脱 亞 論2022年11月06日 10:24

福沢諭吉
 『續福澤全集第二卷』編者 慶應義塾

 時事論集 明治十八年篇

 政治外交

 (四〇-四二頁)
 脱 亞 論                  2022.11.06

 世界交通の道便にして西洋文明の風東に漸し至る處草も木も此風に靡かざるはなし蓋し西洋の人物古今に大に異るに非ずと雖ども其擧動の古に遅鈍にして今に活發なるは唯交通の利器を利用して勢に乘ずるが故のみ故に方今東洋に國するものゝ爲に謀るに此文明東漸の勢に激して之を防ぎ了る可きの覺悟あれば則ち可なりと雖ども苟も世界中の現狀を視察して事實に不可なるを知らん者は世と推し移りて共に文明の海に浮沈し共に文明の波を揚げて共に文明の苦樂を與にするの外ある可らざるなり文明は猶麻疹の流行の如し目下東京の麻疹は西國長崎の地方より東漸して春暖と共に次第に蔓延する者の如し此時に當り此流行病の害を惡で之を防がんとするも果して其手段ある可きや我輩斷じて其術なきを證す有害一遍の流行病にても尚且其勢には激す可らず況や利害相伴ふて常に利益多き文明に於てをや啻に之を防がざるのみならず力めて其蔓延を助け國民をして早く其氣風に浴せしむるは智者の事なる可し西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開國を發端として國民漸く其採る可きを知り漸次に活發の氣風を催ふしたれども進歩の道に横はるに古風老大の政府なるものありて之を如何ともす可らず政府を保存せん歟、文明は決して入る可らず如何となれば近時の文明は日本の舊套と兩立す可らずして舊套を脱すれば同時に政府も亦廢滅す可ければなり、然ば則ち文明を防て其侵入を止めん歟、日本國は獨立す可らず如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の獨睡を許さゞればなり是に於てか我日本の士人は國を重しとし政府を輕しとするの大義に基き又幸に帝室の神聖尊嚴に依頼して斷じて舊政府を倒して新政府を立て國中朝野の別なく一切萬事西洋近時の文明を採り獨り日本の舊套を脱したるのみならず亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し主義とする所は唯脱亞の二字に在るのみ
 我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脱して西洋の文明に移りたり然るに爰に不幸なるは近隣に國あり一を支那と云ひ一を朝鮮と云ふ此二國の人民も古來亞細亞流の政教風俗に養はるゝこと我日本國民に異ならずと雖ども其人種の由來を殊にするか但しは同樣の政教風俗中に居ながらも遺傳教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三國相對し支と韓と相似るの狀は支韓の日に於けるよりも近くして此二國の者共は一身に就き又一國に關して改進の道を知らず交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども耳目の聞見は以て心於ては動かすに足らずして、其古風舊慣に變々するの情は百千年の古に異ならず此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ學校の教旨は仁義禮智と稱し一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として其實際に於ては眞理原則の知見なきのみか道徳さえ地を拂ふて殘刻不廉耻を極め尚傲然として自省の念なき者の如し我輩を以て此二國を視れば今の文明東漸の風潮に際し迚も其獨立を維持するの道ある可らず幸にして其の國中に志士の出現して先づ國事開進の手始めとして大に其政府を改革すること我維新の如き大擧を企て先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども若しも然らざるに於ては今より數年を出でずして亡國と爲り其國土は世界文明諸國の分割に歸す可きこと一點の疑あることなし如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら支韓兩國は其傳染の天然に背き無理に之を避けんとして一室内に閉居し空氣の流通を絶て窒塞するものなればなり輔車唇歯とは隣國相助くるの喩なれども今の支那朝鮮は我日本國のために一毫の援助と爲らざるのみならず西洋文明人の眼を以てすれば三國の地利相接するが爲に時に或は之を同一視し支韓を評するの價を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば西洋の人は日本も亦無法律の國かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科學の何ものたるを知らざれば西洋の學者は日本も亦陰陽五行の國かと思ひ、支那人が卑屈にして耻を知らざれば日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮國に人を刑するの惨酷なるあれば日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き是等の事例を計れば枚擧に遑あらず之を喩へば比隣軒を並べたる一村一町内の者共が愚にして無法にして然も殘忍無情なるときは稀に其町村内の一家人が正當の人事に注意するも他の醜に掩はれて堙沒するものに異ならず其影響の事實に現はれて間接に我外交上の故障を成すことは實に少々ならず我日本國の一大不幸と云ふ可し左れば今日の謀を爲すに我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず寧ろ其伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり(明治十八年三月十六日)

