカは実際には中東欧諸国のNATO加盟を進める準備をしていた。

 アメリカの戦略は、PFPを通じてロシアとの微妙な関係を調整することに依存していたが、エリツィンに対するメッセージは曖昧で一貫性を欠いていた。クリストファーは後に、エリツィンがこの状況を誤解していたのは彼の精神状態によるものだと示唆したが、文書はアメリカ政府関係者がNATO拡張を過小評価する言葉を意図的に使用していたことを示している。このため、ロシアでは不満が高まり、高官や公人はNATOの東欧への進出に反対の声を上げるようになった。

 機密解除された記録はまた、1994年にはアメリカがNATO拡張を加速させようとし、ロシアが依然として深く懐疑的であったことを示している。ロシアは、ロシアを排除しない包括的な欧州の安全保障枠組みの必要性を強調し、エリツィンは特にクリントン大統領との会談の中で、NATO拡張の進行方向に対する不満を表明し、拡張がロシアの利益を裏切るものと見なすだろうと繰り返し述べた。

 文書が進むにつれて、アメリカとロシアは外交的な綱引きの中にあったことが明らかとなる。アメリカの関係者はロシアを安心させようとしたが、同時にNATO拡張を進めており、この拡張は最終的にソ連の衛星国や共和国がNATOに加盟する形となり、その後数十年にわたってアメリカとロシアの関係悪化を招くこととなった。

 この機密解除された記録は、冷戦後の重要な時期における外交的な駆け引きについて貴重な洞察を提供しており、アメリカのロシアおよびNATOに対する外交政策の複雑さと矛盾を浮き彫りにしている。
 
【詳細】
 
 1993年のアメリカとロシアの外交記録に関するこの解禁された文書は、アメリカ合衆国が当時のロシア大統領ボリス・エリツィンに対して、北大西洋条約機構(NATO)の拡張に関する計画をどのように説明したか、そしてそれがロシア側にどのように誤解されたかを示している。特に、アメリカはNATO拡張を避けるように見せかけつつ、実際には拡張を進める計画を進めていたことが明らかになっている。

 「平和のためのパートナーシップ」(PFP)とその誤解

 1993年10月22日の会話で、当時のアメリカ合衆国国務長官ウォーレン・クリストファーはモスクワでエリツィンに対し、「平和のためのパートナーシップ(PFP)」はロシアを含むすべてのヨーロッパ諸国を対象にしたものだと説明した。しかし、この説明はエリツィンに誤解された可能性がある。エリツィンは「これは天才的だ!」と応じたが、その後、アメリカ側は「PFPがNATO拡張への準備段階に過ぎない」という実際の意図を伝えようとした。しかし、エリツィンはその本質的な意味を理解しなかったとされ、クリストファーはその後、エリツィンが酔っていたため誤解した可能性があると述べている。

 アメリカ内部の議論

 アメリカ内部では、NATO拡張に対する議論が続いており、国務省と国防総省との間で意見の相違があった。国務省はNATO拡張の予定を立てていたが、国防総省はそれに反対し、代わりに「平和のためのパートナーシップ」を強調した。その結果、1993年秋に、NATO拡張を明確に示すのではなく、まずはPFPを前面に押し出す形でのアプローチが取られた。

 ロシアの反応

 ロシア側では、NATOの拡張に強い反対があった。エリツィン自身も1993年8月にワルシャワで行った演説で、NATO拡張に対する「ゴーサイン」を出したように見えたが、その後、ロシア政府はその立場を再評価し、NATO拡張に反対する立場を強めていった。1993年9月15日、エリツィンはアメリカのビル・クリントン大統領に宛てて手紙を送り、NATO拡張への懸念を表明した。また、彼は「新たなヨーロッパの安全保障システム」として、NATOではなく、より包括的な安全保障体制を支持する意向を示した。

 NATO拡張の過程

 1994年には、クリントン大統領がモスクワを訪問し、PFPが「本物の提案」であり、将来的にはNATO加盟への道が開かれることをエリツィンに説明した。その後、ポーランド、チェコ、ハンガリー、スロバキアといった中東欧諸国がNATOに加盟することが現実となり、その過程でロシアはNATOの拡張に対してますます強硬な反対を示した。

 ロシアとアメリカの対立

 ロシアはNATOの拡張がその安全保障に対する脅威であると感じ、また、ヨーロッパにおける「包括的な安全保障」のビジョンが損なわれることを恐れた。エリツィンやロシア政府は、NATO拡張がロシアを排除する形で進むことに対し強い懸念を抱き、その後の議論でも「NATOは政治機関として進化すべきだ」という立場を取った。

 結論

 この文書は、アメリカがロシアに対してNATO拡張に関する意図を誤解させるような表現を用いたこと、そしてロシア側がその誤解に基づいて反応したことを示している。また、アメリカ国内でのNATO拡張に関する意見の対立や、ロシアとの関係がどのように変化していったのかも明らかになっている。最終的に、NATOの拡張は現実のものとなり、ロシアとの関係に深刻な影響を与えた。

【要点】

 ・1993年のアメリカとロシアの外交記録解禁:アメリカがロシアに対してNATO拡張の計画を説明し、誤解を招いた経緯が明らかになった。

 ・「平和のためのパートナーシップ(PFP)」の誤解:アメリカはPFPをロシアを含む全欧州に提供すると説明。しかし、ロシアのエリツィンはこれを誤解し、実際にはNATO拡張への準備段階であることを理解しなかった。

