讀賣に唄はれた安政大地震2022年11月07日 13:11

江戸時代のさまざま
 『江戸時代のさまざま』三田村鳶魚 著

 (三〇七-三一二頁)
 讀賣に唄はれた安政大地震           2020.11.07

 六十九年前の大地震に際して、最も近い出版物は、瓦版で刷つた半紙半截を六枚綴ぢた此の『しん板江戸大地震くどき』であらう、是は讀賣したものだが、これは此度・・・・と大聲に呼び廻る普通の讀賣とは違つて、當時に流行して居たヤンレエくどきになつて居る、故に此の一綴は唄ひながら賣つたのである。
 その文句に『安政二ねん卯の十月よ、あく日二日のよの四つ(午後十時)すぎに、ぐつとゆりくる地しんのさわぎ』と云ひ、又た『やうやう三日目の八ツはん(四日午前三時)ごろ地しんしずまり、ゆめみたごとく、家のやけかず十萬あまり』、記錄へ從へば二日より廿九日まで連日震動し、此の間晝二十八度、夜五十二度、合計八十度を數へ、唯廿三日のみ一囘の震動もなかつたといふ、さうして、四日には四囘の震動があつたのだが、午前三時のほど強いのはなかつた、しかしそれと同程度若しくは以上の震動は、五日午前二時、七日午後六時、八日午後五時、九日午前八時、十日午後七時、十一日午後二時、十二日午後二時、十四日午前十時、十五日午前四時、十六日午後六時、十七日午後二時、十八日正午、廿一日午前三時、午前六時、午前八時、廿ニ日午前九時、廿五日午前四時、廿六日午前五時、廿八日午前二時、午後一時、午後十時、廿九日午後十二時にあつたけれども、瓦版の刊行は五日六日からとも聞いて居る、其の後の數多い強震以前に出たものであり、火事は三日の正午までに鎭まつても居たゆゑ、四日の午後は幾分人心も緩和されたであらう。
 十萬餘を燒いたといふのは市街地の民家の罹災概數で、武家屋敷や寺社等を除いたものである。當時江戸の民家は大凡三十五六萬戸と見積られて居つた、今度の火災は江戸の民戸の三分の一より尠い數を焚燒したと考へたのであらう、けれども丸の内の大吊屋敷、神田及び本所深川の旗本御家人の邸宅の被害は民家以上であつて、死傷者總數一萬五千といふ、其の三分の二は武家地から出て居るのを見ても、武士階級の災厄が町人町人よりも大きかつたのは明白である。  倉卒の際に忙しく發行された此の印刷物は江戸の歡樂を誇る三千の全盛、五町の榮華が忽ちに滅亡したことを云ひ、又猿若三丁の戯場の燒燼したことを説き、『こゝろへちがへば天めがつきる、かはへ子をすて、おつとに別れ、一人こゝろで、どうしたものよ、しあんしかねて十方にくれる、これをきいても、世上の人よ、ひヾのつとめをだいじにいたし、こゝろへちがいのないやうになされ』と結んだ、當時誰も此の震災を天譴と直觀したらしい、さうして深く反省しなければないやうに感じた。
 幕府の運命は已に切迫して居た、武士階級の滅亡は十四年後にあるのを誰が心附いたらう。天譴は緊しく武家に加はつた、有る程の彼等の邸宅に、著しい被害のあつたのを何と考へたらう。
   ◇
 十一月二日になつて、今囘の地震火事に關する刊行物の版木を押収すべき命令を傳へた、是は未だ安定しない人心に上良な影響を與へるものがあつたからである、その時錦繪を初めとして火事の方角附まで、各種各樣の出版物は三百八十餘を算へた、十日には錦繪屋の店頭狭しと掲げ列ねた地震火災の繪畫戯作を、通常な同種類のものと交換させた、早いのを生命にする讀賣はモウ此の頃は時期でない。
 現に我等の手に在る數種の讀賣は、孰れも十二月以後のもので且惨狀悲況を述べたものではな い、『地震ほくほくよしこのぶし』には、災後の江戸の樣子が唄われて居る。  地震此かた世の中にしばらくお間(おあいだは當時の流行言葉、本來は中絶の意味なのだが、ダメといふ語と略々同樣に云はれた)太鼓持、役者はお休だんまり場(猿若町の三座悉く燒失)藝者は座敷がなくばかり、質屋の出入は御門どめ、是はどふしやう講釋師、末の世までの咄しかと腕をくんだる高利貸、かりてのないのは貸本屋、假宅がよいは諸職人、ふられて歸るもあり升る、地震でもうけた金じやもの。
 吉原の娼家は五百日を限つて、淺草東西仲町、花川戸、山の宿、今戸、馬道、深川永代寺門前外七箇町、本所御船藏前外六箇所で營業することを許され、十二月から翌春へ掛けて開店した、これが假宅と呼ばれ、特に洒落本から人情本へ持廻つて、仇めかしい辰巳の春色も、天保改革で跡形もなくなつたのが、爰で二度目の假宅(弘化二年十二月五日吉原が燒けて、二百五十日間此處へ假宅した)とあつて、俄に賑しくなり、忙しい普請で錢廻りの好いベランメイの群れを引き受け、その繁昌は比類もない有樣であつた。
 此頃はやりは土方に車力、一ぜん飯には茶椀酒、諸色の現金あら物や、わらじわるけりやあやまろう、ひら家づくりにしやしやんせ、大屋のお内も假宅で、地主は普請ができぬゆえ、いなかの親類へ金工面、手紙づかいじやわからない、じしんでまいつてはなします。
 此の頃も路上で水とん(關西でいふ團子汁)を五錢づゝで賣つて居るが、安政にも同じものを八文乃至十二文に賣つた、今度も取付つけの八百屋、炭屋が悉く現金を請求するが、それも安政と同樣なのだ。
 元祿十六年の大地震以後、安政二年まで百五十二年間地震がなくはないけれど全市を覆滅するやうな災害がなかつたので、江戸では火災のみ患へて地震の方を忘れて居た、京保以來土藏と瓦葺の家が、年々に増加し、寶暦からは土藏造りと云つて、棟の高い塗り屋が澤山になつた、それが安政の地震に脅かされて、棟の低い板葺きが多くなつた。
 當時もつぱらもちいる物は、印半天かわ羽織、田舎の大工さんが金もうけ、仕事はこてこて左官やさん、あがつてさがるは屋根やさん、大どりしやうより小まいかき、是若し大屋さん、店賃よこせはどうよくな、たなこ大じと思ふなら、家のまがりを直さんせ。
 地持物持は金策に悩む時、勞銀生活のベランメイ群の元氣は凄じい、江戸ッ子の鼻息は荒い、此の際に各自が深く反省し、世間のために十分の考慮を必要とする、けれども江戸では幾種かの流行唄に紛れて、近く來るべき時勢の變化を夢にも見ずに居た。(大正十二年九月)

註:江戸大地震(1855年) 幕末の儒学者、水戸藩士、藤田東湖圧死。

引用・参照・底本

『江戸時代のさまざま』三田村鳶魚 著 昭和四年二月廿五日發行 博文館

(国立国会図書館デジタルコレクション)

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