糞も味噌も一緒、そして六日の菖蒲なのか2022年03月02日 11:31

繪本楠公三代軍紀

 糞も味噌も一緒、そして六日の菖蒲なのか 2022.03.02

 冗談ではない。今やハッカーと云えば、何と定義づけしようが、破壊行為あるいは不正アクセスを働く、言わば"欺瞞"の輩ではないか。

 正義の味方などでは決して在り得ない。百歩譲っても、"平和を望む"として、他国などを攻撃するとは、矢張り無法であると言わざるを得ない。平和の徒でもない。

 ロシアを違法行為と決めつけるのも早計であり、ウクライナ及び西側諸国を含むNATOの正義面が偽善でないと、どうして言えるのか。況してや政治的局面の真相も定かでない今、匿名を好い事にして、何をほざくのか。

 国際社会にとっての真の危機は米国を制御できないことだ。
 そして其の米国といえば<五里霧中>という訳だ。
 つまり、アイマスクをして運転する車に、西側諸国を同乗させている。

 現にトヨタの仕入れ先企業の受発注システム、サイバー攻撃受けランサムウェアに感染したのではないか。

 また、大手テスラ社がウクライナに、衛星によるネット接続サービスを提供するなど、他国に干渉している。
 が、裏で糸を引く米国等が、間接操作しているのではないか。

 米国は総包みでウクライナ問題に関わる。何せ傀儡ウクライナの操り師なのだ。

 つまり、斯様な状況下で、危機の到来は、"一方向側からのディスインフォメーション"による国際社会の攪乱であり、容易に事実に辿り着けず、誤った方向に誘導されるということである。

 ロシア側の偽情報を心配するが、特に米国の偽情報を鵜呑みにする西側陣営の無責任マスメディアは、偽情報を掴まされ、振り回され、挙句その嘘を拡大し、撒き散らす役割を果たしている。"マスゴミ"の所以である。

 それに反応も遅い。次の例だ。

 岸田首相は参院予算委で、自国の領土内に米国の核兵器を配備し共同運用する核共有政策は、非核三原則を堅持するわが国の立場から認められないと(2月28日)。

 そして、松野官房長官が核共有検討を否定・非核三原則を堅持(3月1日)、岸防衛相も非核三原則を堅持・米核兵器の共有運用は認められない(同日)、日本被団協は米核兵器の同盟国共有運用議論を強く批判(同日)など。

 ある新聞などは、自らの記事で、"安倍氏、米との「核共有」議論を ロシア侵攻で「タブーなしに"と載せ(2月27日)ながら、政府の見解等が出揃った後、社説で「核共有発言 非核三原則否定するな」(3月2日)と、"やっとこさ"の記事である。

 が、末尾で更に「冷静な議論を望みたい」とは何か。岸田首相は既に非核三原則を堅持すると言明する。冷静な議論?望みたい? これでは、エコーチェンバー効果が作用しないか。

 平和憲法を抱く日本の新聞社、<貧すれば鈍する>のか。

 因みにGLOBALTIMESは「Alert! Abe's remarks are unlocking Japan's militarism: Global Times editorial」、"警戒!安倍元首相の発言は日本の軍国主義を解き放す グローバル・タイムズ社説"(私訳)と、2月28日に反応する。

 退いたとは言え、政権を執る党、自民党の最大派閥を率いる安倍元首相の言である。それこそ、米国要人と並んで、要注意の人物の発言となり、misinformationでは済まされない。

 台湾を弄る安倍氏、特にメディアは漫然とやり過ごす訳にはいくまい。

 台湾を煽る欧米西側、特に主導する米国、そして<好機逸すべからず>と共に騒ぐ日本の其の筋、日本周辺で第二のウクライナを期するのか。

 マインドハッキングに要注意!