 ・アメリカ内部での意見の対立:国務省はNATO拡張を推進、国防総省はPFPを強調し、最初はPFPが前面に出された。

 ・ロシアの反応:ロシアはNATO拡張に強く反対し、エリツィンは1993年8月にワルシャワでNATO拡張に反対する姿勢を示した。

 ・1993年9月15日:エリツィンはクリントン大統領に手紙を送り、NATO拡張への懸念を表明。

 ・1994年のクリントン大統領訪問:PFPが「本物の提案」であり、将来的にNATO加盟への道が開かれることを説明。

 ・NATO拡張の現実化:1990年代後半、ポーランド、チェコ、ハンガリー、スロバキアがNATOに加盟。ロシアは反対し続けた。

 ・ロシアとアメリカの対立:ロシアはNATO拡張が自国の安全保障に脅威を与えると感じ、包括的なヨーロッパの安全保障を提案。

 ・結果:NATO拡張は進行し、ロシアとの関係に深刻な影響を及ぼすこととなった。


【参考】

 ☞ 平和のためのパートナーシップ(PFP, Partnership for Peace)は、1994年にNATOが発足させた軍事協力プログラムであり、NATO加盟国と非加盟国の間で安全保障分野の協力を促進することを目的としている。

概要

 ・設立:1994年1月10日(NATO首脳会議にて採択)
 ・目的:NATOと非加盟国の間で軍事協力を強化し、ヨーロッパの安全保障環境を安定させること
 ・対象国:旧ソ連諸国、東欧諸国、中立国(スウェーデン、フィンランド、スイスなど)を含む多くの国々

 主な内容

 1.軍事協力の強化

 ・NATO基準に基づく軍事訓練や演習の実施
 ・平和維持活動の協力(ボスニア・コソボなどで実施)

 2.安全保障対話の促進

 ・各国の軍事戦略や防衛計画の調整
 ・危機管理や災害対策の協力

 3.将来的なNATO加盟の準備

 ・旧東欧諸国やバルト三国はPFPを通じてNATOの基準に適応し、最終的に加盟を果たした(例:ポーランド、チェコ、ハンガリーは1999年に加盟)

 ロシアとの関係

 ・当初、ロシアはPFPをNATO拡張の代替案と認識し、1994年に加盟したが、後にNATOの拡張方針に反発
 ・ロシアはPFPを通じた協力を制限し、2008年のグルジア戦争後は実質的に活動を停止

 PFPは、NATOの拡大戦略の一環として機能し、東欧・旧ソ連諸国の西側との軍事的統合を促進したが、ロシアとの対立を深める要因ともなった。

【参考はブログ作成者が付記】

【引用・参照・底本】

NATO Expansion: What Yeltsin Heard NATIONAL SECURITY ARCHIVE
https://nsarchive.gwu.edu/briefing-book/russia-programs/2018-03-16/nato-expansion-what-yeltsin-heard

【桃源閑話】ロシア:排除ではなく包摂2025年02月09日 17:24

Ainovaで作成
【桃源閑話】ロシア:排除ではなく包摂

【概要】

 NATOの拡張に関連する重要な要素を詳細に示しており、特に1990年代初頭におけるNATOの東方拡大に関する政治的、軍事的、外交的な視点を含んでいる。資料は、アメリカ合衆国や西ヨーロッパ諸国の立場に基づき、拡張が持つ可能性と課題について深く掘り下げている。具体的な内容は以下の通りである。

 1.NATO拡張の動機と目標

 中央・東ヨーロッパ諸国のNATO加盟希望や、これに対するアメリカや西ヨーロッパの反応が示されている。NATOの拡張は、冷戦後のヨーロッパにおける安全保障の強化を目的としており、特に旧ソ連圏の国々に対する政治的および軍事的支援が重要視されていた。

 2.ロシアとの関係

 資料の中で最も重要な議論の一つは、NATO拡張がロシアに与える影響である。特に、ロシアの反発を避けるための戦略や、拡張に伴う緊張を管理する方法が検討されている。ロシアとの対話と協力が引き続き重要であり、拡張がロシアの安全保障上の懸念を増大させるリスクが指摘されている。

 拡張の利点とリスク

 拡張には、西ヨーロッパの安全保障の強化や、民主主義の普及、加盟国の安定化などの利点がある一方で、拡張が引き起こす可能性のある新たな軍事的、政治的な緊張も指摘されている。特に、ロシアを含む他の非加盟国との関係が複雑化する恐れがあり、その管理が外交的な課題となる。

 アメリカの外交政策と役割

 アメリカはNATO拡張において中心的な役割を果たすべき立場にあり、その影響力を行使し、拡張の過程でのリーダーシップを発揮する必要がある。資料は、アメリカの外交政策が拡張の進展とそれに伴うリスクをどのように調整すべきかについても議論している。

 未来の展望

 最後に、拡張後のNATOの新たな役割とその長期的な影響が強調されており、特に加盟国間での協力体制や、拡張による新たな安全保障上の挑戦への対応が求められている。

 この総括的な分析から、NATO拡張は単なる地域的な安全保障問題にとどまらず、国際的な政治や外交戦略においても深刻な影響を及ぼす重要な課題であることが明らかである。

【詳細】

 Document 01 - ボリス・エリツィンへのメモランダム:ロシア最高ソビエト代表団のNATO本部訪問に関して(1991年7月3日)

