米國の侵略主義と對支問題2022年09月22日 10:36

万国尽 唐土人
 『對米國策論集』 國民對米會編 編者 葛生能久

 米國の東洋に對する野心 内田良平氏

 (三一五-三二五頁)
 第三 米國の侵略主義と對支問題         2022.09.22

 米國は上述の如く滿洲に對し、手を代へ品を換へ日露兩國の勢力を排斥するに鋭意したに拘らず、未だ成功を見るに至らなかつたが、他方には支那本部へも手を出すことを怠らなかつた。其の第一は粤漢鐵道の布設權である。是れは明治三十一年四月十四日米國の合興公司代表者サーローウードバンスと駐米支那公使伍廷芳と粤漢鐵道の借款契約を締結した。初めの契約は四百萬磅の金で三ヶ年以内に竣工する約束であつたが、實地測量の結果布設工費見積額が不足であつたので、明治三十三年七月十三日借款の金額四百萬磅を四千萬弗と改め、竣工期間を五ヶ年に延長し、契約批准の日より十二ヶ以内に工事を着手することとしたのであるが、米國は其の期間内に工事に着手しなかつたため、露佛兩國は奇貨措くべしとなし、該公債の過半数を白耳義シンジケートの手を以て買収せしめ、米國と布設の實權を爭ふ樣になつた。是に於て當時の湖廣總督張之洞は非常に之を憂慮し、米國に賠償金を支拂ひ其の布設權を支那に回収することにした。米國は初めて支那に於ける鐵道の敷設權を獲得しながら何故工事の時機を失し之を失ふ樣なヘマをしたかといふに、當時支那では拳匪の亂に引續き、日露の風雲が急なため、其の形勢觀望して居たのによるのである。然も米國は只だ起きる者ではない。すったもんだの悶着を重ねた結果取つた賠償金が六百七十五萬弗に及んだのである。次は明治四十二年英佛獨で漢口四川間の鐵道敷設權を得たのであるが、米國は之れに加入を申込み、三國が不承諾であつたのを大統領タフトから攝政王 に親書を送り、支那の主權を侵害されるのを防ぐ爲なりと稱して之れを動かし、漸く加入の目的を達した。之れが四國借款團の濫觴である。
 米國が四國銀行團を提げて、支那幣制改革並に滿洲企業資金の借款に調印したに拘らず、日露兩國の反抗に遭ひ行き惱みとなつたことは前に述べた通りであるが、明治四十五年二月清國宜統帝が退位され支那革命が一段落を告ぐるや、四國銀行團は支那改造大借款の名義の下に四億兩の外債を引受くることゝなり、同月二十九日二百萬兩を南京政府に、三月四日及び七日の兩度に壹百拾萬兩を北京及府に交附したのであるが、今度は前の幣制改革滿洲企業借款の失敗に鑑み、英國側の主張により日露兩國に加入を勸めた結果日露兩國が之れ参加し、此に六國借款團が成立するに至つた。然るに米國大統領ウイルソンは之れを喜ばす、該借款條件を支那の獨立及び主權に抵触し、且つ内政に干渉するの恐れありと唱へ、突如銀行團より脱退した。此の米國の銀行團脱退は何故であつたか。其聲明する如く、借款條件が果して支那の主權を侵害する恐れがあるため衷心より之れを憂ひとするならば、其の締結に際し、米國は何故に其内部から之れに反對しなかつたか。況んや米國は最初漢川鐵道借款割込の際極力『米國の加入は支那の主權を侵害することを防ぐ爲めだ』と稱した手前に考へても甚だ矛盾した話では無いか。畢竟米國の政策は主として日露兩國の支那に於ける在らゆる基礎を覆へし、取つて之れに代はらんとするにあるので、該借款團中に日露が入つて來たから、何等米露の野心を逞うすることが出來なくなつた爲めであるは言ふ迄もないことである。
