つづけぎまに三発狙撃2022年09月02日 07:50

井上準之助
 『昭和事件史 風雲三十年の裏街道』北条清一 著

 (152-153頁)
 つづけぎまに三発狙撃        2022.09.02

 浜口内閣の時の大蔵大臣井上準之助は、昭和七年二月九日夜、総選挙の真っ最中に暗殺された。
 その夜――午後七時四十分、麻布三河台の自邸を出て、民政党候補駒井重次氏の演説会場である本郷区駒込肴町駒込小学校へ、応援演説に出かける途上であった。駒込小学校前で自動車を降り、道路を横ぎって四、五歩あるいて、まさに会場の正門に入ろうとした時、薄闇の中から、中折帽子に絣の着物を着た一人の男が、突然つか、つかッと現われて、井上氏の背後から後を迫った。
 一歩、二歩、三歩――井上氏とその男の距離が接近した。そのとたん、忍びよった怪漢は、ステッキで背後から井上氏を殴った。
「あッ!」
 井上氏がひるむ隙に、懐ろから素早くピストルをとり出して、しっかりと右手に握り、左腕を肩のところで折曲げ、その腕の上にピストルを押しあてて、つづけざまに、ドン、ドン、ドン、三発射った。
 弾丸は三発とも命中。井上氏は無言で巨木の倒れるように土の上に什れた。井上氏の後につづいた駒井重次氏は、意外なこの場の光景に、
「おのれッ」
 と叫んで、怪漢に飛鳥の如くとびつき、腕に覚えの讃道館流大外刈りの一手――技はきまって怪漢は、もんどりうって地上に投げ飛ばされた。そこへ、警官その他が駈けつけて、苦もなく取り押えた。
 什れた井上氏は、すぐ帝大青山外科へ運ばれたが、怪漢の狙撃は実に確実で、一弾は左背から左胸部へ貫通、一弾は右背から胸部乳のところで盲貫、一弾は背郎から腹にぬけているという次第で、遭難現場から病院に運ばれる途中でまったく絶望――即死といってよい有様だった。
 井上氏は、所信については、人一倍自信の強い政洽家であった、世間一股からもひどく頑固おやじのように見られていた。
 麻布三河台の邸へ爆弾を投げこまれたことがあったが、破装力が弱くてたいした被害を受けずにすんだこともあった。
 その時井上氏は、沈痛な笑いを洩したそうである。
 犯人は茨城県那珂郡平磯町磯崎小沼正(二十三才)という無名の一青年であった。明治維新に、桜田門外の雪を血で染めた水戸烈士を出した茨城県の青年である。
 彼は同志と血盟して「農村の疲弊見るに忍びず、この原因は井上蔵相の誤れる政策によるものである。井上を倒せ」――血気にはやる青年の一途な考えから、ついに惜むべき政治家を殺してしまった。恐るべきことである。
 犯人小沼は、大工の徒弟、洗張屋の外交、カンテラ工場の職人などをした。感情の極めて激しやすい青年であった。

引用・参照・底本

『昭和事件史 風雲三十年の裏街道』北条清一 著 昭和三十一年四月二十五日初版發行 鱒書房

(国立国会図書館デジタルコレクション)

麥 秋2022年09月02日 08:01

漱石遺墨集
 『青天祭』前田夕暮 著

 麥 秋

 (113-113頁)
 老 婆        2022.09.02

 六月一日の、麓は一めん明るい麥秋の外光――
 私達は草山の上で、一人の蕗採りの老婆をつかまへた。老婆は農夫と同じやうな股引を穿き、筒袖の勞働着をきて、草鞋がけであつた。幕か何か縫ひあはした大きな風呂敷の上に一ぱい蕗を束ねて、草の上に放りだしてあつた。私は老婆をつかまへて若い日のこと、生れた村のこと、お嫁入りの思ひ出、子供のこと孫のこと、それからそれへと話しかけたりきいたりしたあとで、その老婆と一緒に、山上の大石佛の前で、Y君にスナツプして貰つた。
 老婆はただひとりこの山の上でひとり言をいひ、たまには若い日の盆踊の唄などを小聲で歌ひながら蕗をつみ、蕗をつみ、そして蕗をつんで日を暮らすことであらう。
 山の上の空からは明るい光線が老婆の顔にさしてゐた。私は瞬間、草の上に坐つて、やゝ放心してゐるやうな老婆の顔に、充ち足りたかゞやかしいものをみた。
 年寄りはよいものだと沁沁思つた。

 (114-115頁)
 老 人        2022.09.02

 山麓の村落を行くと、門口に牛乳鑵が浸けてあり、冷たい清冽な水に揺り動かされてゐるのをみると、私は牛乳が飲みたくなった。それを一ぱい振舞つて貰はうと、門口のだらだら坂を上つて行くと一人の老人か戸口に立つてゐて、顔を皺だらけにして、歯のない口をあけて笑つた。
 家の内にはぎつしり蠶棚が建て列ねてあり、その老人のうしろからは、無數の白い蠶がうようよと頭を一せいにもちあげて蠢いてゐた。
 私は、牛乳一ぱい……と思つて、近づくと、白つぽけた老人の面のやうな顔が、しんとした庭さきの日の光を受けて、さながら蠶そつくりにみえた。(昭和十五年)

引用・参照・底本

『青天祭』前田夕暮 著 昭和十八年二月二十日發行 明治美術研究所

(国立国会図書館デジタルコレクション)