株式會社の儲からぬ話2022年09月11日 11:10

大支那大系第7 蘇州北寺の報恩塔
 『鄥其山漫文 生ける支那の姿』

 (五五-六一頁)
 株式會社の儲からぬ話        2022.09.11

 上海の街には、非常に多くの種類の車が往來して居る。私が店頭に立つて數へただけでも、六十種はある。それは諸葛孔明時代からあるあの一輪車の小車から、今日の自動車に至るまで各々時代の色を見せ、雜然と往來して居る。
 ハイカラな婦人が車から轉がり落ちた。殆んど誰もそれを助けに行く者はない。そればかりか、車夫や苦力などの勞働者は、手を拍つて聲を上げて好々(此の揚合は面白い面白いと云ふ意味である)とはやしたてゝさえゐる。こうした行爲は、彼等が未開人であるが故にと、今日までの人は考へたのであるが私はさうは考へない、なぜなれば此時彼等の拍手の中には輕い意味ではあるが、復仇的な痛快さを彼等自身に感じてをり、そして轉つた婦人に對して嘲笑を與へて居るのである。一口 に云ふと支那の無産者及び無力者であるあの勞働者連中は、有産者及び有力者に對して常に一種の反感を抱いて居る。その考方はお前等が居るが故に自分等が無力者となり無産者となつたのだと云け樣な考へ方である。こうした考へ方は近代思想の影響でもなく、永い永い年月の經驗が自然に彼等をして、こう云ふ風に考へさせる樣になつたのである。そこで彼等は有産者又は有力と見へる樣な風體の人が、たとへ辷つても、轉んでも少しも助け樣とはしない反對に、それを嘲笑して痛快がるのである。 
 一輪車の小車が、煉瓦や土を運んで居る。ソレが突然橫倒れに轉がつた樣な時に、それを見た彼等車夫苦力などの勞働者は手も拍たない、笑ひもしない、口では何んとか彼とか文句を云ひながらも、集つて來て倒れた車を起し、飛び散つた物を拾ひ集めて呉れる。そして助けられた小車夫も、別にお禮を云ふでもなく、まるでお互ひ樣といつた樣子である。そこにハッキリと、同じ仲間としての帮の働きを見せて呉れる。或る支那通の話に、
日本人と支那人の相違は、日本で若しお金を落してバラバラに飛び散つたとしても、落主へはー銭も缺けなく戻つてくるが、支那ではさうした揚合には、必ず戻つて來るお金が少いと云ふことである。これは事實でもあるが、しかしそれは必ず其の金の落し主が勞働者連中の仲間でなくて、キット有産者、又は有力者に見へる風 體の人である時である。(日本人でも西洋人でも外國人は悉く彼等の目からは有産者、有力者と見へるのである。時には例外はあつても)茲に兩手兩足のない一人の告化子(乞食)が首にひもをつけて、藤の籠を其の紐につけて居る。そして自分は街を轉りながら、奇想天外の聲を張り上げて、助けを呼んでゐる。銅貨をバラバラと なげ與へられる。(支那人はよく告化子に恵んでやる、それは多く學問もない小商人とか、勞働者連中の場合が多い)ナゲ與へられた銅貨は、籠にはいらず外に落ちる。それをキツト阿媽(女中)とか學生子(小僧さん)とか、車夫などが拾つて、籠の中に入れてやる、斷じて落ち散つた銅貨を私するものはない。
 即ち支那通の比較話は、惜しいことに一面だけより見て居らないのである。
 支那ではどう云ふものか株式會社が利益を上げ得ない。それには色々の原因もあるが、其の原因の一つにこうした事がある。一つ株式會社が出來ると其の重役が一人殘らず自分の家族、親類、緣者に會社の飯を食べさせる。こう云うただけでは、日本だつて同じ事だ重役さんの親戚や、緣者は會社に使つて貰ふだらうし、家族は重役さんの取る會社からの收入で食べて行くのだからと考へられるであらう。ところが同じ事の樣で、實は大變に違つて居るのである。日本の會社では、親戚緣者の人を入社させても、それは必要から入社させるのであるから、みんなそれぞれ働くのであるが、支那ではそうでない。たゞ重役の親類緣者であるからと云ふ理由のみで必要でもないのに入社して、毎日煙草を吹かして月給を取るのである。
