親分子分 英雄篇2022年11月08日 11:16

雅邦集
 『親分子分 英雄篇』 白柳武司 著

 (一-四頁)
 序                2022.11.08

 人生に於けるすべての從屬關係を經濟的に觀察して見ようとして筆をとつたのが『親分子分』論である。此篇は封建制度の創設者たる頼朝に筆を起して尊氏、秀吉、家康等日本の諸英雄が如何にして天下を統一し、如何にして其多くの乾兒を制御したかを研究したものである。
 尚ほ、著者はこれに續いて『侠客篇』『浪人篇』を稿し、以て本論の結とする積りである。されば、此篇は『親分子分』論の『英雄篇』として見て貰い度い。
 主從の關係といはず、親子の關係といはず、夫婦の關係といはず、人生に於いて人を支配するものは、必ず經濟上の強者であり、又、人に支配されるものは、必ず經濟上の弱者である。忠といひ、孝といひ、貞といふも、素とこの從屬關係が生むだ道徳であつて、それに犯し難い力のあるのは、それが人間の生存慾に基して居るからである。
 然り、而して此從屬關係に或る大なる變化が生ずる毎に、又、必ず新しい道徳が生れる。封建制度に伴ふ武士道の如きが即ちそれである。此篇は英雄の統御術を主として
、傍、武士道の研究にも及んで居る。
 世には神とか、靈とか、絶尊とか、實在とかいふことを考へる人から見ると物質といふものは如何にも卑しいものゝやうに見えるかも知れないが、私達の眼から見れば決して爾うではない。其處で人間の從屬關係、及びそれに伴ふ道徳を經濟的に解釋するといふ事は、私達の立場からいふて、決して人間を輕んじた譯ではない。
 私が曽て世に問ふた『町人の天下』は本編の姉妹篇として見るべきものである。

  明治四五年二月三日

     白 柳 秀 湖

 (一-四頁)
 偶 感              2022.11.08 

▼信念を以て物を見る人あり、物を見て信念を作る人あり、路傍の石一つ聲なきも、野徑の花一つ色なきも、信念を以て之を見る、其處に啓示あり。其處に教訓あり。之を得て人に語る亦樂しからずとせんや。
▼余は曾て場末の寄席に乞食役者の演じたる『野狐三次』を見て其條理より或る長篇論文の暗示に接したる事ありき。其乞食役者が窮迫のあまり衣裳、小道具の類を盡く質入したる爲武士の帶刀を缺き、堂々たる旗本が差添なくして上場したりしを見て滑稽に感じたりしは今に記臆に新なる所なり。
▼必ずしも檜舞臺といはず、吾儕の信念に映る啓示は場末の寄席にも之あり。物を見て信念を作らんとせば須く其對象を選ぶ可し。信念によりて物を見んとせば必ずしも之を遠きに探り、深きに索むるの要なし。路傍の石可なり。野徑の花可なり。
▼いふ勿れ後者の説に獨斷多しと。人間の性向なり。文明は事實より智識を歸納する人の手によりてのみ建設せられず。信念を以て事實を説明する人も亦ヒユーマニチー一面の建設者に非ずや。御殿場口よりするも、吉田口よりするも相會する所は一なり。
▼近松、西鶴の作を引きて盛んに時代を論じたる人あり。吾儕は曾て之等の批評家によりて多くの教を受けたり。假りに近松、西鶴の作を以て全然架空の條理なりとするも、吾儕は其作によりて其時代を疑ふ可き十分の理由を有す。況んや、其作者が材を當時の社會的事實に取りたりといふに於いてをや。
▼近松、西鶴の小説によりて時代を論じ得る如く、吾儕は武家時代の仲者によりて作られたる軍書によりて十分に武士の精神的、物質的生活を窺知し得べし。小説的軍書に歷史的の價値なきは三歳の兒童と雖も之を知れり。唯其軍書が武家時代の作者の手になりたる事に於いて、武士の精神的、物質的生活を知るの材となすに何の不可か之あらん。
▼考證を無益なりとして史實を無視するものあらば其愚もとより憫殺すべきなり。唯、自己の本領と、自己の立場とが歷史家としての立場以外に在うといふ何の憚る所ぞ。事實より智識を 歸納し來るも智識を以て事實を演繹し來るも、史を談ずるものゝ達せんとする所は一にして、間と空間とを超絶せるヒユーマニチーに在り。
▼凡人の心を以て英雄を見んとするは猶は偶像を描いて神を捉へんとするが如しといふ乎。咄々何等の迷妄ぞ。英雄とは何ぞ、凡人とは何ぞ、人心は一體なり。英雄に兒女の情を索め、古人に今人の心を見る。茲に於いてか人文の發達あり。世界の進步あり。
▼蟋蟀郷堂に在り、歳將に暮れんとす。燭を剪つて古人の書に對し、自己の信念と古人の信念と相合する所あるを以て喜び、轉じて之を人に語る、またよからすや。其信念の誤謬に就いては乃ち虔で大方の教えを受けん。汝無學にして讀書の選擇を知らずといふ人あらば吾儕また一言なかる可からず。(明治四十四年十二月下旬)

引用・参照

『親分子分 英雄篇』白柳武司 著 明治四十五年四月十八日發行 東亞堂書房

(国立国会図書館デジタルコレクション)

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