憲政回顧錄 定めなき世2022年06月09日 08:53

岡崎邦輔
『憲政回顧錄』 岡崎邦輔著

 (一-一一頁)
 定めなき世             2022.06.09

 何事も變り變りて定めなしと言ふが、全く世の中の變遷の激しいには驚く外ない。昨是今非はおろかな事、自分の手でこしらへ上げたものを、後には打ち壊して、涼しい顔するなど言ふ事もザラにある。政治家としてその主義主張に終始一貫するとか、道義節操を重んずるとか言ふやうな事は、今の世の中では、何だか古臭い時代後れのやうな感じさへ持たれる。かうした世の中では、自分のやうな八十翁の繰言は、あまり聞いて面白いものでもあるまいと思ふ。
 近頃は選擧粛清がはやりものとなつて、猫も杓子も粛清音頭に浮かれてゐるが、粛清に反對の
ものゝあらう筈はない。粛清の目標にされ、腐敗の塊と思はれてゐる政黨すら反對ではない。反對でないどころか、最も熱心に、眞剣に粛清を心掛けてゐるものは、政黨だとさへ言へる。世間の人達はこの點で、最初から大變な勘違ひをして居りはしないか。
 今、選擧粛清の音頭をを取つてゐるのは、いはゆる官僚の連中で、さも政界廓清の家元のやうな顏をしてゐるが、自分達から見れば、政界を腐敗させたのも、選擧を手のつけられんやうに堕落させたのも、元はと言へば、みな官僚のなす業であつた。勿論、今の官僚は首領と言はれる後藤を始め、みんなまだ五十そこそこの若い連中で、政界へ顔を出したのもホンの昨今の事だから、この連中が別段政界を腐敗させたわけでもないが、この連中と思想や立場を同じくする官僚の先輩こそ、政界堕落の元兇である。政黨も國民も、選擧の與へられた最初は、それこそ處女のやうな純眞さをもつて、議會の貞操を守らうとしたものだ。それを無理矢理に堕落させ、手のつけられぬ今の狀態に突落したのは、主として歴代の官僚のなす業であつた。
 官僚は議會政治を履違へて居つた。或は履違へねば、自分達の存在が脅かされるためかも知れない。何故かなれば、議會――即ち政黨が有力となつて、行政府を壓するやうになる事は、官僚自ら政黨に征服される事になる。封建思想の抜け切れぬ明治の官僚は自分達のなすべきもの、政黨に左右さるべきものではないと考へて居つた。それが議會を開いて見ると、當時の所謂民黨と稱せられた自由、改進兩黨の勢力が旺盛で、一々政府の政策を批難し妨害する有樣なので、官僚から見れば、怪しからん現象が起つて來た。藩閥や官僚の横暴を攻撃する民黨に對し、内務大臣の樺山伯が、衆議院の壇上で
 「明治の政府は薩長の手で作つたものだ。薩長が勝手な事をするのは、當り前ではないか。 議會がこれを批難するなど、身の程知らぬ僣上の沙汰だ。」
と、今から見れば、狂氣じみた演説を堂々とやつてのける程の有樣であつた。しかし僣越でも何でも、憲法に保障せられた議會の機能は、取上げるわけにいかない。そこでこの民黨を切崩して、藩閥や官僚が自分達の思ふ儘の政治を行ふため、選擧の腐敗、政界の堕落が始まつたのである。
 今の官僚は、直接この昔の官僚の衣鉢を襲いだわけではなし、又これ程亂暴な事を考へてゐるわけでもあるまいが、彼等目ら選擧場裡に現はれ、議會政治に参加しやうとはせず、自分は高く特權の城塞に隠れて、選擧粛正の音頭だけ取ると言ふのでは、その思想も行動も、昔の官僚と少しも違ひはない。國民を被政治者と見て、自ら治者の態度を取るもので、憲政の異端と言ふ點では、彼等の先輩と擇ぶ所はない。これで選擧を粛清しやうなどゝは、片腹痛い次第で、歴代の官僚がさうであつたやうに、自分達の都合次第では、いつこれが選擧干渉に變化せぬとも限らぬ。既に今日その兆候もボツボツ見える。
 選擧粛清に對する政府の方策は、まだ詳しく聞いてゐないが、要するに直接選擧の腐敗を匡す方法と、腐敗せしめないやうに良質の議員候補者を多く出すと言う事に歸着すると思ふ。