 この文書は、NATO事務総長マンフレッド・ヴェルナーとロシア代表団との会話を取り上げており、代表団はNATOの拡大について懸念を示していた。ヴェルナーはNATOの拡大は議題に上がっていないと保証し、大多数のNATO加盟国がこの見解を共有していることを述べた。さらに、ヴェルナーはソ連をヨーロッパ共同体から孤立させることなく、関与を促進する重要性を強調した。この点が当時、代表団に対して安心感を与えた。文書はまた、NATO拡大の可能性とそれがロシアの民主的改革に及ぼす影響に対するロシアの新たな安全保障機関内での懸念を浮き彫りにしている。

 Document 02 - NATO拡大および変革の戦略(1993年9月7日)

 1993年にはソ連が解体され、ビル・クリントン大統領の下でアメリカ政府はNATOの拡大戦略を策定し始めた。この文書は、国家安全保障問題担当のアントニー・レイクをはじめとする高官たちが作成したもので、中央および東欧の改革政府を支援するため、NATO拡大が急務であると論じている。また、この文書はロシアの反応を管理する課題を認識しつつも、NATO拡大はロシアの承認を得て進行できる可能性があると示唆している。ただし、対立の可能性は依然として残るとされている。

 Document 03 - NATOサミットに関するあなたの副官会議(1993年9月14日)

 この文書は、NATO拡大に関するアメリカ政府内での議論を明らかにしている。国防省は、ロシアやウクライナとの適切な協議なしに拡大にコミットすることに懸念を示していた。文書は、NATO拡大を即時に支持する国務省と、より慎重なアプローチを提案する国防省との間の対立を示しており、そのアプローチの一環として「平和維持パートナーシップ」が旧ソ連諸国との関与の方法として提案されていた。

 Document 04 - NATO拡大に関するエリツィン書簡の再翻訳(1993年9月15日)

 この書簡において、ロシアのボリス・エリツィン大統領はNATO拡大に強く反対しており、そのような行動は冷戦後のヨーロッパの定住を損なうと懸念を示している。エリツィンの書簡は、NATO拡大がドイツ再統一の際に与えられた保証に矛盾すると強調し、NATO加盟を伴わない東欧諸国への代替的な安全保障の保証を提案している。

 Document 05 - 1993年10月6日、アスピン長官およびレイク氏との昼食会議(1993年10月5日)

 この文書は、クリントン政権内での議論を示しており、クリストファー国務長官がヨーロッパとモスクワへ出発する数日前のものである。国務省はNATO拡大を支持しているのに対し、国防省はより慎重なアプローチを好んでいた。この文書は、エリツィンの懸念に対応することの重要性と、NATOの政策がロシアの改革努力を損なわないようにする必要性を強調している。

 Document 06 - 1993年10月21日〜23日、モスクワ訪問 - 主要な外交政策課題(1993年10月20日)

 この文書は、クリストファー国務長官のモスクワ訪問に向けたブリーフィングであり、NATO拡大、ポストソビエト圏、ウクライナに関する論争的な問題を強調している。文書は、東欧諸国がNATO加盟を求める圧力が高まる中で、ロシアの指導部に対してNATO拡大がロシアを排除しないことを安心させる必要性を強調している。

 Document 07:NATO拡張に関する大統領への報告

 日付:1993年11月1日 
 出典:アメリカ合衆国国務省

 この文書は、アメリカ合衆国大統領に対して、NATO拡張に関する最近の議論の進展についての概要を提供している。特に、ロシアとその近隣諸国の懸念にどう対処するかが焦点である。米国政府内では、NATO拡張がヨーロッパの安全保障を強化する一方で、ロシアの反発をどう緩和するかに関する議論が続いている。

 Document 08: 1994年NATOサミットにおけるアメリカのNATO拡大戦略
 
 日付:1993年11月15日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 1994年のNATOサミットに向けた戦略を詳細に述べた文書である。NATO拡張を正式に発表するタイミングとその方法について、米国政府内での戦略が議論されている。この文書は、NATOのメンバーシップを拡大する一方で、ロシアとの協力を続ける方法についても触れている。

 Document 09: NATO拡大に対するエリツィンの反応
 
 日付:1993年12月2日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 この文書は、イェルツィンがNATO拡張に対する自国の懸念を表明した公式な返信である。ロシアは、NATOの東方への拡大がロシアに対して脅威をもたらすとし、そのプロセスに反対する立場を強調している。また、ロシアは、NATOが東欧諸国に対して拡大を進める一方で、ロシアを含めた包括的な安全保障の枠組みの創設を求めている。

 Document 10: 1994年サミットで議論されたNATOの拡大戦略
 日付:1994年1月13日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 1994年1月のNATOサミットでの拡張戦略について記載した文書である。文書は、特に中央ヨーロッパ諸国の加入を優先し、ロシアとの関係強化を図る方法に焦点を当てている。NATOは、拡大を進める一方で、ロシアに対して「対話と協力」の姿勢を維持し、アメリカ政府はそのバランスを取ることに苦慮していることが述べられている。

 Document 11: クリントン政権のNATO拡大に関する最終決定
 
 日付:1994年2月5日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 クリントン政権下での最終的なNATO拡張決定に関する文書である。この文書では、アメリカ合衆国が実際にどの国をNATOのメンバーとして迎えるか、またその影響についての戦略的決定がまとめられている。拡張に対するロシアの反発を抑えるため、アメリカは「パートナーシップ・フォー・ピース」などの代替案も検討している。

