夏目先生のおもひで2022年06月19日 08:57

伊予の湯
『嫁ぬすみ』久保より江 著

 (一五五- 一六八頁)
 夏目先生のおもひで 2022.06.19
  
 一篇の物語に纏めてしまひたいと思つて筆をとつたのですが、書きかけてゐゐうちに、いろんな事が思ひ出され、こんな妙なものになりました。しかし私としては中の川の思出に續けて書きたかつた二番町の思ひ出をたとへわづかでも書き得られた事をよろこんでゐます。


 帶は姿見の前で奥樣が結んで下さる。帶止の金具をパチンとしめて廊下に出る。手すりの所で立ちどまつて表側のお庭を見渡してから客間にはひる。そこにはもう燈がついてゐた。
『あり難うございました。さつぱりいたしました』
 正面に坐つていらつしやる先生は默つて私の顏を御覧になる。徹笑のやうなものがちよつとお口許に漂つたばかり、まだ默つていらつしやる。私と一緒にはいつて來た黑猫がニヤアとお膝にのる。「吾輩は猫である」の主人公ではない。あれはキジ猫であつた。人なつこくて千駄木のお宅に伺つた時分はよく膝に來たが、もう今はお庭に墓の主となつてゐる。
『先生どうかなつてるんでせうか私の顏が』
『いや大變白くきれいになりましたフヽム」
と例の笑ひかたをなさる。
『まあ先生、いやですこと』と私はあわてゝ袂を探りまはす。今奥樣と一緒にお湯に入れていただいたあとで一寸鏡臺の上の白粉をいたづらしたのが氣になる。夕暮の薄あかりに近眼の私の仕事だから大かたむらだらけなんだらう。ハンケチがどうしても出て來ないから麻の襦袢の袖でふいてみる。
『あなたは追々伯母さんに似て來ますね』
こんどの先生の御言葉は戯言らしくない。
『さうですかしら』とあやふやなお返事をする。私はその時まで一度も誰からも伯母に似てゐるといはれた事がなかつたから。
 それ以來髪を結つてゐろ時などふと先生の御言葉を思ひ出すとうら淋しい妙な氣持になる。そ
して不幸なその伯母や從姉を思ひ出す。
 先生の書齋と隣合つてゐるその客間で西洋料理とお鮓の御馳走になる。その前に坊ちやんがたがはひつていらつしつて先生に何か話してすぐ駈け出しておしまひになつた。なかなか悪戯らしい。抑へつけられないで無邪氣に自然に育つていらつしやるのがすぐ判る。お嬢樣がたも障子の
かげまでみえて『母樣一寸』とおつしやる『Kさんぢやありませんかおはひんなさいよ』と奥樣がおつしやつてもなかくなはひりにならない。たうとう奥樣が立つていらつしやる。千駄木によ
く伺つた時分は筆子さんと恒子さんが小學校で榮子さんがまだちひさかつた。その次にお生れになる筈の赤さんのきものを縫ひさして私は九州へ來てしまつたのである。
 筆無性な私だからそのゝちどちらへも御無沙汰がちで顔を合せるのがきまりがわるいやうなうちが次第に多くなる。先生の御宅へも年始狀以外にはあまり出した事がたい。或時などは先生から先きにいたゞいてあわてた事さへある。でも上京すれば一度はきつとだしぬけに御訪ねする。先生の電話はかゝつて來るのがうるさいといつていつも外してあつたから。いつ御訪ねしても幸に御二かたの御留守にぶつかつた事はない。そして久しく相見ぬ間には大抵できる筈の隔てがちつともできぬ。御話をするのに改つたり臆したりしないですむ。先生は千駄木時代よりも優しく おなりになつた位だし、奥樣は昔とおなじく飾りけのないお世辭のまじらぬ親しさで私を遇して 下さる。
 千駄木時代の先生は時によると恐しくておそばへ行かれぬやうな日もあつた。子供の時に松山 で御別れしてから十年ぶり位に突然伺ひ二三度お訪ねするうちにすつかり奥樣と親しくなつた。
仲のいゝ友達もあるけれど遠方に住んでゐるから話相手にならない。時々遊びに來て下さいとい はれてよろこんで伺つた。よく三越や白木の賣出しなどにもお伴をした。
 先生はその頃特別に女に對していゝ感隋を有つていらつしやらなかつたやうである。たまには 御話しをなさる事もあつたけれど大抵は書斎から出ていらつしやらない。外から歸つておいでになつた時などは苦蟲を噛みつぶしたやうな顏をなすつてさつさと書齊にはひつておしまひになつ た。『あんまり度々伺ふからおうるさいんぢやないでせうか』と奥樣にいつたら『なあに先生は誰れにでも氣がむかないとあゝなんです。私の親類の者などにはろくに口もきゝやあしません。まだあなたなぞはわりあひに嫌はれない方ですよ。此間のお芝居だつて「Kは芝居ずきだから誘つたらよからう」と先生がいひ出したのです』とおつしやつたので少しは安心した。
 そのお芝居といふのは中洲の眞砂座だつたかで伊井などが『吾輩は猫である』をしたそれで座から招待狀が來た時であつた。奥樣、奥樣の御弟妹そのお友達といつた顔ぶれで私も連れていつていたゞいた。右の二階棧敷に二桝ちやんと用意がしてあつて、座から色々御馳走が出た。たしか泥坊のはひつたあとの苦沙彌先生の家と動物園の虎の聲を聞きに行く處とであつたやうに思ふ。迷亭がたしか伊井であつた。少しくゞみかげんに坐つてゐる苦沙彌先生を『オヤどこかお兄樣に似にゐてよ』などゝ皆樣がいつていらつしやるうちに、奥さんが丸髷であさぎのしごきをぐるぐる卷いた帶なしで出て來たので一寸困つた。
 そのお芝居のゆきがけにも忘れられぬ思出がある。あの春木町の通りで私達は偶然先生が和服 をめしてブラブラく向うからいらつしやるのに出あつた。おじぎをしたら一寸會釋をなすつたが、につこりともなさらない。横町のあまり廣くない所ですれすれ位に行きちがふのにおじぎはなすつたらうけれど奥樣は別にこれからいつて參りますともおつしやらないし、先生も今から行くのかともあつしやらなかつた。
 西洋からお歸りになつた當座など隨分奥樣にもつらくなすつた事があるといふ。
 又時々は幻覺のやうな徴候もあつて、むかへの下宿の二階の書生がいつも先生の惡口をいつて ゐるといつて書齊の窓からいひ返していらつしつた事もあるといふ。これが嵩じると脅迫觀念と かになつて、毒殺や何かを恐れるやうになりはしまいかとお醫者んからいはれたといつで奥樣が大變心配していらつしつた。
 いつかなど御訪ねすらと女中が一人もゐない。先生がみんな氣に入らないから歸してしまへと おつしやつたとかで奥樣一人で働いていらつしやる。私も御掃除たどの御手傳ひをしたが、わり あひ奥樣は苦にしていらつしやらない。『なあにおかずはもう外からとる事にしてあるから大丈夫ですよ。ごんは今朝澤山女中がたいていつてくれました。足りたけりや。パンをたべさせます から』とおちついたものである。そのうちに御子樣がたが歸つていらつしやる。おかすは近くの 仕出屋からおさかなの煮つけと玉子燒かなんか持つて來た。


