封じ込め政策2023年11月30日 18:48

忠孝加々見山 国立国会図書館デジタルコレクション
 ジョージ・ケナン(George F. Kennan)は、アメリカ合衆国の外交官であり、冷戦時代におけるアメリカの外交政策に大きな影響を与えた人物である。彼は1947年に "X論文"(註1) としても知られる記事「外交の封じ込め(The Sources of Soviet Conduct)」を執筆し、その中で「封じ込め政策(Containment Policy)」の理論的基盤を提唱した。以下は、封じ込め政策についての要点である。

 封じ込め政策の要点

 ケナンの主張: ケナンはソビエト連邦(後のロシア)(註2)の拡張主義的な傾向を指摘し、それに対抗するためにアメリカはソ連の影響力を拡大させないように努力すべきだと主張した。

 戦略的忍耐: ケナンは外交的な対抗策を推進し、軍事的な対決を避けるべきだと考えた。彼のアプローチは戦略的忍耐(strategic patience)に基づいており、ソ連の膨張を抑制し、その崩壊を待つことを提唱した。

 経済的支援: 封じ込め政策は、経済的な支援を通じて友好的な国々を支援し、ソ連の影響を封じ込めようとした。これは後にマーシャルプラン(Marshall Plan)(註3)として知られるヨーロッパの復興支援政策に具体化した。

 冷戦の基盤: ケナンの封じ込め政策は、冷戦時代のアメリカ外交政策の基盤となり、ソビエト連邦の拡張を阻止し、西側陣営と東側陣営の対立を続けることが目的であった。

 封じ込め政策は冷戦時代におけるアメリカの対ソ連政策の指針として広く受け入れられ、ソ連の膨張を制限し、冷戦の終結に寄与した。ケナンのアイデアは長期的に成功し、ソ連の崩壊(註3)につながる一因となった。

(註1)
「X論文」とは、ジョージ・ケナンによって1947年に書かれた外交政策に関する極秘の論文のことである。正式なタイトルは「The Sources of Soviet Conduct」(ソ連行動の源泉)でしたが、この論文は通常「X論文」として知られている。X論文は、ケナンが冷戦時代のアメリカの対ソ連政策の基礎として提案したもので、封じ込め政策の概念を初めて公にした。

X論文の主要なポイントは以下の通り。

ソ連の本質的な性格: ケナンはソ連を革命的で拡張主義的な国家と見なし、彼らの行動を理解するためにはその本質的な性格を考慮する必要があると主張した。ケナンは、ソ連が西側諸国との競争において不可分の対立国であり、短期的な妥協は難しいと考えた。

封じ込め政策: ケナンは、ソ連の拡大主義に対抗するために、アメリカは外交的・経済的な手段を駆使してソ連の影響力を封じ込める必要があると主張した。彼は「長期的な忍耐力」を持って、ソ連を孤立させ、その拡大を阻止する必要があると述べた。

ケナンの提案: X論文は、ソ連に対する強力な対抗政策をとる必要性を強調し、それには経済的支援、情報収集、国際協力、軍事的優越性などの要素が含まれるべきだと述べた。また、アメリカはソ連の脅威に対処するために同盟国と連携し、ソ連の拡大を防ぐべきだとも主張した。

X論文は冷戦時代のアメリカ外交政策の根幹をなし、封じ込め政策の基本的な理論と戦略を提示した。この論文は当時のアメリカ政府に大きな影響を与え、冷戦の長期間にわたる対ソ連政策の指針となった。

(註2)
ソビエト連邦(ソ連)の崩壊は、20世紀末に世界の政治的地図を大きく変えた重要な歴史的出来事であった。以下に、ソ連の崩壊についての主要な要因と結果は以下の通り。

主要な要因

経済的困難: ソ連の経済は長らく中央集権的な計画経済に基づいており、その運営は非効率で効果的ではなかった。1980年代には経済的危機が深刻化し、生活水準の低下、物資不足、インフラの崩壊が続いた。