 Document 12: NATO拡大およびロシアとの関係に関するクリントン大統領の演説

 日付:1994年2月20日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 クリントン大統領によるNATO拡張とロシアとの関係に関する公式な演説である。この演説では、NATOの拡大が民主主義と安定を促進する一方で、ロシアとの協力も引き続き重要であることが強調されている。また、拡張がロシアに対する直接的な脅威にはならないことを確約し、ロシアとの安全保障上のパートナーシップを強化する方針が示されている。

 Document 13:ボリス=ビル書簡

 日付:1994年12月6日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 イェルツィンはクリントンに対して、ヨーロッパの安全保障に関するロシアの見解を述べ、NATOの急速な拡大に警告を発している。彼は、OSCE(欧州安全保障協力機構)が包括的なヨーロッパの安全保障の枠組みとして重要であることを強調し、NATOの拡大がこれを乱す可能性があることを示唆している。イェルツィンは、クリントンとの以前の議論に言及し、拡大に向けた動きがヨーロッパで新たな分裂を引き起こす可能性があると警告している。

 Document 14:I.P.リブキンとアメリカ合衆国副大統領A.ゴアとの会話の主な内容記録

 日付:1994年12月14日
 出典:GARF Fond 10100, Opis 2

 モスクワを訪問したゴアは、イェルツィンの「冷戦状態」の演説から生じた影響に対処するためにリブキンと会談している。ゴアは、NATOの拡大が段階的で開かれたものであり、ロシアとの十分な議論が行われることを保証しようとしている。リブキンはこれらの保証の重要性を強調し、NATO拡大がSTART II(戦略兵器削減条約)の批准と関連していることを指摘している。

 Document 15:V.P.ルキン、アメリカ合衆国国務次官ストローブ・タルボットおよび国務省特別顧問ジム・コリンズとの会話記録

 日付:1994年12月16日
 出典:GARF Fond 10100, Opis 2

 ゴアのモスクワ訪問中、タルボットはウラジーミル・ルキンと会い、イェルツィンの演説後の誤解を解消しようとしている。タルボットは、NATO拡大が段階的で透明であり、急いで決定が下されることはないことを強調している。ルキンは、代替的なヨーロッパの安全保障解決策について国際会議を開くことを提案している。

 Document 16:ゴア/イェルツィン会談のための話のポイント 12月16日
 
 日付:1994年12月16日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 これらの話のポイントは、ゴアがイェルツィンに対し、NATO拡大が急速には進まないこと、そして完全に透明であることを保証する必要があることに焦点を当てている。また、アメリカがイェルツィンとのパートナーシップを重視し、NATOに関する決定をロシアの選挙後に延期することを強調している。

 Document 17:1994年12月21日NAC:ロシア訪問中の副大統領会談に関する議論のガイダンス

 日付:1994年12月21日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 この国務省の電報は、NATO拡大について、アメリカがプロセスを急ぐことはないことを強調している。また、ロシアの官僚がNATOを軍事的脅威と見なし、その拡大がロシアの安全と政治的安定を損なうと懸念していることが報告されている。

 Document 18:議会公聴会における「ロシア=アメリカ関係」に関する情報メモ

 日付:1995年4月25日
 出典:GARF Fond 10100, Opis 2, Delo 122

 このメモは、ウラジーミル・ルキンによって書かれたもので、アメリカ=ロシア関係に関する議会公聴会の結果をまとめている。メモは、NATO拡大に関するロシアの懸念を強調しており、それがロシアの国家利益やヨーロッパの安定性への脅威であると見なされている。また、アメリカのポストソビエト諸国における政策が、民主主義や人権よりも地政学的目標を優先していることを批判している。

 Document 19:クリントン大統領とイェルツィン大統領の一対一会談に関する要約報告

 日付:1995年5月10日
 出典:ウィリアム・J・クリントン大統領図書館
 
 この会談で、イェルツィンはNATO拡大に対して強く反対し、それをロシアへの屈辱であると述べている。クリントンは、NATO拡大が完全に統合されたヨーロッパを作るための一環であり、ロシアにとっても潜在的な利益、特にNATOとの特別な関係が提供されることを保証している。イェルツィンは、NATO拡大に関する決定を1996年の選挙後に延期することで合意している。

 Document 20:クリントン=イェルツィン会談

 日付:1995年6月17日
 出典:ウィリアム・J・クリントン大統領図書館

 ハリファックスでの友好的な会談で、イェルツィンはロシアの新しいヨーロッパ安全保障枠組みの必要性を強調し、OSCEを主要な機関として位置づけている。クリントンは、NATOの役割の重要性を説明するが、イェルツィンの政治的なNATOを求める意向には直接言及していない。両者は、核拡散防止など、他の問題でも共通の立場を見出している。

 Document 21:ロシア外相コージレフとの国務長官会談

 日付:1995年12月11日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 国務長官クリストファーと外相コージレフは、ボスニア和平とNATO拡大に関するNAC会議後に会談している。会話は、ボスニアでの平和維持のためのNATO=ロシア協力を正式化することに焦点を当てており、NATOとロシアの間での対話を継続することを確認している。

 ロシア外相コージレフとの会談(1995年12月6日)

 国務長官クリストファーとロシア外相コージレフは、ボスニア和平実施とNATO拡大に関するNATO会議後に会談している。コージレフは、NATO拡大に対する3つのロシアの見解を述べ、一部は活動的な対応と脅迫を支持し、他は無視することを提案し、もう一つは協力を支持していると説明している。クリストファーは、クリントン大統領が1995年5月の首脳会談で交わした約束を確認するようコージレフに求めている。