 短册を書いていたゞきながら短册を書けと註文同樣な失禮な手紙がよく來る事だの、短册と一
緒にお荼をよこしておいて催促して來たから斷つたら。それぢやそのな荼を返せといつて來たといふやうな「硝子戸の中」にある事實をいろいろ伺ふ。先生は勿體ぶつてお書きにならないのではない、頼みかたがわるいと駄目なのである。
 先生が土地をお買ひになつたと、とんでもない噂をする者があるといふ話から『いろんな事をいはれるけれどなかなか家族が多いからさうはゆかない。あなたなどはたまつたでそう』とおつしやる。『いえ、こんなに度々東京へ出て來てはとてもだめです。折角たまりかけてもなくなつてしまひます』といふと『それ位なお金ぢやだめですよ。東京へ出て來てなくなる位ぢやたまつたとはいはれない』と笑はれた。いつかのお手紙にも『お金をおためなさい拝借にでますから』と戯言に書いてあつた。
 同じ夜である、『いゝ男の寫眞を見せませうか』とおつしやりながら、先生は昔のお弟子の一人の寫眞を二枚お出しになつた。一枚は半身で一枚は大勢一緒のである。
『どうです。いゝ男でせう』
『さうでせうか、私にはそんたに大變おきれいだとも思へませんけれど……ねえ奥樣』
『どうですかねぇ』と奥樣も笑つていらつしやる。
『そんな事いつて内心ではほんとにいゝ男だなどと思つてゐんでせう』
『オホヽヽヽまさか先生………、そんな知らないかたよりか先生だの奥樣のを見せて下さいませんか、そして一枚下さると尚いゝんですけれど』
 先生はすぐ御自分のや御家族のをいろいろ見せて下すつた。先生のは大抵洋服で半身である。『先生のお寫眞は皆ふだんより老けていらつしやいますね。何故こんなにお爺さんらしくうつるのでせう。さあ。どれをいたゞかうかしら』私のくせでつい思つた通りをいつてしまふ。
『そんなに氣に入らないなら貰つてもらはない』と先生の御機嫌がわるくなる。ふと私は于駄木時代の先生を思ひ出した。でもたうたう戴いては來たが署名はして下さらなかつた。