政治的変革: 1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連の最高指導者となり、改革を進めるための一連の政治的措置を実施した。これには「グラスノスチ」(情報公開)政策や「ペレストロイカ」(経済改革)政策が含まれた。これらの措置は体制の変革をもたらし、情報の自由化や政治的対話を奨励した。

バルト三国の独立: ソ連の崩壊の兆候として、1989年にエストニア、ラトビア、リトアニアの3つのバルト国が独立を宣言した。これはソ連による圧力と抵抗にもかかわらず、国際的な認知を得た。

ドイツ再統一: 東ドイツと西ドイツの統一が1990年に実現し、ソ連の東ヨーロッパにおける支配体制の崩壊を象徴した。

ソビエト連邦の崩壊: 1991年8月にクーデター未遂事件(註4)が発生し、ゴルバチョフの立場が弱まった。その結果、12月にソ連の各共和国が独立を宣言し、12月25日にソ連本国も解体された。これにより、ソ連は崩壊し、ロシア連邦と他の独立国家が誕生した。

結果

ソ連の崩壊は冷戦の終結を象徴し、アメリカと西側諸国による勝利を示した。冷戦終結後、アメリカは超大国としての地位をさらに強化した。

新たな独立国家: ソ連の解体により、15の新しい独立国家が誕生した。これらの国々は独自の外交政策や経済体制を確立し、自己決定権を行使した。

ロシア連邦: ソ連の後継者として、ロシア連邦が誕生した。ロシアはソ連時代から引き続き国際政治で重要な役割を果たしている。

政治的混乱: ソ連の崩壊に伴い、多くの国で政治的混乱と経済的困難が発生し、紛争が生じた。一部の国では政治的安定が難しい課題となった。

ソ連の崩壊は世界史における重要な出来事であり、冷戦の終結を象徴する出来事であった。それにより、新しい国々が独立し、国際政治の構図が大きく変化した。

(註3)
マーシャルプラン(Marshall Plan)は、第二次世界大戦後のヨーロッパの復興を支援するためにアメリカ合衆国が提供した大規模な経済援助プログラムのことを指す。正式には「欧州復興援助法」(European Recovery Program)とも呼ばれ、1947年から1951年にかけて実施された。このプランは、アメリカの国務長官であったジョージ・C・マーシャルにちなんで名付けられた。

マーシャルプランの主要な要点と影響については以下の通り。

背景: 第二次世界大戦の終結後、ヨーロッパは広範な破壊と経済困難に直面していました。食糧不足、住居不足、インフラの崩壊、失業などが横行しており、国々の経済は崩壊寸前であった。アメリカはヨーロッパの深刻な状況に危機感を抱き、共産主義の拡大や社会不安を防ぐために、復興支援を提供することを決定した。

援助の内容: マーシャルプランは、経済的支援として、資金、食糧、燃料、建設資材などを提供した。これにより、ヨーロッパ諸国は戦後の復興と経済の再建に取り組む資源を手に入れた。

条件: アメリカは援助を受けるヨーロッパ諸国に対して、資金の適切な使途や市場経済の原則の尊重など特定の条件を課した。これにより、マーシャルプランは経済的安定と協力を奨励した。

成果: マーシャルプランは非常に成功し、ヨーロッパの復興と経済の回復に大きく貢献した。ヨーロッパ各国は生産力を回復し、経済的復興を果たし、飢餓と物資不足の問題を克服した。

冷戦と影響: マーシャルプランは冷戦の文脈で実施され、西ヨーロッパ諸国とアメリカとの結びつきを強化し、ソビエト連邦の影響力拡大に対抗するための一環とも見なされた。また、これにより西ヨーロッパ諸国は共産主義の誘惑に対抗し、民主主義と市場経済を支持する基盤を強化した。