 併し米國は一時我儘な借款團脱退をしたものゝ其結果は自縄自縛の姿となり、文那に對して殆ど手足が出せなくなつたので、國内でも批難の聲が八かましくなつて來た。そこで今度は單獨で利權を取る事とし、大正三年一月に淮河治水事業借款を引受ける事となり、支那農工商部總長張騫氏と北京駐箚公使ラインシュとの間に借款假契約を締結した。然るに夫れが海蘭鐵道布設權を有する白耳義シンジケートの權利と衝突するので猛烈なる反對に會ひ、是れ亦た行惱みとなつたのである。茲に於て米國は又も轉じて大正五年四月十九日に廣益公司即ちインターナショナル・コポレーションと支那政府との間に大運河借款契約を締結した。此の運河は江蘇省運河借款と山東省運河借款との二つになつて居て、米國には頗る有利な契約であつた。當時我が我帝國では、日獨戰爭の結果山東省に於て獨の有して居た一切の利權を繼承することゝなつて居た爲め、此の山東省運河借款に關しては當然抗議を爲し得べき地位に在るので、支那政府に詰問を試みた。其の時適ま日本に來た米國の鋼鐵王ジヤウジ・ヱルベート・ゲーリーが日本の實業家と意見交換の結果、日米共同して山東運河浚渫借款に應ずることになつた。蓋し米國の此の譲歩は、外務省や實業家連中が國本勢力の發動として喜んだ所であるが、米國では別に期待する所があつたので、畢竟之れは一時の飴ねぶらせに過ぎなかつたのである。
 此年五月十七日米國は更に進んで支那政府と一大鐵道借款を契杓し、九月二十九日詳細なる協定を交換した。其鐵道線は、
 一、山西省鳳城より甘粛省寧夏に至る線
 二、甘粛省寧夏より同蘭州に至る線
 三、浙江省城より温州に至る線
 四、湖南省衝州より廣西省生南寧に至る線
 五、廣東省瓊州より同省癩親に至る線
 以上計二千六百哩の内米國の希望する線を選ぶことが出來るといふのであつて、米國は湖南、廣西の線を選擇した。米國が支那に對して執つた利權で成立したものは斯んなものに過ぎなかつた。
 之に反し當時日本の勢力は非常なもので、歐洲戰前迄は日本の對支那借款僅に一億圓位に過ぎなつたものが六億を突破すに至つたやうな狀態であつた。之れを見た米人の嫉妬は非常なもので、彼等は一面には外交上或は排貨煽動等によりて日本を掣肘すると同時に、他面には在らゆる方法を講じて利權の獲得に焦慮して居たが、歐洲大戰の終局に際し、米國が参加して獨逸が屈伏したといふので、米國の勢力は隆々たるものになつて來た。彼等は其の勢に乘じて今迄の停頓せる狀態を一時に挽囘し進んで其實權を掌握するため、對支新財團の組織を企て英佛兩國の同意を得て更に日本に賛成を求めて來た。其綱領は左の如くである。
 一、新銀行團を組織して其の範圍を擴張し各國の資本家を網羅する事
 二、政冶借款と經濟借款とを問はず其の責任は銀行團に於て共同負擔する事
 三、從來支那より占取したる鐵道鑛山其の他一切の優先權は均しく新借款團に交附する事
 四、新銀行團は支那の主權を侵害し或は脅迫する投資を爲すを得ざる事
 此の提議は要するに曩に米國が自から脱退した銀行團を打消し、同時に日本及び他列國の既得せる幾多の優先權を奪ひ、又た總て支那を列國の協同監理する實權の基礎を造らんとするにあることは申す迄もない。然も之れに因て彼れが曩に銀行團を脱退した理由の矛盾も増益々明白となり、又た山東の運河借款に日本を加入せしめた底意も了解せらるゝであらう。此外米國はスタンダードの手によつて陝西の石油礦區を手に入れ、又た海南島も買取らんとしたが、事の成らんとするに臨み、日本人に暴露され支那に於ても反對論が起り失敗に終つたのであるか最近又た無線電信を日本と爭つで居る。