引用・参照・底本

『續福澤全集第二卷』編者 慶應義塾 昭和八年七月二十日第一刷發行 岩波書店

(国立国会図書館デジタルコレクション)

讀賣に唄はれた安政大地震2022年11月07日 13:11

江戸時代のさまざま
 『江戸時代のさまざま』三田村鳶魚 著

 (三〇七-三一二頁)
 讀賣に唄はれた安政大地震           2020.11.07

 六十九年前の大地震に際して、最も近い出版物は、瓦版で刷つた半紙半截を六枚綴ぢた此の『しん板江戸大地震くどき』であらう、是は讀賣したものだが、これは此度・・・・と大聲に呼び廻る普通の讀賣とは違つて、當時に流行して居たヤンレエくどきになつて居る、故に此の一綴は唄ひながら賣つたのである。
 その文句に『安政二ねん卯の十月よ、あく日二日のよの四つ(午後十時)すぎに、ぐつとゆりくる地しんのさわぎ』と云ひ、又た『やうやう三日目の八ツはん(四日午前三時)ごろ地しんしずまり、ゆめみたごとく、家のやけかず十萬あまり』、記錄へ從へば二日より廿九日まで連日震動し、此の間晝二十八度、夜五十二度、合計八十度を數へ、唯廿三日のみ一囘の震動もなかつたといふ、さうして、四日には四囘の震動があつたのだが、午前三時のほど強いのはなかつた、しかしそれと同程度若しくは以上の震動は、五日午前二時、七日午後六時、八日午後五時、九日午前八時、十日午後七時、十一日午後二時、十二日午後二時、十四日午前十時、十五日午前四時、十六日午後六時、十七日午後二時、十八日正午、廿一日午前三時、午前六時、午前八時、廿ニ日午前九時、廿五日午前四時、廿六日午前五時、廿八日午前二時、午後一時、午後十時、廿九日午後十二時にあつたけれども、瓦版の刊行は五日六日からとも聞いて居る、其の後の數多い強震以前に出たものであり、火事は三日の正午までに鎭まつても居たゆゑ、四日の午後は幾分人心も緩和されたであらう。
 十萬餘を燒いたといふのは市街地の民家の罹災概數で、武家屋敷や寺社等を除いたものである。當時江戸の民家は大凡三十五六萬戸と見積られて居つた、今度の火災は江戸の民戸の三分の一より尠い數を焚燒したと考へたのであらう、けれども丸の内の大吊屋敷、神田及び本所深川の旗本御家人の邸宅の被害は民家以上であつて、死傷者總數一萬五千といふ、其の三分の二は武家地から出て居るのを見ても、武士階級の災厄が町人町人よりも大きかつたのは明白である。  倉卒の際に忙しく發行された此の印刷物は江戸の歡樂を誇る三千の全盛、五町の榮華が忽ちに滅亡したことを云ひ、又猿若三丁の戯場の燒燼したことを説き、『こゝろへちがへば天めがつきる、かはへ子をすて、おつとに別れ、一人こゝろで、どうしたものよ、しあんしかねて十方にくれる、これをきいても、世上の人よ、ひヾのつとめをだいじにいたし、こゝろへちがいのないやうになされ』と結んだ、當時誰も此の震災を天譴と直觀したらしい、さうして深く反省しなければないやうに感じた。
 幕府の運命は已に切迫して居た、武士階級の滅亡は十四年後にあるのを誰が心附いたらう。天譴は緊しく武家に加はつた、有る程の彼等の邸宅に、著しい被害のあつたのを何と考へたらう。