 まるで白蟻が巢くうたのと同樣で、遂に會社を喰ひ潰すのである。
 昔から支那は大家族主義だと云ふ。成程大家族主議である。然し他の國の大家族主義とは一寸違つて居る。他の國の大家族主義は一人の家長の統制の下に於いて、多くの人が働いて家を保つて行く。つまり何軒にも分居するのと一軒の家に居ると云ふだけの差をもつてゐるに過ぎぬものであるが、支那のは同じ大家族でも、働く人は家長一人で、他の多くの人は每日遊んで食ふと云ふ、私が名づけて云ふ食潰主義大家族制度である。
 此の食潰主義大家族制度が株式會社の中に於いて、類似の大家族食潰しを始めるのであるから、食ふこと位い何んでもない樣なものだが、實はナ力ナカに大きく、遂に大會社を瞬く間に食つて終ふのである。
 此の食潰主義大家族制度こそ、實に株式會社に利益をあげさせないばかりでなく、その倒産を餘儀なくさせる大きな原因であると私は思ふのである。
 私の家の店員の食事は、一人一ヶ月十二元で包飯店に請負はしてある。朝はお粥を持つて來る。晝は一湯六碗で(お汁が一つと魚、肉、玉子、野菜など六種の煮た物がつくのである)夜は一湯八碗である。そして八人分請負はして、實際は九人で食べるのだから、一人はたゞで食べて居るのである。其上に店員が食べた殘りを老司務(年よりの苦力頭)が食べて居る。九人の店員が食べ終つて飯もお汁も殘りがない樣な事があると、彼れ老司務は、自己權益の擁護と云つた調子で、雄辯滔々と包飯店の苦力をマクシたて、翌日からは飯もお汁も多く持つて來させる。此の包飯を阿康と云ふ以前私の店に居つて退店したものが店員達と相談して請負うことになつた。阿康は私の店を退店して後、色々やつたが甘く行かず、結婚して子供は生れる、自分は失業すると云ふ始末から、店員達と相談して店の包飯を請負はして貰ふことになつたのである。
 それで私に其の資本を貸して呉れとのことで幾何か出させられた事があつた。つまり澤山の包飯を請負して居る包飯店の請負を止めて、食ふに困る者を助ける爲めに、内山書店專屬の包飯店が出來たのである。資本は出來た。準備は出來た。いよ いよ來月から包飯店が代ることに決つた。其時に老司務が妙なことを云ひ出した。
 旦那さん來月から私は自分の食事は自分で作るから、臺所のガスを使はして下さいませんかと云ふのだ。彼老司務は實際には包飯の殘物で飯を食べて居るのであるが、しかし彼は毎月他の人と同樣に食費十二元を貰うて居るのである。つまり食費を全部浮かして居つたのである。それが急に自分の食事を作ると云ふのであるからそれはどうしてかと聞いて見ると、彼れ日く、是迄は大きな包飯店が請負うて居つたのですから私一人ぐらひ其の殘りで食べてもよかつたのです。今度は阿康(新らしい包仮店)が食ふに困つて、助けて貰ふ意味で請負はして貰ふた包飯ですから、其の中で私が食ふことは出來ないと云ふのです。
 私は二つ返事でよしよしと云つて、ガスを使ふことを許したが、考へて見ると目に一丁字なき苦力頭が、こう云ふ風に考へるのであるから面白い。
 株式會社が食ひ潰されることと封照して見ると、又頗る面白い問題である。

引用・参照・底本

『鄥其山漫文 生ける支那の姿』内山完造著 昭和十一年六月五日第三版 學藝書院

(国立国会図書館デジタルコレクション)