『先生はあの時代あまり著物はお持ちにならなかつたやうですよ。伯母がみたてゝ鹽屋といふ港町の角の呉服屋からも買はせした細かいいちらくといふのは覺えてゐますけれど。』
 松山の話の序に私がふと奥樣にこんな事をいふ。
『ひどい事をいひますね、併しあの著物はまだ持つてゐます』と先生が苦笑ひしながらおつしやる。先生の亡い今、あの古い小袖はどうなつたであらう。出來る事ならお形見にいたゞきたかつたけれど、いひ出しにくゝて過ぎてしまつた。
『あなたはいつもわりに地味なのを著てゐるからいゝ』とそのあとで先生からいはれて、私はこれで先生に三度譽められたと大分嬉しかつた。併し其次お暇乞に伺つた時は妙であつた。薪しい品ではなかつたけれど脊に三日月を細く出して、すゝきを銀でわざと下褄にだけ畫かせた紺無地の單衣を自分でも少々得意できて行つたのに、ちつともお氣がつかない(氣がついても知らぬ風をしていらしつたのかも知れないが)たうとう『先生どうでせうこの模樣は』といふと『フム、見えたり見えなかつたりするといふ洒落ですか』と至極冷淡な御返事でがつかりした。實は四五年前に譽めて下すつた鼠の矢鱈縞が古くなつたから染めて知つてゐる畫家に一寸畫いてもらつたといふ内幕をお話する勇氣もなくなつた。


『あなたは幾つになりましたか』
『丁度です』
『何丁度? 早く坂を越えたらどうです』
『來年になつたら越えませう』と私は何の氣なしにいふ。
『なぜ女はさうだらう。同じ所にいつまでも止まつてゐるのはみつともよくないぢやありませんか』と先生の言葉は急に冷くなる。
『オヤ先生私は申の年ですよ、去年が九で來年が一でちつとも止つてなんかゐやしません』
 年を隠した事も疑はれた事も今までに一度だつてない私はむきになつて辯解する。そこにはそんなに年より上に見られてはたまらないといふ心も大分手傅つたらしい。先生はまだ變に考へこんでゐらつしやる。
『そんなものでせうよ、干駄木によく見えた時分が二十歳そこそこでしたもの』と奥樣も言葉をそへて下さる。
『そんなものかなあ』と漸く先生も合點なすつた樣子で他人の年の判らない例に閨秀作家のO博士夫人をお引きになつた。その夫人は大變美しいかたで、いつまでも若くて萬年薪造といはれて
いらしつたのだといふ。
 今から思へば先生も虚子先生と同じく從姉と私を一緒にしてお考へになる時があつたのかも知れぬ。從姉は私に五つ上である。色の珍らしく白い髪の黑い、私にはちつとも似てゐない人だけれど。そして先生にはまともにお目にかゝつた事もない人だけれど。たしかいちらくの小袖はこの從姉が縫つた筈である。