 Document 22:エフゲニー・プリマコフ回顧録からの抜粋:NATO拡張について(1996年1月1日)

 エフゲニー・プリマコフは1996年に外相に就任した際、NATO拡張問題に取り組んだ。彼は1990年から1991年にかけて、西側諸国の指導者がNATO拡張を行わないと保証した内容を記載した文書を確認した。これらの文書は、彼のメモや演説で使用され、2015年の回顧録にも抜粋として掲載された。プリマコフは、ベイカー、コール、メイジャー、ミッテランといった指導者たちからの保証を挙げ、その立場が変わった理由について推測している。さらに、プリマコフは、中央および東ヨーロッパ諸国が西側に向かう過程で、ロシアが責任を負うべきだと指摘している。

 Document 23:ロシアの「二プラス四」協定に関する主張(1996年2月23日)

 アメリカ合衆国国務省のメモで、ロシアのNATO拡張がドイツ統一条約に違反しているという主張に対して応答したものである。このメモは、統一条約が旧東ドイツにのみ適用され、NATO拡張に関する制限を設けていないと論じている。また、ロシアの主張を「不当」と「根拠がない」と批判し、法的に拘束力のある声明に関する主張を退けるとともに、条約の解釈に焦点を当てている。このメモは、ゴルバチョフへの西側指導者の保証を無視し、ハンス=ディートリヒ・ゲンシャーのコメントを誤って表現している。

 Document 24:アメリカ合衆国議会代表団とロシア・ドゥーマ議長ゲンナジー・セレズニョフとの会話記録(1996年10月21日)

 サム・ナン上院議員は、NATO拡張に関するロシアの懸念に応じ、拡張はEUの拡大に続くべきだと述べた。彼は、ロシアが現在、東ヨーロッパに対する脅威ではないと主張し、中央・東ヨーロッパ諸国が民主主義的な理由からNATO加盟を望んでいるとのハヴェルの見解を支持した。また、ナンはナポレオンの言葉を引用し、相手を説得する重要性を強調し、NATO拡張に対してアメリカ軍は熱心ではないことも示唆した。さらに、NATO拡張に関しては、アメリカとロシアが政治的および心理的側面に焦点を当てるべきだと強調した。

 Document 25:エフゲニー・プリマコフからゲンナジー・セレズニョフへのメモの抜粋(1997年1月31日)

 プリマコフは1997年1月31日、マドリッドサミットでのNATOの最初の拡張ラウンド発表に向けて、セレズニョフにメモを準備した。このメモでは、NATO拡張を強く批判し、それがヨーロッパに新たな分断線を生じさせ、対立を引き起こし、ロシアと西側諸国との信頼を損なう可能性があることを強調している。彼は1990年から1991年にかけてのNATO拡張は行わないという保証を繰り返し、その決定が長期的な結果を招くことを警告し、現在の指導者たちに歴史的責任があることを述べている。

【要点】

 これらの文書は、1990年代初頭から中盤にかけてのNATO拡張とその影響に関する議論を反映しており、アメリカ、ロシア、そして東欧諸国間での緊張を示している。以下は、各文書の要点を簡潔にまとめた箇条書きである。

 Document 01 - ボリス・エリツィンへのメモランダム(1991年7月3日)

 NATO拡大に関するロシア代表団の懸念。
 NATOの拡大は議題に上がっていないとヴェルナー事務総長が保証。
 ソ連のヨーロッパ共同体からの孤立を避け、関与を促進することが重要。

 Document 02 - NATO拡大および変革の戦略(1993年9月7日)

 中央および東欧の改革政府支援のため、NATO拡大が急務。
 ロシアの反応に配慮しつつ、NATO拡大を進める意向。

 Document 03 - NATOサミットに関するあなたの副官会議(1993年9月14日)

 アメリカ政府内でのNATO拡大に対する議論。
 国防省と国務省の間で意見が分かれ、慎重なアプローチが提案される。

 Document 04 - NATO拡大に関するエリツィン書簡の再翻訳(1993年9月15日)

 エリツィンはNATO拡大に強く反対し、冷戦後のヨーロッパ定住を損なう懸念。
 東欧諸国に代替的な安全保障保証を提案。

 Document 05 - 1993年10月6日、アスピン長官およびレイク氏との昼食会議(1993年10月5日)

 NATO拡大に対するロシアの懸念への対応が重要。
 国務省と国防省の意見の違いが明確に。

 Document 06 - 1993年10月21日〜23日、モスクワ訪問 - 主要な外交政策課題(1993年10月20日)

 モスクワ訪問前のブリーフィングで、NATO拡大とロシアの関与について議論。

 Document 07 - Briefing for the President on NATO Expansion (1993年11月1日)

 アメリカ大統領に対するNATO拡大に関する進展の報告。
 ロシアとその近隣諸国の懸念に対応する重要性。

 Document 08 - 1994年NATOサミットにおけるアメリカのNATO拡大戦略(1993年11月15日)

 NATO拡大の正式発表に向けた戦略。
 ロシアとの協力を続ける方法が議論される。

 Document 09 - NATO拡大に対するエリツィンの反応(1993年12月2日)

 エリツィンはNATO拡大がロシアに対する脅威だとし、反対を表明。
 ロシアを含む包括的な安全保障枠組みの創設を求める。

 Document 10 - 1994年1月13日、NATOサミットで議論されたNATO拡大戦略

 中央ヨーロッパ諸国の加入を優先。
 ロシアとの「対話と協力」維持を目指す。

 Document 11 - クリントン政権のNATO拡大に関する最終決定(1994年2月5日)