文章文化と生活文化2022年03月04日 22:18

唐画粉本
『鄥其山漫文 生ける支那の姿』

  魯迅 序 内山 完造著

 (一 - 六頁)
 文章文化と生活文化

 二十年來、私は中華を見て來たのであるが、最も考へさせられることは、もともと一つである―― 一つの存在である中國の文化が、二つに見へるといふことである。右と左の二つの眼があるのだから二つに見えるのは當りまヘだと言へば、それまでゞあるが、實際は大いに不思議なことである。
 中國の文化は右の眼で見た文化と、左の眼で見た文化と、はつきり區別できるのであつて、一つの存在が右の眼で見るのと、左の眼で見るとの相異によつて、頗る變つた形象をもつてゐるやうである。私は假にこの二つの文化に對して、一を文章文化となづけ、一を生活文化と呼んでゐる。こうした呼び方はあまり正鵠を得てゐないかも知らないが、兎に角、こう呼ぶことがわかりよい様である。
 文章文化とは言ふまでもなく文章に表現されたものであり、生活文化とは、生活として具體的に存在するものゝことである。さう云へばこの文化の二種別は何も中國に限つたことではない。何處の國にも同じやうにあると言ふ人もあらうが、しかし私は兎に角、中國でそれをはつきりと觀察し得たのであつて、その鮮かきに吃驚してゐるものである。
 たとへば長江沿岸でよくみるやうに、桃李の花がさき亂れてゐたり、抗州でよく見る如く白い梅花が枝振りのよい老木に咲いてゐたり、或は金木犀や銀木犀(桂花)が林をなしてゐるやうなところには、多く決つて二つ三つ乃至五つ六つ惡臭と汚穢で鼻むけにならぬ大糞壺が並んでゐるのである。こうした反面の事實は文章を通じて表現されるときには、頗る變つたものになつてゐるのである。
 こうした實際の景色とが文章家の筝にされるとき、それは當然練りに練つた美辭麗句をもつて表現されてゐるのでめるが、從つて出來あがつた文章は、馥郁たる梅香、老將軍をしのぶ枝振り、月光に浮き出した湘娥の如き姿體等々といふやうな言葉を用ゐられてゐるのである。そして鼻むけならぬ大糞壹は、少しも文章上にはその姿を現はさないのである。これは一つの例であるが、要するに、文章に表現された中國の文化は、決して實際生活と同一物でなく、實際生活は實際生活として別に存在する。換言すれば實際生活はたゞ生活を通じて表現されると言ふことの例として考へらるべきものである。
 そこで私は假に文章文化と、生活文化といふ二つの名―つけたのであるが、私の見るところでは、日本の支那研究家の大部分が(左派も右派も)たゞ文章文化を研究するのみであつて、生活文化を具體的に觀察し、研究されてゐる人は殆んどない。少くとも私はまださういふ人にお目にかゝつたととがない樣に思はれる。
 かくて日本の支那研究家は、中國の文章文化製造者と兄たりがたく、弟たりがたい、一種の文章遊戯者たるの觀がある。少くとも私にはさう見える。私は支那の文章なるものが中國人の生活の一部、若くは一面を巧みに文字を配列して、書き遺したものだと考へてゐる。從つてそれは一部の記錄であつて全部の記錄ではなく、同時にまた是等の文章が生活の規範として、それ程絶對力を振つたわけでもないと信じてゐる。
 しかるに日本の支那研究家に、何故に文章文化の研究のみに沒頭して他を顧みないのか私にはそれが不思議でならない。日本の研究家は文章でなければ――文献でなければ信用しない。それが如何程確かな事實であつても、文献にない事實であれば見ても見ぬふり、聞いても聞かぬ振りをしてしまふ。私が見たとか、事實存在してゐるといふよりも、何々の書の第何節にどう書いてあつたといふことが、確められなければ信用できぬといふのが日本の研究家の態度である。不思議な話であり。また滑稽な話でもある。先にも言ふ通り中國の文章なるものは、既に實際の事實から離れて、高く昇天してゐるものであり、文章家の頭腦で練られ、彼が自己陶酔をもたらすべくりくりあげたものである。生活の所産でなく頭腦の所産であり、端的に言へば有閑文化の精とでも稱すべきものである。これのみによつて中國を知り、中國人を解し得やうとするならば、それは全く滑稽なことである。
 由來日本人は數千百年の間、海洋中に孤立的の生活を続けてきたのであるが、その結果として非常に非實際的な鑑賞の文化を建設してしまつたのであるが、これがまた中國の鑑賞的な文章文化を受容れる素地をなした。自國の有閑文化に育ち、中國の有閑文化をとり入れてきた祖先と、この傳統に育つてきた吾々日本人が、文章文化を重視することはけだし已むを得ないことであらう。
 ところで中國に於いて有閑文化の代表的存在である儒教が、日本に受け入れられて、實践倫理の基準となつたのは、前述の點から見て當然のことであらうが、反對に中國の生活文化は日木人に未だ殆んど影響を與へてゐないやうである。有閑文化によつて育まれた私が、實際の中國の生活文化に直面して、面喰つたのはけだし當然のことであらうが、兎に角面喰つた後の窮餘の一策か、或は偶然のできごとか、私は從來の支那研究の書物を讀まず、文献の先入主から離れて、先づ中國人の生活そのものを觀察し把握しようとした。そしてこの生活文化――眞實なるものの一端でもつかみたいと思つて今日まで努力してゐるのである。
 これがここに示す私の漫文――お粥の固りのやうな私の漫文のできあがる過程である。鹿爪らしい序論はよつて件の如し。