   ◇
 十一月二日になつて、今囘の地震火事に關する刊行物の版木を押収すべき命令を傳へた、是は未だ安定しない人心に上良な影響を與へるものがあつたからである、その時錦繪を初めとして火事の方角附まで、各種各樣の出版物は三百八十餘を算へた、十日には錦繪屋の店頭狭しと掲げ列ねた地震火災の繪畫戯作を、通常な同種類のものと交換させた、早いのを生命にする讀賣はモウ此の頃は時期でない。
 現に我等の手に在る數種の讀賣は、孰れも十二月以後のもので且惨狀悲況を述べたものではな い、『地震ほくほくよしこのぶし』には、災後の江戸の樣子が唄われて居る。  地震此かた世の中にしばらくお間(おあいだは當時の流行言葉、本來は中絶の意味なのだが、ダメといふ語と略々同樣に云はれた)太鼓持、役者はお休だんまり場(猿若町の三座悉く燒失)藝者は座敷がなくばかり、質屋の出入は御門どめ、是はどふしやう講釋師、末の世までの咄しかと腕をくんだる高利貸、かりてのないのは貸本屋、假宅がよいは諸職人、ふられて歸るもあり升る、地震でもうけた金じやもの。
 吉原の娼家は五百日を限つて、淺草東西仲町、花川戸、山の宿、今戸、馬道、深川永代寺門前外七箇町、本所御船藏前外六箇所で營業することを許され、十二月から翌春へ掛けて開店した、これが假宅と呼ばれ、特に洒落本から人情本へ持廻つて、仇めかしい辰巳の春色も、天保改革で跡形もなくなつたのが、爰で二度目の假宅(弘化二年十二月五日吉原が燒けて、二百五十日間此處へ假宅した)とあつて、俄に賑しくなり、忙しい普請で錢廻りの好いベランメイの群れを引き受け、その繁昌は比類もない有樣であつた。
 此頃はやりは土方に車力、一ぜん飯には茶椀酒、諸色の現金あら物や、わらじわるけりやあやまろう、ひら家づくりにしやしやんせ、大屋のお内も假宅で、地主は普請ができぬゆえ、いなかの親類へ金工面、手紙づかいじやわからない、じしんでまいつてはなします。
 此の頃も路上で水とん(關西でいふ團子汁)を五錢づゝで賣つて居るが、安政にも同じものを八文乃至十二文に賣つた、今度も取付つけの八百屋、炭屋が悉く現金を請求するが、それも安政と同樣なのだ。
 元祿十六年の大地震以後、安政二年まで百五十二年間地震がなくはないけれど全市を覆滅するやうな災害がなかつたので、江戸では火災のみ患へて地震の方を忘れて居た、京保以來土藏と瓦葺の家が、年々に増加し、寶暦からは土藏造りと云つて、棟の高い塗り屋が澤山になつた、それが安政の地震に脅かされて、棟の低い板葺きが多くなつた。
 當時もつぱらもちいる物は、印半天かわ羽織、田舎の大工さんが金もうけ、仕事はこてこて左官やさん、あがつてさがるは屋根やさん、大どりしやうより小まいかき、是若し大屋さん、店賃よこせはどうよくな、たなこ大じと思ふなら、家のまがりを直さんせ。
 地持物持は金策に悩む時、勞銀生活のベランメイ群の元氣は凄じい、江戸ッ子の鼻息は荒い、此の際に各自が深く反省し、世間のために十分の考慮を必要とする、けれども江戸では幾種かの流行唄に紛れて、近く來るべき時勢の變化を夢にも見ずに居た。(大正十二年九月)