 選擧腐敗の主なものは、言ふ迄もなく買収と干渉である。干渉は政府が直に肚を決めてかゝれば、出來ぬ事もないが、買収の方はたかなか取締り困難と言はねばならぬ。侯補者の側で、誰れも買収したくて買収してゐる人のあらう筈がない。買牧せねば當選出來ないから、選擧を爭ふ以上、已むを得ず不正と知りつゝやつてゐる事で、買収する必嬰のないやうな狀態となりさへすれば、自然無くなるわけである。この呼吸は誰れにも分る筈であるが、實は實驗者でなければ、眞の事は分らない。もし政府が眞に粛正の決心があるなら、買収する必要のない狀態を作るか、でなければ絶對に買収の不可能な狀態にする外ない。繰返し言つておくが、候補者も政黨も好んで買収してゐるのではない。畢竟昔の官僚や藩閥が、自己の無理を押通すため蒔いた腐敗の種が、今は手のつけられぬまでに生ひ繁つて來たもので、政黨や候補者は何人よりも買収の根絶され、選擧の明るくなる事を熱望してゐる。そこで政府に、絶對買収の餘地の無い選擧を行ふだけの用
意と決心かあるか、あるなら、その具體策を聞きたいものだ。その用意がなくして徒らに選擧粛清を叫ぶなどは、結月空念佛、國民を迷はす僞善者と言ふ外ない。
 政府の現在やつてゐる所を見ると、唯講演やパンフレツトよる教化運動と、一方Kには所謂政黨ずれのしてゐない、良質候補者の蹶起を促してゐるに盡きてゐるやうである。講演やパンフレットの教化運動が、眞劍勝負の選擧運動にどれだけの効果があるかは、考へるだけ愚かしい事と言はねばならぬ。論より證據、それなら粛正選擧を主張する人々が、その通りの方法をもつて、理想的選擧行つて見るがよい。それで當選出來るかどうか、體驗何よりもよい教育になる。
 世間は政黨を惡魔の巢のやうに思ひ込んで、如何なる立派な人物も政黨に入つたが最後、惡化するものと思つてゐるやうである。そこで優秀な議員を得るためには、恒産あり、恒心あり、人格も高く、知識も豐富な人物を政黨外から候補者として推立て、選擧を實質的に粛清しやうとも考へてゐるやうだ。政黨と雖も、さうした優良な候補者が欲しくないわけではない。欲しくないどころか、常にさう言ふ人物を探し求めてゐるのであるが、不幸にして選擧界の情弊が餘りに甚だしいため、さやうな立派な人々は、黨や選擧近寄らぬのである。
 政府は恒産あり、恒心あり、人格識見共に申分ないやうな人物は、政黨からの侯補者としては出るものではないと見てゐるやうであり、この種の人を今度の選擧では大いに獎めて立偉補させやうと考へ、すでに縣會議員の選擧には、この方針を實行にかゝつてゐるやうである。政黨と雖も、さやうな人物を欲しがらぬわけではなし、常にこれを求めてゐるのであるが、何分にも現在の選擧界は腐敗が甚だしく、同時に危險率も多い。そこで有力優良な人々は、選擧に出て來ないのだ。又政黨が批難されて居るため、政黨色のつく事は、何となく人物を小さくするやうにも見られて、有力者が政黨入りを澁つてゐる事も事實である。
 もしも、選擧に腐敗がなく、又危險が少いとなれば、有力な社會人が続々選擧場裡出て來るに相違ない。政府はさやうな有力者の出ないのは、政黨が選擧界に跋扈してゐるためと思ひこみ、政黨の横暴を抑ふれば、優良候補者がドンドン出るやうに思つてゐるらしい、勘這ひも甚だしい。放つておいては、優良な人物と言ふものは選擧に出て來るものではない。過去の選擧にも屢次、いはゆる地方の名望家とか、或は社會的有力者などが選擧界に現れた事があるが、この場合、極力政府がこれを斡旋し、同時に保護して、その當選を保障するやうな場合に限られてゐ
る。保護する事は即ち當選に干與する事で、換言すれば、選擧干渉の行はれた際のみ、官僚の所謂優良則ち穏和なる人物が現れると言ふ奇現象を呈してゐるのである。形式的な選擧粛清論者から見れば、頗る不可解な事かも知れないが、事實は正にその通りであつた。
 自分の選擧に關する經驗をふり返つて見ても、その通りである。三十餘年の代議士生活中、最も甚だしい干渉を受けたのは前後三回あつた。第一囘は明治二十五年の有名な品川内務大臣の大干渉で、この時の事は餘り古くて、詳しい記憶はないが、我々民黨――即ち自由黨及び改進黨
――の侯補者を叩き落すため、全國到る所、その地方の名望家と言はれる人々を候補者に狩出し、いはゆる吏黨としてこれを保護したものである。この時、自分を落すため吏黨として立つたのは、鎌田縈吉君と森下岩楠君であつたが、吏黨といふので、問題にならなかつた。官權の干渉も金銭による投票の買収も、すべてこの時に始まつたもので、憲政堕落の第一歩は、この選擧から踏出してゐる。優秀な人物を議會に送り、議會を革正――その時の閥藩官僚はさう思つてゐた――しやうとして、逆に議會を堕落させ、選擧を腐敗させ、憲政を暗黑化してゐるのだ。机上の空論ばかり弄ぶ獨善的な官僚などは、想像もつかぬ奇怪な出來事だらうと思ふ。
