パークス襲はる他2022年06月28日 15:16

横濵開港の當時恵美壽講の酒宴に南京人の躍り込める圖
 『明治初年の世相』横瀬夜雨 編

 二-三頁
 パークス襲はる

 日本の新聞らしい新聞は中外新聞にはじまる。其第一報は英國公使パークスの遭難であつた。
 三月二十八日(一八六八年)日本の三月五日
 昨夜飛脚此地に到着しハルリーパークス君京都に於て天子の禁闕へ赴かんとする途中にて襲はれ騎兵九人手疵を受け日本人一人殺され一人虜となりたる旨報告せり
 此事に付ては風聞まちまちにしていまだ何者の所爲とも分り難し但し怪我人は九人にて其内二三人は死したる由パークスは其乘りたる馬を切られたるのみにて自身には怪我無き由なり
 此事件の末如何成りしや未だ之を聞かず然れども佛蘭西蒸気船ドプレー並に英吉利蒸気船エドヘンチュール急に大坂に出立せり是蓋し公使等を迎へ歸らん爲なるべし
 此度は公使等實に彼兇徒等の信ずべからざるを知り自今以後決して右樣の異變なかるべき處置を行はんこと是我輩の欲する所なり
 最早寛大の處置を行ふべき時にあらず歐羅巴人米利堅人身に一毫の罪無くして命を失へる者既に三十人に及べり此後かくの如き枉死の數増加せんこと疑ひ無し然れば手荒き處置を行ひて日本人の暴惡を留むべきこと當然なり
 先日佛蘭西ミニストルの爲せし處置は甚手早くして且的を得るの良作にて此地に在る外國人等極めて敬服せり此度英吉利ミニストルも亦宜く是にならふべし先日佛人十一人堺に於て殺害せられしかば佛國公使五ヵ條の事を三日間に決斷あるべき旨若し三日を過ぎ候はゞ直樣兵を差向け申す可く云々の趣を京都へ掛合に及びたり是に依つて五ヵ條共速かに行はれたりと云ふ
 右ヵ條の第一は朝廷より書面を以て罪を謝せられ第二は外國事務總裁自身に佛船へ往きて謝し第三には土佐の士官兵卒亂妨せし者を刑し第四には土佐人脱劍せずして外國人の居留地に立入るを許さず第五に償金十五萬ドル此五ヵ條なりと云ふ
 外國人の枉死亦夥しい哉第一に米利堅人十人水死し次に佛人十一人殺害せられ又此度朝廷の賓客として懇に招待を愛くべき英吉利人故無くして襲はれたりコルシカ人の語に一人殺さるれば一人を殺すといへる事あれども吾等は是に倣ふ事なく宜しく一人殺さるれば千人を殺すの心を以て復讐を行ふべし
の文字が六號にある。何といふ暴言であらう。

 三-四頁
 江戸と京都

 去る十五日頃(二月)より三街道の先鋒追々江戸へ入込み毎日市中を巡検す然れども先々平穏にて一同少しく安堵す此度如此穏なるは日光宮樣の御取扱殊に勝安房守の儘力にて参謀西郷某の周旋に依り平和に成たる由(八號)

 西郷某とあるを見よ。
 「板倉伊賀守は行方を知らず小栗上野介は一揆に襲はれ近藤勇も敗走其外有名の劍客西洋學者醫師等去て他郷に行きし者頗る多し」とあり、江戸市中戰々兢々の狀以て見るべしだが、これに引きかへて京都は
 去る九日主上太政官役所へ行幸御坐候前後の御固めは銃隊にて矢張西洋太鼓を打ちならし長門少將は立烏帽子直垂其他は皆衣冠仁和寺宮はいまだ御髪延び不申白き直垂を被召馬上に御坐候京阪至て穏にて婦女子とも群集いたし花見等に出掛申候(八號)

引用・参照・底本

『明治初年の世相』横瀬夜雨 編(新潮社, 1927)
(国立国会図書館デジタルコレクション)