 松山の先生のお都屋は狭いながら上二間、下二間で離れになつてゐた。祖父が母家をあとゝりに譲つて隠居する積りで建てた筈だのに、何故かあとゝりの伯父はいつまでも別居してゐて、雛れは夏目先生のお部屋になつた。
 夫に死に別れて從姉を連れて歸つて來た伯母と祖父母とが淋しく暮してゐるその二番町の家に私は東豫の礦山に住む事になつた父母の手を離れて中の川から頂けられたのである。借家の四五軒とお米の少しと廣い畑と、もとより豐かではなかつたらうけれど田舎のつましい生活には別に事缺かぬ樣子であつた。離れを先生にお貸しゝたのも伯母がひまつぶしと、今一つは從姉に著物
をきせる爲のお小づかひが欲しさではなかつたらうか。その時分よく奥の納戸の小暗い隅に伯母 と從姉が額を集めてひそひそ相談してゐるのを見た。祖母はその内證話をきらつてゐた。祖父は ちつとも知らなかつた。私はみんなから特別にかはいがられて大抵のわがまゝは通されて、こん な大わがまゝに育てあげられてしまつた。
 その時よりも二三年前だつたかしら、まだ鳴雪先生のお宅が二番町にあつた時分、よく從姉に連れられて遊びに行つたやうに思ふ。夜の長い頃演説會などゝいつて遊んで私も兎と龜の話かなんかさせてもらつたのをおぼろに覺えてゐる。私はまだをさなくて從姉の腰巾著に過ぎなかつた。
 先生が一年たらずの御滯在中、私の思出として殘つてゐるのは何といつても照葉狂言とお伽双 紙とである。私はそのお伽双紙のなかの「ものくさ太郎」の事を何かの序にうろ覺えながら主人に話したら大變面白がつて京都の古木屋から取よせてくれた。繪のはひつた小形の二册ものである。
 照葉狂言の泉助三郎一座は鏡花の「照葉狂言」と一緒になつて私の記憶をいつまでも鮮かなまゝでおく。助三郎の妻の淋しいおもざし、小房、薫、松山で生れた松江などとりどりになつかしい。そして一度はあの遠い古町の小屋まで連れて行つていたゞいたのに、折あしく休場で空しく堀端を引返した。その時先生の右手には私か縋つてゐたが、左には中學校の校長だつた𧝒地理學士の上のお嬢さんが手をひかれていらつしつた。私より一つ二つ年下であつたらう、かはいゝかたであつた。


 松山時代の先生を偲べば從つて正岡先生も思ひ出さすにはゐられない。夏休みを父母の許で送つて九月のはじめに又二番町の家へ歸つた私は離れに別の客を見た。御病人だといふ事でいつも
床が敷かれて緋の長い枕が置いてあつた。學校の先生や大勢のかたが毎日見えた。學校の歸りなど教員室の窓から校長さんが首を出してヽヽさんと呼ばれるので、何か叱られるのかとおづおづ
引きかへすと『けふはせはしうて行けぬと正岡さんにいうておくれ』などゝおことづけを承つた
りした。句座のすみにちいさく畏つて短册に覺束ない筆を動かした夜もあつた。お從弟にあたる
大原さんの坊ちやんが藥瓶を一日おき位に届けに見えた。その秋學校で展覧會があるといふので、正式の學藝品以外に何か出品しなければならないはめになつた私はありつたけの智慧をしぼり出して、正岡先生の俳句を刺繍する事にきめた。刺繍を習つた事もないくせに随分大膽な企をしたものだと今思ふと恥しいやうである。何かの表紙をしきうつしにした紅葉と流れの上に快く
     行く秋のながめなりけりたつた川    子  規
と書いて下すつたのを俄かじたての枠にはつてあたり前の絹糸をわいて縫ひはじめた。さういふ事のすきな伯母が大抵手傳つてくれた。
 その刺繍の出來上らないうちに正岡先生は急に御上京になつた。學校から歸つた私に伯母は御出立の前もわざわざこちらの座敷まで見にいらつしつて『わりあひによく出來た。出來上りを見ないで立つのが殘念だとよりさんにいつてくれ』とおつしやつたときかせてくれた。
 私は虚子先生にもその時分御めにかゝつたことがあろやうに思ふ。『高濱さんはまだお若いやうな』伯母が祖母に話してゐるのを聞いた事がある。
                   (一九一八、一〇、六)

引用・参照・底本

『嫁ぬすみ』久保より江 著 大正拾四年八月二十二日發行 政教社

(国立国会図書館デジタルコレクション)