米國は日本の恩人ではなかつた2022年06月24日 15:19

アメリカの実力
 『アメリカの對日謀略史』宮慶治 著

 (11-16頁)
 三 米國は日本の恩人ではなかつた  2022.06.24

 目米關係でもつとも早く日本人に知られるやうになつたのは、例のぺリ-提督である。彼が日本に來た目的は、決して『日本の恩人』となるためのものでなかつたことは既に普く知られてゐる通りであつて、彼が米國政府から與へられた使命は、平和的な性質を洩つてゐたが、彼自身は
兵力を行使してもこの使命を達成させる――むしろ兵力の行使以外には方法がないとしてゐた事は、彼が日本を英國と爭つても米國の勢力範圍に入れやうといふ意見書を政府に送つたことによつても明かである。彼はたまたま彼を派遣したフイルモア大統領と、ピアース大統碩とが代つたために『日本の恩人』となつたのであつて、もし彼を支持するフイルモアが、その政權を維持してゐたならば、おそらく琉球及び小笠原諸島には星條旗が今ごろは飜つてゐたことであらう。そしてもし彼の理想が實現しいゐたなら、臺灣にも、タイにも佛印にも、ボルネオにも星條旗は相次でい打ち立てられ『東亞のアメリカ』が出現してゐたことであつたらう。
 けれども米國人のこうした夢は、政爭と、かの南北戰爭のために實を結ぶ機を失つてフイリピンを手に入れた頃には、も早歐洲諸國と支那大陸に覇を爭ふには立ち遅れてゐたのである。だがしかし、彼らは形の上の、領土的の、利權的の爭覇には出發點が遅れたが、實質的にその効果を擧げることを期待したのである。これが彼らの、對支政策のお題目である『機會均等』であり『門戸開放』なのである。そしてこの『門戸開放』政策は、常に『親善』の假面の下に強行されて來たことに注目しなけれぱならね。武力ばかりが帝國主義の武器ではない、平和的、經濟的の武器のあることも知らねばならない。
 この『門戸開放』は前述のやうにワシントン大統領からの傅統であるが、特にわれらに強く映じたのは國務長官ジョン、ヘイが一八九九年(明治三十二年)に英、獨、露の三國宛に送つた『門戸開放』關する通牒である。この趣旨は『支那に於ける列國の既得の勢力範圍は認めるが、商業や役資の上では、米國は列國と對等の地位にある』といふ宣言であつたが、更にその翌年、更に第二次の通牒を發して『米國は在支米國人の生命、財産及び權益を保護し、秩序を回復するために列國と協同して商業的機會均等』を瓦ひに保たんことを主張し、同時に米國は『支那の領土的行政的保全を維持』する旨を強調したのであつた。だから支那としでは、その領土權に關する限りは米國から保證されたやうな位地に立つたのであつて、大いに米國を徳としなければならない勣定になる。こうしたやり方は米國の常套のワナである事は、ハワイで、フイリピンで、パナマで、既によく知られゐる通りであつて、民族の愛國心を利用して、これを自國の利益の手先とする。實にその巧妙陰劔なことは日本人などの考へられない深さを備へてゐるのである。
 このジョン・へイの『門戸開放』の提唱は、列國の黙殺するところとなつたが、この平和の假面を被つた『門戸開放』の主張者ヘイは、フィリピン、ハワイの併合侵略を實行した人間であることを想起しなければならない。しかも彼はこの『門戸開放』『支那領土保全』の提案が、列國から認められないとわかると同時に、四ヶ月後にはわが臺灣の對岸、福建省に米國海軍の根據地な租借しやうと企て、日清戰爭の媾和條約で、日本の許容がなくでは、福建の割譲、租借は實現しないところから、日本の意向をたゞ來たのである。これが厚顔な米國の外交術の奥の手なのだ。支那の領土保全を列國に要求した發頭人が直ちに自らの提案を葬りさるやうなことを臆面もなく云ひ出すところは、米國民の無邪氣といふだけではすまされないものがあるではないか『必要の前には、如何なろ手段も正義となる』と彼らは思つてゐるのだ。この『親善』と『侵略』の使ひ分けの圖々しさこそ、米國本來の政策であり、親善、平和、正義は、つまるところ侵略の大前提にしかすぎないことを忘れてはならない。
 また日本人の人の好さは、日露戰爭當時の米國の好竟を囘想しがちであろ。けれどもこの『好意』は眞の力日本への好意であつたらうか。われわれは英國が日本をロシヤヘの番犬としたことを忘れ去ることは出來ないが、米國もまたロシヤ抑止の獵犬として日本へ『好意』の僞態を示したことを銘記しなければならない。
 その頃米國の綿布は北支全體にその販路を見出してゐたのである。この有望な市場を護るために、ジョン・へイは支那の門戸開放を叫んだとまでいはれるのであるが、北支と滿洲との關係については、今さらいふまでもないところである。ロシヤは滿洲を併呑し、その餘波は更に北支にまで及んで、米國の獨占市場は全く危機にさらされたのあつた。だからへイは卒直にルーズベルト大統領に『ロシヤはわれわれが戰へないといふ事實から満洲に進出して來てゐる』と述べてゐるが、この時に日露戰爭が起つたのは、當に彼らにとつては、神助とでもいふべきものであつたらう。だが日本の決定的の勝利はやがて彼らに不安の種を與へたのである。ルーズベルトは、日露媾和條約に不滿の意を表した日本國民の運動を『日本は今や太平洋で英國を除く何れの國も敵し難いほど優勢勢となつたではないか。それなのに、なぜに償金を領土をと不滿の意を示すのであらうか』と評してゐるが、この『何國も敵し難い優勢』さは、米國の脅威でなくてなんであ
らうか。例のハリマンの滿鐡横取り計畫などは、滿洲を日本から切り離し、この優勢を叩き潰そうとする陰謀のあらはれだつたのである。だからその後の米國の對日態度は、日露戰爭の初期に表はしたものとは全く相反する樣相を呈するやうになりやがて排日へと移行していつたのである。

引用・参照・底本

『アメリカの對日謀略史』宮慶治 著 昭和十七年一月二十八日發行 大東亞社

(国立国会図書館デジタルコレクション)