○日本の支那研究家は、たゞ支那の文献と、それに盛られた文章文化をのみ研究した。
○私は生活を凝視して、生活文化を把握しようとするものである。

引用・参照・底本

『鄥其山漫文 生ける支那の姿』内山完造著 昭和十一年六月五日第三版 學藝書院
(国立国会図書館デジタルコレクション)

ありえる現実2022年03月06日 12:19

絵入太平記
 ありえる現実 2022.03.06

 南相馬市の女性、「ウクライナの人は原発事故に遭った仲間。原発への攻撃なんてありえない」(中日03.06)と、憤る。

 この女性の言を批判する積りは毛頭ないが、ちょっと待てよ、と思うのだ。

 "原発事故に遭った仲間"と"原発への攻撃"とは、如何なる関係にあるのだろうか。
 原発事故に遭った仲間なら、原発への攻撃は避けられる、又は"ありえない"、という因果関係が成立するとも思われない。

 寧ろ世の中の諺としてならば、<二度あることは三度ある>とも云う。

 つまり、戦争では何が起きるかは予断を許さないし、先行き不明なのが常である。  例えば、事前に取り決めしたとしても、敵味方或いは第三による故意・偶発の結果で事故が起きる可能性だってある。

 そう、この女性の憤りの言葉を発した時点で、既に"ありえない"ことが"ありえた"のであり、"嘆き"に変容している。
 つまり、因果関係は失せた。

 この女性はウクライナの、或は自分の状況などを比し慨嘆し、失望を表したのだろうとは思うが…。

 それとも、ありえないことが、救いとなるのだろうか、それは美しい誤解に過ぎないのだが。

 が、「原発への攻撃なんてありえない」は本当なのか。否、ありえる想定をしている、此の日本でも。

 事態対処法(平成15年=2003年6月成立)、つまり、「武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」は、有事法制全体の基本的な枠組みを示した法律となる。

 事態対処法においては、武力攻撃事態と武力攻撃予測事態をあわせて「武力攻撃事態等」という。

 そして翌平成16年、「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」が成った。これで、万全の態勢を整備し、国民の保護のための措置を的確かつ迅速に実施する基本的な法制が、全国ベースで整備されたのだ。

 しかしながら、2011年3月11日に発生した東日本大震災での福島第一原子力発電所事故では、政府並び自治体の右往左往を観た。
 そして何年か後に、複数の県に確認したのだが、例えば騒がれた安定ヨウ素剤等の準備などは一切無いとのことだった。

 要するに此の福島第一原子力発電所事故に至る経過は、そう、有事法制下の状況と捉えるべきであった。が、原発事故に対する住民(国民)保護などは正に絵空事、画餅であることを証明した。
 それを指摘したメディアを未だ知らず。

 国民保護は平和時のお話ごと。いざ有事の時の国民保護は"ありえない"と考えれば諦めがつく。

 ウクライナの人々は他国への避難が可能だが、此の海に囲まれた島国、避難することも、逃げ出すことも容易ではない。人々はガラス張りの部屋に閉じ込められ、爆弾を投げつけられる如しだ。

 核シェルターなどもない、防空壕など在っても今の時代何の役にも立たない。建物に避難しても、建物自体が破壊される。

 収容所列島、幽囚の国民(住民)であることを忘れて、核爆弾を身に着けようとする愚か者が騒ぐ。

「原発が国籍不明のテログループによる攻撃を受け、多数の死傷者が発生し、原発の施設の一部が故障し、放射性物質の放出に至る事態となった」というシナリオで、共同訓練も実施されている。

 当然、弾道ミサイル攻撃、航空機による攻撃等での、原子力事業所等の破壊、石油コンビナートの爆破等、或いは炭疽菌やサリンの大量散布等、航空機による自爆テロ等も緊急対処事態の例となる。

 救われようのない事態なのだ。

 そう、原子力災害は重大な事故の範疇なのだ。国民保護を枕詞にするも、事態対処法は戦場となるため覚悟の法制であり、国民保護は真っ赤な嘘でも、ミサイルの炸裂の場となるは必定であり、真実だ。

