人間は何處から何處へ2022年06月08日 09:50

觀音勢至两菩薩像 荒陵余薫
 『人生哲學茶話』高橋五郎著

  (335-337頁)
 一四二、人間は何處から何處へ         2022.06.08

 孔子は死とは何ぞやと問はれて『未だ生を知らず焉んぞ死を知らむや』と答へたといふが、人間は此の世に生きて居る以上、先づ第一に『生』といふ問題を講究せねばならないのである、然るに其の肝心な生といふものが、一番疎略にされてあるのは抑も何ういふ理由であらう、若し生といふものが人間に知られたならば、死は自然と明らかになるべき筈である。近代に至つて人間は『何處から何處へ』といふ問題が提出されてあるが、其の『何處より』といふに對しては『猿より』或は『アミーバより』といふ位しか耳に入つて居ない。要するに生の問題は却々六ケ敷い者と見える。
 然るに今日まで何れの時代にあつても、死は實に有ゆる方面から研究されたので、随つて其の死といふ語も生に比しては頗る多い。試みに今其の重なるものを擧げて見んに、曰く
 歿する。卒する。物故する。逝く。逝去する。逝世。長逝。殂歿。殂落。崩殂。辭世。登遐。崩ずる。永訣する。黄泉の客となる。鬼籍に上る。不歸の客となる。歸らぬ旅路に往く。溘然簀を易ふ。館を捐つ。道山に歸る。凋謝する。化して異物となる。化して異類となる。物化する。寂する。入寂する。溘逝。溘亡。即世。晏駕。寂滅する。殰斃。絶命。擧命。効命。致命。歿鹵。不祿。他界。遠行。塡溝。蓋棺。殤扎。終焉。永眠。捐館舎。
 曰く何、曰く何と、殆ど其の盡くる所を知らない。何故に死は、斯くの如く類語に富むで居るかといへば、それは死といふものが今まで美術的に觀ぜられたからである。古人は餘りに多く、詩歌に死といふ題材を弄むだからである。所謂論語讀みの論語知らずといふ格で、死をば斯く知つて居たのだが、然し乍ら、哀い哉、死することソレ丈け知らなかつたのである!! 

引用・参照・底本

『人生哲學茶話』高橋五郎著 大正和七年五月十五日發行 大鐙閣

(国立国会図書館デジタルコレクション)