 実際にNATOに加盟する国の決定。
 ロシアの反発を抑えるための代替案が検討。

 Document 12 - NATO拡大およびロシアとの関係に関するクリントン大統領の演説(1994年2月20日)

 NATO拡大が民主主義と安定を促進。
 ロシアとの協力強化の重要性が強調される。

 Document 13 - ボリス=ビル書簡(1994年12月6日)

 イェルツィンはNATOの急速な拡大に警告。
 OSCEの重要性を強調し、NATO拡大がヨーロッパで新たな分裂を引き起こす可能性に言及。

 Document 14 - I.P.リブキンとアメリカ合衆国副大統領A.ゴアとの会話の主な内容記録(1994年12月14日)

  ゴアはモスクワ訪問中にNATO拡大の段階的な進行と開かれたアプローチを強調。
これらの文書を通じて、NATO拡張に対するアメリカ、ロシア、東欧諸国の見解やその間の微妙なバランス、そして拡張がヨーロッパの安全保障に与える影響についての議論が明確に示されている。

 Document 15:V.P.ルキン、アメリカ合衆国国務次官ストローブ・タルボットおよび国務省特別顧問ジム・コリンズとの会話記録

 日付:1994年12月16日
 出典:GARF Fond 10100, Opis 2

 ゴア副大統領のモスクワ訪問中、タルボット国務次官はウラジーミル・ルキンと会い、イェルツィン大統領の演説後に発生した誤解を解消しようとした。タルボットは、NATO拡大は段階的で透明性を持って進められ、急いで決定が下されることはないことを強調した。ルキンは、代替的なヨーロッパの安全保障解決策を模索し、国際会議を開くことを提案している。これは、ロシアがNATO拡大に対して懸念を抱いている中で、平和的な代替案を探る一つの試みであった。

 Document 16:ゴア/イェルツィン会談のための話のポイント

 日付:1994年12月16日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 この文書は、ゴア副大統領がイェルツィン大統領に対し、NATO拡大が急速には進まないこと、そしてそのプロセスが完全に透明であることを保証する必要があることに焦点を当てている。さらに、アメリカ合衆国は、ロシアとのパートナーシップを重視し、NATO拡大に関する決定をロシアの選挙後に延期するべきだと強調している。この会談の目的は、ロシアが感じる不安を和らげ、政治的安定を保つための配慮を示すことにあった。

 Document 17:1994年12月21日NAC:ロシア訪問中の副大統領会談に関する議論のガイダンス

 日付:1994年12月21日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 この文書は、アメリカ国務省から発信された電報であり、NATO拡大に関するアメリカの立場を強調している。アメリカは、NATO拡大のプロセスを急ぐことはなく、段階的かつ透明な方法で進めることを再確認した。また、ロシアの官僚は、NATO拡大を軍事的脅威と見なし、その拡大がロシアの安全保障や政治的安定に悪影響を及ぼす懸念を持っていることが報告されている。

 Document 18:議会公聴会における「ロシア=アメリカ関係」に関する情報メモ

 日付:1995年4月25日
 出典:GARF Fond 10100, Opis 2, Delo 122

 このメモはウラジーミル・ルキンが書いたもので、アメリカ=ロシア関係に関する議会公聴会の結果をまとめたものである。メモは、NATO拡大に関するロシアの懸念を強調し、それがロシアの国家利益やヨーロッパの安定性に対する脅威であると見なされていることを記録している。また、アメリカがポストソビエト諸国における政策において、民主主義や人権よりも地政学的な目標を優先している点についても批判的に言及されている。

 Document 19:クリントン大統領とイェルツィン大統領の一対一会談に関する要約報告

 日付:1995年5月10日
 出典:ウィリアム・J・クリントン大統領図書館

 この会談で、イェルツィンはNATO拡大に強く反対し、それをロシアへの屈辱と見なしていることが伝えられている。クリントン大統領は、NATO拡大が統合されたヨーロッパの構築の一環であり、ロシアにとっても潜在的な利益、特にNATOとの特別な関係が提供されることを保証していると述べた。イェルツィンは、NATO拡大に関する決定を1996年の選挙後に延期することで合意した。

 Document 20:クリントン=イェルツィン会談

 日付:1995年6月17日
 出典:ウィリアム・J・クリントン大統領図書館

 ハリファックスで行われた友好的な会談で、イェルツィンはロシアの新しいヨーロッパ安全保障枠組みの必要性を強調し、特にOSCEを重要な機関として位置づけるべきだと述べた。クリントンはNATOの役割の重要性を説明するが、イェルツィンが提案する政治的なNATO構想には直接言及しなかった。両者は、核拡散防止など他の問題でも共通の立場を見出し、協力の必要性を確認した。

 Document 21:ロシア外相コージレフとの国務長官会談

 日付:1995年12月11日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 国務長官のクリストファーとロシア外相のコージレフは、ボスニア和平とNATO拡大に関するNAC会議後に会談した。この会談では、ボスニアでの平和維持活動のために、NATOとロシアが協力関係を築くことが焦点となった。また、NATOとロシアの間での対話を継続する重要性も確認された。

