大統領モンローと国務卿アダム2022年09月07日 16:05

外国人遊興之図
 『モンロー主義の眞相』小山精一郎 著

 (36-39頁)
 一八 大統領モンローと国務卿アダム     2022.09.07

 ジエームス・モンローが米國政界に於て頭角を顯はすに至れるは、彼がワシントン大統領時代の千七百九十四年、國務卿ピツカーイングより選抜せられて駐佛公使モーリスの後を承け、佛國公使として任命せられたる以後のことである。彼は當時ヴアーヂニア州出身の上院議員であつたが、ワシントン大統領竝に其の閣員と意見合はずして、千七百九十三年十二月三十一日國務卿の地位を去りたるジェファーソンと最も親密の關係を有し、常に政府反對側の闘士として相當に認められて居った。是れ却つて彼の地位を得る素因を爲したのである。ワシントン大統領の意中に於ては、前公使モーリスが佛國王竝に貴族に同情して、革命政府の不信を得て召還するの已む無きに至れるに鑑み、佛國政府側に同情を有するモンローを任命するは、米佛兩國間の關係を親厚ならしめ、且、反對黨領袖ジェフアーソンの親友たる彼を選任するは、反對黨の鋭鋒を鈍らしむる效あるべしとの兩天秤であつた。彼の渡佛は果して佛國民の歡迎する所となり、執政々府の好感を得たるも、本國との關係に於ては政府の代表者と謂はんよりも、寧ろ反對黨たる自派の公使たるが如き振舞を爲し、英彿兩國間の『ジェー』條約締結中の如き、著しく之れに反對したるを以て、ワシントン大統領は遂に彼を召還するの已む無きに至つた。是れに於て彼は憤慨して本國に歸來し、國務卿ピツカーイングに對し、召還の理由を説明せんことを強求し、其後彿國駐在中に於ける行動に關し、四百頁に亘る辯明書を公表し、以て政府に對し痛烈なる攻撃を加へた。次でジエファーソン大統領時代の千八百二年、ミシシツヒー河及び其の東方地方に於ける米國の權利及利益を確保する目的を以て、佛國と條約を締結すべき特別全權として佛國に赴き、遂には米國の基礎を爲すべきルイジアナの買収條約を締結した。
 其後モンローはフロリダ買収の交渉を行ふ爲め、西班牙に派遣せられたるが、機熟せずして失敗に終りたるを以て、英國駐在公使として倫敦に赴き、『ジエー』條約の期限満了後の千八百六年其の改訂條約を締結したるが、條約中英國が米國人たる海員を強徴する問題、竝に米國船舶の捕獲賠償問題を脱漏したる爲め、ジエフアーソンは該條約を上院に提出するを拒みしかば、モンローは不平の内に本國に歸來し辯護書を公刊した。
 ジエームス・ーマヂソンが千八百九年三月、ジエフアーソンの後を承けて大統領となるや、其の下に國務卿と成り、次で千八百十七年大統領の地位に就いたのである。
 國務卿ジヨン・キンシー・アダム(John Quincy Adams)は、米國革命時代より遣佛公使、駐蘭公使、駐英公使として盛名を馳せたるジヨン・アダムの長男である。從て彼は年齡僅かに十一歳の時、其父に伴はれて歐洲に臻り、佛國及び獨逸の文化を吸収したのである。次で彼は十四歳にして駐露公使ダナの秘書官として露國に赴き、十六歳の千七百八十三年には英佛兩國間の獨立承認條約締結に當り。米國全權の書記官として活動し、二十七歳にして駐蘭米國公使として任命せられた。其後駐
獨公使となり、又瑞典に對する特別全權となり、千八百九年には駐露公使として任命せられ。千八百十五年迄其の任地に駐在したのである。斯くて彼は同年駐英公使に進みたるが、其の父ジヨン・アダムか盛んに其子の榮進を圖り、モンローの大統領となるや其の所懐を漏して曰く「此の最後のヴアージニアン(註――自分を指す)が榮域に横はる迄、我が子は米國最高の地位を得るの機會無かるべし」と。モンローはジヨン・アダムの希望を容れ。建國偉勲者の寵子たる鋭才ジヨン・キンシー・アダムは五十一歳にして遂に國務卿の地位を嬴ち得たのである。
 モンロー大統領の閣員には三名の競爭者があつた。即ちカルホーン、クロ―フォード及びアダムである。アダムは最も斷行心に富み、精力絶倫であつて、其の政府の發したる宣言、通信、覺書等は主としてアダムの起草したる所である。モンロー主義の原案の如きも正に彼の光輝ある智能より發露せるものである。

 (39-40頁)
 一九 モンロー主義の起草          2022.09.07

 大統領モンローの下に於ける政府は、千八百二十三年十一月七日より、英國の提案せる共同宣言、露國の主張せる政治組織、竝に歐洲諸國に對する警告問題等を討議し、同月二十六日最後の閣議を開くや、アダムは米國の執るべき政策に就き概言して曰く「吾人は全歐洲問題より隔離し、是等諸國と共に干渉するの意思を全部放棄し、亞米利加諸國と提携せねばならない。是れと同時に亦カンニングの提議に回答する手段として、露國の文書に回答を與へねばならない。吾人は南亞米利加に對する神聖同盟の計畫に向つて米國の態度を決定せねばならない」と。
 此の時、議會の開期は接近し、内外に對する米國の確乎たる政策を宜明せざるべからざるに至つた。從つて千八百二十三年十二月二日に發したる有名なるモンロー主義、即ち大統領の教書は此の間に起草せられたものである。モンロー主義の歴史を最も精細に探究せるレツダウエーは、該教書中に國務卿アダムの意思は實質的に披瀝せられあるを悦んだ。何となればアダムの平生主張し固持せる主義が、悉く其の中に包含せられて居るからである。
 其後ウオーシントン・フオードがモンロー主義の原本を發見するや、アダムの思想を披瀝したるものであることは愈々明白となつた。教書の主義はアダムの指導の下に起草せられ、モンロー之れを訂正し、最も重要なる部分を自から記述したるものである。

引用・参照・底本

『モンロー主義の眞相』在紐育 小山精一郎 著 大正十一年八月十四日發行 世界思潮研究會

(国立国会図書館デジタルコレクション)