註:江戸大地震(1855年) 幕末の儒学者、水戸藩士、藤田東湖圧死。

引用・参照・底本

『江戸時代のさまざま』三田村鳶魚 著 昭和四年二月廿五日發行 博文館

(国立国会図書館デジタルコレクション)

親分子分 英雄篇2022年11月08日 11:16

雅邦集
 『親分子分 英雄篇』 白柳武司 著

 (一-四頁)
 序                2022.11.08

 人生に於けるすべての從屬關係を經濟的に觀察して見ようとして筆をとつたのが『親分子分』論である。此篇は封建制度の創設者たる頼朝に筆を起して尊氏、秀吉、家康等日本の諸英雄が如何にして天下を統一し、如何にして其多くの乾兒を制御したかを研究したものである。
 尚ほ、著者はこれに續いて『侠客篇』『浪人篇』を稿し、以て本論の結とする積りである。されば、此篇は『親分子分』論の『英雄篇』として見て貰い度い。
 主從の關係といはず、親子の關係といはず、夫婦の關係といはず、人生に於いて人を支配するものは、必ず經濟上の強者であり、又、人に支配されるものは、必ず經濟上の弱者である。忠といひ、孝といひ、貞といふも、素とこの從屬關係が生むだ道徳であつて、それに犯し難い力のあるのは、それが人間の生存慾に基して居るからである。
 然り、而して此從屬關係に或る大なる變化が生ずる毎に、又、必ず新しい道徳が生れる。封建制度に伴ふ武士道の如きが即ちそれである。此篇は英雄の統御術を主として
、傍、武士道の研究にも及んで居る。
 世には神とか、靈とか、絶尊とか、實在とかいふことを考へる人から見ると物質といふものは如何にも卑しいものゝやうに見えるかも知れないが、私達の眼から見れば決して爾うではない。其處で人間の從屬關係、及びそれに伴ふ道徳を經濟的に解釋するといふ事は、私達の立場からいふて、決して人間を輕んじた譯ではない。
 私が曽て世に問ふた『町人の天下』は本編の姉妹篇として見るべきものである。

  明治四五年二月三日

     白 柳 秀 湖

 (一-四頁)
 偶 感              2022.11.08 

▼信念を以て物を見る人あり、物を見て信念を作る人あり、路傍の石一つ聲なきも、野徑の花一つ色なきも、信念を以て之を見る、其處に啓示あり。其處に教訓あり。之を得て人に語る亦樂しからずとせんや。
▼余は曾て場末の寄席に乞食役者の演じたる『野狐三次』を見て其條理より或る長篇論文の暗示に接したる事ありき。其乞食役者が窮迫のあまり衣裳、小道具の類を盡く質入したる爲武士の帶刀を缺き、堂々たる旗本が差添なくして上場したりしを見て滑稽に感じたりしは今に記臆に新なる所なり。
▼必ずしも檜舞臺といはず、吾儕の信念に映る啓示は場末の寄席にも之あり。物を見て信念を作らんとせば須く其對象を選ぶ可し。信念によりて物を見んとせば必ずしも之を遠きに探り、深きに索むるの要なし。路傍の石可なり。野徑の花可なり。
▼いふ勿れ後者の説に獨斷多しと。人間の性向なり。文明は事實より智識を歸納する人の手によりてのみ建設せられず。信念を以て事實を説明する人も亦ヒユーマニチー一面の建設者に非ずや。御殿場口よりするも、吉田口よりするも相會する所は一なり。
▼近松、西鶴の作を引きて盛んに時代を論じたる人あり。吾儕は曾て之等の批評家によりて多くの教を受けたり。假りに近松、西鶴の作を以て全然架空の條理なりとするも、吾儕は其作によりて其時代を疑ふ可き十分の理由を有す。況んや、其作者が材を當時の社會的事實に取りたりといふに於いてをや。
▼近松、西鶴の小説によりて時代を論じ得る如く、吾儕は武家時代の仲者によりて作られたる軍書によりて十分に武士の精神的、物質的生活を窺知し得べし。小説的軍書に歷史的の價値なきは三歳の兒童と雖も之を知れり。唯其軍書が武家時代の作者の手になりたる事に於いて、武士の精神的、物質的生活を知るの材となすに何の不可か之あらん。
▼考證を無益なりとして史實を無視するものあらば其愚もとより憫殺すべきなり。唯、自己の本領と、自己の立場とが歷史家としての立場以外に在うといふ何の憚る所ぞ。事實より智識を 歸納し來るも智識を以て事實を演繹し來るも、史を談ずるものゝ達せんとする所は一にして、間と空間とを超絶せるヒユーマニチーに在り。
▼凡人の心を以て英雄を見んとするは猶は偶像を描いて神を捉へんとするが如しといふ乎。咄々何等の迷妄ぞ。英雄とは何ぞ、凡人とは何ぞ、人心は一體なり。英雄に兒女の情を索め、古人に今人の心を見る。茲に於いてか人文の發達あり。世界の進步あり。
▼蟋蟀郷堂に在り、歳將に暮れんとす。燭を剪つて古人の書に對し、自己の信念と古人の信念と相合する所あるを以て喜び、轉じて之を人に語る、またよからすや。其信念の誤謬に就いては乃ち虔で大方の教えを受けん。汝無學にして讀書の選擇を知らずといふ人あらば吾儕また一言なかる可からず。(明治四十四年十二月下旬)