 日本でも「ありえる」現実なのだ。

裏から見た健康2022年03月08日 17:14

一盃綺言208-152
 『活きんとするものゝ爲に』

 18-20頁
 第五節 裏から見た健康 2022.03.08

 最後に述ぶるは裏から見た健康で、彼のペストやコレラの如き傳染病の豫防の如きは裏からの健康であつて、上水の改良をなし、下水の浚渫を計るがごときは、要するに裏からして吾人の健康を保つこと、頗る親切であるが、さて果たして人類の健康は文明の進歩に伴ふだらうか、國の文明と共に、その國が益々貧乏人の數を多く數へる如く、人類の健康は文明と反比例するをよく見るのである。今世界各國人民の衛生狀態を調査したものを見ると、或る國は甚しく減じつゝあり、或は増す國もあるが、一般に漸次衰へつゝあるのが判る。、男の半數は兵役に不充分であり、女の半數は哺乳の力が無い、學校兒童中に就て見ると、完全なる體躯を有して居るものは、實に晨星よりも少ない。我々の小學校時代と、今の小學校とを較べると、校舎と云ひ、その他一般の衛生的設備は遥かに立派になつて居るが、要するにこれは衛生思想の進歩した證據であつて、此の點は、吾人済生を念として居る者の感謝するところであるけれども、その實際の狀態を、医学上各種の方面より觀察すれば、衣食住を始め、學校衛生、勞働社會に對する衛生設備、貧民病院等、當時よりより多きを望まねばならぬ。それから今日文明國の三大勁敵と稱して居るのは、酒と、結核と、花柳病とである。此の三つは實に人類を導いて死滅の地に誘ひ行くところの悪魔である。医學者全力を揮ふて體質の改良、人種の改良を計つても、此の三敵の勢ひは頗る猛烈であつて、今や人類は日一日と不健康の境に進みつゝある。それで學者間には、此等の不健康者には結婚をさせるなと云ふ論者もあり、就中花柳病者には去勢術を施せとまで論ずる學者もあるが、それは人間を動物的に見たもので餘りに酷い、人間は牛馬と同等のものでない、人間には動物以上の或るものがある。吾人は此の高尚なる特性によつて自ら改良することを考へねばならぬ、要するに医學敵道義心を發揮するのである。
 要するに、吾人の眞の健康、健康なる國民とは、以上縦横表裏何れより見ても健康なるを云ふのである。然らばその眞の健康は如何にして得べきや、これ予が説かんとするところであつて、また實に健康學の終局の目的である。

引用・参照・底本

『活きんとするものゝ爲に』健康相談所々長 伊藤尚賢 醫學士 森繁吉 大正十一年三月十五日發行 一誠社
(国立国会図書館デジタルコレクション)

歴史上に於ける昔の戰争犯罪人2022年03月09日 21:43

家庭教育日本歴史 天照皇太神
 『アメリカ樣 全』宮武外骨 著

 (九頁)
 歴史上に於ける昔の戰争犯罪人 2022.02.09

 戰争犯罪といふ無條規法は、既往にも及ぼし得る公法らしいから、これを我が日本國の歴史人物に適用しても好からうと思ふ、多くの敵人を殺したり、多くの民衆を塗炭に苦しめた大奸雄ナポレオンなどは、世界に於ける戰争犯罪人の巨魁であらうが、それに似た奴が我が國にも多くある、今の共産党員は御一人樣をも戰争犯罪人だと云つて居る、その論法でゆけば、神武天皇や日本武尊等も戰争犯罪人に入れねばならぬが、それは神祖に對してアマリに無禮であるからやめておく(一々擧げればイクラでもあるが、オモな奴だけ)

 源義朝 源頼朝 藤原秀衡 北條時宗 足利尊氏 楠正成 新田義貞 織田信長

 此中で源義朝は俘虜虐待の罪もあつたらしい、楠正成の敵對行為は最もヒドかつた、大小便を釜で沸かし、それを敵兵の頭に注ぐなど、前代未聞のキタナイ事をやつたり、泣男を使つて敵を欺瞞する等、卑劣の所為が多かつた、今なら銃殺の死刑である

 豊臣秀吉、徳川家康の両人は最も憎むべき惡漢、明治の西郷隆盛、乃木希典、東郷平八郎、伊藤博文、山県有朋、桂太郎等及び数十名は侵略支持者としての重罪人である

引用・参照・底本

『アメリカ樣』宮武外骨 著 (蔵六文庫, 1946)
『繪本道化遊全』宮武外骨 著 明治四十四年二月十日發行 雅俗文庫
(國立國會圖書館デジタルコレクション)