 Document 22:エフゲニー・プリマコフ回顧録からの抜粋:NATO拡張について

 日付:1996年1月1日

 エフゲニー・プリマコフは1996年にロシア外相に就任し、その後NATO拡張問題に取り組んだ。プリマコフは1990年から1991年にかけて、西側諸国の指導者たちがNATO拡張を行わないと保証した内容を確認したと述べている。これらの保証はプリマコフのメモや演説に用いられ、2015年の回顧録にも抜粋されている。彼は、これらの保証が無視されることに強い不満を抱いており、NATO拡張がロシアに対する裏切りと感じている。

 Document 23:ロシアの「二プラス四」協定に関する主張
 
 日付:1996年2月23日
 出典:アメリカ合衆国国務省

 このメモは、アメリカ合衆国国務省がロシアの「二プラス四」協定に関連する主張に反論する内容である。ロシアは、NATO拡張がドイツ統一条約に違反していると主張していたが、このメモはその主張を退け、NATO拡張に関しての制限はないと論じている。また、ロシアの主張は「不当」かつ「根拠がない」とし、条約の解釈を重視する立場を示している。

 Document 24:アメリカ合衆国議会代表団とロシア・ドゥーマ議長ゲンナジー・セレズニョフとの会話記録

 日付:1996年10月21日

 この会話では、サム・ナン上院議員がNATO拡張に対するロシアの懸念に応じ、拡張はEUの拡大に続くべきだと述べている。ナンは、ロシアが現在東ヨーロッパに対する脅威でないことを指摘し、中央・東ヨーロッパ諸国が民主的な理由でNATO加盟を望んでいるというハヴェルの見解を支持した。また、NATO拡張に関してはアメリカとロシアが政治的および心理的な側面に焦点を当てるべきだとも強調している。

 Document 25:エフゲニー・プリマコフからゲンナジー・セレズニョフへのメモの抜粋

 日付:1997年1月31日

 プリマコフは1997年1月31日に、マドリッドサミットでのNATOの最初の拡張ラウンド発表に向けてメモを準備した。このメモでは、NATO拡張がヨーロッパに新たな分断線を生じさせ、対立を引き起こす可能性があること。

【引用・参照・底本】

NATO Expansion: What Yeltsin Heard NATIONAL SECURITY ARCHIVE
https://nsarchive.gwu.edu/briefing-book/russia-programs/2018-03-16/nato-expansion-what-yeltsin-heard

【桃源閑話】「ブダペストの爆発」2025年02月09日 20:11

Microsoft Designerで作成
【桃源閑話】「ブダペストの爆発」

 参照:
【桃源閑話】ロシア:排除ではなく包摂
 https://koshimizu-tougen.asablo.jp/blog/2025/02/09/9753485

【桃源閑話】NATO拡大: エリツィンが聞いたこと
 https://koshimizu-tougen.asablo.jp/blog/2025/02/09/9753435

【桃源閑話】NATO拡大とロシアの反応
 https://koshimizu-tougen.asablo.jp/blog/2025/02/09/9753409

【桃源閑話】NATOの拡大:ゴルバチョフが聞いたこと
 https://koshimizu-tougen.asablo.jp/blog/2025/02/08/9753187

【概要】

 1994年7月10日、アメリカのビル・クリントン大統領とロシアのボリス・エリツィン大統領は、イタリアのナポリで会談を行った。この会談は、冷戦後のアメリカとロシアの関係において重要な一歩を示すものであったが、同時にNATOの拡張に関する問題も浮上した。

 クリントン大統領の政策は、NATOの拡張とロシアとの関与という二つの軌道を追求するものであった。NATO拡張は、西ヨーロッパ諸国と中央・東欧諸国を統合し、ロシアを含まない新たな安全保障の枠組みを構築することを目指していた。一方で、ロシアとの関与は、冷戦後の新しい秩序を築くためにロシアを西側と協力させようというものであった。

 この時点では、エリツィン政権はNATOの拡張に強く反対していた。ロシアにとってNATOの拡張は、かつてのソビエト連邦圏内の国々が西側に取り込まれ、自国の安全保障を脅かすものとして捉えられていた。しかし、クリントン大統領は、NATO拡張の重要性を強調し、西ヨーロッパの安定と平和を守るために不可欠であると主張していた。

 ナポリでの会談において、エリツィンはクリントンに対し、NATO拡張に対する懸念を示すとともに、ロシアの安定を保つためには西側との協力が必要であると訴えた。この会談は、両国の意見が完全に一致することはなかったものの、冷戦後の新しい国際秩序において、両国が協力していく方向性を模索する重要な時期であった。

 その後、1994年12月にブダペストで開催された会議で、NATOの拡張に関する決定が正式に採択され、これが後のNATOの東方拡張の始まりとなる。この一連の流れが「ブダペストの爆発」とも呼ばれ、その後のロシアの反発や、NATOとロシアの関係における緊張を生むことになった。 

【詳細】
 
 1994年7月10日に行われたナポリでのクリントン大統領とエリツィン大統領の会談は、冷戦後のアメリカとロシアの関係における重要な転機となるものだった。この会談において、クリントンはNATO拡張とロシアとの関与という二つの政策を同時に進める方向を示していたが、両者の目指す方向性には根本的な違いがあった。

 クリントン大統領の政策

 クリントン大統領は、冷戦後の世界においてNATOを再構築し、特に中東欧や東欧諸国を積極的に取り込む方針を示していた。彼の考えは、NATOの拡張によって、かつてソビエト連邦に支配されていた国々が西側諸国との結びつきを強化し、民主主義や市場経済を促進することにあった。また、NATO拡張によって、ヨーロッパ全体の安全保障を強化し、再び戦争が起こることを防ぐという目的があった。