引用・参照

『親分子分 英雄篇』白柳武司 著 明治四十五年四月十八日發行 東亞堂書房

(国立国会図書館デジタルコレクション)

討薩檄2022年11月09日 09:11

雲井龍雄
『東北偉人 雲井竜雄全集』 麻績斐, 桜井美成 著

 (二十八-二十九頁)
 討薩檄                 2022.11.09

初め薩賊の幕府と相軋るや頻に外國と和親開市するを以て其罪とし己は専ら尊王攘夷の説を主張し遂に之を假りて天眷を僥倖す天幕の間、之が爲に紛紜内訌列藩動揺、兵亂相踵く然るに己れ朝政を専斷するを得るに及て翻然局を變し百方外國に諂媚し遂に英佛の公使をして紫宸に参朝せしむるに至る先日は公使の江戸に入るを譏て幕府の大罪とし今日は公使の禁闕に上るを悦て盛典とす何ぞ夫れ前後相反するや因是觀之其十有餘年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾け邪謀を濟さんと欲するに在ると昭々可知、薩賊多年譎詐萬端上は天幕を暴蔑し下は列侯を欺罔し内は百姓の怨嗟を致し、外は萬國の笑侮を取る其罪何ぞ問はざるを得んや 皇朝陵夷極まるといへとも其制度典章、斐然として是れ備はる古今の沿革ありといへとも其損益する處、可知也、然るを薩賊専權以來、叨に大活眼、大活法と號して列聖の徽猷嘉謀を任意廃絶し朝變夕革遂に皇國の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ其の罪、何ぞ問わざるを得んや  薩賊、擅に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し猥りに諸州群不逞の徒己れに阿附する者を抜て是をして青を紆ひ紫を施かしむ綱紀錯亂下凌ぎ上替る今日より甚きは無し其罪何ぞ問はざるを得んや。  伏水の事、元暗昧、私闘と公戰と孰直孰曲とを不可辨、苟も王者の師を興さんと欲せは須らく天下と共に其公論を定め罪案已に決して然る後徐に之を討すへし然るを倉卒の際俄に錦旗を動かて遂に幕府を朝敵に陥れ列藩を劫迫して征東の兵を調發す是王命を矯めて私怨を報する所以の姦謀なり其罪何ぞ問はざるを得んや 薩賊の兵、東下以來、所過の地、侵掠せさることなく所見の財、剽竊せさることなく或は人の鶏牛を攘み或は人の婦女に淫し、發掘殺戮、殘酷極まる其の醜穢、狗鼠も其餘を不食、猶且靦然として官軍の名号を假り太政官の規則と稱す是今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也其罪何ぞ問はざるを得んや 井伊藤堂榊原本多等は徳川氏の勲臣なり臣をして其の君を伐たしむ尾張越前は徳川の親族なり族をして其宗を伐たしむ因州は前内府の兄なり兄をして其弟を伐しむ備前は前内府の弟なり弟をして其兄を伐しむ小笠原佐渡守は壹岐守の父なり父をして其子を伐しむ猶且つ強て名義を飾て日普天之下莫非王土、率土之濱莫非王臣、嗚呼薩賊五倫を滅し三綱を歝り、今上陛下の初政をして保平の板蕩を超へしむ其罪何ぞ問わざるを得んや 右の諸件に因て觀之は薩賊の所爲幼帝を劫制して其邪を濟し以て天下を欺くは莽操卓懿に勝り貪殘無厭、所至殘暴を極るは黄巾赤眉に過き天倫を破壊し舊章を滅絶するは秦政・宋偃を超ゆ我列藩、之を坐視するに不忍、再三再四京師に上奏して萬民愁苦、列藩誣冤せらるゝの狀を曲陳すとへとも雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし若し唾手以て之を誅鋤せずんは、天下何に由てか再び青天白日を見ることを得んや於是敢て成敗利鈍を不問、奮て此義擧を唱ふ凡四方の諸藩、貫日の忠、囘天の誠を同ふする者あらは庶幾は我列藩の不逮を助け皇國の爲に共に誓て此の賊を屠り以て既に滅するの五倫を興し既に歝るゝの三綱を振ひ上は汚朝を一洗し下は頽俗を一新し内は百姓の塗炭を救ひ外は萬國の笑侮を絶ち以て列聖在天の靈を慰め奉るへし若し尚賊の籠絡中に在て名分大義を不能辨、或は首鼠の兩端を抱き或は助姦黨邪の徒あるに於ては軍有定律り、不敢赦、凡天下の諸藩、庶幾は勇斷する所を知へし