 以上は米國が東洋に於て最近迄執り來つた行動の概略であるか、之れを以で見ても彼れが支那大陸に對する野心を事實の上に證する事が出來やう。唯だ米國が今日迄支那より獲得せんとした侵略外交は多く失敗に歸して居るので、此の失敗を見て我が外交の成功であるかの如く考へ、又た米國が其の失敗するや、容易に變更若くは中止するのを見て何等の定見なきものとして、之れを軽んずる人があつたならば夫れは大なる間違である。亜米利加は技葉問題の失敗位で決して其の志を挫折するものではない。彼には遠大の目的がある東洋全休を制御せんとする太平洋政策がある。而して其の政策は既に着々としで歩武を進め、最早充分なる基礎が出來で居る。今日支那全土に亘り、宗数的社會的各種の事業に於て、民心を収攬して居るのも其の一である。或は國際的勢力を利用し支那を援助して、支那人の慾を買ひ其の信頼を贏ち得て居るのも其の一である。又現在支那政界の中堅たる直隷派に結んで之れに後援を與へて居るのも其の一である。此等政策の眞相如何を知らずに、我が對米問題は單に移民徘斥問題のみあるものと早合點して我々の對米主張を突飛なる議論としで排斥する者あるに至つては、實に寒心に堪へぬ次第と云はねばならぬ。米國の東洋に對する野心に就ては一層其傅統的國是であることを明らかにすべき證據がある。夫れは明治三十七年大統の領ルーズベヱルトが桑港に於てした左の演説が最も克く米國の大經綸を言ひ顯はして居る事である。
 第二十世紀に於ける商權擴張の最大舞臺は太平洋である。而して我が北米合衆國は今やカルホニア、オレゴン及び華聖頓に於て、アラスカ、布哇及び比律賓に於て、正に太平洋の一等國たらざる可からざる海岸線を有するに至つた。我領土の擴張は大である。けれども我が勢力の發展は更に大なるものがある。太平洋に於ける米國の地理的位置は今や吾人の決心如何に由りて、將來太平洋に於ける吾人の平和的權勢を保障するに足るものがある。吾人は此の方面に於て迅速なる進歩をなしつゝある。吾人が今現に沈設せる太平洋海底電線は、吾人が今將に興さんとする大汽船の航路と相須つて益々我が地位を鞏固ならしむべく、吾人が開鑿せんとする巴奈馬運河は總ての點に於て我大西洋と太平洋と聯絡せんとするもので著しく吾人の商業並に陸海軍の勢力を増進せんとするものである。
 ルーズベウルドの此の演説はモンロー教書の如く何時しか米國の國是となつて居るモンローは内治主義の國是を定め、ルーズベルトは對外政策の國是を定めたと謂ふべく、何れも米國現在の必要により起つて來て居るので、容易に變改さるゝものでない。モンロー主義は約七十年間繼續されたが、今度侵略ま義は無期限に繼續さるゝであろう。何となれば亜米利加の世界第一主義はぺートル大帝の世界統一主義と殆んど其の揆を一にするものであるからである只だ時に由つて消極的と積極的の差がある丈けである。是れは米國に限らず世界何れの國と雖も世界第一たらんことを希望せざる國はあるまい。世界第一の希望は取りも直さず世界統一と云ふ希望であつて、佛の奈翁、獨速のカイゼルも是であつたのである。古往今來苟も國を建てたものは自國を以て中心とせざるものはない。支那の中華と稱し中國と稱するも此の理想である。日本の豊葦原中ッ國と云ふも亦此の理想である。既に自國を以て中心とする以上は自國を以て世界第一と爲さんとする希望であることは言ふ迄もなき筈である。然るに近來我國民の思租は、歐米心酔の結果何んでも歐米先進國と唱へて之れを仰ぎ迎へ、歐米あるを知つて自國あるを知らず、自國あるを知つて居ても自國を信ぜず、自國を信ぜざる結果は君父を信ぜず、兄弟朋友を信ぜず、併て己れを信ぜず、空々寂々の夢遊的思想となつて、自己判斷の基礎精神さへ失つて居る。故に米國の野心や太平洋政策が少しも頭惱に映じて來ない。映じて來ないが故に世界平和主義とか人道主義とか亜米利加人の唱ふる處は一々随喜渇仰して有り難がつて居る。其愚や及ぶ可からざるものである。此の愚人が我帝國の知識階級に多いと云ふに至つては國家の前途實に寒心に絶へぬ次第である。

引用・参照・底本

『對米國策論集』 國民對米會編 編者 葛生能久 大正十三年十二月二十五日發行 發行所 讀賣新聞社

(国立国会図書館デジタルコレクション)

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