 しかし、NATO拡張はロシアにとっては深刻な懸念材料となる。特に、旧ソビエト圏の国々がNATOに加盟することは、ロシアの戦略的立場を脅かすものとして受け取られた。クリントンの進める「NATOの開放的な扉政策」は、これらの国々が自由にNATOに加入できるというものであったが、ロシア側にとっては、過去のソビエト連邦の崩壊をさらに進めるようなものと映った。

 エリツィン大統領の立場

 一方、エリツィン大統領はNATOの拡張に対して強く反対していた。ロシアにとって、NATO拡張は単なる安全保障上の問題にとどまらず、国際的な権威を失う可能性がある重大な問題と考えられていた。ロシアは、冷戦終了後に新たな国際秩序の中で自身の立場を模索していたが、NATOが東方に拡張することは、ロシアの影響圏を削ることになり、経済的・軍事的な孤立を深める懸念を抱いていた。

 エリツィンは、アメリカとの協力によってロシアの経済改革を進め、国際社会での地位を回復しようと考えていたが、NATO拡張については強い警戒感を示していた。彼は、NATOがロシアを無視して拡張することで、再び冷戦時代の対立構造が再現されることを懸念していた。

 クリントンの二重政策

 クリントンの政策は、二つの相反する目標を同時に追求するものだった。一つは、NATOを拡張して西ヨーロッパと東ヨーロッパを統合し、地域の安定を確保することであった。もう一つは、ロシアとの関与を続け、冷戦後の新たな秩序を形成するためにロシアを西側と協力させようというものであった。

 クリントンは、冷戦後の新しい世界秩序において、アメリカとロシアが協力することで、平和的な共存を実現できると考えていた。しかし、現実的には、NATO拡張が進む中でロシアとの関係は次第に険悪になり、特に1994年のナポリ会談以降、ロシアはNATO拡張に強硬に反対するようになった。

 ナポリ会談とその影響

 ナポリでの会談において、エリツィンはNATO拡張に対するロシアの強い反発をクリントンに伝えたが、クリントンはNATO拡張の方針を維持すると明言した。この会談自体は、両国の協力を深めるためのステップであり、冷戦後の国際政治における新たなバランスを模索するものであったが、NATO拡張問題に関しては両国の立場に大きな隔たりがあった。

 この会談は、後の1994年12月のブダペスト会議に繋がり、そこでNATO拡張に関する具体的な決定がなされることとなった。この決定は、1999年にポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアがNATOに加盟する契機となり、ロシアとの関係はさらに冷え込むこととなる。

 ブダペストの爆発

 ブダペストでの会議後、NATO拡張が現実のものとなる中で、ロシアは強く反発した。この反発は、後のロシアの外交政策に大きな影響を与え、NATOとロシアの関係は悪化の一途をたどった。特に、ロシアはNATOの東方拡張が自国の安全保障を脅かすと感じ、これが「ブダペストの爆発」とも呼ばれる局面を生むこととなった。

 その後、ロシアとNATOの関係は緊張し、特に2000年代に入ると、アメリカのイラク戦争や、NATOのさらなる拡張がロシアを孤立させる結果となり、冷戦後の「冷戦平和」から対立へと転じることとなった。

【要点】

 1.ナポリ会談(1994年7月10日)

 ・クリントン大統領とエリツィン大統領はナポリで会談。
 ・会談は冷戦後のアメリカとロシアの関係における重要な転機。

 2.クリントン大統領の政策

 ・NATO拡張:西ヨーロッパ、東欧諸国の統合と地域の安全保障強化。
 ・ロシアとの関与:冷戦後の新秩序を構築するため、ロシアと協力し、国際社会における立場を回復させる。

 3.エリツィン大統領の立場

 ・NATO拡張への反対:NATOの拡張はロシアの安全保障を脅かし、ソビエト連邦崩壊後の影響圏縮小を意味する。
 ・ロシアは西側との協力を望みつつ、NATO拡張に強い懸念を抱く。

 4.クリントンの二重政策

 ・NATO拡張とロシアとの協力の二つを同時に進める方針。
 ・クリントンは、アメリカとロシアの協力による平和的共存を目指すが、実際には両国の立場には大きな隔たりがあった。

 5.ナポリ会談の結果

 ・エリツィンはNATO拡張に反対する意向を伝えるも、クリントンは方針を維持。
 ・両国の意見が一致することはなかったが、冷戦後の新たな国際秩序を模索する重要な会談となる。

 6.ブダペスト会議(1994年12月)

 ・NATO拡張に関する具体的な決定が行われ、1999年にポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアがNATOに加盟。
 ・ロシアの強い反発を招くこととなり、関係が冷え込む。

 7.ブダペストの爆発

 ・NATO拡張がロシアの安全保障を脅かすとして、ロシアは反発。
 ・これが「ブダペストの爆発」と呼ばれる局面を生む。

 8.その後の影響

 ・ロシアとNATOの関係はさらに悪化し、特に2000年代に入ってから、アメリカのイラク戦争やさらなるNATO拡張がロシアを孤立させる結果となる。

【引用・参照・底本】

NATO Expansion – The Budapest Blow Up 1994 NATIONAL SECURITY ARCHIVE
https://nsarchive.gwu.edu/briefing-book/nato-75-russia-programs/2021-11-24/nato-expansion-budapest-blow-1994