引用・参照・底本

『東北偉人 雲井竜雄全集』 麻績斐, 桜井美成 著 明治二十七年八月十四日發行 東陽堂

(国立国会図書館デジタルコレクション)

雲井龍雄の歸順部曲點檢所に犬2022年11月10日 08:52

明治密偵史
 『明治密偵史』宮武外骨 著

 (一-二頁)
 自 序            2022.11.10

 明治十五年一月一日より實施された我國の「刑法」第百二十六條に
 「内亂ノ豫備又ハ陰謀ヲ爲スト雖モ未タ其事ヲ行ハサル前ニ於テ官ニ自首シタル者ハ本刑ヲ免シ六月以上三年以下ノ監視に付ス」
 現行の新刑法第八十條には單に「其刑ヲ免除ス」とある
 これは政府の密偵政策を露骨に表示した法文である、外の大罪大逆事に就て此自首免罪の事なく、單に内亂罪のみに此特例があるのは、政府の寛大を示したやうであるが、其實は叛逆者と行動を共にせしめて、時に過激の言を放ち不穏の擧に與した密偵の罪を免れしむる爲めの法文である、自首減刑例は本刑に一等(四分一)を減ずるの制定であるに、豫備行爲又は陰謀内談をも罰して餘さない内亂罪に此特例を設けたのは、政府者が自家防衛の爲めに密偵政策を行ふ事の明證である
 斯くの如き政府者、シカモ専制時代の政府者が悪辣の密偵者を使用した事は想像に難からずであらう、明治十年警視局出版の『警察一斑』に「秘密警察の分野ハ、自由政府ノ國ニ狹クシテ専制政府ノ國ニ大ナリ、何ゾヤ、葢シ自由ノ國ハ言路開ケテ法律苛ナラズ、是ヲ以テ各人其思フ所ヲ直筆シ公ニ新聞紙ニ掲ゲテ之ヲ密ニセズ、故ニ秘密警察ニ因テ偵知スルヲ須ンヤ、専制政治ノ國ハ人々法網ノ嚴酷ナルニ怖レ各々口ヲ閉ヂテ其所思ヲ公ニセズ、事ヲ議スル皆之ヲ冥々裡ニ於テス、故ニ間諜ヲ編ミテ證告ヲ得ルノ方法ヲ執ラザル可ラズ」とある、時の警視局長大警視川路利良は之を玉條として間諜を使つた、自由政府に改むることを欲しない當路者は、法制上にまでも密偵政策を公にして民衆を敵視した、其専制政府の罪悪を網羅して、こゝに本書の編成を告げたのである