 その後、自分が酷い目にあつたのは、大隅内閣と清浦内閣の選擧であつた。二度共、地方の豪族名望家を選擧戰線に狩出した。大隅の時、自分を落すため選ばれたのは、今九州にある實業家の木村君である。君の家は紀州に於て七百年間も連綿として續いて居る大豪族で、その親族緣故者をもつて全紀州を掩ふと言ふ有力者だ。當の木村君その人も立派な人物だが。この人が選擧に出たと言ふのも、官僚の保護があつたためである。自分は今日も同君と懇意にしてゐるが、併しこの一戰は、私の苦しんだのは勿論、紀州の選擧の風儀は、俄然堕落した初めであつた。
 清浦内閣の時には海草郡の豪族で、自分の選擧の有力な支持者である谷井家の當主が、政府に唆されて立侯補して來た。谷井君は文學士で、朝鮮總督府の官吏をして居り、人物としては申分のない人であるが、この人を押立てるについては、今の滿洲國總務廳長長岡隆一郎君が警察部長として、極力これを斡旋し、ひどい干渉を蒙つたのだ。長岡君と言へば官界の俊才、内地に居ればさし當り今度は粛清運動一方の旗頭たるべき人物だが、それが何と優良候袖者を出す爲に選擧を腐敗させて居るのだ。官僚の言ふ粛清運動の本態は、これでも知れる。この時は小選擧で、開票の日など落選の號外まで出されたが、それでもやつと二十票の差で勝ちは勝つたが、酷い目にあつた。自分が酷い目にあつたばかりでなく、紀州の選擧界は、さらに一段と腐敗を加へることになつた。
 兎に角、政府も世間も大變な考へ違ひをしてゐる。政黨が無理をやり、横車を押すから、良候補者出ない。政黨を抑へれば、艮議員が民間から雲のやうに湧き起ると思つてゐるらしいが、亊實は右の通り、政府が保護即ち干渉せぬ限り、所謂優良人物と言ふものは出るものではない。選擧の苦勞さへなければ、どんな立派な人物でも出て來るが、現在の狀態をそのまゝにして、良侯補者が自發的に出馬するわけがない。
 そこで、この積極的な粛正が駄目となれば、後には嚴重な選擧取締と、國民の政治教育と言ふ極月並な微温的なものゝみが殘る。月並でも微温的でも、やらぬよりはましと言ふ程度で、この運動には意義があちう。政黨が粛清運動に不熱心だとか、殊に政友會が反感をもつてゐるとか言ふものがあるが、不熱心や反感どころか、眞に公平峻嚴な取締による粛清は、政黨が最もこれを望み、就中、今は野黨たる政友會が最も熱望する所だ。選擧のあらゆる腐敗を一掃するやう、最も嚴重に取締が出來れば、選擧費用は半減或は三分の一に減少するからである。たゞ過去の經驗によれば、これが逆に選擧の腐敗を導き、粛正運動即ち干渉に轉化する惧れがあるのである。
 警保局長の唐澤君が、先日も政友會木部へ來て、政府の粛清運動を話し、今度こそ、干渉のカも言はれぬやう、公明正大にやるつもりだと言つて居つたが、公明なつもりでも、選擧の實戰となると、なかなかさやう單純にはいかなくなるものである。殊に今日は、既に朝野兩黨對立の狀態となつて選擧を爭ふのだし、そこへ選擧取締の任に當る後藤、小原兩君の意識の中に、さきに述べた官僚的精神があつては、粛正運動がどんな形で干渉にならぬものでもない。
 唐澤君の話によると、政府は今後選擧豫報を絶對取らぬと言つてゐるが、豫報を取るといふ事は、最も簡單に、又最も有効に干渉の實を擧げ得る事は、誰も知る通りだ。警察官が戸毎に聞いてまはるのだから、この位露骨有効な干渉はない。政府がどんな形式でゞも豫報を集めぬとなれば、それだけでも選擧は、大部分明るくなる。
 所が粛正運動そのものが、干渉になる危険すらある。第一に棄權防止であるが、官憲が戸毎に或は部落毎に棄權防止を觸れ歩くとなると、ここに非常な危險が件ふ。又司法大臣は檢事に命じて、選擧粛清は檢事の成績を擧げるより、違反なからしめるやう努むべきだと訓示し、内務大臣
も地方官、特に警察官吏にこの事を力説してゐる。精神は立派な事であるが、違反防止を如何にして國民の間に徹底させるつもりであらうか。注意を與へ、警告する方法大第では、これこそ危險極まる干渉になる。
 嬰するに政府今囘の粛清運動は、どれ程の効果を擧げるかは分らぬが、少くも棄權率の激増する事だけは明らかだらう。 

引用・参照・底本

『憲政回顧錄』岡崎邦輔著 昭和十年十一月三十日發行 福岡日日新聞社東京聯絡部

(国立国会図書館デジタルコレクション)