支那に關する知識2022年08月01日 16:07

如意輪觀音半跏像 荒陵余薫
 『砂に書く』與謝野晶子著

 (110-113頁)
 支那に關する知識      2022.08.01

 私は近頃支那の事情をよく知りたいと思ふ。最近の支那に戰爭のあるのを見たりすると、あの國の事情は世界から孤立してゐるのかと思ふ程特異な感がする。日本の歴史などから類推しては到底考へられ相にもない。よく同文同種の國だと云ひながら、支那人の心理は全く日本人に解つて居ないやうに思はれる。今も猶三國誌時代その儘の群雄割據が行はれ、強者の權利か正義に代る有樣であつて、「民國」の實は少しも無いのを見ると、世界の近代文化から根柢に於て全く絶緣した國がすぐ私達の隣に存在してゐるのである。之は大きな不思議だと思はれろ。
 まだ日本人が餘りに支那を知らなすぎるのも確に一つの不思議である。支那通と云はれて久しく彼地に居た人達に質しても、やはり支那の事は解らぬと答へられる。第一に隣同志で居ながら支那の現代語を知る人の無いのからして變である。人の名でも近く來た俳優の梅蘭芳だけは原音で云はれるが、他は呉佩孚、馮玉祥、張作霖、段貴瑞にしても皆日本讀みで行はれて、誰も其れを氣にする者も無い。西洋人の名の發音は少し間違つても咎めだてをする癖に、昔から關係の深い支那の固有名詞は原音が全く間却されてゐる。
 こんな風に日本人は一般に支那に對して冷淡であり、よくあの國の事情を知らないで居て支那を輕視 し蔑視 してゐる。
 今度の戰爭でも、日本人でその原因や關係を歐洲大戰の其れ程に知つてゐる人は極極尠い。毎日の新聞に出る支那の戰爭記事でも注意して讀んでゐる人は一般には殆ど無いと云つてよい。讀むにしても角力の知識と興味とを持たない者か角力記事を讀むやうに、奉天派と直隷派とのどちらが勝つても負けても痛痒を感じないのが事實で、それ程支那に對して感情の上に距離を持つてゐる大人ばかりかと思ふと、學生もまた同樣に支那の問題に冷淡であつて、支那の事情なんか全く知らうと考へて居ないらしい。學校でも支那の近代史は西洋史ほど詳しく説かれず、また支那史に精通した教師も尠く、生徒もそれに興味を持たない習慣になつてゐる。
 私は之では間違つてゐると思はれてならない。國交と貿易との利害からも、隣同志が親み合ふ人間的情味からも、思想や趣味の交換からも、日本人の多數が英語を知る程度以上に支那語を知り、引いては支那の事情に通じてゐることが當然なやうに思はれる。日貨排斥など云ふ事も別な理由があるにせよ、一つは支那に商店を持つてゐる日本人が支那語に深く通ぜず、それか兩國人の感情の融和を妨げ却つて反感と誤解とを支那人に抱かせてゐる事も其一因になつてゐるに違ひない。私は英語の教育を半減してもよいから其力を支那語に向けたら好からうと思ふ。地方に由つては英御よりも支那語を中等教育の必修科にして欲しい。英語を知つても歐米に出掛る機會を持つ日本人は稀であるが、支那語が出來れば遠くない支那へ行つて働く人か殖えるであらう。小學教師や中等教員が二三十年前から不用な英語の代りに支那語を學んで居たら、支那に雇はれて行つて今日までに彼國の普通教育に貢献する事がどれだけ出來たか知れないであらう。又其他諸種の工業上の技師などに就ても同樣の事か思はれろ。若しまた大學卒業の學者達が支那語に通じて居たら、北京大學は日本の教授に由つて重きをなしたであらうし、廣東や上海其他にも日本の教授か聘されて行つて多くの大學が起つたであらう。支那語を一部の志士や豫備軍人にばかり學ばせて彼國へ入込ませたのは明治以來の手抜かりであつたと思はれる。
 近年支那料理が次第に繁昌し、震災後の東京などは目立つて流行してゐる。之は決して流行に終るもので無くて、日本科理、西洋料理と併行して食事の一種となろであらう。かう云ふ風に支那語も歐洲語と同じく日本人の必要品に組込たいものである。從來も日本の産物で支那人の必要品になつてゐる物は多いが、今後もますます彼國を商業上の得意先とせねばならぬ關係から、多くの商人が支那の事情に通ずる事が急務である。また學問から云ふと、支那に於ける研究題目は無盡藏であつて、一科の中の一項目を研究するにも人一代の時間と力とを用ひねば盡されないと云はれる位であるから、支那語の修養は學者にも缺くことが出來ない。古文か讀めても破國の現代文か讀めねば今後の學者には不自由千萬に違ひ無い。
 文學者や新聞記者達も支那の現代文に通じる人か多くなつて、大に彼國の人情や思想を傳へて欲しい。英語の新聞雜誌を讀む人は何處にもあるが、支那の新聞雜誌を讀み得る文學者や新聞記者の無いのは確に大きな缺陥だと思はれる。今後の支那が猶容易に安定を得ないものならますます迷惑を被るのは我國である。日本人は急いで支那に親しみ、常に彼國の事情を明瞭に知らうと心掛けねばならない。久しい歐米偏重の習慣は大切な日支の親和を疎かしてゐる。
 近く歐洲の留學から歸られた木下杢太郎さんは、早く支那語にも通じ支那の藝術にも委しい人である。歸朝されたのでお目にかかると、埃及や歐洲諸國の話に併せて支那の大同石佛の話などをして下さる。さえして日本人に支那研究の必要なことを云はれる。木下さんのやうな學者の殖えることが望ましい。(一九二五年一月)

引用・參照・底本

『砂に書く』與謝野晶子著 大正十四年七月十六日發行 アルス

(国立国会図書館デジタルコレクション)