 (三-四頁)
 例 言            2022.11.10

 〇本書は明治の初期より二十二年までの間、専制政府の閣臣共が自家防衛のために使つた犬の事を歴叙するのが主旨である、故に常事犯者偵察の事は少しも採らない、車夫に化けて強盗犯人を捕へたとか、紙屑買になつて紙幣贋造犯の端緒を探り得たと云ふが如き例には、興味ある奇談も少くないようであるが、それ等は世間に多くある所謂「探偵物」に盡きて居る、本書は暴虐を極めた明治の専制政府を痛撃すべき資料の蒐集として、古い新聞雑誌を披閲中に發見した政府の犬に關する事實を列擧したもので、裏面政治史の一部として公刊するのである
〇本書の取材は密偵の事實談と密偵の評論文との二であつて、それを混記してある、評論文を史實に加へる事は失當であるとの非難を受けるかる知れないが、編者は其評論文が新聞雜誌に現はれたのは、當時の政府者が犬を使ふことの事實多きを見て、其政策の誤れる事を痛諭して政府に警告したものが主要であるから、此慷慨的論客のあつたことも史實として採用しなければならぬと信じたからである、啻に評論文の現はれたのが事實であるのみならず、事實根據とした評論文であるから、事實採取の上よ り見通す可らざるものではないか
〇本書は上篇正篇下篇の三に區分して、正篇を本書の眼目とする、上篇は密偵に就ての概説などで、正篇通讀の参照とし、下篇は雜記として正篇の附錄である
これだけの材料を蒐集したのは容易の業でなかつた、一日の晝夜を費して數百枚の新聞紙を披き、或は數十冊の雜誌を閲して、何等の得る所がなかつた事もある、其漸く得たる所の材料を取捨整理して一冊の本書を作り上げる迄にも二ケ月以上を費した、人生讀者となるとも著者となる勿れと云ひたい程のグチも出た 
 次は『明治演説史』と同樣の例言二節を左に記して置く
〇本書は根據ある事實の採集が著者の特色であるから、ウルサイやうだが、一々原新面雜誌の名と發行月日を記入して置く、節約の記述でも大慨は古い新聞雜誌に據つたのである
〇明治二十三年迄を叙述の限りとしたのは、憲法發布までが政界の一期限であるのと、又著者がやつて居る明治文化の研究範圍も同年著者が初めて入獄した三月迄を限 りとし・古い新聞雜誌の蒐集も同月を限りとして居るからである、國會開設後の密偵史は、後生に委して置く
 大正十五年六月十五日

 (一- 一頁)
 緒 言             2022.11.10

 敵情視察が密偵の本旨である、政治的密偵、これを「政府の犬」と稱す、明治の専制政府は其犬を全國に徘徊せしめて辛辣の檢挙を敢行した、これ政府が國民を敵視し、國民が政府を敵視して居た確證であらう、上下融和の國に密偵の必要はない、政治の擅恣横暴の度と密偵行使の數とは正比例する、明治の専制時代と後の立憲時代とは密偵行使の數が大相違で、立憲時代には専制時代の十分一に過ぎなかつた、同じ専制時代にも縣治に苛虐を極めた福島縣令三島通庸などは、他縣に十倍する悪犬を使つた
本書は専制政治家が如何に自己防衛にアセツタか、義憤若しくは不平の國民が如何に虐遇されたかを知らしめるもので、明治文化裏面史の一として無類且有用であらうと信ずる

 (二三-二三頁)
 雲井龍雄の歸順部曲點檢所に犬  2022.11.10

明治の新政府が目上の瘤として苦にして居たのは、不平士族の徒である、それで各藩へ密偵の犬を入れた事は前記の如くであるが、當時米澤藩士雲井龍雄をして「今時の政體を察するに、上、王を尊ぶにあらず、下、人民を撫するにあらず、只奸臣賊吏の専恣を滿足せしむるにあるのみ」と叫ばしめ、又尊王攘夷を名としで幕府を倒せし者が直ちに開港主義に變ぜしを憤慨せしめ、其奸臣賊吏を鏖殺し、明治政府を顚覆せんと畫策した雲井龍雄が、表面は諸藩脱籍の不平士族鎮撫と稱し、東京芝二本榎町の寺院に「歸順部曲點檢所」といふ看板を掲げ、諸藩の不平士族を招いたので、集る者四十餘名あつたと云ふが、政府は豫ねて龍雄の叛逆心を察知して疾くに密偵を附けて居た位であるから、右の擧を怪しき事と見、數名の密偵を不平士族の群に粉れ込ましめて居たのである、それで龍碓が諸軍の部暑長と成り、原直鐵が日光方面の主將、大忍坊が庚申山方面の主將、奥羽方面は北村正機、甲州方面は城野至、東海道方面は三木勝が主將と成つて、新政府討伐の軍を起すといふ事が、事前に漏れなく政府へ知れたのである、龍雄は其徒と共に明治三年十二月二十八日、千住小塚原に於て斬首の刑に處せられた

引用・参照・底本

『明治密偵史』宮武外骨 著 大正十五年八月五日 文武堂

(国立国会図書館デジタルコレクション)