マーシャルプランは、戦後のヨーロッパにおけるアメリカの重要な外交政策の成功例であり、冷戦時代のアメリカの外交政策にも大きな影響を与えた。

(註4)
ソビエト連邦(ソ連)の1991年8月のクーデター未遂事件(またはソ連8月クーデター)は、ソ連の政治的混乱と崩壊の一環として発生した重要な出来事であった。このクーデター未遂事件は、保守的なソ連政府高官や軍幹部によるクーデター計画が実行に移されたが、市民抗議と国際的な反応によって失敗に終わった出来事である。

以下に、1991年8月のクーデター未遂事件についての主要なポイントは以下の通り。

主要な関与者: クーデター未遂事件の主要な関与者は、ゴルバチョフ政権内での改革に反対し、ソ連の保守派と軍部の一部であった。彼らの中には、国家非常事態委員会(Государственный комитет по чрезвычайному положению、GKChP)(註5)として知られるグループが含まれていた。クーデターの指導者には、ゴルバチョフの副大統領でありゴルバチョフのライバルでもあるゲンナジー・ヤナーエフがいた。

クーデター計画: クーデター未遂の指導者たちは、ゴルバチョフを排除し、ソ連の改革プロセスを中断し、ソ連の中央権力を強化することを計画した。彼らは国家非常事態を宣言し、国家安全保障評議会を樹立し、メディアを検閲し、軍隊を動員した。

市民抗議と国際的反応: クーデターが発表された直後、モスクワなどの主要都市で市民抗議が急増し、数千人もの人々が街頭に押し寄せた。国際社会もクーデターに強く反対し、多くの国がソ連の正当性を支持した。アメリカや欧州諸国はクーデター未遂に反対し、ソ連の指導者に対する圧力をかけた。

クーデターの崩壊: クーデター未遂の指導者たちは市民の抵抗と国際的な反発に直面し、数日後にはクーデターは失敗に終わった。ゴルバチョフは一時的に拘束されたが、クーデターの崩壊後に解放され、彼が再び大統領の座に戻った。

クーデターの影響: このクーデター未遂事件は、ゴルバチョフの政権の弱体化やソ連の統一性の崩壊を象徴し、ソ連の崩壊プロセスを加速させる一因となった。その後、ソ連の各共和国が独立を宣言し、12月にソ連本国も解体された。

1991年8月のクーデター未遂事件はソ連の崩壊に向けた重要な節目となり、冷戦の終結をさらに促進した。

(註5)
「Государственный комитет по чрезвычайному положению」(Gosudarstvennyy komitet po chrezvychaynomu polozheniyu、略してGKChP:非常事態委員会)は、ソビエト連邦(ソ連)の政治的混乱と1991年のクーデター未遂事件の際に登場した政治組織である。この組織はソ連の保守派政府高官や軍部の一部によって形成され、ゴルバチョフ政権を排除し、ソ連の中央権力を強化しようとするクーデター計画の一環として活動した。

GKChPは、1991年8月18日にクーデター未遂を宣言し、国家非常事態委員会(State Committee on the State of Emergency)としても知られた。この委員会の指導者には、ゴルバチョフの副大統領であるゲンナジー・ヤナーエフがいました。GKChPは国家安全保障評議会を設立し、ゴルバチョフを政治的に孤立させ、クーデターを実行するために軍隊を動員し、メディアを検閲した。

しかし、クーデターが発表されると、モスクワなどの主要都市で市民抗議が急増し、ゴルバチョフの支持者たちが街頭に押し寄せた。国際社会もクーデターに強く反対し、多くの国がソ連の正当性を支持した。この抵抗と反発により、クーデターは数日後に崩壊し、ゴルバチョフが一時的に拘束されたが、その後解放され、大統領に復帰した。

クーデターの失敗により、ゴルバチョフ政権は一層弱体化し、ソ連の崩壊プロセスが進行した。クーデター未遂事件は、冷戦の終結とソ連の解体を象徴する重要な出来事であった。

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